紅牡丹

香久山 ゆみ

紅牡丹

 名前が「久 奈」だから。いのしし年生まれだから。そして、少しぽっちゃりしてるから(ただ、自称ぽっちゃりは、客観的にはちょいやばいかもしんないけど)。

 だから、彼はあたしのことを「ボタン」と呼んだ。

 あたしはそれを気に入っている。あたしのことをボタンと呼ぶのは、彼だけだから。彼はあたしの特別だし、あたしも彼の特別。

 つき合い始めたきっかけは、彼の方からだった。合コンでたまたま隣の席になった時に、彼のシャツのボタンが外れかけているのに気づいて、持っていたソーイングセットで繕ってあげた。それで惚れられたみたい。猛烈にアプローチされて、で、酔った勢いでそういうことになって、なんとなく恋人同士になった。

 だけど、今はあたしの方が愛してる。とてもとても。すごい好き。彼のことが。

 何度も何度も彼とあい、愛を重ねた。愛はどんどん膨らんだ。水を吸った花のように。

 なのに。

 この頃彼は冷たい。会いたい、あいたいあいたいあいたいよ。電話やメールで、どれだけ連絡しても返事がない。やっと返事が来たと思ったら、「勘弁してくれ」って。「重いよ」って(たぶん、体重のことじゃないと思う)。「なんだかお前、こわいよ」って。

 しょーげき。どゆこと? もうあたしと会いたくないって、別れたいってこと? いやいやまさか。だって、彼からあたしのこと好きだって言ったのに。

 うそうそうそ。ホントは女ができたんでしょ。いや、うそ、そんなはずない。彼だってあたしのこと好きだもん。なにかきっと理由があるんだよ。大きな借金をしたとか。それであたしに迷惑かけらんないとか。大きな病気がわかったとか。それであたしを哀しませずにさよならするつもりだとか。きっとそう。でも、そんなこと気にしなくていいのに。何があってもあたしは彼のことを愛しているんだから。

 とにかく会わなきゃ。

 そう思って、夜遅かったけど、彼の住むワンルームマンションまで駆けた。

 インターホンを押しても彼は出ない。押しても。おしてもおしても。彼は出ない。ドアノブに手を掛ける。ガチャガチャガチャ。鍵がかかっていてびくとも開かない。ああ、こんなことならば合鍵でも作っておけばよかった。ドンドンドン。ドアを叩く。出ない。なんで? 彼はいるはずなのに。

「ねえ、あたしだよ! ボタンだよ!」

 ドンドンドン。

「ねえ、開けてよ! ねえ!」

 ドンドンドン。彼は出ない。

「ねえ! いるんでしょ! 大丈夫だよ! 開けてよ! あたし、何があっても大丈夫だから! ずっとあなたのそばにいるから! だからお願い! 開けてよ!」

 ドンドンドン!

「やめろ! 帰ってくれ!」

 ドアの内側から彼の声が聞こえた。悲痛な声。ああ、きっと彼もあたしに会いたいのだ。なのに何か事情があって我慢して。あたしは奮い立つ。

「ほら、いるんじゃない! 開けてよ! お願い! あたし大丈夫だから! どんなあなたでも受け入れるから!」

 ドンドンドン! ドンドンドン! なのに、それっきり彼はぴくりとも反応しない。

「ねえ! ねえ! ねえ! 早く! 開けてよ! ずっと一緒だって言ったでしょ!」

 ドンドンドンドンドンドンドン! 隣のドアが少し開いたけれど、隣人はあたしと目が合うなりすぐにドアを閉めてしまった。

「ねえ! ねえ! ねえ! 早く! 早く! 開けてよ! ねえ!」

 ドンドンドンドンドンドンドンドンドン!

 叩き続けたけれど、ドアは固く閉ざされたままだ。それはまるで彼の心のようで。もうどれ程叩き続けただろうか。声も枯れ、手も痺れ、あたしはその場にしゃがみ込む。叩き続けたこぶしには血が滲んでいる。大きく分厚いドア。あたしが叩き続けた後には赤い血の跡が重なり、まるで牡丹の花が咲いたようだ。うつくしくかなしい牡丹の花。

 あたしは脱力してドアに凭れかかるように座り込む。もうぴくりとも動く気力がない。彼はすぐそこにいるのに。このドア一枚隔てて。まるで大きな壁のようだ。今あたしにできることは、ただここにいることだけ。

 そっと目を閉じて彼との思い出を辿ると涙が溢れてきたけれど、もう泣き声を上げる力さえ残っていない。会いたい、ただ会いたい。だって愛しているのだもの。

 どれくらいの時間が経ったのだろう。ぼんやりと空が白み始めてきた。泣き腫らして真っ赤に充血したあたしの目とは対照的に。

 その時。ことりと音がした。ドアの内側で。彼だ。あたしはそっと耳を澄ます。彼だ。そろそろと忍ぶような足音が聞こえる。足音はドアの前でしばし立ち止まり。――そして、ためらうようにそっとドアが開いた。

 内開きのドアが開くとともに、凭れかかって座っていたあたしは、ころんと彼の足元に転がった。ずいぶん久しぶりに見る彼の姿に、あたしは狂喜の笑みを浮かべる。あたしの姿を目にした彼も驚きの表情を浮かべ、そして、彼は光るものをあたしに向けた。

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