第48話 心の闇に挑む2

 通勤時間帯が過ぎて空いてるバスに乗ると、買い出しに行く市場の喧騒が嘘のようにのんびり出来た。バスは警察前に着いてその気分は払拭された。歩道に降りた彼は、遠ざかるバスを尻目にまだ数分歩かないと着けない。少なくとも此処で降りた者は、此処しか用と云える建物が在るのは川沿いの警察署だけだ。心にやましさがあるのか、それを正す距離にしては短い。ならばバス停は目の前でなければおかしい。とっ言ってる間に玄関を過ぎた。受付は顔見知ったいつもの定年間近の警察官だ。面倒くさそうに用紙に記入して面会室へ入った。狭い部屋を更にアクリル板で仕切って益々狭くしてある部屋に座った。そこに下村が警察官に連れられてやって来た。三木谷から好感を抱いてると聞かされた。一見して淡々とした表情に今までの期待が尻すぼみになる。下村がアクリル板の向こうの席に座った。待ちきれず藤波の方から三木谷さんに託したメールを訊ねた。そこでやっと下村は今までの作り笑いでない笑顔を見せてくれた。

「矢っ張りあなたは深詠子の心のうちを良く知ってる人だと解りました」

 なるほどそれがあのメールの感想か。悪くはない評価だ。

「あのー、あの文章ですが、あれは想像で書いたと三木谷さんには説明したのは間違いです。あれは真苗ちゃんから聞いて、一カ所大事な所を抜かして作成しました」

「大事な所?」 

「そう、一番肝心な所なんです」 

「それは何処ですか?」

「あなたは凶器の包丁を持って二階へ上がった時です」

「あの時は無我夢中でやり出したんです。そうすると最後までやり遂げる。それで頭が一杯でした」

「あの時、包丁はしっかり握っていたんですね」

「片手で階段の手すりをしっかり掴んで、もう一方の手にはしっかり包丁を握ってました」

「その時は、まだ二階の入り口に真苗ちゃんが居たのには気付いてなかったんですね」

「ええ、階段を上る時は、足下しか目先がいかなくて、急に足が見えて見上げると真苗が立っていた。思わず足を止めてじっくり真苗の顔を見てしまったんです」

「そのときです!」

 一階で三人をったときは目の前に居るんですから、相手の顔をじっくり観る余裕も必要もなかった。階段の上がり口に居た真苗ちゃんに下村さんは見上げて、真苗ちゃんは見下ろして顔と顔を合わせた。その位置から刺すには包丁は届かない。階段を上がりきって、真苗と同じ位置に立たないと持っていた包丁では、その位置では刺せなかった。それで立ち止まった。三人をあやめた時は立ち止まる余裕がなかった。この場は余裕があって次の瞬間には、一瞬にして殺意が別なものに置き換わった。その時にあなたは何を見たのです? とにかく下村さん、真苗ちゃんの話だと、あなたは持っていた包丁から手の力が抜けて包丁はだらりと下がった。その瞬間を真苗は見逃さなかった。あなたは鋭い衝撃を受けて下まで転げ落ちた。気が付くと入り口近くのダイニングに横たわる真澄を真苗は抱きかかえようとした。そこで起き上がった父を見て、慌ててそのまま玄関から駆けて行った。

「これが、あなたに、私が、今日、直接、会って確かめて欲しかったものですが、何処か違っていますか」

「いえ、間違いなくその通りで、一字一句、文句の付けようがありません」

 文句は余計だと苦笑した。これまで見せたことのない屈託のない顔に、下村はとうとう深詠子の境地におちいってゆく一環を垣間見た。此の隙間を突破口にして一気呵成に問い詰めたいが……。

「深詠子、さんとは一目惚れだったそうですね」

 一気に八年前に呼び戻されて下村の頬が緩んだ。

「そうです」

 静かに、それでいてなんの屈託もなく云いきった下村に、釣られて気ままに暮らした深詠子との日々が藤波の心の中にも蘇って来た。下村の場合は未踏峰に挑むアルピニストの輝きだ。一方の藤波は既に走破を終えた気怠さがあの時にはあった。一流でない下村の登頂(結婚)を助けたのは他でもない、藤波が抱いた深詠子に対する愛の過信だ。

「デートに誘ったら受け入れてくれた」

 磨美さんに散々な目に遭っている下村には、薄氷を踏む思いで恐る恐る踏み出した最初の一歩を、しっかりと踏み締められたあの感触が、あの事件の朝まで残っていた。

「深詠子は俺に意見しながらも、家のことは甲斐甲斐しくやってくれていた。それがいたたまれなくなったんだ」

「急にですか?」

「それはないですよ。誰でも急にあんな大それた事をやるわけはないでしょう。すまないすまないと思い続けると何処かに、それが積もり積もっていつか頂点に達する」

 朝食が済んで、後片付けも終わってもそのまま居残る下村は、ダイニングテーブルから定まらない視線で台所を見ていた。そこにあるのは深詠子がいつも使っている包丁しかない。定まらない下村の視線の行き着くところも、いつも家族のために料理をしている包丁に定着した。

「それはどうしてですか?」

「家族を支えているのは俺だ、がそれを目に見える形にしてくれているのは深詠子だ」

 そう思って台所に近付き、深詠子が毎日使っている包丁を思わず手に取った。

「その時は、まだ、今の境遇に悲観してなかったんですか?」

「それはなかった。それどころか包丁を持つ手から深詠子の励みが伝わった」

「どんな風に」

「今までは『あなたと一緒になったのはある人のためだ』と云われていたのが、あなたの為ですと持った包丁から伝わった。これに手がしびれた」

 嘘だ! 深詠子がそんなこと云うはずが無い。下村の妄想だ! 落ち着けッと必死で藤波は自分に言い聞かせた。当の下村は、今一度その手をしみじみと見つめ直していた。



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