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クニシマ

◆◇◆

 足を引きずって歩くとよけい暑いよ、と、子供のころ母から言われたことをふいに思い出す。おそらく、根拠があって言ったわけではない。ただでさえ暑さで苛立つ中、僕がスニーカーの底を地面に擦りつける音が耳障りで、とにかくやめさせたかったのだろう。大学の四年生になった今でも、夏になると必要以上に足を上げて不恰好に歩いてしまう。母に不満があるわけではないけれど、この癖が僕の生活を豊かにしたかといえば、決してそんなことはないように思う。

 夏休みもそろそろ終盤に差しかかってきたこの時期、日の落ちる時間帯には時折涼しい風が吹くこともあるものの、やはり残暑は厳しい。できることなら外へ出ずに過ごしたいところだが、休み明けに行われる卒業論文中間発表の準備がまるで進んでいないため、そんなわけにもいかない。昼間に出かけるよりはいくらかましなはずだと考え、夕方になってから近所の図書館を訪れたはいいけれど、貸出上限まで借り込んだ本を抱えて図書館から自宅へ帰る十五分の道のりは想定していたよりも苛酷だ。滲み出す汗で服が皮膚に貼りつく不快感に耐えながらどうにかアパートの前まで戻ってきても、しばらく見ていなかった郵便受けに溜まっている大量のチラシやら何やらを回収したあと、さらにそこから三階の自室まで錆びかけの外階段を上らなければ辿りつけない。これが運動不足の体にはずいぶんこたえる。

 息を切らしながら二階半ほどまで上ったところで、ふと、手にしていた郵便物の中にやたらと分厚い封筒があることに気がついた。まるで心当たりがなく、不審に思って宛名を確かめると、記されていた住所は僕の部屋のふたつ隣、米澤よねざわという人のものだった。この暑さで配達員も朦朧としているのだろう。下の郵便受けまで戻って投函しなおすのも億劫だ。仕方がないので直接届けに行く。

 インターホンを押すと、ややあって低い声の応答が返ってきた。用件を伝えて待つ。少しして玄関扉が開いたが、出てきた人物の姿は異様だった。大ぶりの寸胴鍋を虚無僧の笠のようにして頭部にかぶった痩せぎすの男。僕がとまどっていると、くぐもった声で「すみません。苦手なもので」とだけ言う。なんだか不安になった僕は、さっさとここを立ち去ろうと思い、早口に「あの米澤さん宛の手紙がうちの郵便受けに」と封筒を差し出した。

「ああ、ああ米澤は家主なんです、アタシは留守を預かってるだけで」

 そう言われてもこちらとしては知ったことではない。苦手なもので、という言葉の意味がわかる気がする。じゃあお名前は、と訊いてみたが、「米澤で結構です」と返ってきた。しかし一向に封筒を受け取ろうとしない。あの、と言いかけて、寸胴鍋に視界を塞がれて前方が見えていないのだと気がついた。見えそうな位置に差し出してみると、彼は片手でわずかに鍋をずらしてようやく封筒を視認したらしく、焦ったように「あっ、これ。はい。これですね」などと言って受け取る。これでとりあえずは用を済ませることができたので、短く挨拶をして背を向けようとしたが、あの、と妙に大きな声で呼び止められてしまった。

「あの、あのね、あのですね、あのお好きなんですか、ラルフ・ホリングス。」

 なんの話だろうかと一瞬考えを巡らせて、すぐ合点がいく。図書館で借りてきた本のことだ。先ほど封筒を渡したときに僕の手元が見えたのだろう。

「ああ、いや、まあ、卒論のためにちょっと」

「あっ学生さんでいらっしゃる。それじゃあ専攻は英文学ですか。卒論、ホリングスでお書きになるんですか」

「まあ、はい、そんなところですね」

 まだ具体的にはあんまり決まってないんですが、と濁しつつ答えると、彼は「それならですね」と専門的なことをいくらか喋ってくれた。それがかなり参考になる内容であったため、話が一段落したところで「米澤さん、お詳しいんですね」と言ってみたが、反応がない。あの米澤さん、ともう一度呼びかけると、しばし空白があってから「あっ、すいませんすいません、はい。なんでしょうか」と慌てるのだった。米澤で結構と自分で言ったくせに、となんとなく面白く思う。しかしここまで反応が悪いなら呼ぶには不便である。

「あの、やっぱりお名前は」

「いえ、いえ米澤で構いませんから」

 変に頑なだ。では下のお名前はと尋ねる。

「ああ、ええっと、はい。といいます」そう言いながら彼は空中に指で字を書く仕草をした。「植物の桐に、呼ぶと書きます」

 桐呼さん、と復唱してみると、はい、と返ってくる。それから僕は卒論についてまた助言をもらいに来てもいいかと訊いた。快諾してくれた。自分が詳しいことについて話すのは好きなようだった。

 翌日から僕は桐呼さんの元を訪ねるようになった。桐呼さんはいつも寸胴鍋をかぶって僕を出迎えるのだった。これまでの停滞が嘘のように卒論の作成は進んだ。数日そうして過ごす中でたまに雑談もするようになったけれど、桐呼さんについて知ったのは、部屋の主である米澤さんという人は出張で一ヶ月ほど留守にしているということと、寸胴鍋はアパートの横のゴミ捨て場で拾ったものだということくらいだった。桐呼さんはそのゴミ捨て場をたいそう気に入っているらしかった。このアパートの住人だけでなく周辺の住宅の居住者も利用する大きめのゴミ捨て場であるためか、たまに覗くと面白いものが捨てられているのだそうだ。

 あるとき、すっかり外も暗くなってから、ふたりで一緒にゴミ捨て場を見に行ってみようということになった。玄関で靴を履く。僕が使い古しのスニーカーを突っかける横で、桐呼さんが据えつけの靴箱から取り出したのは子供が履くようなデザインのサンダルだった。なんと歩くと光るのだという。なんでこんなものを、と訊くと、彼は「米澤さんがくれたんです」と言った。

「私、恥ずかしながらちょっとよく転ぶんで、危ないんで夜に外に出るときはこれを履くようにと」

 靴の底面に配置されたセンサーの都合上、足を引きずって歩いてしまうとあまり光らず、てきぱきと足を上げて歩くことでよく光るらしい。僕たちは行進する軍隊のようにして外廊下を進み、階段を下りた。

 薄暗い街灯がほのかに照らし出すゴミ捨て場には、驚くべきものが捨ててあった。高級そうなガラス箱に入った大きな市松人形だ。ぎょっとする僕を差し置いて、桐呼さんは興味津々の様子をみせる。

「かなり状態がこれ、いいですね。つくりも上等です。どうして捨てるんでしょうかね」

 いらないからでしょう、という僕の言葉はどうやら耳に入っていないようだ。部屋に持って帰りたがっているのがよくわかる。欲しければ拾ったらいいじゃないですか、と僕は言ってみたが、「いや米澤さんが怒るかもしれません」とだいぶ葛藤している。そりゃそうでしょうね、と応えながら、この人は米澤さんに対してだけはずいぶん気を遣うんだなと思った。

 悩んだ末、桐呼さんは結局それを拾わなかった。そして僕たちはおやすみなさいと言い合ってお互いの部屋へ戻った。

 寝床にもぐり込んだのは日付が変わったころだっただろうか。奇妙な夢を見た。アパート三階の外廊下、肩ほどの高さの手すりとその向こうに広がる町を背にして、桐呼さんが立っている。いつもの通り寸胴鍋をかぶっている。彼の寄りかかる手すりの錆がやたらと目につく。その気になればすぐよじ登れるだろうし、老朽化した手すりだ、その気にならなくてもふとした拍子に崩落する可能性は大いにある。僕は彼に注意を促そうと声をかける。

「そこ、崩れますよ。危ないですよ。落ちますよ」

「アハハ……米澤さん、怒らないでくださいよ。」

 米澤さん、と、彼は当たり前のような調子で僕をそう呼んだ。どうしてだか寂しいように思った。それから彼の体はそのままゆっくりと後ろへ倒れていき、僕の視界から消えた。あとには静まり返った廊下があるばかりだった。遠く、金属が地面で跳ねるがらんがらんという音が聞こえて、ああ鍋が外れたのだと僕は直感した。この壊れた手すりから少しでも身を乗り出して下を見れば、桐呼さんの顔を知ることができる。僕はおそるおそる一歩踏み出して、そこではっと目が覚めた。

 時刻はとっくに日没を越している。寝すぎたせいか頭が痛んだ。僕は適当に支度をして桐呼さんのところへ行った。桐呼さんはまだ市松人形のことを考えていた。もう回収されてるんじゃないですか、と僕は言ったけれど、どうしても未練を断ち切れないらしい。

「もう一度、見に行くだけ行ってみませんか、なければ諦めますんで」

 懇願に負け、僕は桐呼さんに連れられて再びゴミ捨て場へと行進した。果たして、市松人形はまだそこにあった。桐呼さんは嬉々としてそれを抱え上げる。足元の光が見えなくなったためか、おぼつかない足取りがどうにも危なっかしい。僕が持ちましょう、と半ば強引にその手からガラス箱を受け取った。

 慎重に階段を上り、桐呼さんの部屋まで運び込む。玄関扉を閉めかけたとき、アパートの駐車場に入ってくる自動車のエンジン音がかすかに聞こえた。その途端、桐呼さんは大慌ての様子で部屋を飛び出していった。突然のことに当惑しつつ、僕はとりあえず人形を玄関のたたきにそっと置いて廊下を振り向いた。桐呼さんの姿はなくなっていた。

 階段を駆け下りたのか、と咄嗟に思ったのは、夢に見た光景を忘れていたからか、それとも覚えていたからか、どちらだったのだろう。いずれにせよ僕は、桐呼さんは急いで階段を下りていっただけなのだと信じたかった。だからすぐそこで折れている手すりも一旦見ないふりをしようと思った。見ないふりをして、階段を下りたはずの桐呼さんを追おうと歩き出したけれど、なんだか足がふらついて進まない。そのときだった。

「ちょっと、ちょっと何、何してるんですか桐呼さん。」

 階下から焦ったような大声が響いてきた。それに背を押されたような心地がして、僕は声のしたほうを覗いた。植え込みに埋もれた桐呼さんを、くたびれたスーツを纏った会社員風の男が助け起こしている。ああ、あれが米澤さんだ、とすぐにわかった。大丈夫ですよ大丈夫ですって、という桐呼さんの声も聞こえた。笑っているような声音で、どうやら特別けがもないようだ。スーツの男が「こんなもの、かぶるから」と言って桐呼さんの頭の寸胴鍋に手を伸ばす。僕はなぜか目を逸らしていた。逸らした先に、桐呼さんのサンダルが片方落ちているのが見えた。僕はそれを拾って自分の部屋に戻った。どうして廊下に置いたままにしておかなかったのだろうか。自分の元に持っていれば、桐呼さんが取りに訪ねてきてくれると思ったのだろうか。よくわからない。

 それからしばらくの間、なんとなく部屋から出ずに過ごした。米澤さんが帰ってきているのに桐呼さんのところへ押しかけていくのは憚られる気がしたのだった。

 数日後の夕方、図書館で借りた本の返却期限が迫ってきたので、返しに行こうと外へ出た。米澤さんの部屋の前を通り過ぎようとして、表札がなくなっていることに気がついた。その部屋は僕の知らない間に空室となっていた。

 僕はその場に荷物を置いて、ゴミ捨て場へ走った。いくつかのゴミ袋の傍に、へこんだ寸胴鍋があった。もし、よそで桐呼さんに会うようなことがあっても、僕は気づけないのだろう。顔はもちろんわからないし、声すらも、鍋をかぶってくぐもったものしか知らないから。

 僕は俯いた。鍋の横に置かれたひときわ大きな半透明のゴミ袋、その中に、あのサンダルの片方が入っているのが見えた。僕はゴミ袋を開け、それを取り出して部屋に戻った。両方揃ったサンダルを履き、廊下へ出て荷物を拾い上げる。そうして一歩一歩しっかりと地面を踏みしめ、図書館に向かって歩き出した。夕日はそろそろすっかり沈もうとしていて、薄暗い町の中で僕の足元ばかりが光っていた。とても、とてもよく光っていた。

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