あの夏、彼女は雪女
紫野一歩
あの夏、彼女は雪女
僕の母方の実家は東北の田舎で、小学生の頃は夏休みになると毎年帰省していた。一週間くらいのんびりと過ごしていたと思う。
実家近くの小さな雑貨屋へ、お小遣いを持って一人訪ねることも恒例行事だった。洗剤から菓子パン、駄菓子に野菜に少量の薬。探せば必要な物が見つかるごったなお店。
そこには、雪女がいた。
○
「何か私の顔についているかい、少年」
小学三年生の時だったと思う。確か初めて掛けられたのはこんな言葉だった。
小さな雑貨屋の奥にある、一段小上がりのある居住スペース。そこにいつも座っているはずのお婆ちゃんの姿は無く、代わりに座っていたのがユキさんだった。
「……これ、買いに来たんですけど」
お気に入りだった小さなラーメンスナックと共に十円を見せると、ユキさんは手招きをして僕を呼び、丁寧に十円を受け取った。
「毎度あり」
「あの……お婆ちゃんの駄菓子なんですけど」
「ん? あはは、大丈夫。シ……お婆ちゃんの代わりに店番やってんだ、私は」
ユキさんはそういって、僕から受け取った十円をポイと傍らのざるに投げ込んだ。その仕草は確かにお婆ちゃんそっくりで、ジャラリという小銭が擦れ合ういつもの音も響いた。
「お姉さんは誰?」
僕が訊くとユキさんはしばらく「う~ん」と腕組をした後、にやりと笑って「雪女だよ」と答えた。
「雪女?」
雪女ってあの、白い服を着て雪山で人を襲うというあの雪女だろうか。何処か悪戯っぽい笑みを浮かべている自称雪女のお姉さん。子供扱いされていることに、少しムッとした。
もう小学三年生だ。雪女とか、口裂け女とか、メリーさんとか、そういうお話が作り話な事くらい知っているのだ。
「お姉さん、白い着物着てないじゃん」
僕は雪女伝説との矛盾を指摘する。
ユキさんは袖の短いオレンジのTシャツにホットパンツ、カンカン帽というラフな格好をしていてとても雪山は似合いそうにない。それに今は夏真っ盛りではないか。
ユキさんは「だって本当だもの」と楽しそうに言うと、サンダルを履いて入口近くにある冷凍庫に向かい、アイスキャンディーを二本取り出す。
「少年、アイスも買ってお行きよ。雪女特製だよ」
ちゃっかり自分の分も、僕に買わせるつもりの様だった。
ユキさんはよく大きな金盥に水を張って、そこに氷を浮かべていた。そこに脚を浸けながらアイスキャンディーを舐めるのがお気に入りの様だった。
僕が雑貨屋を訪ねると大抵その恰好をしていて、ひどい時には足を浸けたまま畳に横になっていた。店番店番と言っているが、やっていることはただアイスキャンディーを舐めるだけである。最初は小銭をしっかり受け取ってざるに投げ入れていたのに、すぐにそれも面倒になったのか僕に直接ざるに入れさせるようになった。金額の確認もしない。僕が嘘を吐いていたらどうするつもりなのだろうと思った。
「少年は、そのお菓子が好きだねぇ~」
いつものようにラーメンのスナック菓子を買う僕を見ながら呆れたように呟くユキさん。毎度同じアイスキャンディーを舐めながら、よくそんな事が言えるものだ。僕がそう反論すると「だってこれが無いと溶けちゃうし」と悪びれる様子もなく、ユキさんは鼻歌を歌った。
「座って食べれば?」
自分の隣を叩いて彼女が言うので、言われるがままに隣に座る。日陰にある畳はしっとりと涼しさを湛えていて、気持ちよかった。
開け放しの入り口は夏の太陽の光を映して真っ白く光っていた。その中にじわじわと見えてくる外の光景は何処か作り物の様で、さっきまで感じていた暑さは本当にまだあそこにあるのだろうかと思ってしまう。アスファルトの上の陽炎が沸騰したお湯のように揺れていた。
ユキさんがいつも見ている光景。
隣の彼女は相変わらずご機嫌で、外を見ながらアイスキャンディーを舐めている。
ほっそりとした腕も、スラリと伸びて金盥に刺さっている足も、透き通るように真っ白で、薄暗い雑貨屋の中で彼女だけがぼんやり浮いている様に感じた。畳の涼しさも相まって、ユキさんにだけ夏が来ていないのではないかと錯覚する。
雪のような白さ。
よく見ると、その肌は少ししっとりと汗ばんでいた。
「暑いねぇ」
ユキさんが呟く。
僕の錯覚をかき消すように、ユキさんは自分にも夏が来ていることを教えてくれた。
「ユキさんは雪女なんだよね」
「ん? そうだよ」
「夏なのにどうしてこんな所にいるの? 山とかにいればいいのに」
山を登れば登るほど涼しくなることは、学校の先生が教えてくれた。僕は夏でも富士山に雪が積もっているところを頭に思い浮かべながら尋ねる。
ユキさんが雪女だという事は信じていなかったけれど、もし雪女がいたらどうするか、と考えると、山の上にいるのが一番だと思ったのだ。
「まぁ、店番があるからね」
「ここの?」
「そう。お婆ちゃんももう歳だから。最近の夏の暑さは体に障るよ」
「雪女の方が辛いんじゃない?」
「いやぁお婆ちゃんの方が辛いよ、たぶん」
お婆ちゃんじゃないからわからないけれど、とユキさんは笑う。
「でも雪女は溶けちゃうんでしょ?」
ユキさんの小鼻に浮かぶ球粒のような汗を見ながら僕は問う。
「お、心配してくれるのかい。そうなんだよ、溶けるんだよ、雪女は」
溶けて、水になって、流れちゃう、と自分の身体の事を話しているとは思えない陽気さでユキさんは言う。パシャパシャと動かす脚に合わせて、金盥に浮かんでいる氷がカラリと音を立てた。
「だからアイス奢って」
ユキさんは足元の氷のようにカラカラ笑った。
「東京の大学生なんだって」
母からそんな事を聞いたのは、小学五年生の時だった。
ユキさんはどうやら雑貨屋のお婆ちゃんの姪の子供に当たるらしく、大学の夏休みを利用していつも遊びに来ているのだという。
「誰が言ってたの?」
「ミーちゃん……って言ってもわからないわよね。お母さんの中学時代の友達よ」
雑貨屋のお婆ちゃんと茶飲み友達だった別のお婆ちゃんの子供が母の友達で……とにかく駄雑貨屋以外で交流のあった地元の人が、ユキさんから直接聞いたらしい。
やっぱりからかわれていたのだ。
僕もユキさんに同じような質問をしたことがあった。
いつもは何処に住んでいるのか、夏以外にも雑貨屋には来るのか、店番以外にはどんな仕事をしているのか。
「普段は山で雪女してるよ」
全ての回答はそれだった。職業が雪女とはどういうことか。
自分はユキさんの事を真剣に聞いているのに全てその調子。そういう人だと思っていた矢先、自分以外の人にはしっかり正直に答えているのだ。
僕が小学生だからだろうか。それしか考えられなかった。
ユキさんとちゃんと話せる大人が羨ましかったし、ちょっぴりずるいと思った。自分ももう少し早く産まれていれば、大学の事とか、住んでいる所とか、ユキさんの事を色々教えてもらえたのだろうか。そんな事を考えていると、どうして自分は今大人ではないのだろうと悔しさが込み上げて来るのだった。
僕はいつ大人になるのだろう。
「どしたの?」
ラーメンのスナックを持たずにユキさんの前に立っている僕を見て、彼女はきょとんと呆けた顔で首を傾げた。
いつもと変わらない、太陽がオーブントースターのように地面を焼く暑い日。いつもと変わらない、薄暗い雑貨屋の店内。ユキさんは相変わらず金盥に脚を突っ込んでいて、湛えられた水には大量の氷が浮いている。
僕は汗を滴らせながら、昨日から何度も練習した言葉を口から出そうと必死だった。しかしそれを邪魔する様に頭の中で「やっぱりやめようよ」という声がする。
「そんなこと言って、お姉さんに引かれたらどうするの?」
「お姉さんに笑われるよ。だってお前はただの少年だから」
「相手にされないし、もう話してくれなくなるかもよ」
脳内の僕が、必死で止めて来る。その言葉に流されて、昨日の覚悟が揺らぎだす。あと一歩の所まで来たから今日はもういいのではないか? 別にまだ明日も、明後日も、ここにいるのだ。チャンスはいくらでもある。今日の所はラーメンの駄菓子を買って、それでまたユキさんとちょっと話すだけでいいではないか。
「で、デートしてください」
言った瞬間、ぶわりと汗が噴き出した。
デート! 男と女がお互い好きになった同士でお出かけすること。小学校で隣の席の女子がそう教えてくれた。誰が誰を好きなのかがわかるだけで教室中が大騒ぎなのに、お互い好きになって、学校以外にお出かけするなんて! そんなの恥ずかしすぎるではないか。
でも大人はみんなデートをしているのだという。
きっと、ユキさんも。
「……何処行くの?」
ユキさんが小首を傾げて微笑んだ。
セミの声が二人の間を流れていく。金盥の氷が外の光を反射してきらきらと光っていた。風が入口から、ユキさんの背後へと抜けていく。
「神社の裏手にある山に……」
「うん」
「一緒に登りたいです」
「わかった」
いつにしようか、と続けて聞いてくれる。
「今日の夜……」
「わかった」
僕は何も買わずに外に出た。
日差しが照り付けるのに暑さは感じず、ただ自分がふわふわ浮いているように感じた。陽炎にでもなってしまったのかと思った。
神社で待ち合わせして、山を登り始めて、僕は後悔していた。
初めて登る裏手の山は思ったよりもずっと急な勾配でずっと高かった。すぐに頂上に着くと思っていたのに、歩いても歩いても見えるのは山道ばかり。そして夜でも暑さはしっかり残っていて、歩くそばから汗を掻いて来るのだった。
ユキさんはとても辛そうにふぅふぅと息を吐いていて、一歩ごとに汗を拭っている。時折、ハンカチを絞っていた。
「やっぱり帰ろう」
耐え切れなくなって僕が言うと、ユキさんは首を振る。
「自分で言って音を上げたか少年」
「違う。ユキさんが……」
「私は大丈夫だよ。登ろうよ」
言われるがままに足を動かすが、僕は気が気ではなかった。いつも飄々としているユキさんの荒い息遣いと紅潮した頬を見て、本当に暑いのが苦手なんだと初めて理解した。口を開けば嘘ばかりのユキさんの「暑いの苦手」という言葉を信じていなかったことに気付いた。
自分のせいで辛そうなユキさんを見ては山を下りたくなったけれど、ユキさんはどんどん先へ進めという。
「ユキさんが溶けちゃう」
「まぁ、溶けてもいいよ」
「ダメだよ!」
僕が思わず大きな声を上げると、驚いたようにユキさんは立ち止まった。そしてしばらく僕を見つめた後、「わかった」と小さく返事をした。「ゆっくり行こうか」
登っても登っても、ちっとも涼しくなんてならなかった。むしろ気温が上がっているようにさえ感じた。しかし二人の足は止まらず、流れる汗と共に一歩ずつ頂上を目指している。
どれくらいの時間が経っていただろうか。その時はとても長く感じたけれど、きっと一時間も経っていなかったはずだ。
「デートは楽しいかい?」とユキさんが訊いてきた。
「楽しくない」
すぐに返事をした僕に、ユキさんはお腹を抱えて笑っている。
「デートの意味はわかってるんだよね? どうして楽しくないの? 今はユキお姉さんを独り占めだよ」
「だってユキさん辛そうだし、ユキさんが本当はどう思ってるかわからないし、ユキさんに何してあげればいいのかわからないし」
「自分はどうなの?」
「わかんない。だって絶対ユキさんが楽しいって思ってくれてないから」
「私次第ってことかな?」
「うん」
「……君はいい男になるね」
あ~苦しい、と笑いが止まったお腹を擦りながら、ユキさんは僕を追い越してさっさか坂を上っていく。ダメだって言ったのに。少し先でくるりとターンして手招きしてくる。
「楽しいよ。本当にね。山を選んだのも、私の為でしょう?」
「…………」
その通りだ。
ユキさんが雪女なんて信じていなかった。
だけど、本当に雪女だったら、涼しい場所を喜んでくれると思ったのだ。
そんな事を言うのは恥ずかしいので、沈黙を貫いて手招きする彼女の方へと向かう。
手を掴まれて、ドキリと胸が跳ねた。
少し汗の浮いたユキさんの手は、柔らかくてひんやりとしていた。
手を繋いだまま、山を登る。
坂が緩やかになって来て、空を塞ぐように茂っていた木々が段々と少なくなって来る。
風が下から吹き上げて来て、ユキさんのスカートをなびかせる。汗を乾かしてそのまま上へと消えていく。
「もう、会えないと思うから」
え、と漏れた自分の声にも気付かないまま隣を見ると、ユキさんはこちらを見ずに前を向いて微笑んでいた。横顔は月明かりに照らされて、陶磁器のように淡く光を湛えている。
「シズネちゃん、もう長くないんだ」
「……シズネちゃん?」
「雑貨屋のおばあちゃんのこと。ずっと一緒にいるって、約束してたから」
どういう事なのかがわからずに、僕はただ言葉を失っていた。でも、もう会えない、というユキさんが嘘を吐いていない事だけはわかった。
いつも悪戯っ子のように笑うユキさんの、こんな笑顔は初めてだったからだ。そのまま月に向かって、ふわふわとゆっくり飛んで行ってしまいそうな、そんな笑顔だった。
「ユキさん、東京の大学生なんだよね」
僕は彼女の笑顔には気付かないふりをして質問する。握っているユキさんの手が油断すると蒸発して消えてしまいそうで、祈るように力を込める。
「お婆ちゃんの姪の子供で、夏休みの時だけこっちに来てるんだよね!」
放っておくとどんどん流れていく時間を何とか止めようと必死に僕は言葉を紡いだ。他に母に聞いたことは無かったか、他に何か掛ける言葉は無かったか。
心臓からお腹の下までむずむずと冷たい何かが降りて来て、焦りだけが僕の頭をぐるぐると巡る。
ユキさんはしばらく何も返事をしてくれなかった。
ぶんぶんと、僕の手を大袈裟に振って歩くのみ。
やがて、とうとう、頂上に着いた。
「そうだよ」
ユキさんは僕の方を振り返り、悪戯っ子のように笑った。
いつものように。
○
翌年、雑貨屋は閉店していた。お婆ちゃんは街の老人ホームに入ったのだと母が教えてくれた。お婆ちゃんの家が何処にあるのか知らなかったので、ユキさんを探すことも出来なかった。
中学生になり部活を始めると、僕は夏休みに帰省することは無くなってしまった。
チームで全国大会を目指して、初めてクラスの女の子と付き合って、どんどんと僕の世界は忙しく煌びやかになった。
小学生の頃の僕が知らない友人と、練習し、勉強し、遊び、田舎の事を思い出す事も減って行った。
しかし夜に道を歩いている時に、ふと外灯が途切れる場所で、空を見ると思い出すのだ。裏山を登った夜の事を。
おばあちゃんの訃報を聞いたのは、中学二年の冬だった。
父が葬儀に参列するというので、僕も一緒に付いて行った。お婆ちゃんにお世話になったので最期に挨拶したかったから付いて行ったのだけれど、その時にユキさんの事が過ぎらなかったかというと嘘になる。
ユキさんは、お婆ちゃんの姪の子供のはずだから。
葬儀に、彼女の姿は無かった。
○
頂上にポツンとあるベンチを見つけて、ユキさんは「着いた~!」と叫んだ。
僕の手を握ったまま何度もバンザイをするので、自動的に僕もバンザイすることになってしまう。
「そんなに喜ぶことないでしょ」
と僕が笑うと、
「登れるかどうかわからなくて泣いてたクセに」
と額を突かれた。泣いてなどいないのに。
ベンチに二人並んで座ると、夜の景色が一望出来た。山の周辺はほとんどが闇に沈んでいて、点々と明かりが灯る民家があるばかり。雑貨屋もこの何処かにあるのだろうが、明かりが無いので何処にあるのかはわからない。
反対に地平線近くの駅に近い街は、ギラギラとした強い光が塊のように並んでいて、夜など跳ね返せると言わんばかりだった。
その遠くの光を見ていると、今いる山がより一層、暗がりの中に塗れていくような感覚に陥る。
何も無い無人島に二人きりで、対岸にある街を眺めているみたいだった。
「時間が止まっちゃいそうだね」
ユキさんがそんな事を言う。
「止まったらどうする?」
「時間は止まらないんだよ、少年」
自分で言ったクセに。
しばらく他愛のない話をしながら景色を眺めていると、ユキさんはポケットからごそごそと何かを取り出した。
「はい。今日はありがとね」
彼女の手には、アイスキャンディーが二本握られていた。蒸し風呂のように暑い夜の中、冷気を纏っている。
「これ……?」
「デート、楽しかったよ」
「…………」
「早くしないと溶けちゃうよ」
受け取って舐めると、舌が引っ付いた。慌ててじっくり溶かす。
火照った体に、さわやかな蜜柑味がすぅと染み渡る。
ユキさんも同じオレンジ色のアイスキャンディーを齧りながら笑っている。
「美味しい?」
「美味しい」
きっと僕の人生で一番美味しいアイスで。
地平線で輝く光がぼんやりと滲む。
隣でユキさんが笑っている。
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