新潟県柏崎市 柿沢朝椰さん(27)からのおたより

「東京都あきる野市で起きた轢き逃げ事件。新たな供述によって、被害者の沼尻亮子さんが放置された理由に、犯人が勤めていた会社で横行していたパワハラや厳しいノルマがあげられるのではとの見方が広がっています。SNSではいわゆる「ブラック企業」に勤めていた犯人に同情が寄せられており……」


 ラジオの音声が乱れた瞬間、すかさず柿沢かきざわ数馬は選局ボタンに手を伸ばした。この瞬間を待っていたと言ってもいい。

 右は山がちの北陸道で左に海が見え始めると電波の届きが悪くなりラジオはしばらく聞くに値しない。身をもって体験してなお、数馬は数か月、暇を見つけては夕暮れ時にこの道を走っていた。

 ――――暗くなって電波を受信しなくなったラジオをチューニングすると、死んだ者の声を聞くことができる。

 いつどうやってこの噂を耳にしたのかはもはやうろ覚えだが、知ったその日のうちに車に乗ったのは確かだ。まだ明るいのにラジオを垂れ流してそこら中を走り回り、結果に諦めきれず日が日本海に沈んでからも暫くは車から降りなかった。

 噂というのはなにもかも曖昧だ。

 「暗くなったら」というのは一体どの程度を指すのか。夏と冬では当てはまるだろう時間帯も違うから乗車のための時間確保に苦労した。

 「電波を受信しない」という点も、人為的なものなのかどうか。数馬はわざと受信状況が悪くなるよう北陸道を選んだが、都市伝説らしくもしかしたら自然と悪くなるのかもしれなかった。

 未だに答えは貰えないのに、それでも数馬は胡乱な噂話を信じて今日もハンドルを握る。

 ボタンを押してザーザーと雑音混じりの放送を矢継ぎ早に変えるが、どこも同様にジャミングしてばかりで明瞭な音声は拾えない。

 はあ、と気落ちしたため息を吐いて視線をやや横にずらす。暮れ泥む空を反射し紫と橙の二色に染まる海は朝椰さやが見たら喜びそうだった。途端に彼女のはしゃぐ声が耳の奥で響く。

 数年前、数馬が座る運転席から横目に日本海は見えなかった。助手席に座る青田あおた朝椰の陰に隠れていたからだ。

 海辺の町で育ったからか朝椰は数馬が呆れるほど海が好きで、海沿いを走れば窓を開けて潮風に当たって笑っていた。

 脇見運転はご法度なので車内でその横顔をまじまじと見ることは無かったが、弾む声を聞くだけでも満足だった。愛しかった。あの頃流れていたのはラジオではなく、朝椰のプレイリストから無差別に再生された知らない曲の数々だった。一曲くらい何が流れているのか確認すればよかったと後悔が数馬の胸を占める。タイトルさえ把握していれば思い出のよすがにもできただろう。

 恋人岬では並んで眺めたこともある日本海の夕景をあまり視界に収めないよう数馬は運転に集中する。

 夜が夕暮れを追いやっていく。ここまで走ると混線エリアを抜け、ラジオは自我を取り戻したようにはっきり喋り出す。

「もうすぐ防災の日ですよね~。っつーことで、今回のおたよりのテーマ……というより応募資格って言えばいいのか? は【被災者】。つまり地震でも台風でも、自然災害に巻き込まれて死んだ人からのみ本日はおたよりを受付中! まず一人目は、新潟県柏崎市の柿沢朝椰さんからで~す」

 聞き逃せない単語がいくつか耳をかすめ数馬は慌ててラジオの音量を上げた。

 パーソナリティーはサヤと紹介した。苗字は青田ではなかったが、代わりと言うべきか自分と同じ柿沢。それに住所も……。

「〝こんにちは、ゆうきさん〟はいこんにちは。〝送るか迷いましたが、テーマに背中を押される形でメッセージを用意しました〟そう言ってもらえるとこのテーマにした甲斐があんなぁ」

 合間合間に挟まる男の呑気な声がもどかしい。このサヤが自分の追い求めたサヤなのか、早く知りたくてたまらないのに――――ついハンドルを握る手に力が籠る。

 続きが読み上げられる。

「〝私は数年前日本海側の例の地震に伴う津波に巻き込まれ死にました〟。あー、同じ境遇の人結構いるみたいで、おたよりも多かったよ」

 数馬の心拍が速まる。その地震……津波の話はまだうまく呑み込めないでいた。

「私の体は、まだ、見つかってません。そのため家族は葬儀を執り行うこともできず、死亡届の提出も宙に浮かんだままです」

 息が止まるかと思った。披露されたのが亡くした彼女と合致する内容だからではない。道行く人に尋ねれば、同じ経験者はすぐ見つけられるだろう。あの日以来ここではそれぞれが少しずつ形の違う悲劇を抱いて生きてきたのだから。

 数馬の心臓が震えたのは、おたよりを読み上げる声が青田朝椰のものに違いないからだった。

「私には、当時付き合ってる人がいました。その人は血のつながった家族と同じくらい悲しんでいて……それで今日はその人にメッセージを伝えたくて」

「ふーん、ありきたりだね」

「ほんとうに」

「でも好きだよ、そういうの。不変で普遍の思いがいつだって救いにも呪いにもなる」

「ありがとうございます」

「で、その相手の名前は?」

「柿沢数馬です」

 あの噂は真実だったのだ――――ここにきて数馬はようやく自分がゴールに到着したことを知る。

「柿沢? 苗字同じだったんだ、珍しいカップルじゃん」

「あ、違うんです。その……結婚寸前だったんですが結局同じ苗字を名乗ることがかなわなかったから。ならせめて、今日くらいと思って」

「ちょっとー聞いてるー? 柿沢数馬さーん。めちゃめちゃ泣けるんですけどー」

 勿論聞いている。おかげでいよいよ本格的に涙が止まらなくなり、あわてて一般道に下りて車を寄せた。ハザードランプの点灯を忘れない程度にはまだ冷静さが残っていてよかった。

 目元を手の甲で拭いながら耳を澄ます。

「っと、あんまり話逸らすのはよくないっけ。ごめんごめん、どーぞ話して」

「はい。……私は、今も、海の底にいます」 

 改めて恋人の口からその事実を告げられると、数馬の胸は痛むばかりだった。

 震災の日、朝椰は柏崎の職場にいた。そこで、恐らくは津波に吞み込まれた。朝椰の住所は新潟市だが、聞き馴染みのある市名が名前と一緒に並んだのもこのラジオをもしやと思った理由だった。

 海が好きだった朝椰が、海の脅威で命を落とす。こんなにむごいことがあるのかと信じられず、北陸道を走り出すまではついぞ海辺には寄らなかった。寄れなかった。今でもまだ少し怖い。

 冬の日本海はさぞかし冷たかっただろう。心臓まで凍り付きそうな水の中で死んだ彼女は、何を語るのか。

 あの日、大丈夫と告げる短いSMSに安心し、先に両親を迎えに行った自分への恨みか。

 それとも現実に立ち竦み遺体の一部すら探し出せない自分を責めるのか。

 朝椰の声が聞けるならなんだってよかった。自罰的な気持ちのまま固唾を吞んで数馬は次の言葉を待つ。

「でも、それは、体だけだから。私の魂は、もう自由で、どこへでも行ける」

 思いがけない言葉に信じることも疑うことも間に合わず、まっさらな胸に言葉がどんどん染み込んでいく。まるで次から次へと訪れる波に濡れる砂浜のように。

「ほんとうよ、この放送が終わったらすぐに会いに行くから。それに、ね」

 朝椰はずっと、途切れ途切れに数馬に語りかけていた。それは迷いながら選んだ言葉に声を与えようかためらいが隠せない証拠だったのだが。

「私たちはまた、会えると思う」

 ここにきて朝椰の口ぶりが決然としたものに変わる。

「理由は聞かないで。聞かれても分からない、答えられないから」

 ふふっ。

 最後の可笑しそうな笑い声が一番生前とそっくりだった。

「終わり?」

「はい、今日はありがとうございました」

「いえいえ、こちらこそおたよりサンキュー」

 数馬の名残惜しさを知ってか知らでか、パーソナリティーはスムーズに次のおたよりに移る。もう二度と彼女の声は聞けないだろう。未練を断ち切るように数馬はラジオを消した。狹い空間が急激に静寂を取り戻す。

「朝椰、朝椰……!」

 ハンドルに突っ伏せば、一言も聞き漏らしたくないからと耐えていた嗚咽がすぐに漏れた。

 ほほを伝う雫のあたたかさがなつかしい。悲しみはいつも影のように数馬の傍を離れなかったが、泣いたのは久しぶりだった。

 噂を耳にしてからの数馬は藁にも縋る悲痛な心持ちでラジオを聞いていた。それはある種の支えだった。何かをしているという安心感をどうしようもなく生き残った無力な己にもたらしてくれたから。

 ラジオが終わりを告げた今、心の堤防は決壊しせき止められていたものが勢いよく放たれた。

 少し落ち着きを取り戻したころ、洟をすすりながら顔を上げると違和感に気付いた。無臭のはずの車内に、懐かしいにおいが満ちている。

 ――――潮の香り。

 記憶が弾き出した答えにまさかとすかさず否定する。もしかしたら涙のにおいかもしれないと、脳は今まで嗅覚が探知したことのないにおいまで別回答の候補に出してきた。

『この放送が終わったらすぐに会いに行くから』

 朝椰の声があざやかに蘇り、はっと助手席に目をやれば、シートが少しだけ傾いていた。座席に恐る恐る触れると、あたたかいが濡れてはいない。

 数馬は安心した。彼女が本当に、冷たさにもう身を震わせていないと分かったから。

 シートの位置は戻さず、夕焼けのグラデーションが既に黒く塗り潰されている空の下を発進する。

 朝椰は約束を果たしてくれた。それなら自分も約束しよう。会いに――――迎えに行くと。

 数馬は久しぶりに砂浜に立ち、一面の青色を直視できる気がした。

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