これで最後

香久山 ゆみ

これで最後

「これで終わりにしてほしい」

 テーブルの上に茶封筒が差し出される。ほんのり膨らんだ厚み。百万? 二百万? 三百万? 大金を目にすることがないから分からない。けど、それ以上ということはないだろう。そっと、茶封筒を押し返す。

「これ以上どうしろと?」

 彼は吐き捨てるように言う。さっきまで大人しく俯いていた彼は、目に見えてイライラしている。夫は、いえ、元夫は来月再婚するらしい。それで、過去の関係を清算したいのだろう。

「本当に俺の子なのかも分からない」

 かつて彼は言った。息子はもう二歳だった。どんどんやんちゃになっていく息子に、私は疲弊して身なりもメークも疎かになっていた。家の中もぐちゃぐちゃだった。その頃、夫はあまり帰ってこないようになっていた。

「本当に俺の子なのか分からない」

 たまに家に帰ってきては、懐かない息子や家のことや色んなことに文句をつけて、最後には必ずいつもそう言った。

「そうだね」

 最後の日、私は溜息とともにそう溢した。疲れていた。けど、絶対言っちゃいけなかった。

 それから色々あって、息子が三歳の時に離婚した。

 新しい家庭があるから養育費の支払いはこれで最後にしてほしい。夫はそう言うが、これでも何も、息子はこの春ようやく小学校に上がったばかりだ。そのお金で、女手一つでこの先どうやって子どもを育てていけと? まさか、この人は本気で自分の息子ではないと考えているのだろうか。やはり、知人の助言通りに書面を交わしたり調停を起こしたりしておくべきだったのだろうか。私は馬鹿だから、何もかも失敗してしまう。この人と結婚するために縁を切ったから、実家を頼ることもできない。

「もうこれ以上苦しめないでくれ」

 彼が言う。どの口で。苦しめられたのは私だ。暴言を吐かれたのも、暴力を振るわれたのも、堪えて尽くして挙句捨てられたのも私だ。話し合いの場所を喫茶店にしておいてよかった。でなければまた、膝の上で固く握られたあの手で殴られていただろう。

「もう、いいです」

 そう言って、私は立ち去った。もう二度と彼に捕まらないよう早足で。

 その後、あの三百万円が口座に振込まれることはなかったし、向こうから連絡もない。

 もう水商売はしないと決めていたから、一人で子を養うのは厳しかった。昼職の事務仕事の給料は知れているし、夜間や休日のバイトも幼い子を置いていくわけにもいかずままならない。働けば働くほどその分保育園代に消えていくし、私はいつも疲れていた。母子家庭に給付制度があるということを知ったのも、ずいぶんあとになってからだった。

「そんなことしちゃだめ!」

 反動でごろんと転がった息子が、わあわあ泣き出す。私はぎゅっと小さく震える右手を握りしめる。掌が熱い。

 成長するにつれて男の子は怪獣みたいになる。行動範囲も増えるし、やっちゃだめなことばかりするし、お友達とけんかするし、言うこと聞かないし、暴言まで吐く。言っても聞かない息子に手が出てしまったことは、一度や二度ではない。小さな子が泣きじゃくる姿に、何てことをしてしまったんだ、これで最後だ、もう暴力は振るわない、と毎回反省するのに。私の振舞いも、息子の顔も、どんどん元夫に似てくるようだ。

「これ、母さんに」

 テーブルの上に白い封筒が差し出される。

 今までありがとう、とスーツ姿の精悍な青年が頭を下げる。息子が巣立つ。彼は就職を機に、学生時代から交際していた恋人と籍を入れる。

 初ボーナスは母さんに、と言って出された封筒を息子の方へ押し返す。

「受け取ってよ」と、息子がさらに押し戻す。何度かそんなやりとりを繰り返して、結局封筒を受け取る。

「最初で最後だしね。ありがたく頂戴します」

 これからは自分達のために使いなさいね、と白い封筒を両手に掲げて頭を下げると、息子が笑う。

「母さんたぶん勘違いしてる」

 促されて封筒を開けると、中から旅行券が出てきた。

「親子水入らずで旅行でもしようよ。美味いもの食べて、ゆっくり温泉に入って」

 今までありがとう、そしてこれからもよろしく。と、私によく似た息子がはにかむ。

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