掌握の幻

楠 夏目

大男


少年は歩いた、平坦な地面の上を。

驚き騒めくヒトの顔も、耳を掠める疑問符も無視して、前だけを見つめ歩き続けた。地面を踏みしめるだけで、僅かな振動が身体に伝わる。それはいずれ少年の脳にまで影響を及ぼし、彼の頭を酷く揺らす。

限界が来ていた──ボロボロだった。

土や泥を浴び、醜く汚れた己の身体。これが、しかも裸足状態だというのだから、周囲に疑問符を投げられるのも無理は無かった。

「げほっ……ゔ、」

突如。激しい目眩に襲われ、少年は地面に倒れ込んだ。長い間、食にありつけなかったからか、嘔吐したとて出てくるのは胃液のみ。少年は嗚咽おえつしながらも、地の土を握り締め、必死に抵抗を続けた。

──ここで死ぬ訳には行かない

少年の脳を埋めるのは、身体異常に対する困惑でも、無力な己への怒りでもなかった。

"まだこの世にしがみついていたい"という純粋な願望。それだけが、少年の瞳を濁らせる。

知らぬ大人に縋ったとて、最期さいごは目に見えていた。何故なら、今少年がこのような"有り様"になっているのかは、大人の疑問符に応答し、身を預けたが故の過ちだったから。もう誰も信用しまい、と。そう心に刻み、やっとの思いで抜け出してきたが、どうやら疲労しきった己の身体は、奇しくも、もうぴくりとも動かないらしい。

呼吸が不安定になり、謎の気持ち悪さだけが身体を蠢く。土を握り続けていた掌は、徐々に力無く開いていった。爪の中に入り込んだいくつもの砂が、数ミリ先の地面に落ちる。悔しいという感情よりも"楽になれる"と僅かに緩む頬が、あの世へいざ行かんと拍車をかける。先までの純粋な願望は、いつの間にか消え失せていた。この日──太陽が地を照らす、暖かな日の下で。


少年は、確かに目を閉じた。


* * *


味噌の独特な刺激臭が、空虚な己の鼻を刺激する。つんと香る濃厚な匂いと、隙間風の通った、日の当たらない涼しい屋内おくない。少年は薄らと目を開けると、己を嘲るが如く、無造作に髪を掻き上げる。

「ふっ、どうやら私は……遂にあの世へ来てしまったらしい。歓迎の地が古びた家で、しかも布団の上とはな」

少年は意味もなく天井に向けて腕を伸ばすと、なんの感触もない透明な空気を、無言で掴み続けていた。体全体に力が入らない。それでも、乾いた笑みだけは無意識に零れる。

ザーザーと、冷ややかな水音が聞こえた。視線だけを横に向けると、視覚が何かを捉えるより先に──ダシと味噌とが混ざったような、不思議な匂いに身を惹き付けられ、少年は我知らず目を見開いた。鼻から肺へと流れる空気には、泥や砂利、腐った匂いなどは一切感じられない。温かで、それでいて懐かしくなるようなその匂い。嗅いでいるうちに、少年の意識は鮮明になっていく。

それでも「腹が減ったと思えない」のは矢張りここが"あの世"であるから、なのだろう。

「目が覚めたか」

嗅覚のみを働かせ、それ以外を疎かにしていた少年の耳に、突如届いた男の声。ハスキーで何処か大人びたような、確として鼓膜を揺らすその声色に、少年は一瞬"歳相応の驚いた顔"をして見せたが、警戒心が後を追って来たのか、すぐさま表情を先の無状態に戻す。

「道で眠りこけるなんて不用心だ。この街は物騒なヤツらばかりだからな。身ぐるみを剥がされてから目を覚ましたとて遅い」

台所から顔を出し、男はニッと白い歯を見せて笑う。黒髭を生やした、大男。少年の身長をも悠々と凌駕する高めの背丈に、引き締まった身体。

少年はその男を見てすぐ、「自分を騙した"悪いオトナ"が再び舞い戻って来たのだ」と思い込み、小さく身震いをしたていたが──嫌な追憶とはいえ、過去に自分を邪険に扱った"ヒトの顔"を覚えてない訳も無い。初めこそ、睨むように男を見ていたが……暫くして、矢張りソレが"見覚えのない"人間だと解った。

少年は束の間安堵し溜息を落とした。

「……私は寝てなどいない。お前は誰だ、なぜ私はこんな所にいる」

体格が己より優れているとは言え"子供だから"と舐められてはいけない。少年は静かに身体を起こすと、鋭い目付きのまま布団の端を握り締める。

「ふん。先刻の状況すら思い出せぬクセに、何故なにゆえ『自分は寝ていない』などと、言い訳がましい事が言える。まあ、安心するがいい。お前のようなひょろい奴に、見返りなど求めておらぬ」

分かったら大人しくしていろ。

男はそう言って得意げに微笑むと、再び台所へ姿を消した。


無音の空間。重たい身体。

"他人を信用しては行けない"と──頭の中では分かっていても、身体が思うように動かない。だが、少年の心は、自然と焦燥には駆られ無かった。

どうせ『あの世』に来たのだ、たとえ他人が居ようが居まいが、己には"もう"関係のないこと。

(折角の機会だ……暫し休むとしよう)

少年は溜息混じりに、再度、布団へ仰向け状態になると、静かに天を仰ぎ見ていた。


* * *


「ほら、食べ物だ。まずはその痩せこけた身体に、たらふく養分を送れ。話はそれからだ」

熱いから気をつけろよ。

そう言って男が差し出したのは、木色に彩られた両手サイズのお椀。ずっしりとした重みを感じると同時に中のモノが僅かに揺れる。

「……味噌汁?」

「ああそうだ。なんだ?まさか、俺の味噌汁が食えぬと言うか」

「いや……違う、驚いただけだ」

少年は淡々と言葉を返すと、男から差し出された味噌汁を躊躇うことなく喉に流し込む。

ところで「あの世でもこの世も皆"食する物"は同じなのだな」などと述べば、男はどんな反応を示すだろう。そんな事柄を頭の隅で考えては、少年は首を左右に振る。

言葉を交わすより先に、今は兎に角、腹を満たしたい。

舌を刺激する味噌の味と、鼻を掠めるいい香り。食道を通って胃に入るまでの、その僅かな間でさえ、少年に幸せを感じさせる。

「いい食いっぷりだ。おかわりは?」

「……もらう」

「ふん。食い物一つで随分素直になったものだ。そんなに腹が空いていたのか」

男はどっと低い声で笑い出すと、空になったお椀を受け取り、再び陽気に味噌汁を装う。少年は何も言い返さなかった。

何故ならそれが『事実』だったから。


それから少年が、鍋の味噌汁を全て完食しきるまで──そう時間はかからなかった。


* * *


「驚いた……まさか一人で全て食らってしまうとは。見ろ、俺の分が無くなった」

男は呆気に取られながらも、空になった鍋を持ち上げ──少年と鍋を交互に見ながら、至極驚いたように笑う。

きっと懐の深い人間なのだろう。怒り一つも見せない、その快活且つ穏やかな声色に、少年は内心でホッと息をつく。

「私が食べ追える毎に"おかわり"を聞いたのは貴方だ。それに、私はまだ食い足りぬ」

鍋一つ分を悠々と平らげたのにも関わらず、少年の胃はスカスカだった。それでも多大な満足感を得られているのは、男の優しさに触れたが故の精神的喜びなのだろう。

「世話になった、この恩は忘れぬ」

少年はその場から立ち上がると、颯爽と男に背を向けた。

その後姿は、矢張り痩せこけている。

「生前は食べ物を盗み、殴られ、騙され。事ある毎に嗚咽おえつする人生だった。無論、金も権力も無かったとは言え、己の生き方を"良かった"などとは、口が裂けても言うつもりは無い──さて。あの世はあの世でも……ここは『天国』なのだろう? 貴方のような善人がいる場所だ、そうに決まっている」

少年は男を見ることなく、淡々と言葉を吐き続けていた。

「私の居るべき場所は"地獄"のみだ。之は世の番人による同情か。はたまた、ただの間違いか。何はともあれ、私は、生死の狭間で生き抜くべく、他を利用し蹴落としてきた。そんな悪人はココには居れぬ」

少年は至って冷静だった──己の指先が、微かに震えている事以外は。

「かつて私は、生きる為に子供を泣かせた。まだ会話も儘ならぬ赤子だ。周囲が目を離した隙に、食べ物を奪ったのだ。後に聞こえた鳴き声、事態に気付いた大人の怒声どせい。それをも無視して私は走った。そんな生活を、日々刻々と繰り返して来たのだ」

自分の意志で、煩わしい過去を口にした。

平然を装い並べた言葉は、その一言一言が黒い影と成り、少年の背筋を悶々と撫で去る。永遠に消えないその闇と、背徳感や後ろめたさとが混沌し、己の心を交互に蠢く。

それから少年は、愚かな自分に嫌気がさしたように、己を嘲笑しながら歩を進めた。その先にあるのは、古びた家の大きな扉。

少年はそれ以降、何も言わなかった。名残惜しさを切り捨てるよう、振り返りもせず戸に手をかける。そして内心で、自身に毒づく。


まだこの"天国"に居たいと思ってしまうだなんて──己は至極醜いヤツだ、と。


「ふん。違うな」

しかし。少年の背筋を撫でていた背徳感は、突如聞こえた男の"否定"を聞くや否や、跡形もなく消え失せてしまった。ソレが何に対する言葉なのか。まるで己の心を読み切ったようなその清々しさが、少年の心を再度揺らす。

「お前が自分を"悪"と認識するのは勝手だが、コレだけは言っておこう──ここは『天国でも地獄でもない』ただの現代よ。そして今、お前がココから出たとて……地獄にも劣らぬ以前の孤独が、ただ呆然と待ち構えているだけだろう。

お前は先程、"生前と称した今"の生き方を悔いていたな。ココを出てまた"当ての無い道"をいざ進まんとするのは構わぬが──俺はお前の後悔を、満足に変える事が出来る」

気迫に満ちた男の言葉。

だが他人を信じない少年にとって、その全ては"根拠の無い綺麗事"にしか映らなかった。

「……私は一度、地の上で目を閉じたはずだ」

「嗚呼、しかしお前は死んでなどいない。何故なら俺が運んで来たから」

嘘か誠か。少年は我知らず目を見開くと、疑うように男を睨む。

「天国では、嘘をついても許されるのか?」

「ふん。もしこのタチの悪い話を"天国のヒト"が述べたらば、それこそ其処そこは『現代か地獄か』だ。

だが地獄での待遇はこんなモノではないだろう。故に、お前の疑問符はNO──これが現代であることを助長する」

「……そうか」

少年は暫し立ち尽くしていた。

男の言葉は恐らく正しい。矢張り、ここは紛れもない"現代"なのだろう。

解釈を終え、少年は一度身を翻す。そして真剣な眼差しで男と向き合い、光ある瞳で上を見上げた。

「貴方は、本当に私を救えるのか。この価値のない、醜い私を──」

少年は指先に力を込めると、緊張を悟られぬよう、必死に唇を噛み締めていた。

男に劣る身長や体格……もし男の年齢が二十代後半と言うならば、少年は恐らく十代半ば。幾ら世に抗おうとも、明白に変わらぬ歳の差は、少年の心をじわりと焦らせる。

何故なら、少年は──"オトナ"という存在にに多大な恐怖を抱いていたから。

ココをあの世と思い込んでいたが故、少年はこれまで、後先など考えもしていなかった。

目を覚まして直ぐ、全てを受け入れるように思考を放棄し、欲望のままに腹を満たし、それから男に背を向けた。しかし"事の成り行き"を知った今、それらに報復が来たらばと、少年は半ば不安になっていたのだ。

しかも男は己を救わんと訝しげな話まで始め……これを善人と呼ばずして何と呼ぶのか。むしろ少年は、その優しさが怖かったのだ。

「嗚呼。断言しよう、救えると」

端的に述べられたその言葉。一抹の不安をも掻き消すような、自信に満ちた明るい声色。

瞬間。少年のなかに張っていた糸が、ぷつんと音を立てながら、何処かへ消え失せてしまった。

そう。少年は、過去の戒めから目を背ける事にしたのだ。他人から逃げ、己の欲だけに貪欲どんよくだった以前とは違う──ただ純粋に、もう一度"ヒト"を信じてみたいと、そう思ったから。


* * *


「私は何をすればいい?」

少年は男の目前もくぜんに座り直すと、改めて男をじっと見つめる。

「対価までとは言えぬが、少しでも貴方の役に立ちたい」

この言葉に隠された意味は二つ。

一つは、名も知らぬ少年を快く受け入れた、男に対する"感謝"の気持ち。

二つは、男に擦り寄る事で、気が変わってしまうのを防ぐため。

己の命を守る為にも、出来る限りの事は従いたい。それは、日々死と隣り合わせの生活を送って来た少年の、せめてもの気持ちであり、賢い選択だった。

「ふん。つい先程まで飢餓きが状態だったお前が、突然何をしようと言うのか。心配しなくとも、俺の気は変わらぬ。

それより──まだ万全な状態でもないだろうに、お前は自身を過信し過ぎだ」

学も無ければ、力も無い。

しかしそれは、少年本人にも分かりきった事柄だった。少年は"綺麗事を並べるヤツ"を酷く嫌う性分だったが……今『出来ないこと』に見栄を張り、男に取り入ろうとする少年の行動は、矢張り、己が嫌う周囲のヒトと、別段大差が無いように思える。

「では、逆に問おうか。お前はその身体で"何"が出来る?」

そう疑問符を投げた男の言葉は、遠回しに見えて、少年の核を貫いていた。

誰かに"縋る"ことで生きる生活は、一概に悪いとは言え無い。しかし『縋る為に己を過信し、出来もしない妄言を吐く』のは、"長続きしない"生き方だった。

「……貴方の言う通りだ。盗みのみをして生きてきた私に、胸を張って出来ることは無い。でも、皆が貴方のような"善人"であるはずもない。だからこそ、同情でも策士でも"食わせてくれる"と言うなら、己を過信してでも使える人間と思わせたい。たとえ、長続きしなくとも」

少年の身体についた痣が、言葉の意味を表していた。ただ一日を生きる為に、当ての無い街で藻掻く少年と、古びた家だが寝床はある男。傍から見れば、どちらも貧苦である事に変わりは無い。

しかし……両者を統べる差は大きかった。

「そうか。ならば、俺が今から"対価"を提示しよう。それを守ると言うのなら、気が済むまでここに居ていい」

「……分かった」

少年は座ったまま、静かに男を見つめる。場所を与えるだけでなく"気が済むまで"と条件を付ける程だ──さて。一体、どれ程恐ろしい"対価"を望まれるのだろう。

自然と肩に力が入っていた。強ばる身体は緊張に耐え切れず、遂には僅かに震えてしまう。それでも"瞳"は真剣だった。少年は覚悟を決めるように拳に強く力を込めると、男の声だけを求め、黙る。


「条件はただ一つ。仕事に励む事だ」


しかし。男から発せられた言葉は、意外にも淡白だった。少年は我知らず目を見開くと、あからさまに首を傾げた。

「何故そんな事を……?」

「ふん。こうすれば先の話通り、お前の後悔は何れ"満足"に変わるだろう。そして何より、俺は善行に励む人間を好む。だから、これが対価だ」

少年はこの日、全てを悟った。

この男は「ただ懐が深い"だけ"のヒト」では無かった、と。少年を見捨てぬ寛大な心と、説得力のある言葉の数々。

そう。男は、正しい"オトナ"だったのだ。


* * *


それから少年は、男との約束を守るべく、ただ只管に仕事に励んでいた。


ある時は料理の作り方を

ある時は洗濯の干し方を

ある時は買い物の仕方を


無論。それら全てを、怒ること無く一から教えてくれたのも、あの男だった。

一日の区切りさえ区別が付かず、炯々けいけいと辺りを見渡していた孤独な以前とは違い、今では過ぎ去る一日が、僅か一分の時間にも満たない、夢物語に感じられる。

少年はまさに、幸せの絶頂にいた。もはや、少年にとって仕事の殆どは、男に恩を返す為にあると言っても過言では無かった。

そして、意外にも物覚えが良かった少年は、その日に習った事柄を、その日のうちに難なくモノにし──更には、それを"男の為"に発揮し続けた。

食事、洗濯、掃除などの家事。

男が何かをしようとする度に、少年は其れを無理やり制し「己がする」と息巻いていた。対する男は、初めこそ困ったように笑っていたが、それが少年の"仕事"である事に気付いたのか、それ以降──少年が行動をする度に、お礼を述べるだけで留めるようになっていた。

二人の生活は、至極順調に流れて行った。


「私はたまに、貴方のことが怖くなる」

男の古びた家で生活し、一ヶ月が過ぎた頃。少年は布団に仰向けになると、闇に染った暗がりの中、隣の男に向かって、呟く。

「ココは良い場所だ。私が以前に彷徨っていた薄暗い街とは違う。視界に映る全てが、自然豊かで鮮やかに見える」

古びた部屋にぽつりと並ぶ、薄らだが大きな布団が二つ。少年は早々に言葉を述べると、急に込み上げてきた恥ずかしさを隠さんと、敢えて男に背を向け、黙る。

「ふん……俺には、あの街もこの街も対して変わらぬ古土地に見えるな。どちらも生活は依然として厳しい。だから、お前が"そう"感じるのは、恐らくお前の心が変化したからなのだろう。環境が、生活が、生き方が変わった──故に見方も変化した」

なるほど、と。男の言葉に、少年は心中しんちゅうで密かに頷く。

「見方が変わった……か。確かにそうかもしれぬ。だが、私にはここで幾ら時間を過ごそうとも、未だ変われぬ不安がある──それは、貴方だ。

私は、貴方の優しさが怖い。見返りも無ければ、欲もない、その底知れぬ優しさが」

外から聞こえる虫の音が、二人の会話の隙間を埋める。夜の光に照らされた空間は、自然と寂しくは感じなかった。少年は、男の返答を依然として背で待つばかりである。

そして、時計の針が、僅かな時間を奪い去った頃──まるで虫の音をも掻き消すよう、男は、酷く優しい声色で述べた。

「優しさの基準は人それぞれだ。俺とお前の年齢や身長が異なる様に"それ"は統一出来るものでは無い。お前と俺の生活環境、周囲の人間が違ったように、だ。つまりその思考は、俺の中の"普通"がお前の中の"善人"に見えただけであり、故に怖がる必要も無い」

「……ならば、貴方にとっての"悪"の基準は?」

少年は男の方へ向き直ると、淡い瞳でそう問うた。これまで、己の生活に精一杯だった少年は、無論「他者を知りたいと思ったこと」も無かった。しかし今、それが大きく変わろうとしている──歩み寄ることを知らなかった少年が、名も知らぬ男の影響を受けて。


「ふん、そうだな。俺の思う悪は……端的に述べば、"子供を痛ぶる悪いオトナ"よ。まだ権力も持てぬ子供に、己の強さを思い知らせ、好き勝手振舞う。それ故に子供も『自分より下の者』から何かを搾取しようとする。まるで負の連鎖だ。俺は、それが許せない」


確として、少年の心を掴んだ言葉。

男の言葉を聞いてすぐ──少年は、目の周りが熱くなっていくのを感じた。無理もない。何処をどれだけを探そうとも、決して巡り会えなかった"理解者"に、たった今、出会えたのだから。

それから少年は、一人小さく啜り泣いた。夜の暗がりに紛れるよう、己の弱さを悟られぬよう。そして尚、全身で喜びを感じていた。

男の言葉を思い返し、それを胸に刻み、また独りでに啜り泣く。喜びと感動が交互に現れるような、そんな忙しい少年を前に、肝心の男は、僅かに眉を下げて笑うと──聞こえぬ振りに徹していた。


* * *


「ほら、これを飲め」

部屋の灯りが、再び灯る。突如少年の前へ差し出されたのは、白湯の入った椀だった。

虫の音が段々と弱々しくなり、夜の闇が濃さを増す。人々が眠りにつくであろう先刻の時──無論、男も眠りにつこうとしている最中だった。しかし、少年の啜り泣く声が止んだと思えば、彼は見事に目を泣き腫らし……とても"眠れる状態"ではなくなってしまっていたのだ。

少年の顔を目にした瞬間、男は当然その場で吹き出し、夜にも関わらず大きく笑った。そして、それと引き換えに失った、自身の眠気を取り戻すべく、仕方なく起き上がる選択をしたのだ。

「……私の顔は、そんなに酷いか?」

「嗚呼、酷いとも。そんな化け物じみた顔を目の当たりにしたのは、今日が初めてよ」

それから二人は、一つの灯りを頼りに、再び会話に花を咲かせた。


「お前は、夢を見た事があるか?」


暫くして──先程"暗がりで行った会話"より、特別明るい質問が響いた。少年は空になった椀から口を離すと、首を傾げて男を見上げる。

「……無論、夢なら幾らでも見た事がある。以前は、土やくさむらの上でも、構わず寝るような生活をしていた。惨たらしい事に、どれも悪夢ばかりだったが」

何故そんな事を聞く?

言わずとも伝わる少年の疑問符。しかし男は空になった椀を受け取り、早々と片付けると、少年に寝床へ戻るよう促す。

「おい待て! 何故何も言わない?」

しかし少年は、決して寝床へと戻ろうとしなかった。眉を釣りあげて男の背を追い、疑問符と共に理由をせがむばかりである。

"初めて会った時"とは打って変わって、恐ろしく変わった少年の表情。必死に男を見上げる瞳は、矢張り歳相応の顔になっていた。男は思わず笑みを浮かべると、その場で声を上げて笑う。

「済まぬ。お前があまりにも面白いから、つい揶揄いたくなったのだ」

それから男は、頬を膨らませて怒る少年を宥めながら、闇夜を照らす灯りを消した。


「……で、先の質問の意図は何だ?」

再び布団に入った直後。少年は男の方へ身体を向けると、眉を顰めてそう問うた。すると男は、今度は隠しも黙りもせず、スラスラと言葉を述べていく。

「知っているか? 夢に見る内容には『己の欲望』をそのまま映す事がある。俺の推測で述べるのなら……"三つ"だ。ヒトは夢を見る際、最大三つまでの欲を叶えられる。そして三つの欲が『夢の中』で叶えば最後、ヒトは静かに目を覚ます」

「──その根拠は?」

「無論、全くない」

「…………」

少年は呆れたように溜息を零すと、身体を正面へ向き直す。期待した割に"造作もない話"だったと、僅かに落胆してしまったらしい。

しかし、男は止まらなかった。

「お前の欲望は何だ? 三つ、答えてみろ」

「……欲などありすぎて、とても三つでは治まらない。ああ、私が悪夢ばかり見てしまうのは、この欲深さのせいなのかもしれぬ」

少年はそう言って己を嘲ると、視線だけを男に向け、やり返すよう、男に問うた。

「貴方の欲望は?」


否、男は答えなかった。


いや、答えられなかったのだ。何故なら、少年の声が耳に入っていなかったから。

夜の闇に包まれた空間で……ふざけた男の寝息だけが刻々と時を刻んでいる。そんな穏やかな空間で、確として聞こえるのは──少年の大きな溜息のみだった。


* * *


翌朝。少年は、未だ腫れの収まらぬ両目を見開いて、今日も仕事に励まんとしていた。

「悪いが、俺は少し出掛けてくる。直ぐに帰ってくると思うが……呉々くれぐれも気を付けろよ」

「分かった。貴方も、十分に気を付けろ」

暖かな日の下で、洗濯物を干しながら、少年は淡々と男の言葉に頷き、手を振る。それから、緩やかに歩を進める男の後姿を、ただ無言で見つめていた。 黒髭を生やした、何処までも優しい大男。しかし、それ以外の情報は依然として不明なまま。

無論、男の生業について、良くも悪くも無知な少年は、未だ何一つ知らずにいた。今日のように、突然外へ出掛けたと思えば、またある時は一日中家に篭もり、書類を片手に少年と会話する……そんな生活が当たり前になり、それ以上の追求などは、互いに求めようともしなかった。事実、男から見れば、少年とて身元は不明。それでも己の心を信じ、向き合ってくれた男の姿勢を、少年は密かに尊敬している。

(ふん……今日は何を作ろうか)

ミラーリング現象。男の口癖が、無意識のうちにうつっていた。其れにも気付かぬ少年は、何処か清々しい表情のまま、青空の下で、手際よく仕事に勤しむ。


どぼん、と。


突如として少年の耳を貫いたのは、低く大きな"水音"だった。平穏で静かな街の中、一際目立つその異音。風になびく衣服を無視して、少年はすぐさま視線を動かす。

──目先にあるのは、濁った川のみ。

しかし、頭部を過ぎ去る一羽の鳥が、何故か少年の心を焦らせる。

気が付けば、手に汗が滲んでいた。日差しのせいか、心做しか頭もふらつく。やるべき生業があるにも関わらず、何故意識が『あの川』から離れられないのか。

(確認だ……確認だけしてみよう)

徒歩で凡そ二十メートル。それ程流れの早くない、下流程度の濁川にごりがわ。しかし、その深さは子供など容易く沈ませる。

少年は静かに歩を進めた。視界に映る辺りのオトナは、皆平然といつものように生業に励んでいる。無論、少年自身も半ば興味本位で身体を動かしているだけだった。

しかし──


ばしゃばしゃと、水を弾く音が聞こえた。


川の中から、不調なリズムで。

少年は走早に川沿いを目指すと、濁った川で必死に藻掻く、肌色の身体と目が合った。

溺れそうになっていたのだ、名も知らぬ少女が。必死に腕を上下させ、口に入る濁水だくすいを吐き出しながら、声を出さんと顎を上げている。

少年の指先は、何の躊躇いもなく川を指していた。前方姿勢で、少女の場所を目で追ったまま、少年は身一つで──川の中へと飛び込んだ。

過去の少年なら到底考えられない"善行"が働いた無意識の行動。肌に張り付く冷たい濁水を掻き分け、少年は必死に目的地を目指す。


泳いだのは、生まれて初めてだった。

地の上でボロボロになり、地の上で嗚咽する人生。それが今では川の中。男と出会い、目まぐるしく変わった少年の生活は、毎日が幸せに満ちていた。まるで不可能が無くなったような、無敵な気分になれたのだ。

(……泳げる! 届く!)

気分というのは恐ろしいもので──少年の身体は、初めて泳ぐヒトとは思えない程、華麗な動きで少女の元まで辿り着いた。そして少女の身体を抱えるや否や、少年は急いで川沿いを目指した。

「心配は要らぬ、必ず助かる」

気絶寸前の少女の耳元で、少年は優しくそう呟いた。赤子の食べ物を盗んでも、生きようと足掻いた過去とは違う──男との約束を守るより先に、誰かの為に行動が出来た。そんな精神的な成長が、少年の心を確として燃やす。

気が付けば川沿いに、大勢の人が集まっていた。無理もない、知らぬ少年が突然、身一つで川に飛び込んだのだ──"何事か"と見物しに来たのだろう。

少年は順調に川沿いへ着くと、地の上に立つ人々に向かって少女を託した。そして己は、自分の力で地へと上がる。


声が聞こえた。恐怖と安堵で包まれた、一人の少女のわめき声。その姿を一目見ようと、好奇心旺盛な人々が、少女の周りにわんさかと集まる。

その中に"彼女の母親"と思しきヒトが、泣きながらその身を抱き締めているのが見えた。互いに大声で泣き叫び、母が娘に愛情の言葉を掠れ声で述べている。


──少年はその光景を、空虚な瞳で見つめていた。


地に足を付けて立ち上がると、己の服に染み込んだ水を、少年は無言で絞り落とす。落下するや否や、黒いシミとなり地面に染み込む水の有様を、無表情で見つめていた。

そして無造作に、濡れた前髪を掻き上げる。

「……帰ろう」

その声色は、何処か泣きそうで、寂しそうだった。互いに涙する母子の目にして、居た堪れない気分になったのだろう。


少年は知らない、愛情の言葉を

少年は知らない、心配の感情を

少年は知らない、悲哀の意味を


胸を突き刺し、喉から混み上がる不思議な感情が、少年の身体を蠢いていた。

何故こんなにも『虚しい』のか、少年には分からなかったのだ。

「……おい」

足が震えた。善行を行っても一切満たされない己の心が、レッドカードを出している。

「おい」

両親の顔すら思い出さぬ、哀れで惨めな子供だからか。こんな時でも、少年の耳を掠めるのは"いるはずの無い"男の声──

「おいって……!」

瞬間、誰かに腕を引かれた。少年はたじろぎながら目を見開くが、その瞳は涙目だった。

「な……んで貴方が」

「そんな事はどうでもいい。それより、何故お前は濡れている?」

現れたのは"男"だった。少年は掴まれた腕を力尽くで振り払うと、悟られぬよう目を擦る。

「帰ってみれば、家はもぬけの殻。しかも外では人集り。その中で佇むお前を見つけて、俺がどんな気持ちになったか」

「川で溺れていた子供を助けただけだ。私は善行に励もうと行動したのみ。貴方に何か言われる筋合いは無い」

少年が言葉を言い終えるより先に、男の表情は強ばっていた。今にも怒り出しそうな雰囲気に、少年は我知らず身を震わせる。だが、プライドの塊で出来た、少年の脆い精神は、弱さを隠そうと強がってしまう。

「料理なら帰ってすぐにやる。コレで文句はないだろう。分かったらそこを退け……」

しかし、少年が言葉を言い終えるより先に、男の右手が空中に浮いた。

(殴られる───)

瞬時にそう悟った少年は、身体を強ばらせ、歯を食いしばり、目を瞑る。矢張り、痛みを覚えた身体は震える。

「この大馬鹿者め……」

声と同時に、知らぬ感覚が身体を覆った。全く痛みが無いことに気付き、そっと顔を上げてみると──男は、少年を抱き締めていた。


「良かった、お前が無事で……良かった」


何故この男は、少年の望む"言葉"をくれるのか。両肩に伸し掛る優しい重みと、初めて感じた他者の体温。後頭部で感じる男の掌は、少年を離すことなく添えられている。

訳が分からなかった──しかし少年は、その場で子供のように泣き喚いた。眉を下げ、口を大きく開けたまま。昨晩の啜り泣く声とは違う、赤子のように大きな声で。


空腹が満たされた

理解者が現れた

愛情を知った


男と出会って、少年は救われた。

今日の出来事を忘れまい、と。少年は心にそう強く刻んだ。この一ヶ月の出来事は僅か数分足らずで過ぎていった。それでも少年は、その全てを鮮明に──"想い描け"ていた。


* * *


喉が渇いた。目眩がする。痩せこけた身体で嗚咽をするが、溢れ出るのは矢張り胃液のみ。燦々と光る太陽は、嘲るが如く少年を見下ろす。

味噌の濃厚な匂いが、つんと己の鼻を刺激する。僅かに湿った足元を見ると、何故か濡れた跡があった。誰かに水を掛けられたのか、はたまた己が醜態を晒したのか。無論、何かした覚えは無い。

少年は暫く、魂が抜けたようにその場で天を仰いでいた。しかしすぐに"あの人"の事を思い出す。

「……また家まで運んで貰ったのか」

それにしても身体が重い。川に飛び込み、性懲りも無く大泣きし、着替えてからが記憶にない。味噌の匂いがするあたり、恐らく、男はまた味噌汁を作っているのだろう。

少年はうつらうつらする意識の中で、ゆっくりと身体を起こしあげる。そして"男"を探そうと目を開け、広がる視界に絶句した。



少年が居たのは、平坦な地面の上だった。



過去を思い起こさせる、見慣れた"薄暗い街"だけが、永遠と己の周りを囲む。男の姿などどこにも無かった。台所も味噌汁もない。何の変哲もない地面に合わせて、遠くから"誰か"の作った味噌の匂いが、鼻を掠めるばかりである。

少年は気付いた──己は『夢』を見ていたのだと。倒れる直前に見た景色と、何ら変わらない"今"の外界。言葉が出なかった。絶望だけでは片付けられないほど、孤独に駆られた負の感情が、爆発的に心中を蠢く。


一体どれだけココに居たのか。男の元で過ごした一ヶ月は、どうやら全てが夢だったらしい。だからあれ程"一日の移り変わりが早く思えた"のかと。少年は何処か腑に落ちたよう、低く己を嘲笑した。哀れだ、愚かだ。

男の言っていた『夢の話』がここに来て再度、少年の脳に流れる。どうやら己は、気付かぬうちにに"三つの欲"を叶えてしまったらしい。

「叶わなければ良かった。一生……夢の中で良かった」

今更言ったところで、もう遅い。夢から覚めてしまった少年は、とてつもない『後悔』に駆られていた。


以前の孤独が──再び、無力な己の元へ舞い戻ってきてしまったのだ。


足が震えた、それでも少年は歩を進めた。いや、進めるしか無かったのだ。孤独を生きるという事は、己を守れるのは己だけだから。

赤子が見えた、まだ物心もついていない赤子。そいつは手に食べ物を持っている。

「…………はあ」

しかし少年は背を向けた。赤子から素早く離れるよう、反対方向へ歩き出したのだ。

気が付けば夕日が暮れそうになっていた。紅に染まった地面の上を、痩せこけた足でひた歩く。"これからどうする"のか──今の少年には、もう考える気力さえない。

こんな事なら、夢など見るんじゃなかった、と。少年は心中で後悔していた。結局"孤独"を生きるなら、一時の幸福など感じたくはなかった。

「…………」

涙さえ出ない。声も震えない。

少年はそれでも歩き続けた、当ての無い夕暮れ道を、痩せこけた身体で。


そして、遂に倒れてしまった。


精神的にも、身体的にも、もう限界だったのだ。

「おい」

少年は世界の総てを恨んだ。

通り行く人々を炯々と睨んだ。

「おい、お前」

恨んで恨んで、また嗚咽した。

睨んで睨んで、また嗚咽した。

「おい、聞こえてるか?」

嘘か誠か、はたまた夢か。少年が、今にも意識を失いそうになった時。

その声は、確として耳を貫いた。

「おい、お前。大丈夫か?」

ハスキーで何処か大人びた声が、確として少年の鼓膜を揺らした。恐る恐る、音のする方へ視線を向けると──


「道で眠りこけるなんて不用心だ。この街は物騒なヤツらばかりだからな。身ぐるみを剥がされてから目を覚ましたとて遅い。なあ、少年?」



紅の空を背景に……白い歯を見せ微笑む、黒髭を蓄えた"大男"の姿があった。








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掌握の幻 楠 夏目 @_00

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