2巻③

 城内でただ気を揉むしかなかったエルロイのもとに使者がやってきたのは、その日すっかり日が沈んでからのことだった。


 街の治安に対して何の権限もない立場ゆえ、状況を知らせるように命じることはできない。機転を利かせたスザロから、「ユネスティーア様が近くにおられる可能性がある。一見無関係なことでもいいから、火災を含め街の状況を報告してはくれまいか」と見張りの衛兵を通して頼んではあったが、反応は薄かった。


 城下パスティユ地区の屋敷に軟禁されていた時と同様、ただ時が過ぎるしかない状況下ながら、スザロの振る舞いは普段と変わりなく見える。焦燥を鎮めることもできない自分を情けないと思う気持ちが湧き上がっては焦りと不安に押しつぶされ、また湧き上がる。与えられた部屋からは城下を一望することはできず、どうしようもない疎外感もまた焦燥に質の悪い彩りを添えるようだった。


 いつの間にやら用意された食事をスザロに言われるまま口に詰め込んだが、何の味も感じられない。手を滑らせて落とした小刀が床に弾んだ音で我に返ったほどで、駆け寄ったスザロを見、なぜスザロは普段と変わりなく見えるのだろうなどと考える始末だった。


「どこもお怪我はありませんか。──っ」


 エルロイを案じた後に続いた声に、再び外界に引き戻されたような感覚を覚える。刃の上を滑らせてしまったらしいスザロの左手指に赤い筋が浮き上がり、粒になった。


「おい、大丈夫か」


 とっさに手近の拭き布を手にとり、席を立つ。


「少し切っただけです、ご心配なく。……いけませんね、私まで」


 自虐するようなスザロの声に胸を締めつけられるようだった。……おれは何をやっているんだ。


 入り口近くにいた衛兵が来客を迎え入れた。スザロの手を抑えたまま振り返る。


「何をなさっているんです」


 いささか呆れたような声とともに入ってきたのはリュンカだった。


「いや、小刀で怪我を──あぁ、そうか。ちょうどいい。診てやってくれ」


 えっ、と小さくスザロが声を上げたが、お構いなしにその左手をリュンカに向かって差し出す。突然の申し出に瞬きながらもリュンカは差し出された手を見下ろし、小さく嘆息した。当てがわれていた拭き布を手にとり、しげしげと眺めた後に放り出す。代わりに懐から取り出した包みを開き、薄手の綿布を細く裂いて手早く患部に巻き付けた。


「化膿するような傷ではないでしょう。流水で流して消毒するに越したことはないでしょうが」


 思いがけない早業に、スザロはとっさに声も出せなかったようだ。


「……手慣れておいでですね」


「医者だからな」


 礼すら言いそびれた様子のスザロを気にするそぶりもなく、リュンカはちらりとエルロイに視線を向けた。視線を感じたエルロイはスザロに代わって短く礼を口にする。


「すまんな、藪から棒に。こいつが怪我なぞ珍しいものだから、つい焦ってしまった。……それで」


 続きを言い淀み、エルロイは視線をさまよわせた。


「……今日は、食事をすませてしまった。おまえが来ると分かっていたら待ったのに──」


「あぁ……。それには及びません。少々、仕事を仰せつかりましてね」


 表情をこわばらせ、エルロイは受ける句を探しては声を呑み込む。スザロもまた、きつく巻き上げられた指から顔を上げ、息を呑んだ。


「……ご報告に参りました。本日午前、セタ六番街の火災の件です」


 感情の読めない淡々とした声に部屋の空気が凍りついたようだ。返事もしない二人の顔に視線を滑らせた後、リュンカは続けた。


「出火元は碧の宿木亭、昼見世の時間帯につき客と大半の関係者は避難し無事でした。宿は半焼、原因は放火によるもので、すでに被疑者への尋問を開始しております。──が」


 勢いよく跳ね上がったエルロイの両手がリュンカの両腕をつかむ。見開かれた目を正面から見据え、二呼吸ほどの間を置いてリュンカは再び口を開いた。


「火災による死傷者はありませんでしたが、同時刻、屋内にて殺害事件が発生。先日の事件と同一犯と思われ、被害者の一名は宿木亭の女将でした。そしてもう一名は」


 喚き声とも悲鳴ともつかないエルロイの声にリュンカはいったん言葉を切る。両腕を強くつかんだままうなだれ、胸に飛び込んできたような格好のエルロイを見下ろし、リュンカは報告を再開した。


「……損傷が激しく確認に時間を要しました。証言と状況証拠により、ご存じの女で間違いないかと──」


 リュンカの腕をつかんでいた両手がわななき、痙攣するように震える。支えにしていた腕をつかみ続けることができず、膝下から力が抜けたようにエルロイはその場に崩れ落ちた。


 あの時起こっていたのは、火災だけではなかった。予想もしえなかった事件が同時に発生していたのだ。


「……なお、放火の被疑者については数日前より出所不明の宝飾品の売買に関与していたとのこと。元より脱税と二重帳簿の疑いがあり、内偵が進められていたとのことです」


 火災だけなら、まだ──ましだった。


 喉を裂くような叫びが報告の声をかき消す。床に崩れたエルロイとその隣に膝をついたスザロに小声で何か言い残すと、リュンカはさっと踵を返して部屋を後にした。その後ろ姿が通路へと吸い込まれるように消える頃、スザロは床を蹴って後を追う。


 去りかけた肩をつかんで振り向かせ、スザロは勢いよく報告者の体を壁に押し付けた。唇が震え、思うように言葉が出て来なかった。感情のない鉄面皮のような顔をにらみつけ、やっとの思いで声を吐き出す。


「あなたには、あなたには人の心というものがないのか……!」


 抑える手を跳ねのけようともせず、リュンカは礼儀作法をかなぐり捨てた青年の顔をしばし見つめる。ややあってリュンカは深く息を吸い込むと、目を細めて口を開いた。


「おまえも例の女をうとむ立場と聞いていたが?」


 瞬間、力の抜けたスザロの手からすり抜け、振り返りもせずにリュンカは再び歩き出す。


 握った拳で力任せに壁を叩くと、不快な痛みが骨を伝った。強めに巻かれた包帯の下で指が脈打つ。


 咆哮する獣のようなエルロイの声が廊下にまで響いていた。






 差し込む陽の光に気づいて薄目を開ける。


 硬い床に転がったまま失神同然に眠りに落ちていたようだった。意識はいまだ薄い靄に包まれ、夢の中にいるようだ。


 薄く開いた視線の先に誰かの靴が入り込んだ。身を起こそうともせず、頭だけを動かして靴の主を見上げる。


「……ヴィダ。……あれ、おれは……」


 口をついて出たのは幼い頃から使っていた愛称だった。


 エーリ、ヴィダ、ユナ。会う機会がそれなりに多かった幼い頃、そう呼び始めたのは誰だったか。属する立場はずいぶんと離れてしまったように思えるのに、愛称がするりと出たことを自分でも不思議に思った。


「あぁ、朝か……」


 つぶやきながら身を起こし、胡坐をかく。いつの間にかかけられていた掛け布が肩から床へと落ちた。


 挨拶をするでもなく、ゆるやかなエルロイの動きをダヴィードは黙したまま見守っていた。エルロイは床に視線を落としたまま数度瞬き、両手で額を覆って深く息を吐く。


「……夢でも見ているような気分なんだ。おまえ、マリエダにいるんじゃなかったのか」


「残念ながら現実だよ。予定より早く呼び戻されたんだ、理由は言うまでもないよね」


 エルロイの記憶の中にある温厚で気弱そうなダヴィードには似つかわしくない物言いだった。ほんの数日前、父親のそばで緊張に身をこわばらせていた時ともまるで違う。


 はは、とエルロイは声を低く落とすようにして笑った。


 ダヴィードは一昨年の冬から東の大領地マリエダへ留学していると聞いていた。内科医療を魔法に依存する代わりに外科医療を発展させてきたオースデンとは異なり、マリエダでは内科医療の発展が目覚ましいと言われている。北方の大陸との交流もマリエダの医療の発展に寄与しているようだ。


 その内科医療を学ぶために留学していたダヴィードだが、予定より早く呼び戻された理由は確かに言われるまでもなかった。ルテイエにしてみれば、力づくにでも大領主の座を奪おうとする時に跡取りであるダヴィードを遠くに置いたままではいられなかったのだろう。


 エルロイが座すはずだった席を奪おうとしたルテイエの長男ではあるが、不思議とダヴィード個人をうとましく思う気持ちにはならなかった。


「──まったく。何をやっているんだい、君は。君がそんなだから、スザロなんてろくに眠れもしなかったようだよ」


 呆れ交じりの声に促されて部屋を見回すと、隅に控えていたスザロと目が合った。


 なるほど、確かに精彩を欠いた顔をしている。床に突っ伏したエルロイに掛け布を用意したのはスザロだろうが、その後はもしや、一晩中見守っていたのだろうか。


 目線を下げ、かち合った視線を先にそらしたのはスザロだった。いかにもかけるべき言葉が見つからないといった風情だ。何も言葉が出てこないのはエルロイも同じで、そこに再び音を落としたのはダヴィードだった。


「エーリ。君の立場と状況は知ってる」


 ダヴィードは座り込んだままのエルロイの隣に膝をつき、目線の高さを合わせる。


 すぐにも次の言葉を吐き出すかに見えたダヴィードの唇が動きかけては止まるのを見て、ダヴィードとて落ち着き払って見せているだけで、内心にはさまざまな葛藤があるのだろうことが読み取れた。


「……ぼくはさ。ユナのことは君に任せるって決めてるんだよ、子供の頃から。だから……頼むよ」


 言い終えるとダヴィードはエルロイの反応を待ちもせずに立ち上がり、すぐさま身を翻した。足早に立ち去った背には、おのれの成すべきことを成せと記されているようだった。






 熟考の末にエルロイが選んだのは、飄々とした態度を捨てて治安省の協力を乞うことだった。治安省長官は急進派の中でも長であるルテイエにもっとも近く、友好的な相手ではないことなど承知の上だった。


「必要なのはセタ街に顔の利く者だ。省長殿の采配で構わない」


 頼みごとをするのはこちらなのだからと身支度を整えた後に出向くことにして、見張りの衛兵に取り次ぎを頼む。


 昨晩からのエルロイの様子を見、同情的な態度だった衛兵もこれには不審そうな顔をした。


「安心してくれ、街のことに口を出そうってわけじゃない。……六番街は治安省の仕事だ」


 言葉の後半はまるでおのれに言い聞かせるような口ぶりだった。


「──ユナは今日中に見つけ出す。あちらにもそう伝えてくれて構わない」


 伝令を引き受けた衛兵が部屋を立ち去ると、エルロイは近くに控えていたスザロに向き直る。もう大丈夫だと言う代わりに無理の残る笑顔を作って見せ、すぐ隣に寄って耳打ちした。


「先に話しておく。あの日に会った」


 甚だしく省略された言葉を咀嚼した瞬間、スザロは目を見開く。


「ならば、なぜその時──!」


 とっさに大声を出した後で衛兵の視線に気づき、スザロは続けかけた言葉を引っ込めた。


 その様子を横目に見、エルロイは自嘲的な笑みを浮かべる。なぜその時──改めてスザロに言われるまでもない。


 城下パスティユ地区の屋敷の使用人以外にもエルロイはいくつかの情報源を持っていた。そのひとつが公衆衛生省の副官であるリュンカだ。折に触れて届くリュンカからの手紙によって急進派の動きはおおよそ把握していた。


 いよいよ急進派が動いたのだと確信したのは、帰りの馬車を包囲された時ではない。想定より早い迎えによって六番街の宿を後にし、御者が言うには「突然目の前に現れた」ユナの姿を見た、その瞬間のことだ。


 もっともその姿を一目見るまでは、馬車が偶発的な事故を起こしかけただけだと思っていた。御者席を降りてきた少年を押し切って馬車を降りたのも、相手の怪我を確かめ、場合によってはどこかへ送り届けようと考えただけのことだ。


 いくらか乱れた髪の合間に翡翠の瞳を見た瞬間、そんな思考のすべてが吹き飛んだ。八年ぶりの再会ではあったものの、その容姿を見間違えることはなかった。そしてすぐに起こりうる出来事のいくつかが脳内を駆け巡り、誰かの意志によって逃がされたのだと思い至った。


 再会を懐かしむ余裕などなかった。この再会は偶然なのか、何者かにより仕組まれたものなのか。予定より早くやってきた迎えの馬車は何事もなく屋敷まで戻ることができるのか。怪我をさせたことにして馬車に連れ込むくらいはたやすい。しかしそれは、危険の中へむざむざ引き戻すことになりはしないか──。


 コツッ、と背後から聞こえた音にとっさに振り返ると、車体に当たった小石が跳ね返って転がり落ちた。衆目の中に紛れ込んだスズのしわざだった。誰が投げたかまでを瞬時に把握できたわけではないが、利用できる──いや、利用するべきだと直感した。路上に座り込んだユナの服にほとんど汚れがなかったことも判断材料のひとつだった。


 あの時──。


 目が合った時にはユナはすでに泣いていた。事故に遭いかけた恐怖で泣き出したようには思えず、十中八九、八年ぶりの再会だと気づいているはずだと思った。もしもあの時、一度でも名を呼ばれていたなら、連れ帰る方向に心変わりしていたかもしれない。


 今となっては言い訳だ。箱入りとは言え身の回りのことくらいは自分でできる娘だと聞いているし、あれほど有用な才能の持ち主なのだから身辺の安全の確保くらいは当然にできているはずだ。そう思うからこそ砂を払っただけで離した手の華奢さを今になって思い出す。


 昨日の火災は放火によるもので、その被疑者は出所不明の宝飾品の売買に関与していたという。この情報だけで放火の被疑者とやらが誰なのかは明白だ。そしていまだ野放しの猟奇殺害犯は放火された宿の中で犯行に及んだ。火災がなくとも殺害事件は起きていたかもしれないが、少なくとも営業中の宿に入り込むようなことはできなかったはずだ。


 投げた先の賽子が思うように転がらないことなど想像してさえいなかった。手持ちの駒を適所に配置さえしておけば時間はかかってもいつかは想定どおりの道筋が描かれるものだとばかり思っていた。自己満足のために名乗り、別れを突きつけ、望まれてもいなかった金品を押し付け、……その結果がこれだ。


 直接の因果関係はなくとも、原因の一端は確実にエルロイにある。盤上の駒を動かすような選択の、驕りの招いたことだ。


 あの時、一度は触れた手を離したことも、同じではないのか。


 匿ってやってくれと耳打ちした時スズは苦笑いをしていたが、スズが思うように動いてくれていたとしても、それだけで足りるのか。


 おれの驕りは、再び取り返しのつかない事態を招くのではないか──。


 重くのしかかる想定外の現実が思考を遮り、すべてが暗幕の向こうへと呑み込まれていくようだ。






 やがて戻ってきた伝令の案内を受け、エルロイはスザロとともに城内の一室を訪れた。


 出向いた先にはルテイエも治安省長官の姿もなく、三人の男が待ち構えていた。


 うちの二人は治安省の所属で、片方の徽章が示す等級はエルロイの想定外に高い。ルテイエの腹心とまでは言うまいが、思いがけず上位の者を差し向けられたようだ。もう一人は若いながらに中級の位があるようで、セタ街に顔が利く者として用意されたのはこちらだろう。


 残る一人はリュンカだった。もとより中立派で、最近の動きを見れば急進派よりもエルロイに近いことはルテイエにとっても明らかなはずだ。そのリュンカがこの席に居合わせるとは思わなかった。


 視線こそぶつかりはしたものの、普段のように軽口を叩く気分になどなれるはずもなかった。反射的に目をそらし、訪れた目的を思い出して顔を上げる。


「急に呼び立ててすまない、礼を言う」


 エルロイ自身にとってはごく自然な第一声に、治安省の二人はそろって表情を動かした。顕著だったのは中級兵で、エルロイと目が合った途端に目が泳ぐ。


 居丈高な態度に出ると予想していたのだろう。胸の奥に湧く苦みを今は押し殺し、エルロイは早々に本題に入ることにした。


「セタ界隈の情報屋を探している。早耳と呼ばれている男に心当たりはないか」


 今度はリュンカの表情が動いた。中級兵は後方の上官に視線を送り、意向をうかがうようなそぶりをする。昨日、街中で雑談を装った話題は、少なくとも治安省の二人には伝わっていたようだった。


 上級兵が慎重に口を開く。


「そう呼ばれる男の心当たりならありますが。姫の所在にどのような関与が?」


 エルロイは目線を落として深く息を吸い、意を決して顔を上げた。


「その同居人と付き合いがある。──パスティユに軟禁される直前、城から逃がされたユナを託した」


 中級兵は衝動的に息を呑み、上級兵は表情を険しく歪め、リュンカは額から瞼を手で覆ってうつむいた。それぞれの反応が意味するところを思いながら、エルロイは背後に控えたスザロをちらりと見る。つい先ほどまで従者であるスザロにさえ伏せていたことだ。言わば隠し玉とでも言うべき情報をこのような形で明かすことになるとは思わなかった一方、このような状況下での告白は驚かれ、あるいは呆れられるばかりではすむまいとも思っていた。


 反射的にそしりを受ける覚悟さえあったが、三人は賢明だった。目に見えて葛藤しているふうの中級兵でさえ口の端に上りかけた言葉を呑み込み、返すべき言葉を探しているように見える。


「……早耳の名を触れ回ればあちらから接触があると考えていた。どうやらそう単純な相手ではなかったということか──」


 少なくともスズに聞いた範囲では道理の分かる男という印象だったのだが、思い違いだったらしい。


 額に当てていた手を口もとまで下ろし、リュンカが言った。


「いや……性格は単純ですよ、実に分かりやすい。あなたの用件を理解した上で無視を決め込んでいるだけです」


「無視を……? どういうことだ、いったいなんの目的があってそんなことを──」


「あの男にご立派な目的なぞありませんよ。どうご説明したものか……」


 歯に衣着せぬ物言いをすることがあるリュンカには珍しく歯切れが悪い。


 奥に立つ上級兵が咳払いし、手前の中級兵に小声で何か話しかけた。中級兵はうなずき、リュンカを見やった後でエルロイに向き直る。


「バロウズという一族をご存じでしょうか。当主エレノア・バロウズは公衆衛生省の特別補佐官を務めております」


「バロウズ……? 姓名程度なら聞き覚えはある。若くして家名を継いだ女性が当主で──確か、治癒に特化した家系だと」


「はい。代々能力ある魔法使いを輩出する家系であり、大領主家の遠戚でもある。表舞台に出たがらない家系ゆえ大領主家とも距離こそ保っていますが、血筋の安定に関して右に出る家系はないとも言われてきた──早耳ことリッツ・バロウズはその当主の兄です」


 今度はエルロイが絶句する番だった。


 今でこそ魔法省の施策により相当数の実力ある魔法使いが確認されているオースデンだが、二十年ほどもさかのぼれば様相はまるで異なる。魔法使いの出生が多いと言われながらも彼らの存在はあくまで在野のもので統制はなく、ともすれば異質な能力を持った正体不明の怪物のように扱われることさえあったと聞く。


 そんな中、安定的に魔法使いを輩出し続けたバロウズ家は、大領主家より濃い血を保った優秀な血統であるとする見方さえあったこともエルロイは知っていた。


 しかし早耳と異称される男が魔法使いだなどという話は聞いたことがない。街中で再会して近況を尋ねた時、すごい奴と同居できることになったとうれしそうに話していたスズを思い出す。詳細を聞き出そうとしたわけでもないのにどんな男かをつぶさに語った中に魔法などという単語は一度も出なかった。いささかおしゃべりなスズの性格を思えば、単に話題に上がらなかっただけとは考えにくい。


 加えて、女傑エレノア・バロウズに兄がいるということさえエルロイは知らなかった。


「なぜだ。なぜ、そんな男が情報屋なんて……」


「当主含め生家とは折り合いが悪く、数年前に出奔したと聞いております。セタの暮らしが性に合うのでしょう。そういう男ですからワズ議員のおっしゃるとおり、パスティユ以北の意に沿うような行動を好んでとることはありません」


 やはりおれの考えは浅はかだった──。


 素性に関する情報を補完されたことで、エルロイはその思いをさらに強めた。一面的な情報だけで人物像を作り上げていたおのれの愚かさを呪う。


「……そう、か……」


 スズの友人というだけで無条件に協力してもらえるなどと思っていたわけではないが、そんな段階の話ですらなかったのだな、とエルロイは落胆した。


「協力させることはできますよ、少しばかり時間はいただきますが……」


 中級兵に説明を任せていたリュンカが口を開いた。言い終える前には治安省の二人へと視線を送る。


「街へ下りても構わんだろうな? 総務省長殿に許可をとる時間も惜しい」


「……承知しました。この件はお任せします」


 あいかわらず苦い顔のまま上級兵が応じた。うなずいたリュンカはエルロイの近くまで進み出る。


 一見無感情に見えることが多いリュンカだが、この時ばかりは何かもの言いたげな、それでいてつかみどころのない顔をしていた。


「エルロイ様。昨晩は──失礼しました。あのようにしかお伝えできず」


 何のこととは明確にしない物言いに、重くよどんだままの胸を締め付けられる。


 それでも今、口に出して言う必要があったのだと、エルロイは奥歯を噛みしめてうなずいた。返す言葉はわずかに震えた。


「……うん。いや、気にしないでくれ。……おまえでよかったんだ」


 リュンカがみずから報告役を買って出たのかは分からないが、他の人間から無遠慮に告げられるよりはましだったかもしれないと思う。伝えられる内容になんら変わりはなかったとしても。


 エルロイの返事にさらに応えるようなことはせず、リュンカはその場を後にした。






 正午過ぎ、エルロイはリュンカに指定されたとおりに二番街の北端にある管理舎を訪れた。


 協力を乞う場にリュンカが居合わせたことを意外だと思っていたが、この件に関しては治安省所属の衛兵よりリュンカの方が適任だったらしい。


 セタ街の管理舎は二番街、七番街、十番街、そして十五番街のそれぞれ北端に設置されていた。公の機関ゆえ、普段から相当数の衛兵が出入りしている。


 城から随行した治安省の中級兵を含む数名とスザロを伴い、エルロイは一階奥の貴賓室へと向かった。通路の途中には見張りが立っている。常より厳重と思われる態勢は昨晩の事件はもちろん、エルロイの目的を見越してのことだろう。


 貴賓室で待たされていたのはスズだった。深紅の布張りの長椅子の端に縮こまるようにして座っている。エルロイの姿に気づくと、スズはぱっと表情を明るくして立ち上がった。


「グラウス! 偉い人ってやっぱりあんたかよ」


 偉い人──かつてアリサにも使われたことのある言い回しにひどく胸が痛んだ。


 決して騙していたわけではない。ただ、言わなかっただけだ。


「よかったぁ。おれが知り合いの偉い人なんてあんたくらいしか思い浮かばなかったけどさ、何かやらかして怖ぇのが出てきたらどうしようかと思ってたんだよ」


 リッツ・バロウズに協力させることはできるとリュンカは言っていたが、その方法はまるで想像がつかなかった。今この状況とエルロイの立場をスズがどのように聞かされているかも分からない。


 スズが駆け寄ると、エルロイの手前にいた衛兵がさっと割って入った。反射的に立ち止まったスズの表情にさえ苦みを感じながら、エルロイは腕を出す。


「やめてくれ、そういうのは。──行くぞ、スズ」


 エルロイみずからスズを引き寄せると、衛兵は抵抗せず引き下がった。スズについてくるよううながし、身を翻す。


 スザロを伴って三人で馬車に乗り込むと、向かい合わせの席からエルロイはスズの前髪をかき上げた。


「この傷はどうした?」


 ほとんどは前髪で隠れていたが、額の端の方に切り傷がある。薄く出血しており、まだ乾ききってもいなかった。


「平気だよ、こんなん」


「殴られたのか?」


 問われたスズはばつの悪そうな顔をした。


「そんなんじゃねーけど……。なんかすげぇ機嫌悪くて、家の中のもん投げつけられた」


 誰についての話かは聞くまでもない。


 昨日までのエルロイなら義憤に駆られていたかもしれないが、今はもうそんな気になれなかった。


「しゃあねえよ、あいつ貴族とか金持ちとかすげー嫌いだもん。それよりさぁ、グラウスって偽名?」


 改まって聞かれ、エルロイは首を振った。


「郷里の慣習で母方からもらった愛称だ、偽名ってわけじゃない」


「だからかぁ。あいつ、あんたが誰なのかまでは知らなかったらしいからさ」


 アリサに対して名乗った家名はとっさにでっちあげたものだったが、スズに対しては家名までは名乗っていない。スズのように央都にあってさえ出生が曖昧な者は多く、日々を過ごす上で家名が必要とされることはほとんどなかった。


「あいつ、たいてい昼間は寝てるのに、誰か来て出てったと思ったらすげぇ剣幕で帰ってきてさぁ。てめぇはどこの誰とお友達になってやがんだ、ってすげぇ勢いで怒鳴られたんだよ。おれ何のことだか分かんなくて、家の前まで迎えが来てたからあんたに会えたけどさ」


 身振り手振りを加えて解説するスズの口ぶりはあくまで軽い。


「でさぁ、おれ、よく分かんねえんだけどさ。大領主って何する人?」


 エルロイは思わず吹き出した。反射的に吹き出しただけのはずなのに、おかしなもので鳩尾が震えて笑いが止まらなくなる。


 体を揺らした弾みで隣に座るスザロにぶつかり、肘で小突きながら見上げると、スザロはなんとも名状しがたい顔をしていた。眉間には皺が寄り、口もとは何かもの言いたげに薄く開き、それでいて何を言っても望む応えは得られまいと確信している時のような、かけるべき言葉を見つけられずにただ見つめるしかないような──十八年の人生においてもっとも長く付き合ってきた男の顔を、この時、実に久しぶりに見たような気がした。

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