三
「機転の利く女房が少なくなったものだ」
貴族たちからしばしば漏れるそんな声は、嫌でも耳に入ってくる。以前は――
帝に
亡き皇后に会ったことはないけれども、女でありながら漢籍に通じ、女房たちをよく導き、年下の帝を支えるこの上なく優れた后であったらしい。皇后が身罷って10年も経とうという今でさえ、誰もがその時代を懐かしんでいる。
「口さがない連中の評判などお気になさいますな。いかに皇后様を懐かしんだところで、皇后様が生き返るわけでもございません。中宮様は中宮様のやり方で、勤めを果たされませ」
私が亡き皇后のようになるにはどうすればよいのか、相談すると初老の女房はそう答えた。
「もとより、人の語る皇后様の有様なるものも、要するに清少納言が作り上げた虚像に過ぎませぬ。皇后様とて人間である以上、光輝く一面があれば、影の面もあったことでございましょう」
女房は苦々しげに、吐き捨てるように言う。
皇后定子に仕えた女房が、『枕草子』と称する日記とも物語ともつかぬ草子に、皇后の生きていた時代の清涼殿の華やかな様子を生き生きと描いている。『枕草子』を読んでいると、まるで当時の宮中はこの世の浄土だったのではないかとさえ思う。しかし、そう、冷静に考えれば、あれがあの時代の真実の全てであったはずはないのかもしれない。
皇后の光の部分だけを殊更に見せつけてくる『枕草子』を、この女房は酷く嫌っている。学者として名高い、
「それでも、私は皇后様が羨ましく思ってしまうときがあるのですよ。私もあんな風に、煌びやかな世界の似合う后でありたかった、と。おかしいかしら?」
そんなことを望んでも仕方のないことだとはわかっていても、仮に清少納言が皇后定子ではなく私に仕えていたとしたら、『枕草子』は書かれなかったか、書かれていたとしてもつまらないものになっていたに違いないと思うと、やるせない思いも浮かんでくる。
「物語の主人公になるような生き方ほど、不幸なものはございますまい」
「そうなのでしょうか?」
私にはよくわからない。少なくとも、帝の心には今でも皇后がいて、中宮たる自分の入り込む余地がどこにあるのか今もってよくわからない。その一点だけでも、私が皇后に引け目を覚えるには十分過ぎる。父左大臣にも申し訳が立たない。
「…いずれ、お聞かせ申し上げましょう。光の源であることが、いかに苦しく、孤独なものなのか」
「…そう? 楽しみにしていますね」
私がそう答えると、女房は深々と頭を下げた。
光源の人 垣内玲 @r_kakiuchi_0921
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