第49話 心の闇に挑む3

 この手が何をしたと言うのだ。と突然発した彼の言葉は、象徴的な存在である深詠子に抱いた妄想に対して許しを乞うているのか。これが仕事以外では分別のない男の、精一杯の愛情表現なのか。

 おそらく本など読んだことのない下村にとっては、精一杯の心の叫びかも知れない。藤波にすれば陳腐な言葉に、改めても何も言えない。見詰めた手に向かって下村が叫んでも、自分からの逃避に過ぎない。もっと真面に自分と向かい合えと言いたい。此処で話を中断させるわけにはいかない。もっともらしい言葉で繋がないと、イタコではないが亡くなった深詠子の魂を呼び戻せない。

「その手の感触、が、そのまま脳裏に伝わったんですか?」

「確かに最初はそうだった。それが、別な姿と入れ替わったんだ」

 仕事しか考えなかった下村が、何人もの別な人格を持ち合わせていない。それでも異常に精神が動揺すれば、本来の姿とは掛け離れた行動に走る。その最高潮に達した時に人をあやめたとすれば。それがあの日キッチンで手にした包丁で、深詠子の苦労を解消してやりたいと、追求すれば追求するほど、常人でも考えられないほど精神が病んできたのだ。そこまで追い詰められた精神を浄化するには、今、手に持った包丁に委ねるしか判断の出来ない男だ。

 愛なき結婚を選んだ下村に取って、深詠子はアイドル的なお飾り、菩薩かも知れない。だが藤波に取って深詠子は、人としての生きる喜びと悲しみを与えてくれた人なんだ。人は悦びだけで生きるんじゃない、哀しみを伴って生きるから美しく尊い、と深詠子で知った。菩薩でない深詠子に感謝する。

「どうしてなんです」

「さっきまで家事をこなす深詠子が実在していた、それが全く別な深詠子にすり替わって、とても手の届かない雲の空の彼方から見下ろしているんだ」

「まさか、弥勒菩薩のように見えたんですか?」

「よくわからない」

 当たり前だ。弥勒菩薩は釈迦の入滅後の五十六億七千万年後にこの世に現れるのだ。お前のように無慈悲な者の前に現れるか、待てよ現世に苦しんでいる人の前に現れるとすれば、それは深詠子の化身か。ならば何故、俺の前には現れぬ。それだけ俺は慈悲深苦苦しみに耐えられる者なのか。深詠子、お前が八年前に非人情と嗤った俺が……。

「もう一度聞きます。包丁を握った手の感覚は、どのようにして下村さんの脳裏に伝わったんですか?」

 下村はウ〜ンと唸ったが、前回のように頭を抱えて動揺する事はない。今回はいたって真剣に何かを見詰めている。日本で一、二位を争うコンピューターでも、これほど目まぐるしく動かない早さで、彼の神経回路は返事を求めて働き出した。

 藤波は言葉を止めて静かに見守った。

 彼の神経回路がオーバーヒートして切れても、彼の手は頭を抱えるのでなく仕切りに自分の手を見詰めていた。

「そこには、今まで甲斐甲斐しく家事をやってくれていた深詠子はもう存在しなかった」

「代わって誰が現れたんです」

 下村は瞑想からハッと我に返った。

 此の時点では解らなかったが、階段を上り詰めた先に何かが見えた。今思えば、神々しいばかりの幻覚を見て、包丁を持つ手の力が抜けた。おそらく目の前に居る真苗の前に現れた何か別なものに力が吸い込まれるようだった。

「それは、さっき私が言った深詠子の化身のような菩薩像では無いんですか?」

「そうです。それだ! 三人をあやめてまた現れたんです。そのあとに凄い衝撃を感じた」

「ウッ。何か稲妻か、それに似た激震が走ったんですか?」

 下村は深詠子の魂が乗り移った包丁に駆られて、次々と殺生を繰り返し、最終局面では天に向かって延びる階段を昇り詰めた。そこで彼が見たのは、あの時に見えた深詠子だ。同時に烈しい稲妻が脳天を直撃して、だらりと包丁を落とし掛けたあの時だ。三人をあやめたいましめなのか。違う、深詠子の中に生き続けていた化身が、深詠子の死と共に離れて下村の前に現れたのだ。その姿におののいて、握りしめた包丁の柄を持つ手の力が失われた。

「解りません。ただ、身体からだがふわふわと宙に浮いていた。いや、お花畑の中を駆け巡っていた」

 二階へ上がる階段なのか、後を追って天国に登るはずの階段なのか、とにかく下村は踏み締めていた。

 お花畑を飛び廻っていた下村は、情念の切れ目から踏み外して下界に振り落とされた。そこには妹を抱き締める真苗の姿が、現実の世界となって現れた。

「眼が覚めると、玄関付近に居る真苗が眼に飛び込んで、手にした包丁が眼に入ると正気に戻った」

 エッ! それは反対だろう。彼は元の殺人鬼の狂気に戻ったんだ。下村の精神の中では、本人もろとも抹殺しょうと行われた、悲惨な一蓮托生の世界に引き戻されたんだ。

「それでどうしたんです」

「包丁を床に放り出していた」

「深詠子の幻影からやっと抜けられたんですね」

 床に投げ出した包丁を新聞紙に包んだ。今度はその包丁で自分が家族の許へ逝く番だと、死を求めて街を彷徨さまよった。やがて夜の闇に捉まり、抜け出そうと灯りを求めた。闇の中で求めた唯一の灯りがともっていたのは一つの交番だけだ。そこに救いを求めてやっと呪縛から解き放された。辿り着けたその瞬間に、闇夜から眩しいほどの夜景と人のいとなみが、一斉に眼に飛び込んでひと息吐けた。

 それが心中で死に損なった男の、八年間にわたる深詠子との清算だったのか。真苗は深詠子が、俺に目覚めよと使わした唯一の贈りものなんだ。

 店に戻り準備中の可奈子に「今日は休む」と告げると。あれまあと謂う顔をした。今日の下村との接見を話すと納得してくれた。

 その夜は初めて入り口の引き戸に、本日お盆につき休みます、と張り紙をした。

「みんな吃驚びっくりするだろうなあ」

「酒に怨みはないけれど、化けて出るかも知れないわね」

 おいおい、お盆に余計な冗談を言うなと三人は店を出た。 

 張りを紙を見た常連客は「おい誰か聞いてるもんおるんか」誰も初耳やと口を揃えて「しゃあないなあ、今日だけは家で呑むか」と引き上げた。

 店を出た三人は、加茂大橋の袂で夕涼みながら、大文字の送り火を見ていた。

 比叡の山を越えた風は、たにを渡り雲をって如意ヶ嶽に向かって吹き上がった。その風に送り火の炎が揺れている。可奈子が指差して「あの揺らぎはまるで深詠子さんが微笑んでいるようね」と言えば、真苗も「ウン」と嬉しそうに頷いた。藤波は夜空に舞い上がる送り火に、深詠子の初盆を重ねて手を合わせた。





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風は谷を渡る雲を追う 和之 @shoz7

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