敗者の慰め

レスタ(スタブレ)

敗者の慰め


「人が死なない小説を書きたいの」と彼女は言った。


 夏の日の、何の変哲もない道路の脇で、真っ赤になった空を背にしながら。


 僕はそれに、そんなの無理だよ、と思った。世界にはどうしようもなく死がありふれているのだから、そんなのは無理だと、純粋にそう思った。

 それは口にしなかったことだけれども、ただの僕一個人の意見に過ぎないのだけれども。

 だからこそ僕の想いは、きっと報われはしないのだろう。


 僕と彼女は、決定的なまでに生きる世界が違っていた。



 彼女との出会いは、夏休み初日まで遡る。


 親が親としての役割を放棄したのは今に始まったことではないが、端的に言ってその日の僕は夕飯を作る気力もないくらいには疲れていた。しかし家にはそのまま食べられるような食料など欠片も存在しなかったし、かと言ってそのまま床に這いつくばっていても空腹感で死にそうだと思った僕は重い腰を上げて近所のコンビニへと向かうことにした。


 見るからにぼろっちい、震度五くらいの地震が来たらすぐにでも崩れそうなマンションを下って、交差点を二つ曲がった先にあるコンビニへと滑り込む。

 まだ七月だというのに、更に言えば夜も近いというのに、未だ蒸したような外の空気にはほとほと参る。立地条件的にあまり風が吹かない我が街ならば、なおさら。しかしだからこそ、涼しき店内へと入ったときの解放感は、なんとも言い難い快感だった。


 ともかくとして、そのコンビニで出会ったのが件の彼女だ。同じクラスだというのに、隣の席であるというのに、あまり喋ったことがない彼女だった。僕たちはお互いを認識しあうと、「あっ」と声を上げて指を差しあった。


「偶然、だね?」

「そうだね」


 と、最初はお互いにぎこちないやり取りだった。彼女はなにか言いたそうにしていたけれど、一向に口を開く気配がなかったから僕から話かけることにした。


「君は、どうしたの? 制服だけど」


 彼女の服装は夏休み初日だというのに、後攻指定の夏服、つまりは白シャツにスカートだった。で、あるならば、彼女は学校に用事があったのだろうか。それが気になった。


「部活だったの」

「……夏休み初日に?」

「うん」

「少なくとも君は、運動部ではなかった記憶があるんだけれども」


 文化部ならば夏休み初日に部活はおかしい話だ。しかし彼女は、困ったように笑って言った。


「うちの文芸部はね、なんか変わってるの」


 文芸部。毎年定期的に部誌を出しているけっこう活動熱心な部活動。

 なるほど、彼女は文芸部員であったらしい。四月から七月の四か月間、隣の席に居たというのにまともに会話していないせいで僕はまるで知らなかった。そして彼女の言葉通りに文芸部は変わっているようだった。


「文芸部だったんだ。知らなかった」

「ぜんぜん話さなかったもんね」

「なんでだろうね」

「ほんとにね」


 そうして彼女は、くすくすと口を隠して上品に笑う。思えば僕は、この時すでに彼女に魅入られていたのかもしれない。その時はただ、可愛らしく笑うんだな、としか思っていなかったのだけれども。


「君は、どうしたの?」

「僕?」


 今度は彼女が僕に質問をする番だったみたいで、思わず首をかしげて聞き返してしまった。それに彼女は困惑したように首をかしげた。


「ほかに誰かいる?」


 それがなんだかおかしくて、僕は「いないね」と笑って返した。


「今日は夕飯を作る気力もなくてね。買いに来たんだ」

「へぇ。普段から料理するんだ?」

「昼以外は大体ね」

「偉いね、君」

「そうかな」


 再び僕は首をかしげる。だけど彼女は笑顔で「うん」と答えてくれた。僕はそれに苦笑いしか返せなかった。


 それから僕たちは、弁当が置いてある棚の前まで移動した。なぜか一緒に。彼女は片手にコンビニ袋を下げているから用事なんかないはずなのに、黙って僕の後を着いてきていた。


「なににしようかな」と僕が呟くと、「なにがすきなの?」と彼女が反応する。


 なにが好きって言われると困るな、と思いつつも、僕は普段の彼女の生活を思い返していた。僕の記憶の限り、彼女はあまり喋るタイプではないと思っていたのだけれど、はたして本日のこのお喋りっぷりはなんなのだろうか。不思議だ。なにかいいことでもあったのだろうか。それとも、夏休みゆえのことなのか。


「やっぱり、おにぎりかな。エビマヨ」

「あー、そういえばいつもお昼はおにぎり食べてたね」

「見てたんだ」

「見てたっていうか、目に入っちゃうんだよね」

「……どういうこと?」

「いやほら、隣の席だからね」


 なんだかはぐらかされたような気がしないでもないが、結局僕は気にしないようにして、おにぎりを三つほど手に取ってレジで会計を済ませた。レジ袋一枚ごときに五円も使うのがもったいなく感じて、僕はおにぎりを両ポケットに突っ込んだ。我ながらみみっちいとも思うが、これはレジ袋を有料化した政治家野郎のせいだ。もうそれが誰だったかも思い出せないが、ともかくとして僕はそいつを恨む。そんな事を思いながら、彼女とたわいない話をしながら、僕らは外へと出た。


 コンビニでいくらか涼んだとはいえ、暑いものは暑い。もわっとした空気に思わず身体の力が抜ける。思い切り疲労の籠ったため息を吐くと、彼女は額に汗をにじませながら笑った。


 彼女は「暑いね」と言った。

 僕は「暑いね」と返した。


「……じゃあ、僕は帰るよ」


 僕は彼女と面と向かい、腹を擦る。さっきから腹の虫の音が聞こえてしまいそうで恥ずかしくてしかたなかった。手を振ってその場から立ち去ろうとすると、彼女は「ちょっと待って」と僕を引き止めた。再び見た彼女の顔は、見事なまでに眉がハの字になっていた。


「あ、あのさ」

「なにかな」

「この時間、明日も来れる?」

「え、あぁ、うん。大丈夫だけど」


 突然の彼女の言葉に、僕は混乱して大丈夫だと返してしまった。まぁどうせ夏休みは用事なんかないし、言葉の通りに大丈夫なんだけれども。それにしてももじもじとする彼女の姿が印象的だった。


「じゃあ、また明日、会ってくれないかな」

「うん。いいよ」

「相談に、乗って欲しいんだ」


 なるほど。彼女は最初からそれを言いたかったらしい。なぜ相手を僕に選んだのかはわからないけど、断る理由もなかった僕は「わかった」と頷いた。


 これが彼女との出会い。不思議な日課の、始まりだった。



 その日から僕たちは、けっきょく毎日のように黄昏時にコンビニで待ち合わせるようになった。僕は夕飯を求めて、彼女は相談相手を求めて。


 なんでも彼女の相談というのは、小説についてのことらしかった。文芸部では夏休み明けに部誌を発行するようで、小説を書く必要があるみたいだった。しかし彼女はここ最近はスランプ気味で、行き詰った彼女はなぜか僕に光明を見出し声をかけたと言う。


「ねぇ、小説って見られなかったら意味ないのかな?」


 彼女がそんなことを呟いたのは、何度目の夕暮れ時だっただろうか。確か四度目くらいだったような気がするけど、もう覚えていない。その時の僕の記憶は、彼女との会話に全てのリソースを割かれて、もはや日にち曜日すら曖昧だった。

 

 まぁ、そんなことはどうでもいい。その時の僕は彼女の問いの意味がわからず、馬鹿みたいに聞き返してしまった。そして僕はよくわからないまま、彼女の言葉に答え続けた。


「どういうこと?」

「いいかえたら、人気がなかったら意味ないのかなって」

「そんなこと、ないと思うけど」

「だよね。ありがと」

「でも、どうしてそんなことを?」

「えっと、みんな……文芸部の皆ね。私の小説は、ジャンルは、流行りじゃないから見られないって言うの」

「そうなんだ?」

「私が異端なのはわかってたの。私以外のみんな、異世界系のライトノベルとか、もともとそういうのが好きで集まってたみたいだし」


 異端……異世界系……ライトノベル……。なんのことだろう、と僕は首を捻った。


「でもさ、私は小説って、見られる為に書くものじゃないと思うの」

「それは……どうなんだろう」

「だってさ……いや、違うかな。えっと私が言いたいのは、その」

「うん」

「書きたいから書くじゃ、だめなのかなぁって」


 彼女はコンビニの窓越しに、夕焼けの空を見ながらそう言った。その言葉はやけに印象的だった。


「みんな、人気だとか数だとか。囚われ過ぎてるんだよ」

「そうなのかな。僕にはよくわからないけど……」

「けど?」

「さっきの言葉は、とても良いと思う。書きたいから書く。それはとても良いことだと思うな」


 そんな会話を、僕たちはいくつかした。夏の日の、何の変哲もないコンビニ内で、真っ赤になった空を眺めながら。

 僕は小説なんか全然読まないし、彼女のよくわからない相談事にも曖昧にしか返せていなかったような気がするのだけど、それでも彼女には助けになっていたみたいだった。二週間くらい経った頃には「スランプが治った」と、嬉しそうな笑顔を僕に向けてくれた。僕は彼女が笑顔を見せてくれたことが、なによりも嬉しかった。



 きっと僕は、気付かない内に彼女に惚れていたのだろう。恋をしていたのだろう。毎日のように行われる会談に僕は胸を躍らせていたし、彼女が笑顔を向けてくれる度に僕は幸福感を覚えていた。夕焼けの色を映す彼女の顔は、とても美しかった。


 だけど僕は、それが叶わぬものだと知ることになる。それは彼女を駅まで送り届けることがすっかり日課になっていたお盆前の日の、そして最後の会談の日のことだった。


「人が死なない小説を書きたいの」と彼女は言った。


 夏の日の、何の変哲もない道路の脇で、真っ赤になった空を背にしながら。僕はそれに「人が死なない小説?」とオウム返しをした。


「みんなの小説さ、誰かしら人が死ぬんだ。不慮の事故だったり、戦いだったり、病気だったり。どんな小説でも、誰かが死ぬの。それは……私も同じ。私の小説も、誰かが死ぬの。誰かを殺さないと書けないの」

「それは仕方がないんじゃないかな」

「そう、だね。でも私は……それが小説の展開のために人を殺しているみたいで、とても嫌なの」

「……難しいね」

「だから私は、人が死なない小説を書きたい」


 彼女は言った。夏の日の、何の変哲もない道路の脇で、真っ赤になった空を背にしながら、朱色に染まった笑顔をこちらに向けて。


「ねぇ、私たちの出会いってさ、物語的じゃない?」

「物語的……そうだね」

「夏休みが始まって、偶然出会って毎日会うようになってさ」


 彼女は小走りで二歩三歩と先を行くと、大きくくるりと身を翻した。彼女の輝いたような瞳は僕を見据えていた。


「ねぇ、私たちのこと、小説にしていいかな」

「いいけど……」

「そうすればなんだか、人が死なない小説をかけそうな気がするの」


 彼女の言葉に僕は「なら、がんばって」と返した。


「今までありがとね、付き合ってくれて。私はもう大丈夫だから」


 その後も彼女は言葉を続けて、僕を置いたまま一方的に立ち去っていってしまった。駅へと向かう人混みの中に紛れていく彼女の後ろ姿を、僕は道路の端で、一人佇んで眺めていた。


 そんな記憶がある。

 そんな記憶しか残っていない。



 はたして僕はその時、彼女の去り際に、ちゃんと「またね」と言えたのだろうか。

 はたして僕はその時、ちゃんと笑顔を作れたんだろうか。

 はたして彼女は最後に、なにを言ったのだろうか。


 それだけが、どうしても思い出せない。



 彼女は僕たちのことを小説にする、と言った。その理由は、人が死なない小説を書きたいから。言い換えれば、僕たちの間に”死”は存在しないから。


 でも本当は、その前提条件から崩れていたことを、彼女は知らない。

 僕の父が既に死んでしまっていることを、彼女は知らない。

 彼女との会談の日々の最中に、母が死んだことを彼女は知らない。


 もちろん彼女からしたら、僕たちの物語に”死”は存在しない。僕が僕の父は既に死んでいると一言も発しなかったから。僕が僕の母は死んだとその時言葉にすらしなかったから。

 知らないことは存在しないと同義だ。彼女に非はない。


 だけど僕からしたら、彼女が書く人が死なない小説は、きっと人が死なない小説ではない。


 両親が生きていて、当たり前のように家事をしてくれると思っている人達は、他の人も同様であると思っている。別にそれが悪いことだとか、恨んでいるだとかではない。ただ僕たちは、どうしようもないほどに、住んでいる世界が違うのだろう。


 ただ、それだけだ。

 だけど、ただそれだけのことだと言うのに。


 なぜか僕の心はひどく揺らいだ。


 マンションの一室に、蝉の鳴き声だけが聞こえる。ずいぶんと前からこの部屋には僕一人きりだったけれども、本当に一人になってしまった。


 聞くに母は、夜の街でひどい暴行を受けて死んだという。なにがあったかなど、想像に難くない。警察の人にはこれかどうするか、などと聞かれたが、それはこっちが聞きたいくらいだった。僕の未来は明るくないらしい。


 僕はカレンダーに目線を映した。毎年のように思うが、お盆前に死んだ人間はお盆にどうなるのだろうか。死んだばかりだというのに、すぐに帰ってくるとでもいうのだろうか。


 部屋が黒く染まっていく。彼女の言葉を思い出す。


 彼女は「今までありがとね、付き合ってくれて」と言った。それはつまり、会談の終わりを示す。明日からはもう、彼女はコンビニにいない。お盆になり、八月末となった時も、彼女はきっとそこにはいない。


 僕はもう、なにもわからないままに夏を過ごすしかない。


 日が落ちる。視界が黒く染まる。蝉の鳴き声がいつの間にか消えている。


 二学期になれば席替えがある。

 きっと僕の隣に、彼女はいない。


<了>

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