2巻①
爽やかに晴れた空の下、大人の膝丈ほどに伸びた草花の合間は身を隠すにはもってこいのはずだった。地面すれすれまで下げた目線の先では、丸々と太った芋虫が音もなく草を食い荒らしている。
十までをゆっくり数えていた少女の声が止まった。あたりが静かになったのはほんの一瞬のことで、勢いよく駆け出したらしい少女の足が草をすり抜ける音が近づいてくる。
「エーリ、見つけた!」
真上からのぞき込んだ得意満面の少女を見上げ、エーリと呼ばれた少年は落胆の声を上げた。
少年が渋々起き上がるのを待つことなく、少女は方向転換し、少し離れた石壁に向け一目散に走っていく。
「見ーつけたっ」
少女は背の低い石壁の向こうをのぞき、隠れていたもう一人の少年の腕を引いて草むらへと連れ出した。
「ここまで離れてもダメかぁー」
引っ張り出された少年は大仰にため息をつき、少女は楽しそうにコロコロと笑って少年と腕を絡める。
「わっ、ダメだよ」
「離さないもーん」
同い年の少年にじゃれつく姿に無性に苛立って仰向けに転がると、顔の上を細長い葉に似た虫が飛び越えていった。自分が突然寝転がったせいで驚いて飛び上がったのかもしれない──などと発想する心の余裕はなく、幼い少女の無邪気な笑い声にぞんざいな声をかぶせる。
「ユナはズルいよなー。どうせどこに隠れたって無駄なんだからさぁ」
笑い声はぴたりと止まった。まずい発言だったか、と気づいた時にはもう遅い。
途端に暗く沈んだ少女に助け舟を出したのは、隣にいた少年の方だった。
「そんなことないよぉ。だって、ユナがどこまで見つけられるかを確かめてるだけだもんねー?」
とてもじゃないが齢八歳の発言とは思いがたい。そんなふうに懐かしく思い返せるようになるのはずいぶんと先のことで、その当時は苛立ちが増しただけだった。
「さあ、ユナ。今度はもっとうまく隠れるよ。あっちを向いて、もう一回、十まで──いや、三十まで数えて!」
言い終えるが早いか、少年は移動を始めたようだ。
機嫌を直したのか、少女は言われたままにその場で数を数え始めた。
二人といない魔法の才を持って生まれたと称される少女は周辺の人の気配を察することに異常なほどに長けていて、姿を完璧に隠したところで瞬きひとつほどの間に居場所を見つけてしまう。まるで遊びにならないことなど最初から分かりきっていた。
どこまで見つけられるか……ね。
隠れ直そうという気にもならずそのままやりすごすつもりだったが、ふと、いたずら心が湧いた。極力、音を立てないように身を起こし、石壁を向いて数を数える少女に向かって静かに歩み寄る。
少女が三十を数え終わる頃、少年は手を伸ばせば届きそうな距離にまで近づいていた。
「もぉー。エーリ、ちゃんと隠れ……て……」
顔を隠していた手を広げ、抗議を始めた少女の声が唐突に止まる。
少年に詰め寄ろうとした顔の真ん前で、丸々と肥えた芋虫が身をくねらせていた。
「きゃ……いゃあぁぁあ!?」
少女は反射的に顔を伏せ、勢いよくその場にしゃがみ込む。途端、その足もとから強烈な風が吹き上がった。
芋虫を手にニヤけていた少年が、人間の気配は分かっても芋虫は分からないんだな、と、少女をからかうつもりだったかどうかは定かではない。
確かなのは、想定外の暴風に煽られた少年が体ごと空に舞い上がり、あわてて飛び出してきたもう一人の少年が大口を開けて見守る中、頭から草むらに落ちてしたたかに後頭部を打ちつけたことだけだった。
あの時の強烈な痛みは、どれほど時を経ても忘れまい。
《円の大陸》アンスウィンは中央よりやや東を縦断するゼアラ山脈によって大きく分かたれ、東側にはみっつの大領地が、西側には五つの国があるとされている。東側のみっつの大領地──北東のマリエダ、北西のオースデン、南のユノはそれぞれに異なる文化を育てながらも友好的な関係を保っていた。
オースデンの央都グルティカは城下に十の歓楽街を持つ享楽の都として知られ、観光は産業の柱の一つだ。長引く不況により貧富の差が拡大し、都全体の経済基盤の揺らぎさえ噂されるようになって久しいこの頃でも外来の客が急減することはなく、街々を行き交う人の数は多い。
今、市井の人々に伝わることはないまま、都は後継問題に揺れていた。
大領主ジェレミア・アシュレイには娘が一人あるのみで、妃は八年前に世を去った。後妻を娶ろうともしない姿は一途と言えば聞こえはよいが、後継者の選択肢が少なすぎる状況は望ましいものではない。しかし長い間、央都で表立ってこれを口にする者はいなかった。
大領主家ただ一人の直系であるユネスティーア・アシュレイには生誕後まもなく縁を定められた婚約者がある。婚姻を経て大領主の座を継ぐことと定められた青年は名をエルロイ・グラディウス・レイ=ヴィクトレールといい、隣り合う大領地ユノを治めるヴィクトレール家の庶子だった。
領内に強い後ろ盾があるわけではないから、由緒ある議会制度を持つオースデンにとっては傀儡にも等しい次期大領主である。本人も飄々としたもので、数年前から城下に屋敷を構えてはいるものの、存在感を示そうとするそぶりはなかった。
それゆえに平穏は保たれていた──ほんの数日前までは。
かりそめの平穏、あるいは均衡。それを崩したのはオースデン中央議会の要たる総務省の長であり、現大領主のいとこに当たるルテイエ・ポロムラクスだった。十二の省長のうち半数を取り込み、多くの議員が集まる定例議会における武力蜂起によってルテイエは自らに大領主の地位を譲位するよう要求した。しかし周到に用意したであろう蜂起はあっけなく一人の魔法使いによって鎮圧され、大領主は彼女とともに姿を消した。
結果、ルテイエが目指した大領主その人からの譲位は失敗に終わり、事態は膠着している。
今、議会と大領主の居城であるソヴォイル城はルテイエが実効支配していた。軟禁により反対派の議員たちを封じ、大領主側についた魔法省の長をはじめとする一部の魔法使いや衛兵を除いた大半の兵をすでに指揮下に置いている。
ルテイエが唯一、掌握できずにいるのは亡き領妃のために建立された宮、マーヴィラ宮のみだった。
宮の正面扉は無論のこと、地下通路を含んだあらゆる出入口は固く閉ざされ、人の出入りを拒んでいた。その内部には十分な備蓄があり、まるで籠城を想定していかのようだ。
「お食事でございます……」
か細い声で告げた侍女の手は震え、顔面は蒼白だった。用意された少量の料理を恐る恐る小机に置き、震えの止まない手をそろそろと引っ込める。
大領主ジェレミアは嘆息し、お世辞にも愛想がいいとは言いがたい声で退出を命じた。そそくさと出ていった侍女を横目で見送った後、料理に手をつける。
「ああも怯えずともよかろうに。屠殺した獣を食らうのと何が違うというのだろうね」
話しかけられた相手は窓の外からジェレミアへと視線を移した。
「あなただって最初はためらっていたように思うけど?」
「何年も前の話だ。忘れたよ」
長い年月をともに過ごした者同士だから伝わる軽口をさらりとかわして、ジェレミアは肝臓のソテーを口に運んだ。滋養によいと聞いて始めた食習慣で、状態のよい囚人のものを使っていた。手早く血抜きし、香草と塩、あるいは柑橘で臭みを消すなど、食すためになすべきことは家畜に対するものと変わらない。
窓際の女は何も応えず、緩く腕を組んで外を眺めていた。場におらずして見るものを見、聞くものを聞くという魔法使いである彼女のこと、視線の先にあるものばかりを見ているとは限らない。
「あの子の居場所は分かったのかね」
さして心配そうな口ぶりでもなく、世間話の一環のようにジェレミアは尋ねた。
ルテイエが蜂起したあの夜、ただ一人の娘であるユナは城内の寝所で休んでいた。その場にあらずとも状況を察したマリエの助言により、ユナは本来ならジェレミアとともにマーヴィラ宮にこもることになるはずだった。しかし待てども訪れはなく、ユナは城下へと逃亡してしまったらしい。
「ええ、だいたいは。……彼が連れ戻してくれるでしょう」
先の知れた物語を語るような口ぶりで女は応えた。
「おまえが連れ戻せばよいのではないのかね、ツヴィングリ」
「わたしはそうしたって構わないけど……」
ツヴィングリ──マリエ・ハーバトレイユ・ツヴィングリは窓から向き直り、思案顔を見せた。
「少しくらいの時間はあって構わないと思うのよ。何にも邪魔されず見たいものを見て、考えたいことを考えるだけの時間が──ね」
「時間か……」
煙に巻くようなマリエの答えをジェレミアは拒絶しなかった。
「……そうだな、それもよかろうよ。近くで見るからこそ見えるものもある」
空になった皿の縁の汚れをぬぐい、ジェレミアは深々と椅子に座り直す。
「逆もまた然り、遠くから見ねば見えぬものもある。我が領地は都だけが大きくなりすぎた。人が増えすぎた──」
マリエは返事をしなかった。
央都グルティカは城を中心に発展したわけではなく、人口の増大に伴って南方向へと広がった都だ。魔法技術との相乗効果により飛躍的に発展した医療もまた人口の増大に大きく寄与していた。
もっとも、央都と言えど南方へ行くほど治安は悪く、南端の街などは貧民街と化している。
大陸東部の大領地に古くから根付いた制度のひとつに大領主・小領主制がある。加えて、オースデンには独自の議会制度があった。古い記録によればかつては領地を所有する議員はおらず、また央都に屋敷を構える小領主はいなかった。現在のように両者の境が曖昧になった時期は定かではない。
代々所有する、あるいは新たに与えられた小領地を管理し、場合によっては切り開くことより議員として央都に屋敷を構えたがる者は多く、結果として小領地同士の合間には多くの未開の地が残されることとなった。東方の大領地マリエダ、南方の大領地ユノに比べ領地内に山地が多いことも原因の一つだ。
かくして食糧の生産は人口の増加に追いつかず、教育は行き届かない。長引く不況の原因は根深く、一朝一夕に解決できるようなものではなかった。
「ポロムラクスは踏み越えるべき線を手前に引き寄せすぎた。行動を起こすならばもっと思い切っておくべきだったよ。……おかげで私は命拾いしたわけだがね」
マリエは足音もなく窓際から離れ、小机のそばに立ち止まった。
落ちた影を下からなぞるようにし、ジェレミアは十六年の付き合いになる魔法使いを見上げる。
「恐れるようなものではないわ、老いも死も。ある生命の終わりは他の生命の始まり。すべては循環し続けているのだから──」
初対面の時から若々しく変わらぬ容姿を保つ女にはいささか不似合いな言葉だった。
「祭壇の準備は万全よ。来るべき時は来るわ、あなたにも──わたしにも。今はただ時が満ちるのを待つだけ……」
小机のそばに膝をつき、マリエは老いた男の手に手を重ねる。
確かな体温の宿るその手を見下ろし、大領主は静かにうなずいた。
軟禁から解放され、大領主の居城ソヴォイル城へと招かれた翌日、エルロイはいそいそと街へ降りる準備を進めていた。
招待主である総務省長ルテイエ・ポロムラクス配下の衛兵を中心とした十数名は各々の所属ごとにおおよそ固まっている。八年ぶりに入城したエルロイとは初対面の者ばかりで、総務省所属の衛兵の態度はお世辞にもよいものとは言いがたい。エルロイの要請により隊に加えられた他省の衛兵は一様に緊張気味な顔をしているので、制服で判別するまでもなくそれぞれの立ち位置が見てとれるようだった。
幼い頃からエルロイに仕える従者スザロは名簿を手に衛兵の所属と顔を確かめている。つい先ほど、整列させ点呼をとろうとしたのだがエルロイに不要と言い切られ、渋々引き下がったのだった。
いくらか離れた場所にはルテイエ直下の上等兵を筆頭とする捜索隊が整然と並んでいる。
譲位を求めたルテイエに応じないまま姿を消した大領主ジェレミアの一人娘、ユネスティーア・アシュレイもまた、数日前から行方が知れないままだった。父子ともにマーヴィラ宮に籠城しているのだろうというのがルテイエの見方だが、ユネスティーア──ユナに幼い頃から仕える侍女の進言によれば、ユナはマーヴィラ宮の中にはいないという。
ルテイエによりソヴォイル城へと招かれたエルロイもまた、ユナは現在、城下にいると断言した。
侍女の進言は大領主側についた魔法省の長マリエに操られたものであり、またエルロイの言葉にも確たる証拠はないというのがルテイエの立場だが、そのわりには捜索隊には十分な数を割くことにしたようだ。十二の隊に分かれており、人数はエルロイに与えられた衛兵の十倍を優に超えている。
「もっと少人数でいいんだよな、おれとしては」
見るも明らかな扱いの差に不満を言うどころか、これでも多いくらいだとエルロイは言った。急ごしらえの名簿を横からのぞきこみ、ろくに照合するそぶりもなしに雑談する衛兵たちへと歩み寄る。
エルロイ自身の希望によりエルロイ、スザロともに総務省所属の衛兵の制服を借り受けたため、制帽で後ろ頭まで隠してしまえば後方からは見分けがつかなくなりそうだった。
今は大丈夫でも、状況次第ではあなたを害するよう密命を受けた者が紛れている可能性はあるのですよ──と思いはしたものの口には出さず、スザロは照合を続ける。
口酸っぱく注意をしても聞き入れず、単独行動を好む傾向のあるエルロイだが、表立って見せないだけで警戒心はしっかりと持っているようだった。腹心の従者であるはずのスザロにさえはっきりとは言わないが、独自の情報網を持ってもいるようだ。
──ぶどう棚から降ろされた演者、いくら歩いても汚れぬ靴、雲を吹き荒らす風。見守る太陽、踊る石畳、川べりの霧。世話焼きの助手は素早い子栗鼠……。
つい昨晩、呑気な世間話のように放られた隠喩をスザロは思い出していた。
エルロイは芸術への造詣が特別深い方ではなく、進んで鑑賞に出かけるような性格でもない。周囲の流行に乗り遅れるほどではないが、たとえば観劇はもっぱら実母に誘われて行く程度だった。その際にはスザロも随伴してきたから、エルロイが知る演目はすべて把握している。
隠喩に使われたのは故郷である大領地ユノに専用劇場を構えるティーヴァ歌劇団の古い演目と思われたが、登場人物も序盤の筋も実にいい加減にすり替えられていたせいで、とっさには思い出せないほどだった。舞台端から演者が宙乗りで登場する際、煙を濃く炊くことでぶどう棚から降りたように見せた演出、その煙を晴らした後の強い照明の様子などは分からないではないが、石畳や霧に例えられる演出には思い当たるものがない。世話焼きの助手というのは狂言回しの子役のことだろうが、栗鼠ではなく大鼠の兄弟だったはずだ。見張りの衛兵を通して会話の内容が伝わったとしても単なる記憶違いで流されることを見越していたのかもしれない。
その発言から察するに、エルロイは相当の確度でユナの居場所を把握しているように思われた。小栗鼠というのが城下にいる友人とやらのことであれば、当座の見守りを任せてあるというようにも考えられなくはない──信用は低いにもほどがあるが。
「スザロ!」
突然、名を呼ばれてスザロは名簿に落としていた視線を上げた。駆け寄ってきたエルロイの手には剣がある。
嫌な予感を口にする前に剣帯ごと剣を押し付けられ、スザロは後方へ飛びしさった。衛兵たちの注目が集まる中、エルロイはすでに剣を抜いて構えている。
エルロイから目を離すべきではなかったと後悔しても遅かった。やむなく剣帯も鞘も投げ捨て、剣を受ける。とっさに身を引いた不利な体勢から応じざるを得なかったが、じきに立て直して打ち合った。
積極的に仕掛けはしない。剣を扱えるという証明のためだけに仕掛けてきたことは明らかだった。打ち合っては離れるのを四度繰り返す。後方に確認していた石塊のそばまで下がる。
もう一歩、後ろに下がるように見せてスザロは踵を石塊に当てた。一瞬のよろめきを見逃さず、エルロイは剣先を突き付ける。
「……参りました」
露骨な茶番に見えていないことを願いながら、スザロは降参した。眼前から剣が離れるのを待って嘆息し、先ほど投げ捨てた剣帯を取りに向かう。
「な? そういうわけだから、おれは歩兵に混じるぞ。馬車なんて御免だ」
一応の説得力はあったらしく、対応する衛兵たちが顔を見合わせるのを見て、スザロはエルロイの後ろから声をかけた。
「せめて騎乗してください、その方が見通しがよいでしょう。歩兵には私が混じります」
「おれ一人が騎乗か? それじゃ悪目立ちするだろ。せっかく制服を借りたのに」
一息つく間もない反応にスザロは眉根を寄せる。またしてもいいように利用された気がした。
身を隠す目的で制服を借りたはずなのに、馬車は嫌だと言う。行動の自由を確保しておきたいのだろうか。もしそうであるなら、一人だけ騎乗させるのは悪手かもしれない。少人数の方がいいからと強引に単独行動をとるようなことはないと思いたいが──。
結局、衛兵たちに代わってエルロイの要求を受けたスザロが根負けする形で、半数を歩兵、半数を騎兵とすることで話がまとまった。ルテイエ直下の捜索隊が出払うのを待ち、一隊は後発隊として城下へと向かうことになった。
曇天の下、捜索隊の大部分は整然と街へ下っていく。ユナ捜索という真の目的は伏せられており、治安強化を建前とした巡回を装うことにしたようだった。
借り受けた衛兵に周囲を固められ、いささか窮屈な気分でエルロイは先を行く捜索隊を眺める。
最後尾はいいものだ。先を行く隊の動きがよく見える。
昨晩の会食以降、エルロイの情報源やその中身に関する追究はなかった。突いたところで無駄と割り切り、貸し出した兵を通じて情報を得るつもりなのだろう。
先を行く捜索隊は城下パスティユ地区に屋敷を構える貴族たちの誰かがかくまっている可能性を視野に入れているようだった。隊数から推定するに、央都を東西に横切るローロ川以北を捜索範囲としたようだ。
エルロイは湿り気を帯びた風の源をたどるように西を走る山峰を見上げた。
越境の困難な山峰は天然の防壁であると同時に、大陸西部の存在を意識の果てへと追いやる境界だ。大陸西部の国々は西部と交流があった故郷ユノに暮らしていたエルロイにさえ遠い存在なのだから、オースデンの人々にとってはなお遠いことだろう。
オースデン魔法省の長であるマリエは西部の出であり、かつては魔法協会に所属する身であったと聞いているが、オースデン領内に魔法協会支部を立ち上げるといったような話は聞いたことがない。一口に魔法使いと言っても彼らの能力や立場は千差万別で、大領地ごとに扱いも異なる。
エルロイの知る限り、神秘性や能力はユノよりもオースデンに住まう魔法使いたちの方がはるかに上だった。彼らが軍隊として組織される、あるいは組織に組み込まれることをユノ側が警戒し、注視するのは当然のことだ。
魔法使いとしての素養は親から子へと引き継がれるものと聞くが、ユナの父親である大領主ジェレミア、ユナの母親でありエルロイの叔母であるシュゼヴィア妃のいずれにも魔法の才があったと聞いたことはなかった。ユナの才は遠く離れた二家の血が交わったことで生まれたものなのか、それとも先祖帰りなのか。
その才を──何もない中空に光を灯し、身動きひとつせず周囲の物を動かしたり、風を起こしたりする能力を間近に見たことがあるからこそ、ユナの身辺についてエルロイはさほど心配をしていなかった。単身、知らない土地に放り出されたとしても身を守ることはできるはずだし、長期間待たせるつもりもない。純粋に気を揉んでいる様子のスザロには悪いが、数日のうちには見つけ出せる自信があった。
「この人数だからな、要所に絞って回るぞ。全体を回るのは総長殿に任せればいい」
エルロイが指示を出したのは街区へ降りる直前のことだった。
「数日前に若い男が殺されたのはセタ十四番街だったな?」
「は。その件については、別途調査が進められていますが……」
問いかけられた衛兵は困惑気味に応じた。エルロイが数日前とだけ言ったその日は、ルテイエ・ポロムラクスが蜂起した日だ。含むところがあると感じたのかもしれない。
エルロイは軽くうなずいただけで、追及のそぶりは見せなかった。
「あくまで目的は治安強化だからな? セタ街の西から東をたどるぞ」
十四番街の前に十六番街でも殺害事件があったと聞くし、とエルロイはもっともらしい理由のように続ける。
城下パスティユ地区を南下し始めると、いくらか離れたところにいた先発隊のひとつが方向転換したのが見えた。やはり監視を目的とした隊があるようだ、とエルロイはスザロに目配せで伝える。スザロは表情を曇らせたが、それも一瞬のことだった。ルテイエ陣営がエルロイの動きを予想できない以上、当然のことだろう。
何の情報も持たない一行が城下に潜伏した一人の少女を闇雲に探したところで見つかるはずもない。事情を知る人間がかくまっているのであれば人海戦術の意味は薄く、かくまっている人物にとって都合がよい、あるいはユナを害しないと判断された陣営に分がある。事情を知らない街人がかくまっている、あるいはユナが単身で行動しているのであれば情報がものを言うはずだ。
この時間帯、堀に囲まれたセタ中央街──色宿だけが集められた街には入る者より出る者の方が多い。堀を挟んで中央街の西に位置する十三番街から十六番街には酒場や賭博場、小規模な劇場、見世物小屋、宿屋や庶民的な住居などが建ち並んでいる。反対側の一番街から五番街も同様だ。
通常の巡回より人数の多い衛兵が気になるのだろう、道行く人々からの視線はスザロにとってあまり心地よいものではなかった。
「外周街を縦断し、西から東へたどる。それだけですか?」
言葉を選び、隣のエルロイに声をかける。
「ん、まあ、ひとまずはそうだな。それよりスザロ、早耳って知ってるか?──あ、その顔は知らないな」
スザロが返事をするより早く、エルロイは反対側の衛兵に同じことを聞いた。
「いえ、普段の拠点が別の街区でして──」
当てが外れたのか、エルロイは首を振って正面に向き直った。
目的を伏せた捜索とあって言葉を選んだスザロにしてみれば、エルロイに名を呼ばれたことは釈然としない。警戒の必要性を感じていないとは思えないが故意と考えるにも理由の見当がつかず、スザロはつきかけたため息を呑み込んだ。
巡回を装う手前、隊は聞き込みをすることもなく街を進む。あまり街へ立ち入ったことのないスザロにとっては馴染みの薄い光景だった。年端もいかない子供が買い出しの荷を載せた台車を引き、時折立ち止まっては掌の豆に息を吹きかける。宿屋から出た客を乗せた人力車がその脇を追い越していく。大半の店舗が開くのは正午以降、街が活気づくのは夕方以降のはずだ。
「中央街にはこのあたりからも出入りできるから、昼を回ると風呂屋が混みあうんだ。西岸は男娼宿ばかりだがな」
どこで仕入れたとも分からない知識をエルロイに披露され、スザロは苦笑いで聞き流した。
監視の目は距離を空けてついてくる先発隊だけではなく、借り受けた衛兵の中にもあるはずだ。この状況下でエルロイが特定の街人と接触することは不可能だろう。先ほど早耳がどうのと言っていたが、情報屋の異称だろうか。それも、ごく狭い地域のみで通じるような。
周囲の耳が気になるにせよ、もう少し胸のうちを明かしてくれればいいのにと思わずにはいられなかった。
乾期には似つかわしくない曇天が視界までも曇らせるようだ。スザロから見てさえエルロイは能天気に見えるのだから、衛兵たちからはなお、その印象が強いだろう。
三十年ほど前に整備されたセタ街は割り振られた地番こそ多いが、それほど広い街区ではない。半分を占める中央街へは入らないということもあって、一周するだけならたいして時間はかからない。
特に成果らしい事柄もなく街区を一周すると、エルロイはさっさと城へ引き上げてしまった。後をつけていた監視の隊からは二人が分かれ、城へ戻ることにしたようだ。報告のためだろう。残りは城下パスティユ地区へと戻っていった。
城内へ戻ると、エルロイはすぐに着替えるという。
これではまるで物見遊山に出たようなものだ。スザロはそう思ったが、口にはしなかった。何か考えがあるのだろうと思いたいが、衛兵の耳目が気になる状況では真意を確かめることもできない。
いや──しばらくしてスザロは考えを改めた。ここまでのエルロイの挙動は監視の衛兵にとっても不可解なはずだ。引き上げた直後、解散を命じられた衛兵たちは一様に困惑した様子だった。
「それで、この後はどうなさるのですか。残念ですが、成果があったようには……」
あえてそのように声をかけると、エルロイはスザロを含む室内の全員を見回した後、口を開く。
「今日のところはいいよ、おれにどの程度の人数が割かれるかを確かめたかっただけだから」
思わずスザロは部屋の入り口でこちらを向いて立つ衛兵を振り返った。二人ともとまどいがちに視線をさまよわせ、スザロを見返す。少なくともその二人には害意はないように見えたが、希望的観測でないとは言い切れなかった。
困惑したスザロが再び口を開きかけた時、衛兵がそろって姿勢を正す。
「おや。お邪魔でしたか」
来客のようだった。昨晩も部屋に姿を現した、あの男だ。
「なんだ。おまえも戻っていたのか」
エルロイが気さくに応じたので、スザロは数歩下がって見守ることにした。
「ノルド街で咳病だったか? そっちはもういいのか」
「報告がいい加減でしてね。よくある病で想定より人数が少なかったので、隔離と消毒だけですみました」
「ああ、じゃ、結構早く戻っていたんだな。せっかくだ、一緒に食事でもどうだ?──食堂へ行けばいいのかな」
エルロイの問いを受け、室内の衛兵が応じた。
「お部屋にご用意いたします」
「そうか。なら、三人分を頼む」
自由のない状況にエルロイは抵抗するそぶりもない。衛兵たちは顔を見合わせてから、要求に応じるべく動き出した。エルロイはスザロにも同席するよう命じ、まるで私邸にいるような寛ぎぶりだった。
「髪が湿っているな。帰りついでに八番街で遊んできたのか?」
エルロイにやや遅れて柑橘水を口に含んでいたスザロがむせる。
「まさか。寄り道したなら今ここにおりませんよ。城内の風呂を借りただけです」
「なんだ、そうなのか」
「一応、感染症の相手ですからね。街中の公衆浴場か自分の屋敷の方がよかったのですが、監視つきではそうもいきませんのでね」
病の対応で街へ下りることを許されたとは言え、リュンカもまた自由の身というわけではなさそうだった。
「監視ごと八番街へ帯同しても構いませんがね、おれがおごる義理もないし、かと言って突っ立たせておくのも哀れでしょう」
運ばれてきた食事に伸ばしかけた手を休め、エルロイはげらげら笑いだす。笑わせた側のリュンカはたいして表情を変えもせず、前菜から白みの茸を取り出しては端に寄せていた。偏食家のようだ。
主への口ぶりがぞんざいな上に、行儀も悪い男だ。スザロは知り合った経緯や関係性を問いただしたい衝動に駆られたが、この場で聞くわけにはいかない。機会を先に譲るしかなかった。
「そもそもこんな時間に訪ねたのでは、女たちの都合も悪いでしょう。次から相手にされなくなりますよ」
「へえ、そういうものか」
「何日も前から先触れの必要な女もおりますよ。此度の件で揉める客も出るでしょうな」
エルロイは吹き出して笑った。
「誰だよ、それ。急進派なら計画性なし、軟禁側なら先見の明なしってか?」
尋ねられたリュンカの視線がちらりと衛兵を見る。
「……まあ、そのうちに。機会があれば」
「ちぇ、つまらんなー。おいスザロ、おまえ、セタ中央街へ遊びに行くならこいつを通した方がいいぞ」
突然、水を向けられたスザロは渋い顔を作った。
「……ですから、私は結構ですとあれほど……」
「突然その気になるかもしれんだろ。そうなったら、こっそり行ったところでこいつには筒抜けだからな」
「はあ。つまり、その結果のお付き合いというわけですか」
渋い顔のまま、スザロは反撃を試みる。エルロイは途端に視線をそらし、首筋をかきながら正面に向き直ってしまった。
「いや、それはだな。その結果というかさぁ……。つまり、そもそも、ここに住むなら早いうちに遊んでおけとか言われてたしさぁ……」
エルロイは何やらぼそぼそと言い訳を始める。卓の向こうでリュンカが小さく吹き出した。
スザロにとっては、誰から言われたことかと聞くまでもない。かつて高級娼婦であったというエルロイの実母が言いそうなことだからだ。
では、向かいで笑いを押し殺している男にとってはどうだろう。その反応を見るに、おそらくエルロイに聞いて知っているのだろう。
「おれは最初に言いましたよ? ご母堂の言うことには賛成ですが、遊ぶというのはそういう意味じゃないとね」
スザロは苦虫を噛み潰したような顔でリュンカの声を聞いていた。「最初に言った」──つまりエルロイとあの女を結びつけたのは、この男ということだ。遊ぶというのはそういう意味ではないと言いながら、止めもせずにつないだと。
「ま、遊び方を間違えるというのもいい経験というものでしょう。おれも人のことを言えた身じゃないのでね」
苛立ちを努めて抑えるスザロの隣で、エルロイは目を細め、しばし思案の淵に沈むような顔を見せた。その様子に気づき、スザロは表情を改める。リュンカは特に関心もなさそうに卓上の瓶から柑橘水を注ぎ足し、果汁を追加して混ぜていた。
沈黙の後、エルロイはため息をついて室内を仰ぎ見る。
「経験か、……そうだな、そうなるのかな。でも、これを言ったら怒られそうだけど、いつ会えるとも分からなさすぎて、やはりしょせんは政略結婚なんだなと思ってたからなぁ……」
リュンカはほんの一時、柑橘水を混ぜる手を止めたが、表情を変えることも声に出して何かを応えることもなかった。スザロもまた応じようがなく、再びの沈黙が落ちる。
場の空気を変えようとしたのか、エルロイは手拭き布で手をぬぐうと、席を立って窓際へ寄った。
「いまだにおかしな雲行きだな。また雨が降るのか、それとも雪になるのか?」
座ったままエルロイを振り返り、リュンカも天候を眺めやる。
「常ならば一月経つ頃には雪ですが。まだそれほどの冷え込みはありませんね」
「短期間の天候不良ですめばいいがな。長雨の後に降雪が何か月も続いたら、央都と言えど凍ってしまうぞ」
エルロイがやたらと天候を気にかけるのは、十六年前、ユナが産まれた頃の異常気象を思い起こさずにはいられないからだろう。
「もちろん生産省は手を打ってはいるようですがね。……かつての調査では結局、人為的にどうこうできるようなものではなく、姫の出生と同時期に雨が止んだのも偶然であろうとのことでしたが……」
不吉な予感を打ち消そうにも、推論ばかりでは足りないようだ。過去、実際に起こった原因不明の事象とこれから起こるかもしれないことへの対処。因果関係は分からないまま、ただ晴れ上がらない空が不安を呼ぶ。
大きな窓の外に広がる雲はあいかわらず重く、遠い山峰までを包み込んでいるように見えた。
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