バリカン

新星エビマヨネーズ

バリカン

 近所の電気屋で安いバリカンをひとつ買ってきた。

 F氏は無精な性格で、毎朝髪を整えるために時間が取られるのを鬱陶うっとうしく思っていた。

 ワンルームの隅にあった大きな鏡を壁の真ん中に立てかけると、胡座あぐらをかくなり躊躇ちゅうちょなくそれを自分の頭に押し当てた。

 鏡ひとつで自分自身の髪をすべて刈り落とすのには一時間以上かかったが、次からはもっと楽に済むだろう。使い終わったバリカンは説明書に書かれた通りに手入れをした。付属の小さなブラシで髪の毛を払い落とし、目薬のような容器に入った潤滑油を数滴、刃の上から垂らしておいた。


 次の日、F氏は社内の注目の的だった。変わったのは髪型だけではない。入社当初からかけていた眼鏡をコンタクトにしたのだ。鏡に映る坊主頭には、眼鏡がどうにも不釣り合いに思えた。あまりの変化に初めは周りも戸惑ったが、さっぱりした印象はおよそ好意的に受け入れられたようだった。

 午後になり、慣れないコンタクトに目をしばたたかせていると、同僚のY氏が教えてくれた。

「コンタクトにしたのなら、こういうものを持ち歩くといい」

 Y氏は自身の使っている点眼剤とやらを勧めてくれた。

 F氏は礼を言い、早速教えられた通りのものを買って帰った。コンタクトの上からしてみると、ゴロゴロしていた異物感があっさり消えた。


 翌朝、F氏はゆっくりと寝床から這い出した。相変わらずの無精で、寝癖の始末に追われた時間はそのまま惰眠だみんに費やされただけのことだった。大きな鏡がまだ部屋の真ん中に出しっ放しになっている。F氏は洗面所へ立つのも億劫おっくうとばかりにその前に座り込んだ。

 慣れぬ手つきでコンタクトを入れ、何度か強くまばたきすると、ふと昨日Y氏から教えられた点眼剤のことを思い出した。昨夜使ったきり、まだそこらに転がっているはずだ。

 F氏は鏡を向いたまま視界の端の点眼剤に手を伸ばし、そのまま右目に一滴、二滴と垂らしてみたが……どういうわけか、全く挿した感覚がない。手元がれて上手く入らなかったのか。再び上を向いて二滴、三滴とやってみたが同じである。昨日はすっと瞳全体に染み入る感じがあった。不思議に思いながらも、F氏はさらにポタポタと落とし続けた。落としても落としても瞳に馴染む感触がない。……それにしても、昨日買った点眼剤はこんな形だっただろうか?

 F氏は手元に握っていたものを凝視して血の気が引いた。

 転がるように洗面所へ駆け込み、大量の水道水で右目を洗い流した。手に顔に、ヌルヌルとした気色の悪い感触がまとわりつく。思わず洗剤を手に取ったが、まさかそれで目を洗うわけにはいかない。

 F氏が自分の目に挿し続けていたのは、点眼剤などではない。バリカンの潤滑油だった。


 幸い、その後F氏の右目には痛みも異常も出なかった。瞳を覆っている水分が、油をすべて跳ね返してくれたのだろうか。それにしても、自分で自分の瞳に油を挿し続けていたとは、いま考えてもぞっとする。


 あの日以来、F氏のまぶたの動きは、右側だけが心なしか滑らかである。

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バリカン 新星エビマヨネーズ @shinsei_ebimayo

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