とあるお客様の話

@janken-wakisei

とあるお客様の話

数年前まで僕は妻と二人で美容室をやっていました。

東京で数年間腕を磨き、地元新潟に戻って店を開いたのです。


ちょうど予約の無い時間帯、僕と妻が開店五周年のキャンペーン内容や店内の内装をあれこれ考えていたときでした。窓の外に、僕より一回りくらい歳上の男性が歩いてくるのが見えました。


はじめはその男性がお客さんだとは思いませんでした。

ですが男性は真っ直ぐ店に向かってきて、扉を開けました。

「今、いいですか?」

僕は何のことかさっぱり分かりませんでした。男性は僕の返事も待たず一直線に散髪台に向かい、腰を下ろしました。

そこでやっとお客さんだと認識したのです。


なぜか?


男性の頭には一本も毛が生えていなかったのです!

一本も!

まごう事なきスキンヘッドなのです!


もちろんそんな経験は初めてでした。

東京時代の先輩からもスキンヘッドのお客様対応なんて習ったことがありません。


僕がまごまごしていると、男性が鏡に映る僕を見て、

「お願いします」

と言いました。

一体何を切れというのでしょうか。

ただの冷やかし客でしょうか。

いや、そうは見えませんでした。

あまりに自然に、髪を切られるのを待っているのです。


僕は意を決して、男性の後ろに立ちました。

そして男性に普段通り声を掛けました。

「ご来店ありがとうございます。どれくらいの長さにしましょうか」

すると男性は、

「全体的にもう少し短く」

と、ざっくりすぎる注文。

僕は、男性に髪が生えているとして、その架空の頭髪を触りながら、具体的に長さを聞いていきました。

そしてある程度想像がついたところでスキンヘッドに霧吹きを噴きかけ、櫛を入れました。

これでいいのだろうか?

俺は何をしているのだろうか?

何が起きているのだろうか?

次々と浮かんでくるそんな不安を掻き消すように僕は何も無い空間にハサミをいれていきました。


「実は僕も昔、美容師だったんですよ」

と、男性が突然口を開きました。

驚きました。

正直、そんなふうには見えませんでした。

男性はヨレヨレの黄色いアロハシャツにダサい短パンで、ボロボロのサンダルを履いていました。脂で光沢を帯びた顔はまるまると浮腫むくんでいました。おまけにスキンヘッド。

とても他人の髪を切っていい人種には思えませんでした。

「今は何をされているんですか?」

と僕が質問すると男性は、

「まあ、のらりくらりやってます」

という曖昧な返答をしました。

それは聞いてはいけないことだったようで、それからは何ともぎこちない世間話が続き、そしてついに髪を切り終え、というか終わったことにして、生えていない頭髪をシャンプーし、生えていない頭髪をドライヤーで乾かしました。


「こんな感じでどうでしょうか」

僕は三面の鏡を男性の後ろに持ってきて、仕上がりを確認してもらいました。ただシャンプーで頭皮がいい匂いになっただけなのですが。

男性は左右に頭を動かして、存在しない襟足や存在しないもみあげをチェックしました。

すると男性は、初めて笑顔を見せ、ありがとうございます、と言いました。

ホッとしました。

やっとこの奇妙な時間から解放されるんだ、そう安堵して男性をレジに案内すると、男性がレジ横にあった作りかけの五周年記念のポップを見て呟きました。

「五周年……」

「そうなんです。ありがたいことに五年やらせてもらってます」

僕がそう言うと、男性の顔つきが変わりました。

「本当にありがたい、って思ってる?」

「え?」

「ありがたみ、ってのは大抵失ってから気付くんだね。……五周年、あの頃はまだ楽しかった」

そんなことを言い、男性は僕に五千円札を握らせて店を出ていきました。

僕は渡しそびれたお釣りを持って男性を追いかけました。すると男性はお釣りを拒み、こう言い残して去りました。


「失うのは髪だけにしろよ?」


何のことかさっぱり分かりませんでした。

この奇妙なお客のことを妻と話そうと思って店に戻ったとき、そういえばさっきから妻の姿がどこにもなかったことに気がつきました。

奥の事務室にも妻はいませんでした。

ふと僕はレジに置いていた五周年のチラシを見ました。

その余白には、

『さようならもうたえられません』

という殴り書きがありました。

妻の字でした。

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