橋を渡る人

水涸 木犀

これはあなたの物語です

 あなたは、夜遅い時間に橋を渡っています。橋の幅は、車が二台余裕ですれ違えるくらいで、しかも歩道も歩行者用と自転車用のレーンに分けられているので、けっこう広いです。


 そんな橋をゆっくりと渡っていたあなたは、左斜め前を歩いている女性に意識を向けます。電灯の明かりだけではよく見えませんが、その女性が長髪で、ワンピースのような、上と下が一体となった服を着ていることはわかるでしょう。

 彼女は一心に手元のスマートフォンを見ながら、歩いています。おそらく橋を渡る前から、その女性はあなたの前を歩いていたのでしょうが、彼女がながら歩きをしていたために、あなたが追いついてしまったのです。


 あなたは、夜道でスマートフォンを見ながら歩くのは危ないと思うでしょう。とはいえ、夜遅い時間帯に、見知らぬ他人が声をかけたらそれこそ不審者扱いされてしまいそうです。ゆえに、声をかけるのは思いとどまります。代わりにスリに遭ったり、何かにつまづいて転んでしまったりしないかを気にして、それとなく視界の中に女性を留めておくことでしょう。


 橋の真ん中を少し過ぎた辺りで、女性はスマホを素早く肩掛けの鞄に入れました。ようやくながら歩きをやめてくれたのかと、内心胸をなでおろしたあなたですが、次の瞬間、別の意味で緊張することになります。女性が、すごい速さで走り出したのです。なぜ、今までスマホをみながらゆっくり歩いていた女性が、急に走り出したのか。理由がわからずあっけにとられるあなたですが、暗がりの中で女性が、川に下るための道を降りていくのが見えて急いで後を追いました。


 彼女が走る理由はわかりません。しかし、こんな夜遅くに、女性が一人で暗い川べりに行くのを黙って見ているわけにはいきません。橋の上と違い、川沿いの道は明かりが乏しく、人通りもありません。そんなところでもし、女性が何らかの被害に遭ったら、あなたは悔やんでも悔やみきれないでしょう。

 何かあった時、すぐ通報できるように自分のスマートフォンを手にもって、あなたは橋を渡り切り、左に曲がって川沿いの道へと降りていきます。


 川沿いの道に辿り着いたあなたは、周囲を注意深く見渡します。しかし、先ほど走っていったはずの女性はおろか、ひとっこ一人見当たりません。あなたは胸がざわつき、いやな予感がするでしょう。もしかすると先ほどの女性は、川の中へと飛び込んでしまったのかもしれない。そう思い、もっと川べりに近づいて、スマートフォンのライトを照らしながら目をこらします。女性の靴とか、鞄とかがその辺りに落ちているかもしれないと思ったのです。

 しかし、コンクリートブロックで舗装された白い縁が光を反射するだけで、女性のものとおぼしき小物はいっさい見当たりません。


 もしかしたら、もっと先へと道を進んでいったのかもしれない。いまさらながらその可能性に思い至ったあなたですが、いまさら追いかけたところで追いつけないだろうと思い直します。そもそも、女性が川上のほうへ行ったのか、川下のほうへ行ったのか、それすらもわからないのです。

 そこまで考えて、あなたはふと、なぜ見も知らぬ女性のために、自分がここまで心を砕いているのだろうかと我に返ります。


 その瞬間、今まで女性を追いかけていたのがとんでもなく時間を無駄にした行為だったように感じられるでしょう。そもそも自分は疲れているし、早く家に帰って寝たい。赤の他人である女性のことを気にしている余裕なんて、そもそもなかったはずなんだ。あなたはそう思いながら、元来た道を戻って帰路へとつくでしょう。


 家に帰ったあなたは、遅い夕食をとり入浴し、床に就きます。そのころには、橋の上で会った女性のことなど、きれいさっぱり忘れています。次に同じ橋を渡るときにも、思い出すことはないでしょう。

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