【短編】この指にとまれ

ずんだらもち子

この指にとまれ

 夏という季節は残酷だ。

「じゃあ、俺行くから」

 彼はブランデー色のレザートートバッグを、先月逢った時よりも浅黒く日に焼けた左手で握りながらそう言った。

「もう行くの?」

「朝一番で会議がある。昨日もそう言っただろ」

 朝焼けの黄ばんだ光が彼の顔を眩しく照らす。

 言われたかもしれない。言われてないかもしれない。

 忘れたんじゃない。聞き飽きたの。

 例えそうだとしても、立ち去ろうとする愛しき人への惜別の情を口にすることさえ許してくれないのね。

「じゃあ、また連絡するから」

 西側にある玄関のドアは、朝はより濃い影に包まれる。

 彼のドアを閉める音に、一切の迷いもなく、また微かな気遣いもない。部屋に響く音も、もう何度聞いたか数えるのも諦めた。それでも胸を締め付け、耳を痛くする。

 その閉じた数だけ、私とあなたの間には見えない壁が幾重にも重なってしまったのかしら。

 だから、私のことになんて、微かな違いにも気づきもしないんだわ。

 私は、その指のわずかな日焼けの痕さえ気付いてしまっているというのに。


 ――立派な社会人になって、君を養えるようになったら――


 そんな時代遅れの三文芝居の台詞を、バカみたいに何年も信じていた私の薬指は、酷く綺麗で、とても醜かった。

 だから、あれは、せめてもの当てつけ。

 もう二度と会うこともない。だから嫌味を込めた餞別、今頃、誰から貰ったものかは知らないけれど、あなたの鞄の中で転がってるかもしれないわ。

 もし偶然にも、とまることがあったら、一生忘れられない思い出になるかしら……。


 私の左手を中心に、シーツに赤い染みが広がっていた。そのことにも気づかない彼に期待しても無駄だと分かって、私は半日ぶりに小さく笑った。

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【短編】この指にとまれ ずんだらもち子 @zundaramochi777

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