彼女と「かわいい」の変身について
水風船
水族館デート
彼女と水族館に来た私は、何故こうも自分がデートスポットの選択を誤ってしまうのかと、後悔している途中にいた。
しかし、それは彼女がこのデートに無関心だったからではない。つまりは私自身の無関心による後悔だった。
【ねぇ、このちっこい魚かわいくない?】
と、彼女が眼差しをこちらに向けながら私に語りかけてくる。
「ああ、確かに“かわいい”ね」
私は彼女が指差している水槽の方を、そっけない素ぶりで眺めながら、その中に佇むカシワハナダイの群れを認めた。
「この彩りは几帳面な芸術家のパレットを思わせるよね」と私は返した。
本来こういう文学的な表現というか、回りくどい言い回しなんかは、自分を十分に持っている人間はある種の嘲笑がこぼれたりするものなのに、彼女はこれをひどく好んだ。
「あーそういうことね!」
と張りのある声で彼女が言った。私は納得してくれたんだと嬉しくなって、その端正な顔立ちから放たれる美貌を遮りながら、彼女の顔を少し覗いてみた。
「この漢字なんて読むの?」
私が覗いた先にあったものは彼女の仰け反った鼻と、カシワハナダイの説明文が書かれた板だった。
(私の例えなんかを気にする彼女じゃないか……)
と、少し肩を落としながら私は丁寧に答えた。
「それはね『せびれきょく』って言うんだよ」
しかし、彼女は自分の質問の所在を忘れて、もう前に進んでいた。
私はすでに新しい水槽を眺めていた彼女の方に早歩きで向かっていった。
「あ、かわいい。お、これもかわいい」
私は、その無邪気な彼女の後ろ姿を見ながら、少し辟易していた。というのも、私の無関心を知らぬままに、この魚たちの本当の美しさを蔑ろにしている彼女がやや傲慢に見えたのだ。
彼女はその無邪気さ故に「かわいい」という言葉に溺れて、自分から外にある事物との関係とうやむやにしている感じがあった。
それは目の前にいる蝶を追いかけ、ついには手中に収めたものの、手のひらの中で潰してしまう子供に似ていた。
どんな彩りをしていた魚も、水草も、ついには水面に顔を出す気泡までも彼女は「かわいい」という言葉で台無しにしていった。
彼女の後に水槽を覗くとそこには「かわいい魚、水草、気泡」があった。それは私にとって最も退屈な時間だった。
水族館を出ると、外は雨が降っていた。
「傘もってきた?」
と彼女が言うけれど、私にはもはや彼女に差し出す傘は無かった。
「ああ……折りたたみ傘ならあるよ」
私は彼女に折りたたみ式の傘を貸して、自分の車がある駐車場まで走った。
靴下の冷えた感じが妙に心地良くて、不意に振り返った時に見た彼女の小走りする姿がかわいくて、私は今さっき水族館で憂いたことなどすっかり興味をなくしてしまった。
「車出すから、ちょっと下がって」
私はしっかり彼女の目を見て言った。
「そのフード、かわいいね」
彼女は私のフードを見て少しはにかんだ。
その後、レストランで夕食を食べて、家に帰って、三ヶ月後に別れた。
彼女と「かわいい」の変身について 水風船 @hundosiguigui
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