冷たい声帯
栞子
東京都あきる野市 沼尻亮子さん(34)からのおたより
社に戻った阿蛭がまず思ったのは「やけに静かだな」だった。
勿論定時は過ぎているので社員数が昼より少ないからというのもあるだろう。しかしそれだけではない別の理由……
「あ、ラジオ」
「ラジオがどうしたんすか?」
今日一緒に営業で回った若手の粟野が隣の席につきながら阿蛭の独り言を拾う。
「いや、ラジオついてないからこんなに静かなのかと思って」
同じフロアで仕事をする総務部と編集部の誰かが毎日朝礼後に電源を入れ、最後に帰る人が消すというのが決まりだが、もう既にラジオは黙り込んでいる。
「ああ、最近調子悪いから暗くなったら消してるそうです」
「修理しないのか?」
「なんか、修理で直りそうな部類の壊れ方じゃなくて」
「どういうことだ?」
あいまいな答えに営業日誌を書く手を止め思わず粟野に顔を向け尋ねる。粟野も同じようにパソコンでの作業を止め声を潜めた。
「急に音声が途絶えがちになったから周波数を合わせようとしてもどこの局にも繋がらなくて、でも段々はっきり声が聞こえてくるんですけど……変というかなんというか」
「どんな風に?」
阿蛭もつられて小さな声で尋ねる。
「おたよりの内容が『許さない』とか『覚悟して待ってろ』とかちょっと不穏なんですよ。でもってラジオパーソナリティーの声は普通に陽気だからまた怖いんすよ」
「詳しいな」
「全部畑谷さんから聞きました」
畑谷とは総務部の一人だ。仕事ぶりはまじめで、彼女の経験談となると阿蛭にはこの話が嘘には思えない。
「粟野君はどう思う?」
「僕すか? ううーん、まあ普通にそういう番組が新しく始まったとかじゃないっすか?」
「だよなあ」
実際聞いたわけではないからそれ以上のことは阿蛭も言えなかった。
「お帰りなさい、阿蛭さん。どうしたんですか? 顔真っ青ですよ?」
社員用出入り口に一番近い総務部の島から畑谷が帰社した阿蛭を労い、次いで心配する。
「あ、ああ。ちょっと車酔いしたっぽくて」
「高速飛ばしたんですか? 今日の営業先遠かったですもんね」
「うんまあそんなところだ」
嘘ではない。
最近妙なコンサルに心酔している社長は経費意識を前面に出し、二十三区外に営業に出ても定時までに戻ってくるよう口を酸っぱくして言っている。阿蛭は今日もその命令を忠実に守ろうとした。結果、帰りはかなりハイスピードだった。
いつもより忙しない歩き方で自分のデスクに向かう阿蛭を、畑谷の声が追いかける。
「私、もうすぐ上がるんですけど具合悪いんでしたら日誌の締め切り明日にしましょうか?」
「いや、いい」
「じゃあ最後に消灯お願いしますね」
総務部らしい気遣いを断り阿蛭はA4の紙を机に広げる。今日は少し遅い帰りになったためフロアには畑谷以外阿蛭しかいない。その畑谷も暫くして「お先に失礼します」とあいさつをして帰っていった。
残った阿蛭は一人営業日誌を書こうをするが、どうも気もそぞろで書くべき単語が思い浮かばない。ここには自分しかいないのに、誰かに見られている気がしてしかたなかった。
粟野がいれば会話でもしているのだが、あいにく今日の外回りは一人でだ。何か気が紛れるものがほしい、なにか……
視線をきょろきょろさまよわせた阿蛭の目に留まったのはラジオだった。
音楽でも人の声でもなんでもいいからとにかく頭の中を別のもので埋め尽くしたかった。どかどかと窓際の低い棚に置かれたラジオに寄って電源を入れる。
人の声らしきものが聞こえてきたがどうにもかすかで、チューニングを試みる。阿蛭は普段内勤の者がどこを選局しているのか知らず、ラジオを聞く趣味もないのであてずっぽうでつまみをくるくる回し続けた。
「さて、次はフリートークコーナーです!」
不明瞭な音声が途切れ陽気な声が流れてきた。必要以上に明るい男の声は普段の阿蛭なら肌に合わないと周波数を変えたかもしれないが、今日はこの明るさに救われそうだった。席に戻り気を取り直してペンを握る。
「最初のおたよりは東京都あきる野市にお住まいの……」
ようやく文字をつづり始めたはずの手が止まる。耳に入ってきたのが今日の営業先だったからだ。いや、これまでだって気に留めていないだけでリスナーの居住地と営業先が同じことくらい、たびたびあっただろう。静かな部屋で雑音がないからたまたまはっきり耳に届いただけだ。
「沼尻亮子さん、三十四歳女性の方からです。えー、〝ゆうきさん、こんばんは〟はいこんばんは。〝どうしても聞いてほしいことがあって今日、初めておたよりお送りしました〟どうした~聞くよ聞くよ」
軽薄な声は面白味のない冒頭を読み上げる。
「〝私は今日、市役所にちょっとした用事があったので、バス停に向かっていました。住宅地ですのでバス停まで狭い一車線の道を通ります〟」
おや、と耳を傾けながら阿蛭は日誌を文字で埋めていく。心なしかパーソナリティーの声が変わっているような……
「そんで?」
「そこで、一台の車が背後からぶつかってきたのです」
阿蛭は瞬時に凍り付いた。違う! 気のせいではなくいつの間にか女の声が増えている!
「私は衝撃でよろめき、頭を塀に打ちました。乗っていたのは男一人でした」
「マジで最悪じゃん。そいつの特徴は?」
ラジオはどういうわけか「おたよりを読み上げる」ではなく対談の形に変わる。
「中肉中背、白髪交じりの髪で、グレーのスーツを着てました」
女の声は冷たくなる一方だった。恨みがなければこうも温度は低くなるまいと分かるほどに。
「それじゃまだ絞り込めないなー東京は人が多いよ?」
「車は白く、ナンバーは……港区でした」
「うんうん、他には?」
「男は……一度降りて、私のけがの確認をしました。傷口を見ただけですぐに車で走り去りましたが、そのとき手に付着した私の血が……まだ落ちていないはずです」
内容に聞き入りペンを握ったままの形で固まっていた手から、じわりと赤い模様が真っ白な紙の上に広がっていった。
「うわあ!」
ペンを放り投げ、慌てて右手を確認するとけがでもしたかのようにそこは真っ赤だった。
「あっあっあっ」
とっさにスーツに擦って汚れを落とそうとするが、色が移ることも薄くなることもない。
「いいねー、そういう分かりやすい目印。すっごくいい」
阿蛭の恐怖など知らぬ存ぜぬでパーソナリティーの男はのんきな感想を述べる。
「ゆうきさん、私、どうしたらいいですか? どうしたら……」
「どうもしなくていいんじゃない? 沼尻さんはもう死んじゃってるわけだしどうしようもないよ」
「わああああああああ!」
【死】。その一文字が聞こえた瞬間阿蛭は正気じゃいられなくなり、奇声をあげもつれる足でラジオを消しにかかった。しかし何度電源ボタンを押しても、声はやまない。
――――死んだ、あのとき、車でぶつかった人が、そんな、なんで、だって、今までずっと無事故で、ゴールド免許で、社長の言うことを聞いて、だから
冷汗を流しながらずっと同じボタンを連打する。カチ、カチ、カチ、カチカチカチカチカチ……
「それに、このラジオを聞いてるってことはもう――――」
続きを聞くのが恐ろしく、とうとうラジオを床に阿蛭は勢いよく落とした。
足が震え荒く息を吐く阿蛭の後ろから声がかかる。
「阿蛭さん」
「ラジオ聞きました」
振り返れば、粟野と畑谷だった。それだけではない。社長も部長も部下も、営業部も編集部も総務部も全員が自分の席で亡霊のように佇んでいる。
「あなたが」
「人を轢いたんですか」
短い言葉を繋げながら一歩一歩阿蛭に近づく人影。
「どうして」
「逃げたんですか」
阿蛭を見つめる目は全て焦点が合っていなかった。黒い穴のような目に阿蛭は怯え動けず、だんだん彼を囲む輪は狭まる。
「人殺し」
「犯罪者」
「阿蛭くん。君はークビだねぇ」
「ひっ、ひいいいい!!!!」
なりふり構わず部下や上司をなぎ倒すようにして人の壁を抜け、阿蛭はフロアを飛び出していった。
「畑谷さん、これ知ってます?」
出社してタイムカードを押したばかりの粟野が、そのまま既に自席で仕事の準備に取りかかる畑谷に自分のスマホ画面を見せる。表示されていたのはいわゆる「まとめ系」のサイトだった。
「周波数が合えば幽霊の声が聞こえるラジオ……? なにこれ」
表題を読み終えた畑谷が顔を上げ粟野に問う。
「畑谷さん前言ってたじゃないですか。最近ラジオが変だって。調べてみたら最近うわさになってるこのラジオに似てるんですよ」
――――暗くなって電波を受信しなくなったラジオをチューニングすると、死んだ者の声を聞くことができる。
粟野がかいつまんで解説する。
「ちょっやめてよ朝から幽霊なんて冗談でもない。ほら、もうすぐ朝礼なんだから席に戻る戻る」
「はーい、ってあれ、僕が最後ですかね。阿蛭さんもう来てます?」
「いや、来てないはず……電車の遅延はないみたいだけど」
パートナーを組むことの多い先輩を気にかける粟野に、キーボードをかたかた叩き畑谷が運行状況を簡単に調べる。
タイムカードは二人がいる総務部のすぐ隣のスペースで打刻する。粟野が打刻してからは誰も押していない。朝礼直前には売り上げ目標と営業予定から今日の予定を組み立てているはずの阿蛭の姿がホワイトボードの前にないのなら、不在は確定だろう。
「寝坊ですかね」
「そういえば昨日顔色悪かったし、体調不良なのかも。あとで欠勤かどうか電話してみなきゃ」
ほどなくして朝礼が始まった。その最中、遅刻した阿蛭が慌てて社内に駆け込んでくることも、休みを告げる電話がかかってくることもなかった。
営業部が出払った社内にわずかな静けさが広がる。それを打ち消すように内勤の一人がラジオを起動させた。
「昨晩お伝えしたあきる野市の轢き逃げ事件に進展です。犯人を名乗る男が今朝警察署を訪れました。詳しく話を聞くため、警察は……」
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