路地裏の片隅で

@ninomaehajime

路地裏の片隅で

 私はここにいます。

 路地裏から見える雑踏にそう叫び出しそうになって、誰にも声が届かないことを思い出す。ジーンズの両膝に顔を埋めながら、通り過ぎる人々の喧噪けんそうに耳を澄ます。行き交う靴の音、笑い声、喧嘩の怒号どごう、迷子になった子供の泣き声。車のクラクションが鳴り響いてはかき消した。

 狭い路地裏だった。ビルの谷間で、すすけた外壁にはダクトが這いずり、すぐ隣の室外機のファンが絶え間なく回っている。切り取られた隙間の空は黒く塗り潰されており、時折高い位置にある窓がともった。路地裏の奥は、都市の光が届かない暗闇に包まれていた。

 いつからここにいるのか、自分でも覚えていない。おそらく私は死んでいるのだろう。気まぐれに迷いこんできた猫に触れようとして、指先がすり抜けた。まだらな白と黒の猫は目で驚き、耳を伏せて毛を逆立てた。何か声をかける前に路地裏の外へと飛び出した。伸ばした片手が行き場をなくして、宙を彷徨さまよう。

 人に至っては誰一人として入ってきたことはない。くたびれた中年の男性が通りがけに煙草の吸い殻を路地裏に放り捨てた。まだ赤みを帯びた先端からわずかな紫煙しえんが立ち昇る。鼻腔が刺激された。完全に火が消えて灰が落ちるまで、ずっと眺めていた。

 この路地裏は時間が沈殿ちんでんしている。灰のように降り積もり、私の姿を隠しているのだろう。腐る肉体もなく、ただこうして座っている。俗に言う地縛霊じばくれいというものだろうか。ここから離れる気が起きなかった。微睡まどろみ、外の喧噪に耳を傾けている。

 風に運ばれて、たまにチラシや古い新聞が運ばれてきた。風雨ふううに晒されたのか、しわくちゃになった新聞の一面には行方不明になった少女の顔写真が笑っていた。

 外界と路地裏は隔絶かくぜつされていた。ビルの隙間から見える景色が遠い異国に思える。実際、ほんの数歩で出られるはずの道のりが果てしない。立ち上がるという発想さえなかった。

 だから、今夜も私はここにいる。

 いつもと同じく膝に顔を埋めていると、都市が発する息遣いとは異なる音が響いてきた。鼓膜を撫でると、どんどん強く叩いていく。聞き覚えのあるこれは、サイレンだろうか。

 回る赤色灯せきしょくとうが路地裏の陰を照らした。夢うつつにあったために、おぼろげにしか車両を確認できなかった。ただ、拡声器が何かを訴えていた気がする。サイレンの音は遠ざかり、また路地裏は静寂に満たされたかに思えた。

 急ぐ靴音がした。誰かが走ってくる。

 緊急の用事でもあるのだろうか。どうせ自分には関係ないと断じ、またまぶたを下ろす。駆け足が通り過ぎる。その予測は外れた。路地裏の角を曲がり、硬質な靴底の音がビルの外壁に反射する。すぐ隣で止むと、肩で息をする気配がした。その息遣いが少し落ち着くと、衣擦きぬずれとともに何者かが腰を下ろした。

 そこでようやく瞼を持ち上げる。顔を向けると、男性の横顔があった。年齢は二十代半ばほど。袖をまくった白いシャツが皺になり、コーデュロイのスラックスを履いた片足を投げ出していた。夜空を仰ぎ、片膝を立てている。胸を上下させて、よどんだ空気を肺に取りこんでいた。左手には高級そうな腕時計を巻いている。

 まだ汗が乾いていない横顔を観察していると、目が合った。彼は首を傾け、歯を見せて笑う。

「やあ」

 すぐには反応できなかった。この青年は、私を認識している。

「警察に追われてるんだ。少しのあいだ、かくまってほしい」



 声帯が錆びついているのか、返事が途切れ途切れになった。

「あ、なた、は」

 思考に発話が追いつかない。その若い男性は急かさなかった。

「私、が見えて、いる、のですか」

 我ながらぎこちない話し方だった。青年は軽く吹き出す。

「面白いね。そういうキャラ作り?」

 キャラ作りとは何なのだろう。緩慢かんまんに小首を傾げると、彼は胡坐あぐらをかいた。

「君、未成年だろ。家出かい? こんなところに若い女の子が一人で、悪い男が来ても……」

 そこでふと言葉が途切れた。

「ああ、今は俺が悪い男なんだっけな。警察から逃げてるんだから」

 気まずそうに頭を掻いた。沈黙が漂う。私は何とか口を上下させた。

「何か、したの、ですか」

 少しずつ話し方を思い出してきた気がする。私の問いに、青年は軽い調子で言った。

「ああ、人を殺したんだ」

 あまりに反応が薄かったためか、彼はこちらの様子を窺った。

「もしかして、嘘だと思ってる?」

「いいえ」

 小ざっぱりした服装に反して、青年からは血の臭いがした。ただ、どこにも血痕は見当たらない。誰かを刺したのなら、多少は返り血があるだろう。

 青年は自分の手のひらを見下ろした。

「血の臭いって、本当に染みつくんだな」

 そう一人ごちる。私は尋ねた。

「誰を、刺したのですか」

 問いを重ねる私に、なぜだか彼は苦笑いをした。

「君、ほんとに変わってるね。殺人犯が怖くないの?」

「とくには」

 見えないだけで、この都市には死がありふれているのだろう。以前、この界隈かいわいで暴力団の抗争があった。発砲音が鳴り響き、怒号と悲鳴が飛び交った。誰かが亡くなったらしく、サイレンとともに救急車がやってきた。道を空けてください。さすがに少し耳障りだった。

 青年は物思いにふけり、目を細めた。

「妹の彼氏を殺したんだ」

「なぜ」

「あいつは、妹を妊娠させた。それだけじゃなくて、無責任にろせって言ったんだ」

 許せないよな。青年は笑いかけた。

「妹に泣きつかれてさ。兄貴としては、どうにかしないといけないだろ?」

「そういう、ものですか」

「そういうもんさ」

 私たちのあいだに沈黙が下りた。路地裏を鉄錆てつさびの臭いを含んだ風が吹き抜ける。

「だから、包丁で刺したのですか」

「ああ、そうさ……察しが良いね?」

「何となく、わかるので」

 彼は俯いて肩を揺らした。

「そういえば、君はそっち系だったね」

 そっちとは一体どっちだろう。私は怪訝けげんに思った。

「どうすれば良かったんだろうな」

「どうすれば、とは」

「もっと何か方法があったんじゃないかってさ。こういう血生臭い終わり方じゃなくてね」

 両膝を広げ、力なく首を折る。ちょうど自分の腹部を見下ろす形となった。私の目線も注がれる。

「起きたことは、何も変わりませんよ」

 私が言うと、彼は疲れた表情で苦笑した。

「そうだね、君の言う通りだ」

 彼は気力を振り絞るように立ち上がる。たぶん、私よりも頭二つ分は上背うわぜいがある。彼は路地裏の外をうかがった。

「警察はもういないかな」

 次いで両膝を抱える私を見下ろした。

「君は、帰る場所はあるの?」

「いいえ」

 青年は提案した。

「だったら、俺と来ないかい?」

「あなたと?」

「ああ、殺人犯と一緒だなんて嫌だろうけど、ずっとここで膝を抱えているよりは寂しくないだろ?」

 こちらの事情を見透かしたように言った。こちらに手を差し伸べる。

「たぶんすぐ捕まるだろうけどさ、そのときは俺がだまして連れ回したことにするよ。短いあいだでも、君のことも聞かせてほしいんだ」

 そのたくましい手を見つめ、都市の光が差して目を細めた。我ながら緩慢な動作で、片腕を持ち上げた。青年の手に向けて腕を伸ばし――すり抜けた。

「違うでしょう」

 青年の表情が驚愕に染まった。私の手は、彼の腹部にあるものを掴んでいた。

「あなたが殺したのは、あなた自身でしょう」

 白いシャツから、赤い染みが大きく滲んできた。血の雫が宙をしたたり、刃物の形をかたどる。そのを握る私の指を赤く染めた。

 彼の腹には包丁が刺さっていた。



 思念とともに、激情がなだれこんでくる。

 どうしてお兄ちゃん。堕ろせってなんて言うの。兄妹だから? あたしたち、あれだけ愛し合ったじゃない。今さらそんなことを言うなんて、許さない。

 衝動的に突き立てた包丁の刃が腹に深く沈む、生々しい感触まで伝わってくる。目の前に佇む青年が吐血した。生温かい血が頬にかかる。

 口の周りを鮮血で汚しながら、彼は引きった笑いを浮かべた。

「何だ……全部ばれてたのか。人が悪いなあ」

「警察に追われてるだなんて、下手な嘘をつくからですよ」

 手厳しいな。腹に包丁を突き立てたまま、片頬を歪めた。

 青年が駆けこんでくる前に路地裏の前を通り過ぎたのは、警察車両などではなかった。白い救急車で、おそらく彼の体が運ばれていたのだろう。もう危篤状態だったのか、拡声器で道を譲るように必死でうながしていたと思う。

 彼は煤けた壁に片手をつきながら、ビルの谷底から空を見上げた。

「なあ、俺は地獄に落ちるのかな?」

 私は答えた。

「わかりません。行ったことがないので」

 その返答に、やはり彼は苦笑いをした。君はぶれないなあ。青年の体が少しずつ薄れていく。両目が閉じられ、その唇がかすかに動く。

「できれば、あいつに――」

 言い終える前に、彼の姿は消えた。手を放すと、血にまみれた包丁が目の前に落ちた。金属的な音がつかの間響き渡り、路地裏に再び静寂が訪れた。

 外の騒音が戻ってくる。車が行き交い、ヘッドライトの光が交差する。ここで何があったかなど、この路地裏の片隅では大したことではない。

 鉄錆びた臭いに包まれながら、また私は両膝に顔を埋めた。

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