1巻⑦

 八年ぶりに訪れるソヴォイル城周辺の景色は、記憶にある姿とまったく変わっていなかった。石造りの堅牢な城は近郊領地間の関係が良好とは言いがたかった頃に築かれたもので、城に至るまでの一見なだらかな丘には構造物の跡が点在している。


 同乗の従者はひどく不機嫌のようで、馬車が動き出してからは口を開きもしなかった。真実の名を名乗るのどうので言い争ったことをいまだに引きずっているらしい。


 もっとも、エルロイも他人の心境をどうこう言えるような気分ではなかった。漠然と予想していたことが立て続けに現実となりつつある──ただそれだけのことだと思えたらどんなに楽だろう。いつかは選ばねばならなかったことと近く起こるかもしれないと考えていた事態の同時進行が、思いのほか重かった。


 苦労して追った女になんの期待もされていないことくらい、分かっていたつもりだった。好奇心を装って身上を探ってくるような女だったらよかったのにと、何度思ったことやら知れない。


 セタ中央街へ追うということは、客になるということだ。そんなことは最初から承知の上だった。もしかしたら連れ出してほしいと言ってくれるのではないかと淡い期待を抱いたことはあったが、弱音を見せてすがってくれるような女でもなかった。涙を見たのはたったの二度だ。


 行き先をごまかされた時点で諦めておくべきだった。なんの期待もされていなかったのだと気づくのが遅すぎた。助けたいと願うなら、もっと早くに打てる手がいくつもあったはずなのに。


 エルロイ・グラディウスという人間に何よりも期待していないのは、あるいは自分自身なのかもしれなかった。庶子として生まれ婚約者をあてがわれ、傀儡となることを望まれている、その道から飛び出す勇気があったのなら、とうにそうしていただろうから。


 招待主であるルテイエ・ポロムラクスはその傀儡に用があるらしい。軟禁の身だったエルロイから見てさえ入念な準備をして臨んだと思われる蜂起にも関わらず、よほど想定外のことが起こったのか、あるいは最初から時機を見て呼び出すつもりだったのか。これまでの丁重な扱いから考えて心身を脅かされることはあるまいと考えたいところだが、希望的観測にすぎないという自覚はあった。


 大仰にため息を吐き、向かい合った座席を靴裏で蹴る。斜め向かいに座るスザロが物言いたげに目線だけを動かしたのを見て見ぬふりで外を見たが、併走する騎手が見えるばかりで興味を引かれるものは何もなかった。


「まだ着かないのか、まったく。先導だか護衛だか知らんが邪魔なだけじゃないか、一台ならもっと速く進むのに」


 向かいの座席に両足を投げ出してぼやくと、ようやくスザロが口を開く。


「いつもの宿に向かうのとたいして変わりませんよ。失礼、通っておられた宿と言うべきでした」


 やっと反応したかと思えばこれだ。出がけに整えた髪を両手でかき乱し、エルロイは再び座席を蹴りつけた。


「おい、さすがにくどいぞ? 始末はつけてきたじゃないか」


「そうでしたか? いらぬ憶測の種を撒いたようにしか思いませんでしたが。時期を改めるなり他にもやりようはあったのではないかと」


 そう言うが、いつ自由の身になれるかなんて分からないじゃないか、という言葉をエルロイは呑み込んだ。スザロは棘のある口調で話しながら、おそらくは無意識に護身用の短剣を何度となく確かめている。


 エルロイが許しさえすれば、屋敷の中でさえ帯剣していたがるような男だ。まるで状況を読めていないようなことを口にしながらも、胸中に別の不安があるのは明らかだった。


 小さくため息をつくと、エルロイは居住まいを正す。十三年の付き合いを通して、実直でややもすれば不器用な性格はよく知っているつもりだ。


 ユノへ帰ればスザロの他にも従者はいる。彼らをオースデンへと伴ったことがないわけではない。近年、常に付き従う者がスザロ以外にいないのは、エルロイが身軽であることを好むばかりが理由ではなかった。同じ地位を負ってはいてもユノ大領主家ヴィクトレールとオースデン大領主家アシュレイの権力にはずいぶんと開きがあり、その開きを埋めているのはオースデン中央議会だ。ただひとりの直系であるユナの夫として譲位されたとて、強い実権を握らせてもらえるとは思えないエルロイに好んで子息を差し出そうという動きはユノ有力者の間にはなかった。


 スザロとて貧乏くじもいいところではないのかとの思いがエルロイにはある。生涯を側近くに仕えると決めた身という自称は本心からのものだろうと思いはするものの、十分な見返りを与えてやれる自信はないというのが正直なところだ。


 短剣の所持を許してもらえただけ悪い状況ではないのかもしれないが、この先の状況は果たしてどうなることか──。


 せめてこれまでの忠誠に応えてやることができればと考えてみても、我が身の安全さえ不確かな現状では何の約束をしてやれるはずもなかった。






 速度を徐々に落として馬車は止まった。扉が開くのに合わせてスザロは盾のようにエルロイの前に身を滑り込ませ、先に立って車室から降りる。


 ソヴォイル城前の広場にはオースデン中央議会の重鎮のほとんどが集結しているようだった。エルロイはずらりと並んだ面々の上にひととおり視線を走らせ、スザロの半歩後ろに止まる。


 視線を投げて小さくうなずいてやると、ようやくスザロはエルロイをかばう腕を下ろした。エルロイが出迎えの議員たちに改めて向き直ると、杖をついた中央の男が進み出る。たった二歩を進めただけでありながら自然な動作とは言いがたく、身体の不自由さを思わせる動きだった。よく見れば男の背後には空の車椅子がある。


「このようななりで失礼いたす。息災であられたようで何より」


 杖に体重を預けてはいても総務省長ルテイエ・ポロムラクスの声には貫禄があり、眼光はエルロイを射抜かんとするばかりに鋭かった。


 エルロイは当たり障りのない態度で招待への感謝を述べ、再び議員たちを端から眺めやる。


「皆、久しい者ばかりだな。おれ以上に風貌の変わった者がいないようで助かるよ、なぁリュンカ・ワズ」


 最若手の議員に視線を止めたエルロイの言に表情を動かしたのは一人二人ではなかった。それもそのはず、名指しされた男が中央議会に名を連ねたのは二年前のことで、エルロイとは初対面であろうと考えるのが自然だからだ。


 エルロイの後ろに控えていたスザロは、議員たちの反応をひととおり見ざるを得なかった。この主はいったい何を言い出すのだと思いはしたが、口に出せるはずなどない。


 呼びかけられた男は、なるほど、かつてエルロイが口にしたとおり清廉潔白そうな面構えの美男子だった。名を呼ばれてもその表情はほとんど動かず、何を考えているやらまったく読めない。


 伏し目がちに何度か瞬くと、リュンカは半歩足を引いて優雅な礼をした。


「恐れ入ります。できますれば他の場所でお会いしとうございました」


 議員たちの表情が再び動く。スザロの目には、何人かは失笑したように映った。受け答えも失笑の意味も分からず、ただいたたまれない気分になる。


 スザロは知りうる限りの情報を脳裏に引っ張り出し、すぐにエルロイの言葉を思い出した。清廉潔白そうな面のわりにたいそうな好き者で──スザロが見たら卒倒しそうだと言われるような手紙を書いて寄こした主。


 これまでスザロに対する紹介がなかったのも当然のことだ。二人が知り合ったのはセタ中央街と見て間違いない。気づくのが遅すぎたとスザロは歯噛みした。


 失笑はリュンカのみならず、我が主にも向けられていたのだろう。辱めもよいところではないか。


 当のエルロイはさして気にするそぶりもなく、議員たちに向かって足を踏み出した。


「ところで、ポロムラクス卿。どこかお怪我でも?」


 エルロイの歩みに合わせて議員たちは道を開け、中央で迎え入れたルテイエは思惑の読めぬ表情のまま首を振る。


「なに、ご心配には及びませぬ。急な招待で準備不足ながら席を用意しております、ひとまずは寛がれよ」


 スザロは唇を固く結ぶと、周囲に視線を走らせながらエルロイを追った。何があろうとエルロイの身を守るのは自分だと、改めておのれに言い聞かせながら。


 みずから案内した食堂でルテイエ・ポロムラクスは迷うことなく城主の席へと着いた。途上のふるまいも主そのものといった風情で、すでに城内をすっかり掌握したように見える。


 本来であれば最優先でその席に案内されるべきエルロイを正面に座らせ、ルテイエはごく短い言葉と表情だけで周囲の者たちを動かした。左右の席には各省の長たちが着く。ルテイエの右斜め前には柔和な面差しの少年が着いた。


 透き通った薄紅色の杯は八年ぶりの再会と互いの健康に捧げられた。エルロイは口をつけたふりだけをして杯を置く。最初の料理が出てきた頃を見計らったようにスザロが声をかけてきた。


「エルロイ様。お味見は必要ですか」


 さほど大きくはないが、静まった席では十分に通る声だ。エルロイは口の端を上げて笑み、露骨に席上を見回した後でスザロを下がらせた。


 申し出がなければエルロイ自身が代わる言葉を口にするつもりだった。それを察した上での、即座に罰せられるかもしれないことなど承知の上での発言だろう。どこまでも忠義な男だ。


 小さな瓦斯球が点された室内は十分に明るく、スザロのおかげで議員たちの立場を再び推し量ることができた。


 表情こそ雄弁な者はいれど、声を荒げる議員はいなかった。この場にいる議員全員が今、エルロイを必要としていることは確かなようだ。ルテイエの隣の少年──ダヴィード・ポロムラクスだろう、彼が不安げに周囲をうかがっていることに気がついて、エルロイは苦笑いした。


 ルテイエが近くの使用人を呼び寄せ、小声で指示を出す。


「隣室にお席を用意してございます。こちらへ」


 エルロイの斜め後ろに控えていたスザロは使用人にうながされ、エルロイの目配せを受けて隣室へと姿を消した。


 刻んだ野菜を彩りよく配したパテは品のある味で、ソースの酸味がほどよく絡む。提供されるたびに変わるセタ外周街の雑な味を懐かしく思い出さずにはいられなかった。


 隣り合った議員同士が時折、声をひそめて話す他には会話らしい会話もなく、食器同士のぶつかる音や咳払いばかりが耳につく。


 香草を利かせた腸詰め、つぶした芋と燻製豆のスープ、美しい鉱石のような口休めの氷菓と続いた後、大皿から取り分けられた肉料理が盛り付けられた。


 いずれも美味で質のよいふるまいからはルテイエが示したかったのだろう権威はよく伝わってくる。だが、なんとも味気のない席だった。


 席上が片付くのを待って、再びエルロイは一同を見回す。


「心づかいに御礼申し上げます。……さて」


 エルロイが短く声をかけると、ルテイエは手を上げて人を払った。残った一部の衛兵は、記章から見て上等兵のみのようだ。


 代わって隣室から二人の男が姿を現した。風体から察するに、唯一、長の姿が見当たらない魔法省に所属する者と思われる。


 同じように隣室から戻ろうとしたスザロを止めようとした衛兵に気がついて、エルロイは声をかけた。


「そいつにも同席してもらう。何せ、随行を許されたのが一人きりなのでな。スザロにはおれの手となり足となり働いてもらわなくては」


 ルテイエは無言のまま片眉を上げる。


「……無論、おのれの立場はよく承知しております。実情を率直に申し上げたまで」


 同席の許可を得たスザロは、落ち着いた足取りでエルロイの斜め後ろに戻った。


 食堂に残ったのはルテイエを含む十一人の省長とルテイエの長男ダヴィード、数名の上等兵と二人の魔法使いらしき男。教育省の長であるゲイル・トルティリウスは穏健派の筆頭であり、ルテイエとは明らかに意を異にする立場のはずだ。ルテイエに与したとは思えない者は他にもいる。


 これだけの面子を残したのは情報を統制するためなのか、権威を見せつけるためか、それとも他に軟禁しておくわけにはいかない事情がありでもするのか。想像の域を超える結論は出せまいなとエルロイは考えを打ち切った。


「さて、在室の皆々にはすでに聞き及んだ事柄も多かろうが、最初から話をさせていただこう。去る水の月の二十四日目、定例議会の席上において私ルテイエ・ポロムラクスは現大領主ジェレミア・アシュレイ殿に譲位の裁可を願い出た」


 当日の状況を見ていないエルロイにさえ武力行使であったことは明らかなのだが、ものは言いようといったところか。異論を唱える者はいなかったが、何人かの議員が無表情であろうと努めていることは見てとれた。


「しかしながらお声を賜る前に大領主殿は病に倒れられ、目下マーヴィラ宮でご静養中とみられる。皆々承知のとおり、かねてよりお体の不調を抱えられ月に一度の定例議会にもお出ましになれぬほどの状態が続いていた。こういった状況を強く憂うものであり、先の願い出に至ったわけである」


 都合よく立場をすり替えながら長々と話すのは先を見据えた上での布石なのだろう。古来より歴史は勝者が作るものという。


 とは言うものの、やはりルテイエが掌握できているのはソヴォイル城のみで、マーヴィラ宮には手出しをできずにいるようだった。その上、大領主ジェレミアの居場所は特定できていないようだ。


「仮に位を譲りいただけたとして、私の後継にはこれなる息子があり、腹は異なるがよい年頃の娘もある。しかし孫子の代を考えた時、枝のない血統はあまりにもろい──現大領主家がそうであるように」


 エルロイから見て右手の中ほどに座すゲイル・トルティリウスが大きく咳払いをした。ルテイエは視線を向けもせず話を続ける。


「姫にはよき伴侶を得、よい子を産んでもらわねばならぬ。しかし現大領主殿は過去八年にも渡って婚約者殿を呼び寄せようともせず領地を顧みようともせず、省内にさえ軋轢を生むほどの魔法研究に没頭する始末。そうとなれば、この私が親代わりとなって姫の成婚を見届けようという気になりもするもの」


 ようやくルテイエの筋書きが見えた。エルロイにおのれの娘をくれてやる気はないが、種馬として臣下に入れというわけだ。


 どう取り繕おうとしても真意は透けて見えるものなのだなとエルロイは目を細めた。地位を伴わない分、傀儡の大領主となるより立場は悪い。従前より定められていた立場への執着こそないが、提案を無条件に受け入れる必要はない。エルロイは無言を貫いた。


 ゲイルはもはや表情を殺すのをやめ、苦虫を噛み潰したような顔をしていた。ここまで誰一人として口をはさむ議員がいないということは、彼らには先にこの筋書きが知らされていたということなのだろう。そしてここまでは前提に過ぎず、本題はこの先だ。


「その姫の所在について、そこなる双生の魔法使いから進言があった。先の定例議会の日、状況を読み誤ったある魔法使いの手により姫は城下に下りられ、現在、いずこにおられるやもしれぬ──と」


 先ほど隣室から入ってきた二人の男が半歩進み出、顔を隠していた被り物を脱いだ。


 年の頃は三十を少し超えたあたりか。魔法省に所属する魔法使いの大半は魔法の才を見出された市井の者であり、上流階級出の者は極少数と言われている。大領主ジェレミア・アシュレイにより魔法省が立ち上げられ、有用と見られた者が集められ始めたのは十五年ほど前のことだ。それ以前における魔法使いたちは得体の知れぬ技を使う者として恐怖または迫害の対象でさえあったと聞き及ぶ。迫害により命を落とした者は数多く、ゆえに双生かつ壮年の魔法使いとは珍しい。


「申し上げます」


 片方が口を開いた。二人は、よく磨かれた鏡を間に置いたのではと思うほどに瓜二つだった。


「去る水の月の二十五日目早朝、我々はユネスティーア姫の御身を案じ閉ざされたマーヴィラ宮の正面に参りました」


「かの宮はシュゼヴィア妃亡き後より魔法使いツヴィングリ殿によって守られ、かの夜を境にあらゆる者の立ち入りを拒んでおります」


「老若男女あらゆる人はもちろんのこと、大小の獣から昆虫、果ては身体を抜け出した霊魂でさえ」


「光さえも通さぬほどの堅牢ぶりで、我々の目をもってしても中の様子はうかがえません」


 双子は声音や口調までもそっくりで、唇の動きを見ていないことにはどちらが話しているのやら分からぬほどだ。いったん話を切ると双子は顔を見合わせ、そろってルテイエをうかがった。


 ルテイエは口を開きもせず、顎をしゃくって続きをうながす。


「ヒトをはじめとするありとあらゆる生き物に限らず、すべての物質には生命が宿り存在の始まりと終わりをもって世界を循環しております」


「我々がその生命の香に気がついたのは宮を開放する手立てを模索するため、門前を後にしようとした時のことでございました」


「宮の前庭、東側には楢の木が並んでございます」


「その南端すなわち城下に近いあたりに我らが姫の生命の痕跡がございました」


「痕跡はたなびく雲のように街へと向かっているように見えました」


 双子が再び口を閉ざすと、食堂内は沈黙に覆われた。エルロイが双子に向けていた目をルテイエに戻すのと同時に、ルテイエもエルロイへと視線を戻す。


「宮内部の状況をうかがえぬ上、ただこれだけの根拠で姫が街におられると言い切ってはいかにも気が早い。万が一街におられるというのが事実であれば早急に御身を保護する必要があるが、我々の意見は割れている。そもそも街のどこにおられるのかを突き止めることさえ容易ではあるまい。さて、貴卿はどう思われる」


 エルロイはごく小さくため息をついてから口を開いた。


「お答えする前に質問を。先ほど、状況を読み間違えたある魔法使いとおっしゃった。それは魔法省の長、マリエ・ハーバトレイユ・ツヴィングリ殿のことですか」


「いかにも。私は何も強行的な手段に出たわけではない。場の安全を確保するため、我が省をはじめとするいくつかの省の力を借りはしたが」


 ルテイエの口調にはまったく澱みがない。人の口に戸は立てられぬのだから居合わせた者に聞いて回れば当時の状況は明らかになるだろうに、在室の面々にはこうした言いぶりを看過せざるを得ないだけの理由があるらしかった。中にはエルロイを量る意図を持つ者があるかもしれないし、単に信用されていないだけかもしれない。何せ彼らが以前に会ったエルロイは十歳の子供だ。間接的に情報を得る方法はいくらでもあるだろうが、どのように噂されているかくらいは想像がついた。


「……なるほど。ではダヴィード、おまえはどう思う?」


 突然呼ばれたダヴィードは肩を跳ねさせてエルロイを、次いで父親の顔を見た。ルテイエの視線はほんの一瞬ダヴィードへと向いたが、すぐにエルロイを射抜かんとするばかりに元に戻った。


「ぼ、ぼくは……。ぼくは、その……」


 優しげな風貌に似合いの柔らかな声でダヴィードはつぶやき、視線を落とした。


「よい。思うままを答えよ、ダヴィード」


「はい……」


 消え入りそうな声でダヴィードは応じ、うつむいたまま机上に言葉を探すように視線をさまよわせる。


「……ぼくは……その。確たる証拠はありませんが、ユナは街にいるのでは……と。思っています……」


「なぜ?」


 間髪を入れずにルテイエは問いかけ、ダヴィードは再び肩を跳ねさせた。


 うつむき加減の状態からエルロイに投げかけられた視線は、助けを乞うたぐいのものだろうか。エルロイはほんの一瞬、表情を緩めて返答をうながした。


「……ユナは子供の頃から城下で起こる出来事を夢に見、夢の中の誰かを通して追体験し続けたと聞いています。魔法の才に恵まれすぎたゆえ、制御をすることさえできなかったとも。ですからこの場にいる誰よりもユナは街の造りを知っている……おそらくは」


 一度話し始めたら弾みがついたようで、ダヴィードは食堂内の面々を見回してから続けた。


「加えて、先の月の二十九日目にはマーヴィラ宮からの使いがありました。幼い頃からユナに仕えた侍女で、おそらくは……その、マリエ様によって遣わされたのだと思います」


 侍女はマリエが施したのであろう魔法によって守られ、誰も侍女の行く手を遮ることはできなかったという。ルテイエとダヴィード、そしてたまたま部屋に居合わせたゲイルを前に侍女はユナの不在を告げた。


「すべてマリエ様の意図するままの言動と捉えることもできましょう。しかし彼女はこうも言ったのです。どうかユナを助けてほしい。そして、そのためにエルロイ様──あなたを城へ招いてほしいとも」


 エルロイは背もたれに身を預け、片手を上げてダヴィードの言葉を止める。ダヴィードに注がれていた視線の多くがエルロイに移った。


「おおよそのことは分かった。もう一つ聞いてもいいか」


 先のルテイエや双子の話がそうであったように、ダヴィードの話もまた食堂内の大半にはあらかじめ知らされていたのだろう。その上でほとんど全員がエルロイの反応を試していたというわけだ。


「……はい。なんなりと」


 ダヴィードの表情と口ぶりには明らかな緊張があった。


「素朴な疑問だ。彼女はおれに、いったい何からユナを助けろと言ったんだろうな?」


「……それは……」


 ダヴィードは言いよどみ、視線を落とす。エルロイが指を組んで大きく伸びをすると、席上の何人かは顔を見合わせ、小声を交わし始めた。


 台本はとうにめくり終えられている。エルロイはいささか人の悪い笑みを浮かべて周囲を見回し、ついでに斜め後ろに立つスザロを見やった。エルロイと目が合うと、スザロは眉間の皺を深くする。どうやらエルロイと絵札で遊ぶ時ほどには表情を操れぬようだった。


「さて。では、割れた他方の意見とやらを聞きたいところだが……」


 ルテイエの左斜め前、ダヴィードの正面に座した治安省の長が指先で机をたたき始める。


「ご意見をうかがっているのは我々なのですがね、エルロイ様。だいたい今しがたの説明程度でいかほどのことが分かったとおっしゃられるのか」


 エルロイは肩をすくめ、そうだなあ、ととぼけた調子でつぶやいた。


「言葉に出して聞けることなどたかが知れているということくらいはな。他にはたとえば、おれを城へと呼び寄せたのはツヴィングリ殿であってポロムラクス卿ではなさそうだということだとか」


 人を食ったようなエルロイの言い草に議員たちは再び顔を見合わせる。机上に上げた手を握り、振り下ろしかけた治安省の長を止めたのはルテイエだった。


「人となりを知るには面と向かって話すに限りますな、エルロイ様。だがあなたはまだお若く、この地において八年の間に起こった出来事をつぶさにご覧になったわけでもありますまい」


 エルロイは居住まいを正し、改めてルテイエと向き合った。


「ええ。おっしゃるとおりです」


「現大領主殿には静養が必要であり、マーヴィラ宮はうってつけと思われる。この場におられぬただひとつの省の長はかの夜の状況を読み誤った上、独断で宮を閉じ大領主殿を囲い込んだ。そして真に領地を憂う我々を分断するために事実無根の話を振りまいたのではないかと私は考えている」


「なるほど。ではそこなる双生の魔法使いが見た痕跡はツヴィングリ殿が作り出した撒き餌であると?」


「いかにも。かの者は遠く離れた場所の出来事を見聞きすることに長けているという。同様に我が身のない場所に何がしかの現象を起こすことくらいは造作もないことなのだろう」


 エルロイは声を立てずに笑み、再びスザロを見やった。目配せを受けたスザロが表情を改めたのを見届けると小さくうなずき、ルテイエに向き直る。


「結構、知りたいことのおおよそを知ることができました。その上で意見ではなく結論を申し上げましょう。ユナは現在、街にいます」


 一同の視線がエルロイに注がれ、食堂内は静まり返った。


 大半の者は呆気にとられた顔をしていた。そこからの変容は実に様々で各人の立ち位置を雄弁に物語っている。全員分をつぶさに観察する時間がないのが残念なほどだった。


 最初に大きく動いたのは経済省の長だった。重い椅子を傾けるほどの勢いで立ち上がり、両手を机にたたきつける。


「では、何ゆえにあなたはのんびりとこのような場におられる! いかに造りをよく知っていようと、女子供があてもなく過ごせるような──」


「──すぐに捜索隊の編成を! 指揮は我が治安省が」


 めいめいに動き始めた議員たちを止めたのは、机上を二度打ったルテイエの拳だった。エルロイの視界に収まる範囲ではただ一人、表情を大きく動かしもしなかったのはさすがと言うべきだろうか。席は再び静まりこそしたが動揺はそこここに尾を引いている。


「見苦しいにもほどがある」


 ルテイエの重い声に空気が沈んだ。真正面から不審もあらわににらみつけられたが、エルロイは表情を崩さなかった。おのれを大きく見せる必要こそないが軽んじられても困る。どのような手段をとったにせよ、今、ソヴォイル城を掌握しているのはルテイエその人だ。


 無言のまま視線を交わし合う二人を周囲は固唾を呑んで見守った。先に口を開いたのはルテイエだった。


「大胆は発言をなさるお方だ。どうやら確たる証拠をお持ちのように見える」


 エルロイは机の上で指を組み、ゆっくりとうなずいた。


「ええ。よって我々は早急にユナの身を保護しなくてはなりません。いくらかの兵を預けていただけますか」


 ルテイエは即答せず目を細める。


「根拠をお聞かせ願いたい」


「確かな筋の情報とだけ」


 エルロイは即答した。


 食堂内には再び沈黙が落ちる。答えになっていないと口を挟む者はいなかった。


「よろしい、今夜はここまでにしておこう。さすが、城内に代えて街をあまねく歩き尽くしたといわれるだけのことはある」


 加えられた厭味を聞き流し、エルロイは再び伸びをした。


「希望されるだけの兵を用意させよう。同時に我々の方でも捜索隊を編成させていただく」


「ええ、その方がよいでしょう」


「双生の者どもは引き続きマーヴィラ宮の開放に当たるように。では」


 最初にルテイエが席を立ち、ルテイエに与する議員たちが後に続いた。室内を見回したダヴィードはエルロイと目が合うと何か言いたげに口を開きかけたが、思うように言葉が出てこないらしかった。


 気にするな、と片手を振ってやってからエルロイも席を立つ。ダヴィードは軽く頭を下げ、慌てて父親の後を追った。


「兵は治安省から借りることになるだろうが、教育省と内務省、公衆衛生省からも数名頼めるか」


 エルロイが部屋に残っていたゲイルに声をかけると、ゲイルは即座に承諾し、深々と頭を下げた。


「いいさ、何も言うな。長く顔を見せもせず、悪いことをしたな」


 ゲイルは顔を上げてエルロイを見つめる。眼鏡の向こうにくぼんだ瞳には疲労がにじみ、語りつくせぬほどの思いを蓄えているさまが見てとれた。しかしゲイルは声に出しては何も言わず、今しがたよりさらに深く頭を下げてから退室していった。






 ルテイエの命令を受けた衛兵に案内され、エルロイは城内の一室へと通された。スザロにも別の部屋が用意されているようだが、ひとまずは同じ部屋へと通させる。


「夜も更けてまいりました。瓦斯球のご用意は必要ですか」


「いや、いいよ。蝋燭で十分だ」


 できることなら人は払ってしまいたかったが、そうもいくまい。エルロイはスザロに手伝わせてさっさと着替えをすませた。


 各省から出させた人員とは明朝この部屋で顔合わせをすることとし、部屋の中には二人の衛兵が残った。外にも何人かは待機しているようだ。見張り兼護衛としては、威圧感を与えるほどではない自然な数に思われた。


 スザロを部屋に残らせたところで腹を割った会話ができるわけでもない。いっそ別室に下がらせるかと思った時、部屋の外にいた衛兵が来客を告げる。


 部屋の入り口に置かれた灯りが髪の色に反射した。


「なんだおまえか。初日から夜這いとは気が早いなあ」


「ご冗談を。明日は時間がとれませんので、先に謝罪に参ったまでです」


 やってきたのは公衆衛生省の副官、リュンカ・ワズだった。警戒心もあらわに前に立ちかけたスザロを下がらせ、エルロイは客人を迎え入れる。


「謝罪? なんの」


「我が省からも人員をとのことでしたが、あいにく割ける人数に限りがございますので。総務省長殿にも先ほどご報告に上がりました」


「街に何か?」


 エルロイの問いに、リュンカはわずかに目を細めた後でうなずいた。


「南区ノルド街を中心とした一帯で咳病が流行っています。大きく広がってはいないようですが、初期対応が遅れましたのでね。人を多めに割いております」


 わざわざ初期対応の遅れと説明するあたり、原因はルテイエにあると言っているも同然だった。笑いごとではないと重々承知してはいるものの、エルロイはつい表情を緩ませる。


 リュンカ・ワズと知り合ったのは一年と少し前のことで、そう長い付き合いというわけではないが将来の君主と臣下というよりは友人と呼んだ方が近い関係だった。互いの立場も身分も名前さえも知らずに知り合ったせいかもしれない。


「話はそれだけか?」


 尋ねると、リュンカの視線がすいっと横へ動いた。


「まさか。久しぶりにお顔を拝見いたしましたのでね、与太話のひとつふたつとも思いましたが──」


 冗談とも本気ともつかぬリュンカの口調に、脇に控えていたスザロの表情が動く。


「冗談はさておき。お出ましになられて早々のあれには冷や汗をかきましたよ」


「よく言うよ」


 間髪入れずに応じてエルロイは笑い出した。対するリュンカは声を立てこそしないが、表情にはどこか面白がるような色がある。


「周囲をお試しになるのは構いませんが、次までには頭の後ろにも目を増やしておくべきですな。後ろの従者殿が肝を冷やしておられましたよ」


「そうからかうなよ。自慢の従者だぞ?」


 エルロイは何気なくスザロの肩に腕を回して引き寄せた。引き寄せられた瞬間こそ驚いたような顔をしたものの、スザロはすぐに表情を改める。


 今度は喉を鳴らして笑うと、リュンカは就寝の挨拶を残して去っていった。


 スザロから腕を放すとエルロイは大きく伸びをし、寝台へと向き直る。その背に向け、スザロはためらいがちに声をかけた。


「エルロイ様。今夜はお近くで休んでも……?」


 エルロイは肩越しに振り返り、目を瞬きながら部屋を見回す。エルロイよりいくらか背の高いスザロには心もとないだろうが、長椅子を使えば休めなくはなさそうだ。ユノとオースデン間を行き来する際、場合によっては野宿することもあるのだから、それと比べればはるかにましな環境でもある。


「好きにすればいいさ。どのみち言っても聞かないだろ、おまえ」


 決め付けるわけではなく笑いかけながら言うと、スザロは安心したようにそっと嘆息した。


「恐れ入ります」


 靴を脱いで寝台に上がると、エルロイは頭の後ろに指を組んで寝転がる。


「正直なところ、おれもそれなりに覚悟してはいたよ」


 だから拙速に過ぎようとも別れを告げておきたかったんだ──という言葉は胸中に留めてエルロイは生真面目な従者を眺めやった。スザロは何か言いたそうに唇を開いては閉じ、それを二、三度は繰り返した後でようやくうつむき加減にうなずく。


「そのようなことにならず……。何よりでございました」


「うん。ありがとうな」


 十三年の長い付き合いだ。時に従者の立場をかなぐり捨てたように強く意見してくることはあれど、忠義心が高じてのことと知っているから無礼な男とは思わない。傀儡から種馬へと格下げされたところでスザロの忠義が変わることはないだろうとさえエルロイは確信していた。


 視界の端で蝋燭の火が揺れている。一山去ったとは言え問題は山積みで、心地よい眠りにつけそうとは言いがたい。


 コツ、とスザロの靴の踵が鳴った。寝台のすぐ脇まで近づくとスザロはすっとひざまずく。頭を垂れているせいでその表情をうかがうことはできなかった。


「エルロイ様……。あなたは決して秘密主義な方ではないと思っております」


 感情を押し殺すような声でありながら、かすかな震えが心中の揺れを物語っているようだ。


「先ほどのお方とどのようなご関係なのか存じ上げません。ユネスティーア様が街におられると断言なさる根拠も私は存じ上げておりません」


 時にかすれるようなスザロの声だが、静まり返った夜半の部屋では十分すぎるほどに響いて聞こえた。


「……言うほど危険な街ではないさ。街に生まれ町に生きる人々を見れば分かるだろう。おれだって十二、三の頃からあたりをうろついていた」


 大領地オースデンの央都グルティカは十の歓楽街を内包する大きな都だ。中でも都を東西に抜けるローロ川の北、パスティユ地区にほど近い歓楽街であるセタ街はよく整備されており他の街よりもはるかに治安がいい。殺人や暴行、盗難などの事件がないわけではないが他の街よりはるかに多く設置された瓦斯球は夜間も街を明るく照らし、有象無象を狭い闇に押し込めている。


「子供の頃、くだらないいたずらを仕掛けて手ひどくやり返されたことがある。頭にでかいたんこぶを作っておまえを青ざめさせた──覚えていないかもしれないが。ユナがその気になったらおれなんてひとたまりもないよ」


 スザロの目線が上がった。不安を訴える目を一瞥し、エルロイは独り言のようにつぶやき始める。


「魔法の物語と言えば。ぶどう棚から降ろされた演者、いくら歩いても汚れぬ踵、雲を吹き荒らす風。見守る太陽、踊る石畳、川べりの霧。世話焼きの助手は素早い子栗鼠、……そんな舞台をずいぶんと前に見た気がするんだが……」


 エルロイはゆっくりと顔の向きを変え、スザロと目線を合わせた。


 スザロは二、三度瞬いて唇を噛み、声には出さずにエルロイの言葉を復唱したように見えた。そのさまをじっと見つめるエルロイと再び視線を合わせると、スザロは心細そうに緩く首を振る。


 ──通じた。


 大丈夫だ、と声に出して応える代わりにエルロイは強くうなずいてみせた。


 何をどう言い募ったところで不安を払拭してしまうことなどできまい。スザロ自身、そのことはよく理解しているようだ。


 表情の曇りはとれぬままだったが、スザロはゆっくりとうなずいて話を合わせた。


「……懐かしゅうございます。翡翠の歌姫を輩出したティーヴァ歌劇団の古い演目ですね」


「ああ……それかな。ティーヴァは外に出たがらないからなあ、脚本だけでも手に入らんものか」


「祖母のつてをたどってみますよ。しばらくのご猶予を」


 頭の下に組んでいた指をほどき、エルロイは声もなく笑んで瞼に腕を乗せた。


「楽しみにしておくよ。おまえのお婆様は顔がきくからな」


 は、と短く応えると深く一礼してスザロは立ち上がる。腕の下からその背を見送った後、エルロイは小さくため息をついて瞼を伏せた。






 空にはいつまでも雲が張り付いて薄暗く、例年よりも気温の低い日が続いていた。


 高山に近く、いくらか標高の高い央都グルティカには時折あることなのだろうか。年端もいかぬ子供の頃にもこんな年があったことをアリサはよく覚えていた。


 アリサの生家は商家だ。いや、商家だったと言っておくべきなのだろう。一家は何年も前に離散し、屋敷はとうに売り払われた。隣り合う大領地ユノとの境に位置する田舎町カッシジは、今となってはあまりにも遠い。


 半年に渡って央都に雨が降り続いたという異常な長雨の年、アリサは確か五歳だった。遠く北東方向の海寄りの大領地マリエダとの取引は途絶え、同じ大領地内であるはずの央都との流通さえも著しく滞った。食料品を含む多くの商品を運ぶことができず、地境関税を払ってでも在庫を南の大領地ユノへ売りさばきたがる商人がいたほどで、当時存命だった祖父と父が央都の商業連盟に恩を売るために大量の荷を送り込んではどうか、より安全な経路を確保することはできないかと話し合っていたのをよく覚えている。


 大人たちの会話を聞きかじっただけで詳細は把握していないが、うまくいけば央都での商業権がとれるかもしれないという話が出たのはあの頃のことだった。そんなことを思い出して、アリサは物憂げに顔を伏せた。


 数日前に体調を崩して以来、働いていない。もう二度とこの宿で働く必要はないし、迎えが来るまでは好きなように過ごしていいと女将から言われたのはつい昨晩のことだ。


 昨晩、エルロイ・グラディウス・レイ=ヴィクトレールと名乗った青年の屋敷から戻ると、宿には数え切れぬほどの宝飾品と高級な織物、上質な服飾品の数々が届いていた。宿は普段どおりに営業していたが女将の采配がないせいで混乱し、たちの悪い一見の客が騒動を起こしてもいたようだ。何かを察したのか、女たちの間にも妙な空気が流れていた。


 宿の主は一日中不在のようだったが、戻って早々アリサは女将に呼び出された。宿に買われた最初の日以来初めて足を踏み入れた部屋では、この部屋を出た瞬間からアリサは自由の身なのだという話や宿とアリサの取り分に関する話があった。とは言え、すでに帰る家などない身だ。身内なりアリサが望む相手なりが迎えにくるまではこれまでの部屋を使っていいとの許しも得られた。


 馬車を下ろされた時にはすでに泣き疲れて人と話す気力もなく、女将の話もアリサは話半分にしか聞いていなかった。


 堕胎も性病の経験もないまま宿を上がることができる。喜ぶべき話のはずだった。他の女たちの手前、女将は努めて普段と変わらない態度をとろうとしていたようだが、呆けたアリサの目にさえ浮かれていることは明らかだった。それなのに当のアリサの心は死んでいた。


 女将との話が終わると、疲れているからとアリサは早々に部屋に引きこもった。幾度となく客を引き入れた寝台に横になったら枯れ果てたと思っていた涙があふれ、泣きながら眠ってしまったらしい。


 今日はいつになく早い時間に目が覚めたが、起き上がる気にさえなれずアリサは無為な時間を過ごしていた。


 宿を上がった後の生活についてなど、これまで考えたこともない。親類の家で世話になっているはずの家族を呼び寄せ、央都の片隅でひっそりと暮らすことはできるだろうか。いいや、いくら家族と一緒であってももうこの都には留まりたくない。いつ終わるとも知れぬ暗澹とした日々を過ごした都だ。かと言って知己を頼れば、花宿にいた女と扱われるのは目に見えている。


 屈辱的なこともつらいことも数え切れぬほどにあった。自分で選んだ道だとみずから言い聞かせなくてはいられない日々。境遇に対する怒りも悲しみもいつしか麻痺してしまったと感じる時さえあったのに、一番の馴染みとなったあの男はいらぬ感情ばかりを呼び起こしてくれた。


「……馬鹿にしないでよ……」


 独り言が漏れる。


 贈り物の額は口止め料込みと考えてさえ高すぎる。こんな幕切れを望んだことはなかったし、想像したことさえなかった。いっそのこと助け出してやると偉ぶられた方がましだったかもしれない。


 けれど多分、彼にその種の傲慢さを求めても無駄だ。だからこそあの男はたちが悪い。アリサが知っていた、アリサが受け入れた彼は育ちがよく暗い影を抱えてもおらず、身分だの立場だのといった世間のあらゆるしがらみからさえも自由なグラウス・レーヴィックという青年なのだから。

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