1巻⑥
「……雨だ」
手元に広げた絵札から窓へと視線を移し、エルロイは小さくつぶやいた。小机をはさんだ向かいにいたスザロは主人の声に顔を上げ、外を見やる。
霧のように細かな雨が硝子窓を濡らし始めていた。高温で溶かした素地を垂直に引き上げて作ったのだという平面状の硝子窓は透明度が高く、円筒の底を抜いて並べた硝子窓とは雲泥の差だ。瓦斯球に続いて試験段階にある魔法技術の一つなのだそうで、実用化されれば莫大な富をもたらすことだろう。
もっともあのように細かな雨では、硝子窓がなくとも雨音は聞こえてこないかもしれなかった。
「よくお気づきになりましたね」
スザロは手持ちの絵札のうち数枚を机上に伏せた。
「たまたまさ。珍しいな、この時期のグルティカで雨など」
エルロイは小机の中央に伏せられた山から一枚を取り、手持ちの絵札と入れ替えて脇へ置く。
「聞いたことがあるか? 十六年前の異常な長雨の話。雨期が終わってもいつまでも空が晴れ上がらず、やがて一日中雨が降り続くようになり、それが半年以上に渡って続いたという」
「存じておりますよ。ユネスティーア様がお生まれになった年のことでございますね」
絵札を入れ替える手を一時休めて、スザロは再び外を見やった。
「……その二年後にはユノでも水害がございました」
淡々とした口ぶりの従者にちらりと視線を向け、エルロイは頭をかきむしる。
「そうだったな。おれはおぼろげにしか覚えていないが、二年後というと……」
「私は七歳でした。よく覚えておりますよ」
「おれが四、五歳の頃か。覚えていなくても無理はないな、城の外に出ることなどなかった頃だ」
「意外ですね。今とは大違いというわけですか」
さらりと返され、エルロイは絵札に伸ばしかけていた手を止めた。指先で何度か小机を叩き、手を引っ込めて髪をかきあげる。
「あのな……。厭味か、それは」
「いえ、そのようなつもりはまったく。失礼いたしました」
厭味を言われるくらいは仕方がないと思っていても、いざ言われると面白くはない。ふてくされた顔でエルロイは絵札を机上に放り出した。
「あーもう、いい加減飽きるなあ。おまえとじゃ賭ける金もないからつまらん」
「必要ありませんよ、私には。生涯、お側近くに仕えると決めた身です」
エルロイは伸びをしようと頭上に上げた腕を止める。真面目を絵に描いたような性分の従者は、手持ちの絵札を机上に並べて置いた。そろいの数札に騎士の一手。ずいぶんと強い手をそろえたものだ。
外を遊び歩いたことなどないはずなのに、スザロは存外勝負ごとに強い。勉強家であることは疑いようもないが、絵札の遊び方をいつの間にか覚えていただけでなく、めっぽう強いことには舌を巻いた。おまけに、絵札をはさんで向かい合うと表情がまるで読めなくなる。
「……おまえも遊びに行けばいいのに」
中途半端な姿勢から腕を下ろして、エルロイはぼそりとつぶやいた。
「結構です、興味がありませんので。だいたいあなた、賭けをしようにも今日は負け続きではありませんか、気もそぞろで」
「飽きたんだよ、他にやることがなくて」
「理由はなんとでも。どこやらの女について考えていたせいではないことを願うだけですよ」
小言が続いても普段と違って逃げ場がない。遊び歩いているのは事実なだけに言い返すのは気が引けた。主人の行動を制限しようとする使用人なぞと考えられる性分ではないし、エルロイの立場を慮っての苦言であることは承知している。
そのわりには衛兵の耳を気にする様子がないのは、どのみちどこかから漏れ聞こえる話だと思っているのかもしれなかった。
「……あ、そうだ。絵札以外にやることを思いついた」
「出られませんよ。城の衛兵は私のように甘くはありませんからね」
おまえは甘いのではなくて諦めただけだろう、と思いはしたが、口にはしない。
「人を呼ぶくらいなら構わんだろう」
「ですから」
「いや、違う、違うから」
両の掌をスザロに向けて発言を止め、スザロの不審そうな視線にエルロイはため息をついた。
「ええと、なんだ、その。川南のライメ橋近くに織物屋があるだろう。そこの主と、それから──」
合わせて四つの店を挙げられ、スザロは怪訝そうな顔をしながらも席を立つ。スザロが声をかけた衛兵も似たような反応をしたものの、拒絶することはなく指定の店へと使いを出してくれた。
窓際に置いた香炉の煙が中庭から吹き込む風を受けて揺らめいている。霧雨は昼を回る頃には降り止んでいたものの、吹き込む風は冷たく湿気をはらんでいた。
「やれ、今日はおかしな天気だね」
女たちが支度する様子を見に行っていた女将が戻ってきてつぶやいた。
「下は大丈夫なの?」
長椅子に横たわったまま尋ねると、女将は両肩を大きく回して大仰にため息をつく。
「大丈夫も何も、あいかわらずかしましいったらありゃしない。あれがないのこれがないの、毎日のことだってのに大騒動だよ、まったく」
女将の言いようにクスクスと笑って、アリサは窓の外を見やった。
「そういうあんたはどうなんだい。……ああ、もう熱はなさそうだね」
「うん……もう大丈夫だと思うわ。下へ行かなきゃ」
「何言ってんだい。たまにはいいんだよ」
長椅子から身を起こしかけたアリサは、女将の言葉にきょとんとする。
「昨日も夜が更けてから熱が上がったじゃないか。あんたはうちの稼ぎ頭なんだから、一日二日休んだって怒りゃしないよ。ほら、体をほぐしてあげるから寝台へお移り」
でも、と反駁しかけた声を呑み込んで、アリサは言われるがままに寝台に移った。女将の言うとおり熱は引いているものの、倦怠感はまだ残っている。
稼ぎ頭と言っても、たまたま金払いのいい客がついているだけだ。気前がいい上に横柄でも乱暴でもなく、本来ならもっと中央寄りの宿でだって遊べるだろう客。
湿らせた布で体を清めてもらってから寝台にうつ伏せになる。
「この頃じゃ三日と空けず通ってきていたのにね」
持参した香油を手に取りながら女将はつぶやいた。
どうやら、同じ相手のことを考えていたようだ。アリサは返事をしなかった。
女将はアリサの背中から腰に香油を広げ、ほどよい強さで圧迫する。熱があるだの体がだるいだのといった理由でアリサが休ませてもらえるのは彼のおかげだ。他の女たちならこうはいかない。
年齢はアリサより三つ下。外周街で働き始めて間もない頃、ひょんなことから知り合った。後から聞いたことによれば、あの場にいたのも助けてくれたのもまったくの偶然だったらしい。
借金苦で追い詰められた生家から逃れてきた身でできる礼など限られていて、食事に招くのがやっとだった。ただそれだけで終わるかもしれなかったのに、いつの間にかアリサが働く酒場の常連客になっていた少年。三、四年の間に背が伸び体格は男らしくなって、中央街へと移ったアリサを追ってきた──青年。
「……覚えてる? あいつが初めてここに来た時、あたし、泣いちゃったのよ」
背中を押す女将の手の重さに身をゆだねたまま、アリサは口を開いた。女将が口を開くまでには、たっぷり二呼吸ほどの間があった。
「……そうだったかね」
忘れているのか、忘れたふりをしているだけなのか。ふふ、と小さく吹き出すようにアリサは笑った。
「泣いて喚いて追い返そうとしたわ、どこかの偉い人の紹介って聞いたのになんであんたなのよって。……まったく、なんのために何も言わないでここに来たと思うのよ。ほんとに馬鹿なんだから」
望まずして再会した時のこと、偉そうなのは口ばかりで及び腰だった最初の日──女遊びが初めてというわけではなさそうだったが、相手が顔見知りの女とあって勝手が違ったらしいこと、屋敷に招きたいと迎えに来た馬車や屋敷の立派さに驚いたこと。一年も経たぬうちのことなのに、なぜか懐かしく感じてしまう。
「……だけど、そのおかげで覚悟できたんだわ。あたし、この街で生きていくんだ……って」
思えば、はなから住む世界の違う相手だと分かりきっていた。大領主家の血統をはじめとする上流階級の人々が住むパスティユに屋敷を構える貴族。薄汚れた外套をまとってごまかそうとしていたようだが、その中からのぞく上質な織りの服、暗い影がなく闊達な性格、なまりのない流暢な共通語。そういえば、俗っぽい言葉を使おうとしておかしな言い回しをしたこともあったっけ。
「前にも言ったけどさ、あんたさえよけりゃ、きちんと話をつけてもいいんだよ。もっともうちは八番街のような高級店じゃあないし、こちらからそんな話をするのは常道とは言えないんだけど……」
体をほぐす手を休め、女将は香油を掌に取り直した。アリサは相槌を打ちもしない。
「望まれて了解するのが最善、こちらからお願いするなんて恥だなんて言う向きもあるけどね。あれだけ足しげくやって来るんだもの、それとなく話をするくらいは構うもんか。そりゃ、身請けしていただくにはちと若すぎるけどねえ……」
「やめてよ、おかあさん。それでなくたってあたし、お付きの男に嫌われてるんだから」
放っておいたら話がどんどん進みそうで、アリサは口をはさんだ。
女将が言うとおり、この宿はセタ中央街の最高級とされる八番街にあるような高級宿ではない。街路に面した部屋から道行く人々を誘い込み、好きな女を選ばせてもてなす、ただそれだけの宿だ。宴席を設け、舞や楽、寸劇を提供し、中には肌を売らぬ女さえもいるという宿とは比べようもなかった。
そんな世界で上り詰めた女が上流階級の妾に請われるというならば、話は分かる。相応の美貌と教養を持つ女たちだ。自分がそんな器ではないことくらい、分かりきったことだった。
「おや、そうなのかい? あんたの愚痴にいつも出てくる例の男かしら」
肌に触れた瞬間だけひやりと冷たい香油が、女将の掌とおのれの肌で温まり塗り広げられる。この宿に来て一年と二ヶ月。その間、何人がこの背に触れ、何人にこの身を許したのかなど数えてもいないし見当もつかない。
主人の手前、表情を抑えようとしていたに違いない若い男の目を思い出してアリサは唇を噛んだ。見るも明らかな嫌悪感と侮蔑。そう、分かっている。どいつもこいつも同じ欲望を隠し持っているくせに、自分だけは清潔でございという顔をして。そんな連中に比べたら、ずかずかと踏み入ってきたあいつの方がはるかにましだ。
泣いてなんてやるものか。アリサはうつ伏せの状態から頭を上げ、重ねた腕に頬を乗せて女将を向いた。無理やりにでも笑顔を作って、軽口を叩く。
「そいつよそいつ、本っ当に腹が立つんだから。聞いてくれる? この間、屋敷に呼ばれた時なんてね──」
女将はアリサの顔をちらりと見やったものの、すぐに目線を外してくれた。そんな些細な行動にすら気遣いを感じ、危うく声を詰まらせそうになる。
「……でさ、ご主人には平気で厭味言ったり口調を砕いたりするくせに、あたしには馬鹿丁寧な古生語使うのよ。分からないとでも思ってるのかしら」
体の手入れをしてもらう間、アリサはひっきりなしにしゃべり続けた。話の中心人物はいつも同じ男で、肝心の客のことには触れようともしない。
開店時間が迫っていることを告げる鐘の音が宿中に響いた。彼が迎えを寄こすか遊びに来る時には、いつもこの鐘が鳴る前までに知らせがある。
前合わせの紐を編み上げる手を休めて、アリサは中庭へと視線をやった。
「……あんたもさ、田舎の出だって言うけど、もともとは悪くない家柄の娘じゃあないか。大きな商家さんだったんだろう」
手についた香油をふき取り、女将は手近な椅子に腰を落ち着ける。
アリサは視線を落とし、声を立てずに笑った。
「そりゃ、あんな田舎ではね。央都じゃ店一つ開けやしないわよ」
そういえばあいつ、商人が使う俗語は一つも知らなかったっけ、などということにふと思い当たる。側仕えの男を筆頭に屋敷の人間が口うるさくて仕方ないとか、そんな愚痴はさんざん聞かせるくせに、いざ自分自身のことに話が及ぶと器用に交わすような一面もあった。知り合って四年、結構な頻度で顔を合わせているわりに、彼について知っていることはほんの少ししかない。
普段ならとうに階下へ降り、宿の女たちをどやしている時間だというのに、女将は煙管を手に煙草を吸い始めた。
「……あの坊や、どこぞの商家の嫡男坊って感じではないものね。紹介主が主だから、それなりの筋なんだろうとは思うけど……」
心なしか普段より低い女将の声に、アリサは不安をかき立てられる。
「あちらがなんともおっしゃらないことを聞きだせるはずもない。なら、他の情報源を当たるまでかね──」
遠回しということもなく拒絶しているにもかかわらず、女将は妙に彼にこだわっているようだ。稼ぎ頭と呼んでくれ、他の女たちよりも可愛がってくれているように感じているのに、実際はそうではないのだろうか。
アリサはまだとうが立つと言われるような年齢ではないし、宿の女に多い病に予防効果があるとされる煎薬は欠かさず飲み、避妊のための軟膏もきっちりと塗りこんでいて妊娠の経験もない。つい先日、巡回医の検診を受けてなんの問題もないと言われたばかりだ。それなのに。それなのに……?
……もし、アリサが望めば女将は彼について調べるつもりなのだろうか。それなら──と、ふと胸に湧き上がった感情にアリサはおののいた。住む世界の違う相手だから、本人が何も語ろうとしないのだからと見て見ぬふりをしてきた欲求。
「なんて名前だったかね……。グラウス──確か、レーヴィックといったかね……」
女将から目をそらし、アリサは唇を震わせた。言いよどむことなど滅多にない性分なのに、口にすることをためらわずにはいられなかった。
だって、これを口にしてしまえば。
後には引けなくなるかもしれない。
……でも。
いざ口を開いてみたら唇も舌もやたらと乾いて、声がかすれてしまった。
「……それ……偽名よ。お付きの男は、別の名前を呼んでいたもの……」
煙管を持つ女将の手がゆっくりと下がる。
「あれ、そうなのかい。聞かない名だと思ってはいたけど」
女将の声音が妙に重く感じられた。アリサは女将から目をそらしたまま瞬き、あの憎たらしい男の声を思い出す。
「……なんて呼んでたかな。そう、確か……」
その音を舌に乗せかけたところで、自制心が舞い戻ってきた。これは口にしてはいけない名だ。呼んでしまえば、鍵をかけたはずの扉が開いてしまう。
音もなく入り込んでくる風の冷たさが、自制心を強める手助けをしてくれた。結局、その名前の形に唇を動かしただけで、アリサは小さく吹き出して笑う。
「……そうね、忘れちゃったわ。でも、知ってることはある。一年の半分以上をこちらで過ごしてるけど、出はユノで。これ、最近聞いたばかりなのよ、何年も前から顔見知りだったのにね。それでつい、あたしはカッシジの出よって話しちゃった──ほら、近いじゃない。だけどあたしなんかと違って、あちらでもいいところのお坊ちゃんには違いないわね。妾の子で、こっちにいる方が気が楽だととも言ってたかな……」
話す間にもだんだん情けなくなってきて、アリサは口を閉ざした。間が持たない気がして、再び中庭へと視線を泳がせる。
ややあって、女将が大きくため息をついた。
「あんた、他の娘にそういう話をしちゃいないでしょうね」
視線を戻せば、女将はとうに煙管を片付け、自分の肩を揉みほぐしている。アリサは唇をとがらせ、当たり前じゃない、と言い返した。
「何言ってんの。客についてべらべら言いふらすんじゃないって教えたの、おかあさんじゃない」
だいたい彼の素性についてなんて、今まで一度も話題にしたことはない。
「ああ、まあ、そりゃそうなんだけど」
両方の肩を大きく回し、女将は椅子から立ち上がった。
「ねえ、あんた。……後悔してるかい、この宿に来たこと」
「よしてよ」
女将に尋ねられ、即座に言い返す。
「今さら後悔も何もないわ。だいたいおかあさんが助けてくれなかったから、あたし、もっと酷い目に遭ってたわ。……だからいいのよ」
四年前、商売の失敗から一家は離散し、着の身着のままで流れてきた。親族の間を転々としていた母や弟妹に仕送りをしながら暮らす間に居場所を突き止められ、やがて昼夜を問わず脅されるようになった。脅しと言っても、面と向かって怒鳴りつけるというたぐいのものではない。身上に寄り添い、心から心配するそぶりを見せながらすり寄ってくるという、実にいやらしいやり方だ。いずれ高く売るための監視でもあったのだと、後になってようやく分かったたぐいの。
そろそろ妹さんも中央街で働ける年頃になったね、という言葉がとどめの一言だった。
追い込まれた結果とは言え、自分で選んだ道だ。そう思ってやりすごすしかない。
宿にいる女たちは誰も彼も似たようなものだろう。女将とて承知しているだろうし、わざわざ話すようなことでもない。
そうかい、それならいいよと言い残して出て行った女将を見送り、アリサは寝台に体を倒した。中庭から吹き込む風はあいかわらず冷たい。
人のことをどうこう言えない。あたしだって、十分馬鹿だ。
あたしは娼婦であんたは客よ。ついこの間、言ったばかりの言葉を思い出す。
仰向けになって瞼を伏せると、いつの間にか目尻にたまっていた涙が肌を伝った。
どうかしてる、今まで一度もそんなこと考えたりしなかったのに。どうかしている。本当の名前を呼ぶことのできる日が来るかもしれないと思うなんて。
どうかしている……。
四年に渡った関係の終わりは、翌日、違和感を皮切りに始まった。
何度となく遣わされ、何度となく利用した馬車がそれまでよりも早い時間にやってきた。先触れがあったおかげでいつもどおりに身支度を整えることはできたものの、日も高いうちからの外出なんていつ以来だろうと思わずにはいられない。
馬車に乗る時、近くに騎乗した衛兵の姿があることに気がついて、何かあったのかしらとアリサは首をかしげた。それともアリサが知らなかっただけで、中央街では普段から巡回をしてでもいるのだろうか。
わざわざ宿の外にまで出てきた女将に見送られ、アリサは座席に身を落ち着けた。
客に呼ばれてのこととは言え、この宿の中で外出を許されている娼婦はアリサだけだ。それなりの人からの紹介で、信頼のおける相手だからと女将は言っていたが、よくよく考えてみれば、素性の知れない相手をそこまで信頼できるものだろうかと思えてくる。
あんたの客がどこの誰だか分からない、うちはいちいち客の素性を問うような宿ではないから、とも女将は言っていた。だが、本当は彼の素性に心当たりがあるのではという気がしてくる。そうだとしても自分にはなんの関係もないことだと重々分かっているはずなのに。
気鬱になることを考えるのはやめて別のことを考えようにも、頭に浮かぶのは招待主のことばかりだった。こんな時間から呼ぶだなんてどういうつもりなのかしらとか、知らないはずの名前で呼んだらどんな反応をするかしらとか。昨日、女将とあんな話をしたせいねと、自嘲せずにはいられない。
馬車の窓には厚手の遮光布が張りつけられていて、外の様子を見ることはできなかった。かかる時間や曲がる方向から、いつもと同じ行き先に向かっていると分かるだけだ。
そろそろ通用口に向かって道を折れるはず。そう思ったのに馬車は曲がらず、アリサは不安に駆られた。試しに遮光布を引っ張ってみるが、しっかりと接着されているようで剥がせそうにない。
じきに馬車は速度を落とし、左右どちらにも曲がることなく止まった。車室の扉が開かれ、降りるようにうながされる。ためらいながらも外に出ると、控えていたのは見覚えのある少年だった。どうやら屋敷の正面に降ろされたようだ。
周囲には出発時に見たのと同じ服装の衛兵が立ち並んでいた。外周街に暮らしていた頃に見た衛兵とは服装が違うことに、今になってアリサは気がつく。もしや彼らは衛兵ではなく私兵で、普段からこのように屋敷を守っているのだろうか。
近くに控えていた人力車に乗せられ、アリサは不安な面持ちで周囲を見回した。石を敷き詰めた広幅の路面は緩やかに曲がり、その左右には庭園が広がっている。木々は伸びやかに茂り、装飾性の高い水路には絶えず水が流れ、色とりどりの花々が美しく咲き誇っていた。
どうにも気分が落ち着かないのは、普段とは違う経路を取らされたせいばかりではない。景色を楽しむ余裕などなかった。門前だけではなく庭園の中にも兵の姿が見え、私兵にしても数が多すぎるように思えてくる。だいたい、屋敷の主はこれほど厳重に警戒させるような性格とは思えなかった。
案内役の少年は玄関で入れ替わり、形ばかりは丁寧に屋敷の中へといざなわれる。
帽子のレース越しにでさえ視線を感じるような気がして、うつむき加減でアリサは後をついていった。今までと同じように通用口からの出入りならば、これほど人目を気にする必要などなかったのに。
吹き抜けになった広く豪奢な正面の間を抜け、赤錆色の絨毯を敷き詰めた廊下を通って階段を上る。いつもの屋根裏部屋ではなく、違う部屋に案内されるようだ。屋敷が思っていた以上に広く、豪勢な作りであることが正体の知れない不安に拍車をかけた。
「あちらにお入りください」
案内人に示された部屋からは聞き覚えのある声が聞こてくる。束の間、安堵を覚えた。
礼を言って歩を進めかけた時、それが怒鳴り声であることに気づいてアリサはぎょっとした。声は確かに彼のものだ。でも、あんなふうに怒鳴る彼をアリサは知らない。どうやら言い争っているようで、もう一つの声にも聞き覚えがあった。
無言で見つめる案内人の視線に気づいて、アリサは改めて歩を進める。近づくごとに言い争っている内容が聞き取れるようになってきた。
「何度でも言います。必要ありません!」
「だからおれの気がすまないと言っている!」
「気分の問題ですか! これまでにもいったい何度」
「何度だろうと関係あるか!」
互いに声をかぶせるように怒鳴り合っている。案内されたとは言え、そんなところへ姿を見せてよいものなのかと躊躇せずにはいられなかった。
アリサの様子を見かねたのか、部屋の前にいた兵の一人が部屋に入ってアリサの到着を告げる。兵が入るが早いか怒鳴り声は止まり、すぐに出てきた兵に目配せされてアリサは部屋へと進み出た。
レース越しに屋敷の主と目が合う。伏し目がちに目をそらされた時、なんのために呼び出されたのかが分かった気がした。
「……外してくれ」
先ほどとは一転して、しぼり出すような声で屋敷の主は言う。
「お断りいたします」
「外せ!」
再びの大声は、初めて聞く命令口調だった。
従者だと聞かされている男──スザロは口を真横に結んで、主人を、次いでアリサをにらみつける。ややあって手に持っていた証書筒を近くの机に叩きつけると、スザロは無言のまま足早に部屋を出て行った。
あまりの勢いにアリサは息を呑んで自分の両腕を抱いたが、屋敷の主は叩きつけられた証書筒を見下ろしたきり、口を開きもしない。
何か声をかけようにも、なんと切り出していいのかが分からなかった。普段なら考えるまでもなく口をついて出る憎まれ口さえも出てこない。
いつの間にか視線を下げていたことに気がついて、アリサは恐る恐る正面を見直した。
曇り空ではあるが、背の高い窓からは十分な光が差し込んでいて部屋は明るい。壁面のいたるところに繊細な筆致の壁絵があり、地模様の入った厚手の仕切り布が色彩を引き締めている。
屋敷の主はいつになく格式張った服に身を包んでいた。肩飾りには紋章らしい意匠が入り、詰襟と胸部、袖口には金糸と発色の強い青糸の刺繍が施されている。背後には外出用と思われる長丈の羽織りが用意されていた。髪はいくらか短くなっていて、後ろ姿だけを見たなら、とっさには彼だと分からなかったかもしれない。
「……すまなかった。……見苦しいところを見せて」
やがて屋敷の主は目をそらしたまま口を開いた。それきり、彼はまた口を閉ざしてしまう。
返す言葉を見つけられず、アリサは黙ったまま視線を下げた。用件はすでに分かっていた。わざわざ呼び出してまで話をしたがるなんて、この男は何を勘違いしているのだろう。なんの約束を交わしたわけでもないただの客のくせに。
机上にあった小さな燭台の火が一際明るくなった。燭台に目を向けて間もなく、火は音もなく消える。こんなに明るいうちから火を点していたのね、と麻痺したような思考の片隅でアリサは考えた。先に蝋燭を交換しておかないなんて、屋敷の者たちは気が利かないようだ。
屋敷の主はいつの間にか視線を上げ、アリサをじっと見つめていた。帽子の角度でアリサの目線が上がったことに気がつくと視線は頼りなく泳いだが、今度はなんとか意志を貫けたようだ。
呼び出された時から感じていた胸騒ぎが結実するのを、アリサはただ黙って受け入れるしかないようだった。
「……来てくれてよかった。どうしても直接、話をしておきたかった」
目こそ合わせてもその場から動こうとはせず、距離を開けたまま屋敷の主は話し出す。
「おれがユノの生まれであることは話したよな。オースデンの南端、カッシジからパタ高原を抜け峠を越せば、ユノ北端の町ナウブに至る。……その検問所に掲げられた紋章の主の名を知っているか……?」
アリサは何も応えなかった。地元では随一の商家に生まれ育ち、父は地境を越えての取引を行ってもいたが、アリサがみずからそれを話した相手は宿の女将だけだ。
「……ヴィクトレールという。当代は──おれの兄だ。おれの名はエルロイ・グラディウス」
それは、あまりにも現実離れして聞こえる告白だった。遠すぎるという思いと奇妙な納得が去来し、目の前の青年へと像を結ぶ。
紋章の持ち主の名こそ知ってはいたが、その系譜に思いをはせたことなどなかった。連なる人間が目の前にいると言われてもいまひとつ実感が湧かない。驚きがないはずはないのに、アリサはなんの反応を返すこともできなかった。
仮にも大領主家に連なる者がふらふらと単身で街を歩き回るだなんて、よくも屋敷の人間が許したものだ。あの鼻持ちならない従者の心情が今になってようやく理解できるような気がしたし、なんなら同情してやってもいい、とは思った。側仕えの人間が一人しかいないことを意外に感じたほどで、奔放な主に振り回されて根を上げてしまったのかしらね、などと他人事のように考えもする。
「
ただの客でしかなかった相手に、最初から何も期待などしていない。真の名も何もかも、わざわざ話す必要のあることなのだろうかと思わずにはいられなかった。
「そうは言ってもグルティカの議会は強い。もともと誰にも期待などされていないから、気楽なものだった」
「……そう。それで?」
静かに口をはさむと、エルロイは意外そうに瞬いた。うつむき、言葉を探すように口を開きかけては閉じるのを繰り返す。呼び出すと決めた時点で話したいことも決めていたに違いないのに、何をぐずぐずしているのだろうとアリサは思った。
「これからソヴォイル城に……大領主殿の居城に参上しなくてはならない。この屋敷には、いつ戻ってこられるとも知れない。何も言わずに発ちたくはなかったから……」
まるで意趣返しをされているようだとアリサは思った。かつてアリサが何も言わずに中央街へと移ったことが、彼にはそれほどの衝撃だったのだろうか。
「……何も気づいていないとでも思っていたの?」
再び、アリサは静かに口をはさんだ。
「知ってたわ、本当の名前じゃないことくらい。何を聞かされる必要もないのにね」
言葉を重ねるごとに感情は昂り、声は震えそうになる。聞かされた話にはまるで現実味がなく、自分でも驚くほど冷静なつもりだったのに。
「お付きの男は偽名の方を知らなかったようよ。よく言っておくことね……?」
「……あいつは、その……。……すまない」
言い返されることなど予想していなかったのか、それとも内容が予想外だったのか。言葉は途切れ途切れになり、エルロイは完全に目線をそらしてしまった。
「……すまない。今まで……今までのことに、礼を言う……」
もはや何を謝られているのか分からなかった。あたしは娼婦であんたは客だと、また言わせたいのだろうか。ただそれだけの関係なのだから謝られる必要などないし、宿に来なくなったところで、他に気に入りの女でもできたのだろうと思えばすむことだ。それなのにこの男はひどい勘違いをしているようだ──最初から最後まで。
「今まで……すまなかった。宿には相応の手当てを贈ったから、その……できることが他には何も思い浮かばなくて──」
きっとこの男は本心からそう思い、本心から謝っているのだろう。とんだ茶番だ。アリサは引きつった笑いを浮かべずにはいられなかった。
「……ねえ、忘れてるの、それともいまだに気がつかないの。あたしは娼婦だと思い知らせてくれたのはあんただったのよ。それに、覚悟を決めさせたのも──」
虚勢を張れたのはそこまでだった。余計なことは何も言わず、黙って去っておくべきだったと後悔しても遅い。
こらえきれなかった涙がむき出しの肌へと落ち、胸まで伝った。
「それで、未来の大領主様はわざわざお手当てを用意してくださったってわけ? あたし、いつあんたにそんなことを望んだかしら?」
違う、こんなことを言いたいんじゃないと思うのに、口が勝手に動いてしまう。
「だったら、だったらどうして追いかけてきたりしたの! 最初から何もできなかったくせに、今さら同情? ねえ、どうして。いったい何をしたかったって言うの!」
何を言い募っても無駄だということは分かっていた。何もできない自覚はあったはずなのに、その上で踏み込んできた客。踏み込まれて拒絶できるような立場でもなく、互いの立ち位置を何度も確認するしかなかったのに。それなのに。
「馬鹿にしないで! 最初からあんたなんかに何も望んじゃいないわ。あんたみたいなお子様、こっちからお断りだって言ったはずよ!」
早口に吐き捨て、後先を考えもせずにアリサは身をひるがえした。あらかじめ待機していたらしい屋敷の人間に行く手をふさがれ、なかば抱きかかえられるようにその場から引き剥がされる。
その場を離れたら嗚咽が止まらなくなったこと以外、帰り道に関することはまるで覚えていなかった。
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