塩むすび

犀川 よう

🍙

 妊娠していることも知らなかったわたしたちの前に姉が突然、里帰りと称して家に戻ってきた。不幸な事件や不穏な事故のニュースが珍しいくらいに少なかった春先のことだ。

 今までどうしていたのかと文句を言っている両親の表情は安堵が隠しきれておらず、お腹の中にいるまだ見ぬ孫への愛情すら滲んていた。両親が問い詰めている隙に姉のお腹を見ると、たしかに僅かながら膨らんでいるのが確認できた。下腹部に脂肪がたまってしまう体型の女性と大して違いのないような慎ましくそして無駄な膨らみを見て、わたしは何故姉が家を飛び出していったくせにと戻ってきたのだろうかと思った。姉はわたしを一切見ることはなく、両親が溜めていた感情を受け流す作業をしていた。なんの変哲のない穏やかな春に包まれていた我が家は、突然つむじ風が吹いたような騒ぎになった。その突風を起こした張本人は何の罪の意識もない小さな笑顔を浮かべ、「しばらくお世話になるわ」と言ってから、わたしを見てまた微笑むのだった。


 客間の和室で座布団を枕替わりにして横になっている姉を見て、わたしは酷く狼狽した。姉がお腹の中に新しい生命を宿しているという事実をうまく飲み込むことができなかったのだ。駆け落ちをしてから数年経っているというのに、さも当たり前のように帰ってこられる神経も、妊娠どころか結婚したことすら伝えてこなかった誠意も、何もかもがわたしの常識という辞書には載ってはおらず、どういう認識を持って姉と接すれば良いのかわからなかった。仮に謝罪をされたとしても、わたしには返す言葉が思いつかないくらいに不思議な事態であった。

 わたしの気配に気がついたのか、姉は横になったままで目を開けると、わずかな笑顔で「あたし、塩むすびしか食べられないの。それ以外は何も受け付けないのよ」と言った。それを聞いて最初は何を言っているのか理解ができなかったが、妊娠するとつわりのせいでほとんど食べられなくなることがあるという知識を引っ張り出すことができたので、なんとか「そうなんだ」という返事をすることができた。姉は「そうなの」とだけ言うと、また目を閉じて眠りについた。数年ぶりに帰ってきたことなど何のブランクにもならずに、自分と胎児のために身体を休めることができる姉を見たわたしは、「塩むすび」と何度も繰り返して呟くことしかできなかった。


 それから、塩むずびを作るのは大学が春休みになったわたしの役目になった。両親はまだ現役の共稼ぎで昼間にはわたししかいないからだ。――いや、厳密にはわたしと姉と胎児がいるのだが――。とにかく後者二人の面倒をみるのはわたしの仕事であると、どこか決めつけられた空気が家の中に流れていたのであった。

 姉が帰ってきたのは日曜日の午前中であった。それはわたしが早速お昼ご飯を作らねばならないということを意味していた。わたしはデートの予定をキャンセルせねばならず、彼氏の文句のメールを横目にレンジで冷凍ご飯を温める。どこで知ったのかの出典を求めることも敵わない適当な知識から妊婦はご飯が炊ける匂いがダメだということを思い出しながら、手を洗い食卓塩を用意して握ってみた。大きさも形状も何がベストかわからない塩むすびを握る。海苔をつけた方がよいのか聞こうかと思ったが、どうしても姉に対峙して口を開くことができなかった。

 わたしのとって姉はすでにいなくなった異物でしかなかった。怒りや嫌悪感などという単純な感情ではなく、異物としか表現のしようのない存在。徹夜明けにできたような吹き出物のような突発的でありながら存在自体を意識しなくなるもの、まさに異物というだけがはっきりとしているだけの存在だ。

 適当に三つほど握り姉たちの休んでる和室に届けにいった。

「あら、さっそく作ってくれたのね」

 姉は面倒臭そうな声をあげながら身体を起こす。わたしは座卓の上に塩むすびをのせた皿を置いた。

 わたしの握った塩むすびを見て、姉は深いため息をついてから黙ってしまった。そして、何も言うことなくまた横になって寝てしまう。姉にとって寝ることは神聖な儀式のようで、そのだらしない寝姿すら恭しさが漂っていた。わたしは自分の塩むすびに何の瑕疵があるのか理解することもできず、ただそっと和室の襖を閉めることしかできなかった。

 その後、なにが悪かったのだろうかを考えてみたが結論は出ず、夕飯前に和室に入り回収に行ったところ、塩むずびはすべてなくなっていた。こぼれた米粒すらない完璧に空になった皿が座卓に置いてあるだけであった。


 月曜の昼も同じように握って和室へと持っていってみたが、すぐには食べてはもらえず、夕飯前に回収に行くとやはりきれいになくなっていた。最初は何らかの意地悪をされているのかと思い、もう作るのをやめようかと思ったが、しばらくしてたまたまトイレに起きてきた姉に遭遇すると、姉はわたしに向けて小さな笑顔を向け、「ご飯の匂いがダメなの」と言った。姉はそれだけを言うと、吸い込まれるようにトイレへと消えていった。

 夕飯は母が作り、母も塩むすびを握って出していた。だけどやはり姉は小さく笑顔になるだけで、すぐに食べることはしなかった。姉は湯気の立つ握りたての塩むすびをそのまま皿ごと冷蔵庫に入れ、和室へと戻っていった。母は「気分が悪いのかな」と心配をしていたが、わたしは何も答えずに明日の塩むすびのヒントを得たことを噛みしめながら、黙ってご飯を食べた。


 火曜の昼。わたしはいつもより早めにご飯をレンジで温め、粗熱をとってから握ってみることにした。匂いがダメなのであれば冷ましてやればよいのだと理解をしたのだ。冷ましたご飯で塩むすびを作る。ついでに食べやすいように一口大のものを五個作ってみた。

 和室に入り、座卓に皿を置いた。姉は何も言わずに起き上がると、少し笑顔になって「ありがとう」と言った。わたしは自分の予想が正しかったことを確信し黙って頷いてから部屋を去ろうとしたが、姉はわたしの背中にポツリと言葉を漏らした。

「小さく分けたのは余計だわ」


 水曜日の昼。「いいかげんにデートをしないか」とメールを送り続ける彼氏にややうんざりしながら、台所に行き冷蔵庫にあるご飯を温める。温度と形状を理解したわたしはもう間違えることは許されない。どんな難しい実験の授業ですら配分を間違えたことがないわたしが、姉の塩むすびを満足に握れないというのは、わたしの自尊心がいささか傷つく事態であるのだ。

 結論に基づく温度と大きさを備えた塩むすびを三個作り、和室に持っていく。いつも通り姉は座布団を枕に横になっている。胎児のいるお腹をうつ伏せにはできずに横を向いて寝ていた。どうしてそんなに眠る事ができるのだろうかと不思議なくらいに姉は一日中ずっと寝ている。どんよりとした曇り空のような気分や、重たい身体がそうさせるのだろうか。

 いつもどおりにお皿を座卓に置いてみる。姉はその音を聞いてむくりと起き上がった。無意識なのだろうがお腹に手をあてながら、よっこらせと言いながら起きてくる姉を見て、わたしは今度こそ満足させてみるという気持ちになっていた。

「ありがとう」

 姉は小さく笑顔をわたしに見せると、手も洗わずに塩むすびを食べた。わたしはそれをしばらく見ることにした。塩むすびを食べるそのひと口ひと口が姉に対して栄養が行き届くのか、胎児とやらに渡るのか、あるいは両方なのかを見極めるかのような真剣さで眺めていた。わたしはまだ姉の中に子供がいることがうまく理解できていなかった。姉の子宮が何者かの侵入を許し新しい生命を宿しているという事実をどうしても受け入れることができなかった。この不完全な姉が何かを産み出すということが酷く非道徳的なものに思えるのだ。実験のために命が失われていくマウスのような存在を前にして、一日中ただ寝ては塩むすびを食べ続ける姉のような存在を世間にどう説明すればいいのか、わたしには自信がなかったのだ。

 姉は出された塩むすびをすべて食べ終わると、小さく笑顔になってからまた横になった。いつもどおりに座布団を枕に畳を寝床にして、まるで白河夜船のように、姉は睡眠という夜の河を渡り続ける。


 木曜日。彼氏の呼び出しがうるさくてとうとう朝から彼氏の部屋に行くことになった。わたしは姉の塩むすびをどうしようかということだけで頭が一杯になっていたので、彼という存在自体を忘れてしまってたのだ。

 彼氏はペットのハムスターにエサを与えながらわたしに文句を言ってきた。日曜日に予約をしてくれたレストランのキャンセル料がかなりのものだったらしく、デート向けにもかかわらず友人と行ったそうだ。ハムスターが無邪気に咀嚼するのを見ながら、わたしは男二人で雰囲気のあるレストランで食べている姿を想像していた。そして、その間だけ彼氏の文句や姉の塩むすびから解放されている自分に気がつくと、なんだかおかしくなってしまい、小さな笑顔を作り、不満の溜まった彼氏に想いを向けた。

「姉もハムスターもわたしたちも、どうして死んでしまうのに食べることを続けるのかしらね。そんな高級な店まで行って、どうして食べようとするのかしらね」

 ハムスターは頬一杯にモグモグとエサを食べ続ける。昨日の姉もこのハムスターのように塩むすびを頬張っていた。何のために食べているのだろう。寝るために食べる。姉はそんなことしている自分を不思議だとは思わないのだろうか。

 わたしは結局、姉のお昼ご飯を作るために彼氏の部屋を出た。彼氏が「もう別れるからな!」という捨て台詞を吐いているのも構わずに。


 金曜日。昼前になると珍しく姉が台所までやってきた。わたしがご飯と温めようとしていたところだった。

「どうしたの? これから塩むすびを握るところなんだけど」

 まさかなのだが、これが姉が帰ってきてからわたしが姉に発した二度目のセリフであった。これまで塩むすびを握って持っていく以外には、姉とは特別な接点がなかったとはいえ、ここまで会話をしていなかったことに今更気がついて自分で驚いた。

「ありがとう。でもね、もういいわ。塩むすびを作らなくて」

 姉はあの小さい笑顔をしてわたしにそう言うと、冷蔵庫からカップに入っているゼリーを手にした。

「あなたの作った塩むすび。なんだか気持ちが悪くなって、食べられなくなってしまったの。ごめんなさいね。けっしてあなたのせいではないのよ。だけど、この子が『食べたくない』なんて言うものだから」

 姉はそういうと下腹部に手をあてた。そしてゼリーを食べるためのスプーンを手にすると、ゼリーの封を乱暴に剥がして立ったまま食べ始める。大きめのカップに入ったゼリーを一気に食べる姉の頬は膨れ、彼氏の飼っているハムスターのように、ピクピクとしながら動き続けていた。

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