2巻②
街へ降りた日のうちに借りることができた中級宿の一室で、ユナはほとんど一日中、寝台に横たわっていた。
体が重い。視界には靄がかかり、その上ぐらぐら揺れて定まらない。目を伏せれば、無限の底へ落ちていくような錯覚に襲われた。知らぬ間に眠りに落ちては目覚め、体を起こしていられる時間もあるにはあったが、その時間も徐々に短くなっている気がする。
何度も買い出しに出なくてすむようにと、初日に手に入れておいた保存食に手をつける気にもならなかった。
こんな状態でさえなければ、ユナは早々に捜索隊の存在に気がついていただろう。いくら街を行き交う人々が多くとも、統制された衛兵の動きは街の人々とは異質だ。
もっとも、気配を感じる余裕はなくても、捜索が出ていることくらいは察しがついていた。マリエには──マリエの計画にはユナが必要なはずで、みずから連れ戻すことができないなら、他の手段を講じるはずだから。
マリエの計画。それに思い当ったのは、宿を借りた日の夜半のことだった。
ちょうど日が切り替わる頃だったと思う。泥沼に沈むような眠りの中、大気を鋭く裂くような風音を聞いた気がして目を覚ますと、途端に四肢を強くねじり上げる激痛に襲われた。回るはずもない方向にねじり、関節か付け根から引きちぎろうとするような痛み。
喉が裂けそうなほどの叫び声を上げ、息が切れた瞬間、再び目が覚めた。夢を見ていたようだった。
動揺に荒れる呼気に気づいた頃には手足がしびれていて、これは現実の痛みだとなんの根拠もないのに思った。腕も足もある、ねじり上げられる痛みはない。ただ、荒すぎる呼吸が苦しい。不快な汗が首筋を落ちる。
酷い夢を見た、と思わなかったのは、それが確かに記憶にあった痛みだからだった。四肢を引きちぎられる痛みだけではない。ある時には切り裂かれ、ある時には切断され、ある時には骨を踏み砕かれ、ある時には炎にあぶられ、ある時には肉を抉られる──すべて生者の身体を使って行われた実験と、その追体験の記憶だった。
なぜ忘れていた?……考えるまでもない。マリエがそのように仕向けたからだ。
最初から非道な実験の場に連れて行かれたわけではなかった。
実験に参加するようになったばかりの頃はマリエを含む魔法省の面々から偶発的な怪我や病の治療を頼まれ、応じることに迷いも疑問も持ちはしなかったし、成果を誇らしく感じていた。だがどんな成果を上げても魔法に関することである限り母から褒められることはなく、そのことだけはつまらないと思っていた。
「きっと心配なんでしょう、ただそれだけ。魔法というものは本来、個の内々にある生命の力を放出するものだから」
マリエは幼いユナが相手でも積極的に平易な表現を使うことはしなかった。大人のように扱われていると感じたことも、魔法の指導が的確で日々できることが増えていくことも嬉しかった。いつかはなんでもできるようになると信じて疑いもしなかった。
無邪気な万能感を粉々に打ち砕いたのは、他ならぬ母の死だった。
「病ではないから治すことはできないわよ」
マリエはそう言っていたが、マリエでも間違えることはあるのだと思っていた。
床に臥せることの多かった母をただ見ていたわけではない。発熱や咳嗽などの症状を抑えることくらいはできた。褒められこそしなかったが、感謝の言葉は幾度となく聞いた。だが、対処療法と根治治療の違いを、病と病でないものの違いを理解するには、ユナはまだ幼すぎた。
母が死に至るまでに劇的な変化が重なった記憶はない。私室を出ることが徐々に減り、床で過ごす時間が延びていった。まるで動いているようには見えない月がいつの間にか空の端へと落ちていくように、ごく緩やかに容体は変化していった。
呼気が、鼓動が止まってもまだ温かな手を離すことができなかったのを覚えている。
何もできなかった。
できていると思っていただけだった。
だからマリエに乞うた──マリエみたいに、なんでも分かるようになりたい。
マリエはすぐに応えてくれたわけではなかった。
もとより魔法省の管理運営で多忙な身だ。父という後ろ盾はあれども、新省の長として実績を上げる必要もあったはずだ。ユナに対する魔法教育も仕事の一部とはいえ、常に優先できるわけでもなかっただろう。
マリエに連れられ、初めて降りるマーヴィラ宮の地下には自然光の入り込む隙間はなく、壁に配された灯りだけが頼りだった。星月の明かりさえもなく、明けない夜と静寂に支配された地下は、もともと城外へとつながる脱出路として設けられていた地下路を拡張したものだと教わった。
重そうな扉で閉ざされ、かすかな灯りをこぼすいくつかの部屋の前を通り過ぎ、連れて行かれた部屋は瓦斯灯に照らされ昼間かと思うほどに明るかった。
「手元まで明るくする必要があるからね」
尋ねもしないうちから疑問をマリエは疑問を汲みとったようだった。
「簡単なことから始めましょう。彼の状態と、対応方法は分かる?」
視線でうながされ、木製台に横たえられた男のそばへ寄る。肋骨が浮き出るほどに痩せた男の体に広がる内出血を、その時は偶発的な事故によるものだと思った。
マリエの指示による実践や座学は幼い子供を対象とするものではないと進言した者はいたが、マリエは意に介さなかったし、ユナ自身も気にしなかった。地下へ降り、様々な実験に関わることはやがて日常の一部になった。
何度も怪我や病を繰り返す者がいることは不思議に思っていて、それらがすべて故意によるものだと知った時は衝撃を受けたが、そのことについてマリエと話したのは覚えている限りでは一度だけだ。
──おじさんたち、痛いのかわいそうよ。治してあげても、どうしてまた痛くするの?
それが罰だからよ、とマリエは応えた。彼らは皆、死罪または長期の懲役、あるいは実験の被験者となることを言い渡された罪人だった。
「ねえユナ、あなたはすでに彼らの痛みを知っているわね。彼らがどんな人間でも、それはかわいそうだと思うのね?」
ためらいつつもうなずくと、マリエは膝をついて目線をユナと同じ高さに合わせ、優しい子、と言った。
「その痛みを知りながらなお、他人に与えることをなんとも思わない人間がいる。彼らがまさにそうよ」
この頃には、マリエが言うことのすべてを真実だと信じていたわけではない。それでも、夜毎訪れる夢を通して罪人たちの残虐性や凶暴性を目撃したことのあるユナにとって、納得してしまえる指摘ではあった。
「忘れてしまいなさい、ユナ。痛みも苦しみも、あらゆる恐怖も覚えておく必要はないわ。その身で学んだ技術と能力だけを手放さなければいい」
マリエの言葉に暗示の意図が込められていたのかどうかまでは分からない。
地下からもたらされるすべての報告に目を通している父は何も言わなかったし、罪人の身体を利用した実験は医療研究においても行われていることと聞き、いつしかユナは環境を受け入れていた。
感情は次第に麻痺していった。
やがてユナは夜毎の悪夢──無自覚に身体を抜け出しては、その心身に憑依して追体験する街人の苦境から遠ざかるためにとマリエが用意した地下の繭床を寝室代わりにするようになった。
怪我にせよ病にせよ、魔法による治療に必要となるのは法者本人の生命の力に他ならず、本来はいくら魔法の才に恵まれた者であっても無限に使えるようなものではない。そんな通説がまるで当てはまらず、無尽蔵にあふれるようなユナの力を安定させるために作った実験場だとマリエは言っていた。
夢を通して見る街には、悲劇ばかりがあふれていたわけではない。深夜の家路を急ぐ大人と眠い目をこすって親の帰りを待つ幼子たち、ほろ酔いで眺める街の灯りの美しさ、恋人たちの甘い愛の囁き……。
意図的に何かを追えたわけではなかったから、たまたま引き寄せられては同化しているのだろうとマリエは言った。怒りや悲しみに接することが多いとしたら、それらの感情の方がより強く放出されやすいからだろうとも。
繭床での眠りは、周辺の状況さえ意識から振り払ってしまえば心地よかった。仕組みについて説明を受けてはいなかったので、あふれた魔力の行き先が気にならないわけではなかったが、広い空間に拡散してしまえるのかもしれないと漠然と思っていた。
でも、もしもマリエが、常人とは逆の方向に心臓を持つユナの利用を考えていたのだとしたら?
右胸の心臓にまつわる噂などただの与太だと否定してみせながら、本心は別のところにあったのだとしたら?
物心ついた頃から変わらないマリエの容姿についてさえ、当人が身近すぎて深く疑問に思ったことがなかった。マリエもまた、生まれ持った才故にいらぬ苦労を強いられたとは言っていたから、不老はその苦労を解消した結果の副産物なのだろうとしか思っていなかった。何よりマリエは内臓逆位ではなかったから、ユナ自身の生命の巡りが逆であることにはなんの意味もないと思っていた──はずだった。
繭床が作られた後、他の場所で眠ったことは一度や二度ではないし、長時間離れていたこともある。そうした時、夢うつつで意識だけが街へ降りてしまったり、多少の体調の変化を感じたりすることはあったが、これほどまでの悪化は記憶になかった。
今となってはマリエの本心は見えず、意図された事象とそうでない事象の区別もつかない。
ただ確信できるのは、みずから育て上げたユナをマリエが簡単に手放すはずはないということだけだった。
頭が重く、鈍い痛みがつきまとう。深呼吸をしても息苦しさが抜けず、体がほてる。
繭床を、あるいはマリエのそばを離れては、この身に宿る力を制御することもできないというのだろうか。婚約者には顔さえ忘れられていた一方、ユナ自身は忘れていたことを思い出し、マーヴィラ宮へ戻ってはいけないような気がしてならないのに。
遠ざかる意識の端で何かが弾ける音がする。眠りに落ちてはならないと遠くから呼びかける声のような。
息が苦しい。
吸っても何も入ってこないのに喉だけがひりつくよう。それに、空気がざらつくような……。
──違う、夢じゃない! 一時、心身の重さを忘れてユナは飛び起きた。この空気、それに臭いを確かに知っている。
だが、起き上がって見回した部屋にはなんの異常もなかった。
「……夢……?」
夢じゃないと思って飛び起きたのに。胸の奥から嫌な予感がせり上がる。
夢ならいい。夢でないなら、今ここではないどこかで起こっている出来事だろうか?
ほてった体を引きずるようにユナは寝台から降り、もう一度部屋を見回した。部屋の西側、確か中央街の堀に面した側の木製窓に目を止め、震える両手で押し開く。
瞬間、叩きつけるような熱気に煽られてふらつき、床に倒れ込んだ。反射的に体をひねったおかげで真後ろには倒れずにすんだ。転んだ拍子に手首を痛めた気がしたが、状態を確かめる余裕もなく再び窓から外を見た。
深夜だった。厚い雲に星月の明かりを遮られた街の空には瓦斯灯の光が反射し、複雑な競演を見せている。
堀の向こうには隙間なく建物が並んでいた。熱気の出どころと思えるようなものは見当たらない。何も起こっていない……今は、まだ。
並ぶ建物を端から順に見つめるうちに視界が揺らいだ。壁を舐めるように這い上がる炎の揺らめき。これは、今起こっていることでは……ない。
とてつもなく怖かった。まだ起こってもいないことを感じる経験は初めてだった。
並ぶ建物が炎に呑まれる。もしもそんなことが現実に起こってしまったら、取り返しのつかない事態になる。
ただの夢か、錯覚ならいい。でも、もしもそうではなかったなら……?
祈るような気持ちでユナは重く垂れこめる雲を見上げた。自身、何を祈っているのか分からないまま。
雨期はとうに過ぎているのに曇天続きの毎日だ。湿気は多い。こんな気候の中、火の手が上がることなんてあるのだろうか。
ユナは両の掌を見つめ、片方の指先に光を、片方の指先に風を呼んだ。
こんな程度のことなら方法を探るまでもなく簡単にできる。乾燥しきった大気中の塵と塵を擦り合わせれば、火を起こすこともできるかもしれない──が。
手指は緊張に震え、唇は渇いていた。悪い予感ばかりが増大する。
手を窓枠に下ろし、星月を遮る雲を見上げた。どんなに手を伸ばしても届くことなどない高さの雲。
遠すぎる──。
やがて視界はぼやけ、歪んで、再び眩暈に襲われた。くらくらする視界と耐えがたい眠気。それらを自覚するのとほとんど同時に、ユナは膝から崩れ落ちるようにその場に倒れ込んでいた。
どこか遠くで金属質の音が響くのを夢うつつにとらえ、アリサは気だるげに瞼を開いた。
階下から聞こえてきた音のようだ。昼の見世窓に並ぶ女たちが身支度の途中に粗相でもしたのだろうか。
生活の習慣というのはなかなかに変えがたいものらしく、仕事をしなくてよくなってからも夜は夜で目が冴えて就寝は遅れ、朝はこれまでと同じ時間に目が覚めた。女たちと顔を合わせたくないアリサのため、食事は女将が部屋へと運んでくれていた。
今日こそは家族に宛て、手紙を書こうと思っている。することもなく起きていれば気落ちする一方だったが、今さら何をどう振り返ったところで状況は変わらない。それなら今からできることを考えようと、ようやく気持ちが落ち着きかけたところだった。
この一年あまりの出来事は、央都へ来てからの四年の中でももっともよく思い出すことになるだろう。手紙は仲介の親類に送って家族を呼び寄せ、どこか知らない土地へ移り住みたい。
身を起こし、身支度を整えようと思ったところでアリサは妙な臭いに気がついた。その存在に気づいた途端に臭いは濃度を増したようで、手近にあった手拭き布で鼻と口元を覆う。
いったいなんの臭いだろうと扉を開くと、そう広くもない通路の上方は黒い煙に覆われていた。扉の動きに引き込まれたように、濃い煙が部屋に入り込んでくる。
火事だ。
嘘でしょ、と思わずつぶやき、中庭に面した背後の窓を振り返った。通路が駄目なら窓から飛び降りるのは? 飛び降りられるような高さだっただろうか──いや、そもそも窓には脱走防止の格子がある。外せるような造りとは思えない。
アリサは不用意に開けてしまった扉を慌てて閉めた。他の女たちは、女将は階下にいるのだろうか。二階にいたのはあたしだけ?
そう思った瞬間、ぞっとした。
逃げ遅れた……?
あたし、逃げ遅れたの?
突如、通路側から大きな物音が聞こえてアリサは身を震わせた。座り込んでいる場合じゃない、とにかく逃げなくちゃ。部屋の外に人がいることを願い、屈んだ姿勢で再び扉を開けた時、声が聞こえた。
女将の声だ、間違いない。四つん這いで部屋を出、アリサは目を疑った。
「おかあさん!? おかあさん!」
階段の最上部に身を投げ出すようにして女将が倒れていた。いつの間にか手放していた手拭き布の代わりに袖口で口元を抑えて駆け寄る。うつぶせに倒れた女将の背には深々と刃物が突き立っていた。
こっちは駄目、と女将は声を絞り出す。
「あいつが……。あいつが全部盗んだ、あんたの……」
「おかあさん! ちょっと、しっかり──!」
大声で呼びかける途中でアリサはひどく咳き込んだ。煙が目に沁みる。口の中はざらつき、割れるように頭が痛む。女将はうわ言のように何かをつぶやいている。
「あれえ。まだ誰かいたァ」
すっかり黒煙で埋まった階段側から場違いな声が聞こえてきた頃、アリサは通路に倒れ伏していた。体が動かない。視界には正体不明の光がちかちか踊っている。耳は聞こえる。頭が痛い。
「アハハ! ちょうどいい。ひとつだけ数が足りなかったんだァ」
遠くの方から知らない誰かの声が聞こえる。誰かが体に触れる──違う、頭が床に落ちる。
やめて。乱暴にしないでよ。本当に嫌な客ばかり。
頭が揺れる。揺らさないでよ。誰かの体温と体の重み。
今さらどこへも逃げやしない。ああ、でも、そんなに怖々触れなくてもいい。
そうだった。あたし、意地っ張りだった。
悪かったわね。馬鹿にしたりして。
手紙を書こうと思うのよ。
言えばよかったのね。
そうよ。
そう。
手紙を。
──助けて。
セタ六番街火災の報は瞬く間に近隣へと広まった。
もとよりたいして広い街ではない。区画整理され、南北方向の大路地と東西を抜ける路地が数本ある以外にはほとんど隙間なく建物同士が密集した街だ。
重苦しい曇天を背に立ち上がった黒煙は街区の外からも見ることができ、報が広まるより早く各所で野次馬が人垣を作り始めていた。
セタ街の西南端、十六番街の詰所近辺にいたエルロイを含む捜索隊の周辺も例外ではない。
「……六番街のあたりだ。あの宿にはまだ──」
エルロイがつぶやく。
早駆けの騎兵から情報がもたらされるより早かったその声を、スザロは聞き漏らさなかった。
伝令の大声を受け、詰所から複数の衛兵が飛び出してくる。エルロイはその目前に飛び入り、襟首をつかんだ。
「現場支援の隊はどれだ! おれも指揮に──」
いきなり襟首をつかまれて狼狽した衛兵が応じる前に、スザロは割って入る。
「何を言っているんですか!」
現状のエルロイ、スザロはよそ者だ。有事の体制を把握しているわけでも、全体に顔を知られているわけでもない。
「足手まといになる気ですか!? あなたが行って何ができると」
指揮の権限があるわけもなく、現場にいても邪魔になるだけだと考えるまでもなく分かることだ。
エルロイの返事を待ちもせずスザロは周囲を見回した。
「すまないが、詰所の隅を借りる。皆、訓練どおりの有事対応を!」
その声が耳に入っているのかいないのか、エルロイは棒立ちで立ち上る黒煙を見つめている。せめて邪魔にならない場所へ移動させようと腕をつかんだ時、年配の衛兵が駆け寄ってきた。
「すぐに出られる馬車の用意があります。ここも離れてはいますが混乱しますから、今のうちに離脱を」
スザロは目を見張り、エルロイを仰いだがなんの反応もない。話を聞いてもいないようだ。
渡りに船と言いたいところだが、罠の可能性が頭をよぎった。しかし、申し出た衛兵の言うことはもっともだ。現場からは離れたこの詰所の前でさえ、群衆を散らせる隊、連絡隊、現場へ向かうと思われる隊などが行き交い始めている。
「感謝する」
スザロは短く応え、エルロイを抱きかかえるようにして案内された馬車まで連れて行った。ポツッ、と肌に触れた感触に気づいて空を見上げる。──雨だ。なんと時宜にかなった天候!
エルロイを車室に押し込み、スザロは隣に乗り込んだ。エルロイはよく聞き取れない喚き声を上げ、スザロを乗り越えて降りようとしたが、全身で遮って車室に押しとどめる。
「あなたが合流してなんの助けになると? お分かりでしょう!」
エルロイの表情は強張り、スザロにつかまれた手はまるで痙攣するように震えていた。エルロイは緊張を握りつぶすように拳を固め、スザロに身をすり寄せる。
現場に駆け付けたところでなんの助けにもならないどころか、邪魔になるだけ──それはエルロイとて、言われるまでもなく分かっていた。
スザロは車室の窓を指で叩いて見送りの衛兵に謝意を告げ、馬車は人混みを避けて動き出す。
エルロイを座席に座り直させ、不測の事態にも対応しやすいよう姿勢を改めて、スザロは流れる情景に視線を走らせていた。
窓の外では徐々に雨脚が強まりつつあるようだ。
城内に与えられた部屋に戻った後、エルロイは落ち着かない様子で室内をうろうろと歩き回っていた。
そもそも主体的に情報を集められる立場ではない。つい先日まで城下の屋敷に軟禁され、現在とてユナ捜索の名目によって外出を許されていただけの身だ。
しかし、ユナ捜索という本来の目的はいまや頭の片隅に追いやられていた。
六番街のあの宿に金品を贈るにあたって、エルロイは条件を提示していた。本人の意向にかかわらずアリサを宿から上げること、その日が決まったらすぐに連絡をよこすこと、この二点を本人には決して伝えないことのみっつだ。
エルロイの素性についてアリサが宿に対しては口をつぐんでいたとしても、要求をおいそれと無下にはできないだけの金額を渡してある。特定の女のもとへ通っていたことを隠す気はなかったので、仲介は各街を取り仕切る官舎勤めの人間だ。
贈り物の指示を終え、アリサ本人と話した直後にエルロイは屋敷を発っている。以降、ユナ捜索のためエルロイがセタ街近辺に降りていることは官舎には周知されているはずで、アリサの出立の日さえ決まれば早々に連絡があるはずだと踏んでいた。
つまりアリサは、まだ六番街の宿にいる。
スザロに引きずられるようにして馬車に乗せられた時、雨が降り始めたことには気がついていた。黒煙は複数箇所から立ち上っていたというわけではないから、あの時点ではまだ周辺にまで燃え広がってはしていなかったはず。しかし六番街の建物の基礎や外壁は石か煉瓦積み、内部のほとんどは木造だ。火の手が一度上がってしまえば内部で燃え広がるのは早いだろう。何よりも煙が立ち上がっていた位置は、通い慣れた宿の真上のような気がしてならない……。
風の刻二つ、セタ中央六番街「碧の宿木亭」にて火災発生。昼見世の立ち見客により早期発見、避難開始までに若干の混乱あり。同四つ、周辺住民を含めた避難完了。力の刻四つ、降雨と地上からの散水により鎮火。直後より現場に立ち入り調査開始。延焼および火災による死傷者はなし。ただし──。
治安省による報告は刻々と更新され、その都度、城へと伝えられた。延焼を免れ、特定の宿が半焼しただけの小規模な火災ではあったが、報告は通常よりも上位まで上げられることになった。
室内には嫌な沈黙が降りている。都度の報告を命じた部屋の主、ルテイエ・ポロムラクスの表情は冷たく、その感情は読み取りがたい。
在室の人数は少なかった。ルテイエと報告役の上等兵二名の他には、ルテイエの長男ダヴィード、治安省長官の姿があるのみだ。
「……ただの偶然か? 誰かの差し金の可能性は」
長い沈黙の末にルテイエがつぶやき、一堂の表情に緊張が走った。
「新たな情報があり次第、即報告するよう指示を出しております。特に、何かつながりを証するような情報があった場合には──」
「いや、証拠なぞいらんだろう。事実そうである必要もないのだ。……そうですな、総務長官殿」
上等兵が話し終える前に治安省長官が口を挟んだ。ルテイエは眉間の皺を深くしただけだったが、治安省長官は構わず続ける。
「あのように距離の近い者があっては邪魔だとあなたもおっしゃっていた。であれば、疑いの種を撒くにはもってこいなのでは」
近くで聞いているダヴィードはしきりに唇を噛み、気が気でないといった顔をしている。以前ならこのように策謀が巡らされるような場に同席を命じられることも許されることもなかった。
実父とは言え、ルテイエの方針に異を唱える度量のない自分が情けない。しかし、と思いを募らせて口を開こうとしたところで、ルテイエの指先が机を叩く音に気がついた。
「火種を撒くのは構わん、しかしあれが弱りすぎては困る。あの魔女一人ですら我々の手には負えなんだのだ」
ルテイエは手を止め、腕を組もうとしてはやめる。「あの魔女」と呼んだ相手、マリエに負わされた傷が痛むようだ。
「どこまでがあの魔女の意図した状況なのか、それが問題だ。……雨が魔女の意図に反するものならば、あの娘はさらに手に負えぬ獣かもしれぬ」
「例の双生を秘密裏に現場へ向かわせております」
ルテイエはうなずいた。
「獣は檻の中にいるものを眺めてこそ愛でることができるというもの。野に放たれ自由に駆け回る姿なぞ、ただの害獣でしかないわ。だからこそ調教できる者が必要なのだ」
父の言いようにダヴィードは心が冷えていくのを感じずにはいられなかった。
大領主ジェレミア・アシュレイによる魔法省の優遇や魔法研究への傾倒に対し、父ルテイエが強い警戒心を抱いていたことは知っている。魔法使いと呼べそうな血縁者が一人もいない影響もあるのだろうか。誰もが持ち得る能力ではないからこそ価値があるのに、などと言ったところで父の考えを変えることはできないだろう。
ダヴィードはため息を押し殺し、部屋から解放される時を待った。
幼馴染として育ったユナはもちろんのこと、その婚約者エルロイを父と同じ目線で見る気にはなれない。伝え聞く噂話に対して思うところがないわけではないが、数年ぶりに再会したエルロイは想像以上に堂々としたふるまいを身に着けており、頼もしく見えた。
あのように堂々と父と張り合う勇気はまだ持てないが、それでも彼らのためにできることはある。
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