後編
辺りは暗くなり、街灯がついてきた。薄明かりの下を、仕事帰りの人が自転車で通りすぎてゆく。
夏鈴はというと、ベンチに腰掛け、自身の足を廉弥に委ねているところだ。
自分の心臓の音が、つくつくぼうしの鳴き声にも負けずはっきりと聞こえる。汗ばんだ手で、浴衣をぎゅっと握った。
廉弥は相変わらず無表情のまま、絆創膏をていねいに剥がした。そして夏鈴の足首に触れる。
「ここだよね」
「え、うん…」
廉弥は傷をそっとなぞり、絆創膏を貼った。
廉弥の指のぬくもりが、じんわりと広がっていく。
「大丈夫そう?」
廉弥が上目遣いで聞いてくる。
「あ、うんっ…!平気だよ」
慌てて答える。首筋を汗がつーっと流れ落ちた。
「はい」
自然と差しのばされた手。
「…うん…」
ためらって、でも、小刻みに震える手を差し出した。廉弥がそれを、遠慮がちに握る。
「ごめん、いやだったよね?」
夏鈴が立ち上がると、廉弥はゆっくりと手を離した。
「…」
違う、嫌じゃない!嫌とかじゃなくて、あの、その…。ここでなにか言わないと、肯定したことになっちゃうから…!
「…ううん」
これだけしか絞り出せなかった。胸がきゅうっとなって、いっぱいになって、声が出せなかったのだ。ああ、廉弥はどう思っているのだろう。傷つけてしまった…。夏鈴は泣きそうな気持ちで、彼を見上げた。
「そう?……じゃあ、行こうか」
廉弥は、やっぱり穏やかな眼差しで、夏鈴を見ていた。
「…そうだね」
───本当に、私は子どもだ。
2人は歩きだした。夏鈴の手のひらに、まだ彼の温度が残っていた。
日が暮れたのに、星がまだ見えない。
「わあ…」
小さな山のふもとにある神社の境内には、人がごった返していた。出店から客を呼び込む声と、子どものはしゃぎ声。老若男女、笑い声が絶えない。提灯の柔らかい明かりが、人々の笑顔を優しく照らす。
「私、こういう雰囲気大好きだな」
夏鈴は思わず本音をこぼした。つぶやいた瞬間、はっと我に返る。
…うわ、突然こんなこと言って、変な女って思われる…!慌てて廉弥を見た。
「うん。僕も」
夏鈴から目を離すことなく、にっこり笑う。
「…っ」
どうしてだろう。さっきからこの笑顔を見るたびに、胸がすごく苦しくなる。夏鈴はうつむいた。さっき傷つけたのも私なのに、どうしてそんなに優しくいられるんだろう。
「大丈夫?少し休もうか」
ぼーっと考え込む夏鈴を見かねた廉弥が、不安そうに聞いた。
「…大丈夫だよ!私のことより、なにか食べる?」
廉弥はそれを聞いて、一瞬なにか言うのをためらったあと、
「……うん。とりあえず、なんか食べよう」
と、声のトーンを上げて言った。
「うん!お腹すいちゃった」
そうだ。今は羽水くんがこんなに気を遣ってくれてるのに、私だけうじうじしてたらだめだ。一旦、忘れよう。そう思って、夏鈴も最大限に笑って言った。
「やっと座るとこあったね!」
廉弥はカレー、夏鈴は焼きそばを買って、座れる道端を探していたところだった。
「うん。よかったね」
「うん!いただきまーす」
「いただきます」
廉弥は夏鈴を見て、ほっとしたように笑った。
「…おいしいっ!」
夏鈴は夢中で箸を進めた。気疲れもあってか、殊の外腹が減っていたようだ。
「私今日、来てよかった…!」
「ふふ、よかったね」
目を輝かせた夏鈴に、廉弥は口角を上げた。
そのとき一瞬目が合って、夏鈴はすぐに逸らした。
今までこんなに柔らかく話して笑う羽水くん、見たことないかも…。そう、男子と遊ぶときのはしゃいだ笑顔じゃない、こんな穏やかで優しい微笑みを。本当はさっきの私の態度で、いやな気分になったかもしれないのに…。
焼きそばを口いっぱいに頬張って、溢れ出る申し訳ない気持ちと幼い自分への腹立しさと一緒にもしゃもしゃと食べた。先に食べ終わった廉弥が笑う。
「…そんなにお腹空いてたの?」
「むむっ!んむむっ!」
最後の一口を入れて、必死に否定する。なおも笑い続ける彼に、ようやく食べ終わった夏鈴は顔を赤くさせた。
「……ち、違うよっ!」
「ほっぺ、ついてるよ」
「ふぇっ…!?」
ティッシュを手渡す廉弥。受け取った夏鈴は、鏡を見ながら口元をごしごしこすった。
「あ、ありがと…」
恥ずかしさと情けなさで、言葉の最後がすぼむ。廉弥は黙って夏鈴の空き容器を取って立ち上がった。
「ん、いいよ。行こうか」
「…うん」
どこまでも優しいなぁ…。夏鈴も廉弥のあとに続いた。
特設ステージから、近くの中学校の吹奏楽部の音楽が聞こえてくる。腕時計は午後7時過ぎを指していた。ようやく星が見えてきたようだ。
「羽水くん、これやらない!?」
出店を適当に歩き回って、夏鈴が見つけたのは、輪投げである。ちょうど列もなく、おじさんが暇そうに座って客をぼーっと眺めていたのだ。
「うん。いいよ」
「『2回につき二百円』か、100円ずつにしよう」
廉弥もうなずいて、2人で100円をおじさんに渡した。
「ほい、輪っか」
出店のおじさんが気だるそうにお金と輪っかを引き換えた。
「最初、どうぞ」
「いいの!?じゃあいきます!えいっ」
夏鈴が張り切って投げた輪っかは、大きく弧を描きながら、惜しくも入らなかった。
「あーっ、入らなかった…」
後ろに並んでいた子供連れのおじさんがケタケタ笑った。
「お姉ちゃん、すごい姿勢だったぞ」
「えーっ…そうですか?」
日頃運動しない自分が腹立たしい。出店のおじさんも腕を組んで鼻で笑っている。内心落ち込みながら、廉弥に交代した。
「羽水くんがんばって…」
「うん」
いつもの無表情で、廉弥が輪っかをひょいと投げる。
カラン。 廉弥の輪っかは、1番遠くの“一等”に入った。
「大当たりぃ」
「「おおーっ!!」」
見ていた夏鈴と後ろの人たちが、揃って声を上げる。
「兄ちゃん、どれを選ぶ?」
出店のおじさんが景品を並べた。光るブレスレット、おもちゃの車…。うう…あんまりいいのがないなぁ。申し訳ないけど、これだから客が来ないのでは?
夏鈴が内心ぶつくさ言って、廉弥をちらりと見た。おそらく彼もそう思っているのか、困った表情になっている。
「…これで」
選んだのは、おもちゃの指輪。廉弥は受け取って、指輪を眺め回した。
「…はい、毎度」
出店のおじさんがにやつきながら指輪をくれた。
「だいぶ見たね。時間も時間だし、そろそろ帰る?」
輪投げの出店から一旦離れたところに来て、廉弥が言った。確かに、あっという間に午後8時を過ぎていた。
「うん…そうだね」
残念だけど、家に帰るのに少し時間がかかるのでここらで帰らなければならない。夏鈴はちょっとがっかりしながら答えた。
「えっと、門限…って、ある?」
少しの間沈黙が流れて、廉弥がおどおどと尋ねた。
「門限?えーと…、特にない」
「じゃあ…アイス食べない?」
「あ、アイス!?」
夏鈴の耳で、その言葉が反響する。た、食べたい…!
「いいね!食べたい!!」
目を輝かせた夏鈴に、廉弥はほほえんだ。
「それじゃ、近くのコンビニ行こうか」
「うん!」
喧騒が遠のいていく。明るかったのはやっぱり嘘で、帰り道は真っ暗で静かだ。しかしコンビニまで行く間、2人はいろいろ話をした。課題、終わりそう?大学、どこ行くか決めた?などなど。廉弥もいつもより喋ってくれたし、夏鈴は頬が緩む。
夜に歩くのって、すごく楽しい!
靴擦れも気にならないし、ちょっと暗くて怖いこの道も、なんだか今はずっと歩けるような気がする。
「いらしゃいませぇ」
コンビニに入ると、ベトナム人の店員さんが照明に負けない笑顔で挨拶した。
「どれにしようかなあ」
わくわくしながら、アイスを選ぶ。チョコアイス?いちごクリームアイス?わあ、1人で選ぶのって久しぶりだなあ。ちょっと贅沢して、このアイスモナカにしよう!
廉弥は小さなチョコアイスを選んで、2人は会計を済ませ、外へ出る。近くの公園に行って、ベンチに腰掛けた。
「いただきまーす」
袋を開けてかじりついた。バニラアイスのやさしい甘みが口いっぱいに広がる。幸せを堪能していたとき、ふと隣を見やる。廉弥がぼーっと地面を見ていた。
「あれ?羽水くん食べないの?」
「…?うん、食べる…」
浮かない顔をしていて、思わず心配になった。アイスを食べる手を止めた。
「体調悪い…?」
「いや、大丈夫だよ。僕は……」
廉弥は何かを言おうとして、口をつぐんだ。苦しそうな表情で、ぐっと拳を握り締める。
彼のそんな表情は初めてで、不安になりながら尋ねた。
「どうしたの?」
「……境さん、ごめん。僕、突然夏祭りに誘って、いやな気持ちになったよね。祭りも、もしかして楽しくなかったんじゃないかって、不安になって…」
「…え?」
「境さんは優しいから、無理して笑ってるんじゃないかなって思って…」
普段無口な彼の、少しだけ震えた声。彼はつっかえながらも、続けた。
「でも、僕はほんとに今日楽しくて、もう幸せだって思ったのに。それなのに、いざ別れるってなったらなぜかさびしくて…アイスは建前で…、その、…もう少しだけ、一緒にいたかった」
廉弥は一気に話し終えて、一息ついた。
「…どういう、こと…」
夏鈴も、一気にいろんなことを言われて理解できない。一緒にいたい?心がどんどん暴れ出す。
「だって、私は…。私は、羽水くんの優しさに甘えてばかりだし、今日だって…絆創膏貼ってもらったのも…どきどきしちゃって…」
話しているうちにだんだん顔が熱くなってきて、声が小さくなる。さっきのことを思いだして、また涙が出そうになった。
それでも、このことは伝えなければならない。
「その、絆創膏…いやじゃなかったよ…。私こそ、誤解させるようなことしてごめんなさい」
「…」
うつむいていた廉弥が、ばっとこちらを向いた。
「本当…?」
「うん…」
2人の視線が絡み合う。目を逸らさない。逸らしたくない。本当の気持ちを、ここで伝えなきゃ。お互いに、そう思っていた。
「境さん、僕…」
廉弥はいつもより真剣な目をしている。夏鈴は黙ったまま、続きを待った。
「僕、境さんの友だちで、よかった」
「ふぇ?」
───私が思ってたセリフと、違う…。
「僕、やっぱり人づきあいとか苦手だし、口下手だけど、境さんは本当に優しいから。でも、境さんが気持ちをため込んじゃうことも僕は他の人よりも少しだけ知ってて、だから今日連れ出したんだ」
困ったような笑みを浮かべて、廉弥は言う。
「青春、したかったんだよね。できた?」
なんでもお見通しだ。昨日一緒に帰っただけで、私ですらよく分からなかった『青春したい』というぼんやりした欲を、見抜いて実現してくれるなんて。
「羽水くん…」
やっぱり羽水くんの、こういうところが…。
「……………すごい」
「…ありがと」
すごいよりももっといい言葉がありそうなのに、なぜだか見つからない。羽水くんに伝えたい言葉は、多分これではない。それでも、廉弥の最高の笑顔に夏鈴は満足した。本音を伝えるって、簡単じゃないけど、すごくいい。
「あ、アイス!溶けちゃう溶けちゃう!」
ふと思いだして見ると、モナカからバニラアイスが溶け出していた。
「うわあ、やばいやばい!」
2人で笑い合いながら、夢中でかぶりつく。生ぬるい外だけど、こんなにおいしいアイスを食べて、笑い合える友だちがいて。最高の思い出だ。
「おいしかった…」
夏鈴が立ち上がった。廉弥も夏鈴を見上げて、うなずく。
「うん」
「帰ろっか」
「ちょっと待って」
「?」
廉弥が夏鈴の顔を見つめる。
「なに?」
そして無言で、夏鈴の唇に親指を当てた。
「…っ!」
唇のカーブに沿ってなぞる。くすぐったくて恥ずかしくて、夏鈴は声も出せぬまま、廉弥を見上げていた。
「アイスついてる」
そしてその指を、優しくなめた。
「…」
言葉にならない心の声が、夏鈴の中で渦巻く。あわわわわ…なに…!?
「帰ろ」
歩き始める廉弥。
「ま、待って…!」
呆然としていた夏鈴は、慌てて追いかける。
「あ、うん」
突然振り返って立ち止まる彼に、勢いよくぶつかってしまう。
「わあっ、」
よろめいた夏鈴は、廉弥の胸に飛び込んでしまった。
「っ…!」
夏鈴は心臓が止まりそうになった。廉弥の胸の音がはっきり聞こえて、固まってしまう。廉弥も、うわずった声でつぶやいた。
「ごめん…急がせて」
廉弥の大きな胸の中で、夏鈴は思わず鼻血が出そうなほど熱くなる。夏鈴の背中に申し訳程度に触れた廉弥の手のひらが、汗ばんでいるのを感じた。
2人はしばらくそのまま動こうにも動けなかった。長い沈黙のあと、お互いを見た。夏鈴の顔に廉弥が近づいて、おもむろに口を開いた。
「つむじ、きれいだ」
「……はぁ?」
本気で、空気が抜けたような声が出た。
「これ、あげる」
夏鈴からひょいと手を離し、辺りをうろついて戻ってきた彼の手には、花が握られていた。
「花、好きだよね」
「…うん」
「きれいじゃないかもしれないけど、いい匂いだから」
廉弥がにこっと笑った。夏鈴は、もう何がなんだか分からなかった。
『え!?花!?』
「うん。花もらった」
『ハア!?なにそれ、狂ってるんじゃない!?』
その日の夜、寝る前に楓花に報告として電話をかけた。ベッドに寝転がって天井を見ながら、耳を傾ける。
『え、まじ意味分かんない…羽水くんってほんとに変な人…』
スマホの向こうから盛大なため息が聞こえてきて、思わず笑う。
「ほんと、羽水くんってよく分かんないよね。しかもそのあと、『あ、これいらないからあげる』って、指輪はめてくれたの」
『キャー!待ってイケメンすぎる!ハハハハハハハハ!!』
楓花の笑い声につられて、夏鈴も思いだして大笑いする。布団のほこりが、勢いよく舞った。
「でも、羽水くんの印象がちょっとだけ変わったかも。変な人とか言われてるけど、すごく優しいだけだよ、きっと」
そこで、夏鈴は気づいた。そうだ。今日は考えさせられることが多かった。お母さんの思いも、私の子供っぽさも、羽水くんの計り知れない優しさも、全部身に染みた。今日は私自身のまだ知らない心の部分も見えて、本当に行ってよかった。
『や、あたしはただの変人…だと思います…てか、キュンってしなかったの!?』
「え?まあ、ちょっとはしたけど」
『わー、やばい!青春ですかー?』
「え、青春?なにが?」
『夏鈴たちの関係だよ!』
「え、だからそういうのじゃないってー!」
『え?そういうのじゃなかったらなんなの?』
「え…?なに?」
『え、そこまでやったのに…分からんのか?バカだねあんた…羽水くんのこと、好きになってしまったんじゃないの?ハア、もう知らない!どうぞ幸せにぃ』
「え、ちょっとまって、なになに、教えてよ!」
『もう遅いので、よい子は寝る時間でーす、おやすみー』
ブツ。唐突に切れた。
もう、なんだったの…。
スマホをベッドに置いて、窓辺に立った。カーテンをめくって、外を見る。
相変わらず、車も少なく、真っ暗で静かな街だ。でも、この街に羽水くんがいるって意識したら、なんだか体がむずむずして、走りたくなる。
『羽水くんのこと、好きになってしまったんじゃないの?』
楓花に言われた言葉を反芻する。え、私が?羽水くんを?考えただけで爆発しそうなので、夏鈴は勢いよくカーテンを閉めた。
「もう寝よう…!」
ベッドに潜り込んで、電気を消す。暗闇の中で、廉弥を思い浮かべてみた。
「……むむう…」
でも、お花うれしかった…。大好きなものをもらえるって、こんなにうれしかったんだなぁ。え、まさか羽水くんだからとか!?違う違う、絶対恋なんかじゃない…!
繰り返し言い聞かせていたら、もらった花の香りに包まれながらいつの間にか眠ってしまった。
外では、家の明かりがひとつ、またひとつと消えてゆく。何の花かも分からないけれど、優しい香りが部屋いっぱいに広がる。眠りにつく街が、静かに更けていった。
(あとがき)
ここまで読んでくださって、本当にありがとうございます!私自身、こんなに長い話を書くのは2回目で、途中で論理が破綻していたり、文章がめちゃくちゃだったりしています。読者の方には、こんな物語でも最後まで読んでくださったことに頭が上がりません。
さて、夏鈴ちゃんと廉弥くん、どうでしたか??少し少女漫画チックになりましたね…。あり得ないことがいっぱいだったと思います。しかし!実はこの話の多くの場面は、実話をもとにしています。(作者自身の体験ではありません泣)それをこの夏の終わりにふいに思いだしたことが、この話を作るきっかけになりました。
私事をたらたらと書いてすみません…実話の通りなら夏鈴ちゃんと廉弥くんはここでは結ばれず、まだまだもどかしい展開が続きます!気が向いたら続きも書こうかな、と思っています。
長くなりましたが、ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました!突然アカウントを消すこともありますので、ご了承ください。
不思議な君といっぱいの夏を。 @sock-4723
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