1巻⑤

 定例議会の夜から丸四日が過ぎた。


 大領主を擁護する穏健派または中立派とみなされ捕らわれた議員らは城内の一室に集められている。食事や替えの衣服は随時差し入れられてはいたが、自由の利かない身というのは何かと不便なものだ。


 長椅子で仮眠をとっていたゲイル・トルティリウスは不機嫌さを隠そうともせずに身を起こした。窓から差し込む光が朝の訪れを告げている。


 手桶の水で布を濡らし、顔を拭いてから、ゲイルは部屋の中を見回した。


 大領主家直属の内務省、農林業を管轄する生産省、裁判を管轄する司法省、街路を管轄する基盤整備省、そして医療福祉を管轄する公衆衛生省に所属する議員の大半が集められている。ゲイル自身が長を務める教育省を合わせて六省。総務省、治安省、経済省、資源省、外交省の議員たちはルテイエを筆頭とする急進派だ。残る一省、魔法省に関しては長と構成員が分裂したものと見受けられる。


 大領主ジェレミアを連れ去った魔法省の長、マリエ・ハーバトレイユ・ツヴィングリの行き先はマーヴィラ宮を除いて他にあるまい。しばらく前に訪れたマーヴィラ宮地下の情景を思い出し、ゲイルは思わず身を震わせた。生死さえ定かではない人々を無数につないだ、寒々しく陰湿な地下の牢獄。中央に置かれた白い光球のような繭は清冽な月のように穏やかな光を放っていたが、見た目どおりの清らかな存在であるとは思えなかった。


 大領主家唯一の直系であるユネスティーア──ユナがあの繭を必要としているという話は聞いている。生まれつき強い魔法の力に恵まれたユナは、他の場所で眠れば毎夜のように悪夢を見るという話だった。そのことごとくは央都内で起こった悲しむべき出来事をそのまま映していて、幼い子供の頃から眠るのを怖がっていたとも聞いている。


 そんなユナが安心して眠りにつける場所を作ってくれたことに関してだけはマリエに感謝したいところだが、他に方法はなかったのかと思わずにはいられないのも確かだ。


 ……姫はご無事だろうか。


 何度目とも分からぬため息をついて、ゲイルは見張りの衛兵を見やった。衛兵たちは三交代で見張りの任に当たっているようだ。当初こそピリピリと張り詰めていた空気も今ではいくらか和らぎ、一部の年若い衛兵には気の緩みが出始めているように思われる。


 平時であれば他省所属の衛兵であろうと叱責するところだが、監視される立場としてはかえってありがたい。差し入れられていた服に着替えると、ゲイルは入り口近くの衛兵に歩み寄った。


 俄然、部屋中のほとんどの視線がその姿に集まり、数人の衛兵が駆け寄ってくる。ゲイルは喉の調子を確かめるように咳払いをした。


「長の勤務、ご苦労なことだ。いくらか尋ねたいことがあるのだが」


 ゲイルの目の前にいた若い衛兵をかばうように別の衛兵が進み出る。


「答えられる範囲のことでしたら」


「構わんよ、負うところはそれぞれに異なるものなのだから。さて」


 聞いたところでおおよその答えはあらかじめ予想できていたが、聞くことに意味がある。進み出た衛兵の正面に立ち、ゲイルは重々しい口調で問うた。


「四点を尋ねる。まず、ルテイエ殿のお怪我はいかがか。次に、大領主殿のお加減はいかがかと、姫はお元気でおられるか。最後に、外の状況には変化がないように思われるが、どうなっているのかね」


 振り向いて見るまでもなく、部屋中の視線が集まっていることが分かる。相対する衛兵の表情には明らかな緊張の色があった。


「総務長官のお怪我については、ご心配には及びません」


 一語一句を切りながらの回答に、慎重に言葉を選んでいる様子がうかがえる。


「……その他のご質問に関しましては、答えかねます」


「そうか」


 やはり予想どおりの答えだった。ゲイルは深く嘆息する。


「ならば我が目で確かめに参ろう。押し通る」


 ずい、とゲイルは一歩を進み出た。


「──なりません!」


 身構えた衛兵の手が剣柄にかかる。周囲の衛兵も同じ動きをしたがゲイルは引くそぶりを見せず、眼鏡の位置を直して正面の衛兵をねめつけた。


 十数人の衛兵に対し、丸腰で高齢の文官一人である。ましてゲイルは日頃から温厚な人柄で知られている。正面に立つ衛兵の目に迷いが浮かんだ。


 捕らわれの身とは言え扱いが丁重であることと、事態が膠着していると確信していたからこその賭けだった。譲位を求めて蜂起したとは言え、ルテイエは現議会の転覆や極端な制度改革、過度の流血は望んでいないはずだ。


 にらみ合いののちに衛兵が根負けした。


「……では、護衛を四名。一刻のうちにはお戻りください。くれぐれも短慮を起こされませぬよう」


 名前を呼ばれた四人の衛兵が進み出る。ゲイルは眼鏡を外して懐に収め、衛兵を伴って部屋を出て行った。


 入り口近くに集まった衛兵たちが元の位置に戻ると、部屋の中は静まり返る。


 様子を見ていた議員の一人が、感心したように長いため息を吐いた。


「まさか本当に出て行かれてしまうとは。教長もやりますなあ」


 頬のこけた小さな顔に下がり気味の眉が印象的な、内務省の長官だ。


「我々の首をすげかえようにも、それなりの手続きが必要ですからな」


 渋い顔で応じたのは、司法省の長官だった。


「なにしろ恒久の身分であり後々は世襲が原則ですから、それなりの家柄から最低でも六省の推薦を得られる者が必要です。その上で定例議会に諮って大領主殿の承認を得なくてはならない」


「そのとおりですな。本来、極端な独裁を生まないための制度なのですから」


「ご自身の後釜には今の副官を据えられるとしても、必要な人数を確保するだけで一仕事ですぞ。なにしろ私のように中立の立場の者までここに押し込んだことも考え合わせれば、議員の入れ替えは状況が落ち着いてからとお考えの──」


 先ほどゲイルの一時解放を許した衛兵が咳払いをし、二人は口を閉ざした。再び静まった部屋の中を、最年少の議員がすたすたと横切る。


「失礼、頼みがあるのだが」


 公衆衛生省の副官、リュンカ・ワズだった。相対する衛兵の顔がしかめ面になる。


「……お二人目までもは無理です」


「煙草を持ってきてほしいだけだ」


 たいして表情を動かしもせず、リュンカは言った。


「おれの部屋の寝台脇にある黒檀の箱と煙管を二本。二本目は小机の引き出しから適当に持ってきてくれればいい。それから、同じ引き出しにある錆色の小箱を」


 要求はあっさりと受け入れられ、じきに指定の一そろいが届いた。リュンカは黒檀の箱から出した葉で一服し、次いで錆色の小箱の葉をもう一本の煙管に移す。


 部屋の中を見回すと、リュンカは奥に置かれた長椅子のそばまで移動し、その脇に身を屈めた。煙管を差し出した先には、膝を抱えて座り込んだ公衆衛生省の長エリアル・バルバロイの姿があった。


 頭上から人影が落ちても顔を上げもしないエリアルをしばし見下ろし、反応がないと見てリュンカは煙管の吸い口で肩口をつつく。


 ようやくエリアルは顔を上げた。目が落ちくぼんで頬はこけ、まさに生ける屍といった風情だった。長椅子の脇、床の上に座り込み、差し入れられた食事にさえろくに手をつけていなかったようで、もともと痩せ気味の風貌からさらに肉が落ちたようだ。


「……ああ」


 ずいぶんと時間を空けてから、ようやくため息にも似た声を出すと、エリアルは煙管を受け取った。遠火で着火された葉をゆっくりと時間をかけて味わい、にわかに大声を上げて大きく伸びをする。


「ああーあ。生き返ったぁー」


 立ち上がったエリアルはリュンカを押しのけるようにして進み出、部屋中の視線が集まっていることをいっこうに気にする様子もなく長椅子に転がった。


「……あれ。教長は?」


 移動した際、周囲の様子をまったく見なかったというわけではないらしい。リュンカは自分用の煙管に葉を追加しながら応じた。


「出て行かれました」


「え。出られるの」


 饒舌と言うほどではないにせよ、つい先ほどまで沈みきっていた人物とは思えない口ぶりだ。


「特別にですよ。二人目は無理だそうです」


「あぁ……なんだ。そうなのか……」


「おれは風呂に入りたいんですがね。このままではいつ解放してもらえることやら」


 こちらはこちらで、城内の状況など知ったことかと言わんばかりの口調だった。遠巻きに見ていた古参の議員たちが顔を見合わせても涼しい顔をしている。


「風呂かぁー。君、好きだよね。屋敷にも温水を引いてあるんだっけ」


「好きな時に入れますからな。ウーディカの屋敷ならともかく、こちらでいちいち沸かさせていたのでは時間がかかりすぎる」


「そりゃ央都にいる間は何をするにも時間は惜しいよね。ああ、ぼくも帰りたいなー。先日の解剖結果、まだまとめきれていないんだよ」


 長椅子からだらりと腕を投げ出し、エリアルはぼやいた。


「おや、いつになくてこずったというわけですか。セタ十六番街の件でしたかな」


「そう、それ。あれねぇ、面白いんだよ」


 仰向けになって足を組み、エリアルはおのれの頬を指で示した。


「しばらく前に捕らえた蛇の刺青の男がいただろう。あれと同じ位置に丸い傷跡が残してあってねえ」


「……ほう」


「被害者はまだ若い男で、物取りとは考えにくいな。怨恨でもないと思う。傷跡と皮膚のうっ血の具合から考えて、最初に致命傷にはならない場所を一突き。それ自体はよく慣れた手つきだよ」


「なるほど。獲物は?」


「切れ味がよくて細身、片刃だね。ぼくにだって扱えそうな護身用の短刀の可能性もある。めくれた皮膚に石や木片がずいぶん食い込んでいたから、引きずって連れ去り、拘束した上で弄んだんじゃないかな。爪を剥いだり、皮膚を薄く削いだりね。そうそう、それに生きている間に胸まで裂いてはらわたを引きずり出している」


 身振り手振りを交えながらの解説に、何人かの衛兵が口元を抑えてそっぽを向いた。リュンカは平然と話の続きをうながす。


「残党というわけですか」


「うーん、それはどうだろう。手口がずいぶん違うし、心臓を取り出しているわけでもないからねえ。単なる愉快犯なのか、信奉者なのか……。はあ、せっかく早く回収できた死体だったのになあ、今頃はもう蛆だらけだよ。写生もしたかったのに、こんなことになって」


「一晩くらいなら氷でなんとかなったかもしれませんがね、屋敷の人間が気を回してくれることを願うばかりですな。しかし犯人が捕まっていないとなると──」


「治安省が張り切ってくれることを願うばかりだねえ」


 あいつらは外にいるんだろ、とエリアルはあらぬ方向に恨み節を飛ばした。


「刺青の男の時はお手柄だったじゃないか、あいつら。蟻一匹逃さぬほどの意気で警戒に当たったんだろう」


「そのようでございましたね。……そういえばその男が自害したことは話しましたか?」


「聞いたよ、地下宮のアレだろう」


 長椅子に転がったままエリアルが差し出した煙管を受け取り、リュンカは手際よく葉を詰め直す。


「あれはうまいやり方だよ、魔法というものは本来、あらゆるものを巡る生命の力の流れを利用するものだから。苗床を生かしたまま腹を割いて血流を取り出しているだろう、いつでも入れ替えの可能な肝臓が大量にあるようなものさ。いい栄養源になるというわけだ」


「道理で。一騎当千の戦いぶりでございました」


 その内容ゆえか、長話を止めようとする者は一人としていない。二人とも議員の中では若手であるにも関わらず、職務の特殊性については他の追随を許さぬ様子がうかがえた。


「彼女ね。病人をかばった上で、あれだからねぇ……。ああ、そうそう、触れられなかったからあまり詳しくは分からないけど、あの人のは心筋の発作だと思うよ」


 エリアルは持ち上げたおのれの両手をしげしげと眺めている。


「大領主殿ですか」


「うん。彼女も分かってたようだから、なんとかしただろうけど……というか、なんとかするために撤退したんじゃないのかなあ」


 放言には違いないが話の矛先が変わり、一部の衛兵たちはひそかに安堵のため息をついた。


「内科的療法は魔法省の得手ですからな。じかに触れなくともそこまで判別できるとは、長官もつくづくそちら向きのようだ」


 前例のない若さで現職にあるエリアルは、手を触れることで人体の内側をのぞき見るという才に恵まれていた。家督と同時に議員の地位を受け継ぐ際、魔法省と公衆衛生省のいずれに属するかを悩みに悩んだというのは省内ではよく知られた話だ。


 決め手となったのは両省の性質で、エリアルはその手によって何かを作り出すことや変えることより、観察することに強い関心を抱いていたようだった。実際、その手によって病態が判明した疾病は数多く、対応には配下の者が当たる。公衆衛生省を選んで正解だったとは後の当人の弁である。


「ぼくには見えるだけで、その先のことは今の技術じゃほとんど何ももできないからね、知ってるだろうけど。あーあ、だからあんまり追い詰めちゃ駄目だって思ってたのになあ」


「なんだってそれを総務省に言ってやらなかったんです?」


 一番近くにいたでしょう、と言われてエリアルは唇を尖らせた。


「えー、言えるわけないじゃん、総務省怖いもの。そういう駆け引きはダ=ワズの得意分野だろ」


「その呼び方はやめてください、長官。何度も申し上げているはずですが」


「なんでさ、誇り高い名じゃないか。君がぼくを長官と呼ばなくなるなら考えてあげてもいいけど」


 煙管をいじりながら起き上がり、エリアルは無言で次の葉を要求する。


 これ以上は駄目です、とあっさり断られてふてくされ、煙管を放り出すようにリュンカに返してエリアルは再び長椅子に転がった。


「もう寝る。用ができたら起こして」


 言い終えた後、返事を待ちもせずに寝息を立て始める。


 リュンカはその寝顔をちらりと見下ろしたきり、口を閉ざして煙管の手入れを始めた。






 ゲイルが推定したとおり、この数日、状況は何も変わっていなかった。


 定例議会の場を利用して急進派が蜂起したあの夜以降、大領主ジェレミアの姿を見た者はいない。一人立ち向かったマリエとともにマーヴィラ宮に立てこもっているのだろう、という意見にはゲイルも賛成だった。


 同時刻、別動隊がユナの軟禁を試みたようだが、こちらも失敗に終わったようだ。以降、ユナの所在は知れないようだが、マーヴィラ宮にいると見て間違いないだろうとゲイルは判断していた。


 一方、グルティカを訪れていると噂されていたエルロイは、パスティユ地区に所有する屋敷で軟禁の状態にあるようだ。堅苦しい席を嫌う性分と聞いている上、ここ数年、大領主家として彼を招待したことはない。内務省がたびたび行事の開催や招待を進言していたようではあるが、彼は私的に遊びに来ているだけなのだからと大領主が退けていたようだ。


 個人的なつながりを作っておくべきだったと今さら考えても遅かった。公衆衛生省の副官であるリュンカ・ワズとの間には私的な付き合いがあると聞いてはいるが、そのリュンカもエルロイの動向を逐一把握しているわけではないらしい。


 突然の事態をエルロイはどのように受け止めていることだろう。事情も分からぬまま軟禁され、さぞ窮屈な思いをしているに違いない。このような内情を歓迎してもらえるはずもない。


 大領主の承認を得られなかったことからルテイエへの譲位は実現しておらず、ただルテイエが叛意をあらわにしただけというこの状況。大領主の健康状態が気がかりではあるが、いつまでも若々しい容姿を保ち、生命の力を操ることにさえ長けると噂される魔法使いがともにいるのだ、万が一にも命尽きることなどあるまいとも思う。


「……して、どうなさるおつもりですかな」


 護衛という建前の監視を伴ったゲイルは、寝間着姿のルテイエに問いかけた。その向こうではルテイエの長男が不安げな表情で父親を見つめている。


 寝台に身を横たえたルテイエの体の各所には包帯が巻かれ、見るも痛々しい姿をしていた。しかしながらその瞳には強い光があって、ゲイルの姿を目にした時など、横たわったまま喝を入れて同行の衛兵を震え上がらせたものだ。


「どうもこうもあるものか。どのように時間をかけてでも宮を解放させ、目的を果たす! それだけのことよ」


「その間、街の諸問題はどうなさるおつもりか。生産省の長を捕らえたままで食糧の適正な貯蔵や配分が滞る可能性は? 公衆衛生省の上層部も捕らえておいででしたな、流行り病が発生した場合の対応はどのようにお考えか」


「身の自由がなくては采配の精度が落ちるような腑抜けどもか、あれらは?」


 なんなら全員が一同にそろい続けた方が話も早く進むのではないかとまで続けられ、ゲイルは眉間の皺を深くした。


「これまでも大領主不在の中、議会によって央都を維持してきたのだ。上層の議員どもは捕らえても下層の者どもは十分に使えよう。宮を解放させるまでの間くらいは持ちこたえてみせるわ」


 ルテイエは意気軒昂に言い切るが、果たしてそのようにうまくいくだろうか。魔法省に所属する魔法使いたちの協力を得られるとは言え、あの魔法省の長が何も手を打ってこないとは思えない。


「必要ならば新たな議員を選出するまでのこと。それなりに心当たりはある」


 世襲を原則とし、また終身制でもある議員の選出には一定の手続きを必要とするが、ルテイエはそういった原則さえ曲げるつもりなのかもしれなかった。


「なんなら全員が好きな時に辞してもよいのだぞ。前例がないわけではなかろう、どこやらの爺のようにな!」


 語気荒く言い切られ、ゲイルは思わず反論する。


「あれはワズ議員に議席を明け渡すためのものでございました。責任を放棄なさったわけではありませぬ!」


 今は公衆衛生省の副官を務めるリュンカ・ワズは、二年前に当時の教育省長官が退き、副官であったゲイルが昇進するのに合わせて教育省に籍を得た。その後、当人の資質を考慮し公衆衛生省との人員交換を行い、今の地位にある。わずか二ヶ月の短期間とは言え直下での働きぶりを見てきたゲイルには、あの男は将来を嘱望されて当然との思いがあった。それを見出し、推した前長官の慧眼にいたく感心することはあっても、後進に責任を押し付けて去ったなどと考えたことはない。


「父親に似て、あのように小賢しい若造を擁する意味も考えずにか? 片腹痛いわ、あれこそ食わせ者もいいところだ。見ておれ、今に尻尾を──」


 毒づいていたルテイエが不意に言葉を切った。その視線はゲイルを通り越し、通路へと向いている。


 通路から衛兵の声が聞こえてきた。物音は聞こえてこない。


「様子を見てまいります」


 二人の衛兵が通路へと向かい、部屋を出たところで足を止めた。槍を構え、制止の声をかける。何かが近づいているようだ。


 応援とばかりに続いた衛兵が先の衛兵の脇を抜けて通路へと進み出た。何かを尋ねる声に続いて、女の声が聞こえてくる。内容までは聞き取れない。


 ゲイルもまた、振り返って通路の様子をうかがった。ほどなくして女の短い悲鳴が聞こえ、重い物音が続く。槍を手にしたまま顔を見合わせ、二人の衛兵が通路へと進んだ。


「そこを動くな!」


 詰問の声と女の声が後に続く。


 しばらくすると、交差した二本の槍で行く先を制限された女が姿を現した。結い上げてあったのだろう髪は乱れて落ち、見るからに憔悴している。


「ユネスティーア様の侍女ではないか。そなたら、何をそのように乱暴な」


 ゲイルが声をかけると、二人の衛兵は再び顔を見合わせた。侍女には抵抗するそぶりはない。


 侍女は怯えきった顔で周囲を見回し、胸の前に合わせていた手を恐る恐る片方の衛兵へと伸ばした。それに気づいた他方の衛兵が声を上げて制止しようとし、驚き振り返った侍女の手が差し出された衛兵の腕に触れる。


 かばわれた衛兵が声を上げた時には、遅かった。侍女に触れられた衛兵は膝下から崩れ落ちるようにして倒れ込む。


 その手から離れた槍が床に落ち、乾いた音を立てて転がった。


 様子を見ていた衛兵たちがいっせいに身構える。侍女はおののき、両手で口元を押さえて首を振った。両眼からぽろぽろと涙をこぼし、その場にへたり込んで訴える。


「違うのです……! わたくしは何も!」


 ゲイルは侍女から通路へと視線を移し、無言のまま通路へと向かった。数人の衛兵があわてて後を追ってくる。


 侍女が通ってきたのであろう通路には、何人かの衛兵が倒れていた。先ほどのように侍女が触れただけで倒れたのであれば、誰が仕組んだことなのかは考えるまでもない。


 部屋に戻ると、ゲイルは侍女の隣に倒れた衛兵の様子を確かめた。気を失っているだけで、呼吸はあるようだ。


「あの魔女か……」


 歯噛みしたルテイエが独り言のようにつぶやいた。侍女は両手で顔を覆ってすすり泣く。


「用件はなんだ。泣くばかりでは話にならん!」


 一見、身動きさえ不自由な怪我人のものとは思いがたい大声に、侍女は大きく体を震わせた。


「父上、何もそのような……」


 さすがに見かねたようで、ルテイエの長男、ダヴィードがやんわりと口を挟む。強面のルテイエに似ず柔和な顔立ちの少年で、外見のとおりに穏やかな気性の持ち主だ。


「貴様は黙っておれ!」


 一喝され、ダヴィードは視線をさまよわせて口を閉ざしてしまった。


 侍女は泣き濡れた顔を上げ、何度も小刻みに首を振りながら口を開く。


「申し訳ございません……! わたくしはただ、ここを訪れるようにと仰せつかって……」


 合間にしゃくり上げ、鼻をすすりながら侍女は続けた。


「姫様は、ユネスティーア様は宮におられません。あの夜から一度もお姿をお見かけしておりません」


 ゲイルとダヴィードの表情が変わった。その間にいるルテイエは横目で侍女をにらみつけたまま動かない。


 侍女は震える腕をおのれの胸の前で合わせ、服地を指先でたぐり寄せた。忙しなく瞬き、再び涙を流し始める。


「お助けください……。どうか、どうか姫様をお助けください。あの方を」


 声や手が震えるのみならず、侍女は体をカタカタと震わせ始めた。それでも必死に何かを言い募ろうとはしているようだ。


「お願いします。お願いいたします。どうかあの方を、レイ=ヴィクトレール様をお招きください。どうか、どうか姫様を」


「……落ち着きなさい」


 ゲイルは侍女の前に回り込み、床に膝をついて腕を大きく広げた。侍女は大きく体を震わせ、胸をそらせて接触を避ける。倒れたままの衛兵に視線を走らせ、ゲイルは腕を下ろした。


「落ち着きなさい。姫がマーヴィラ宮におられないと言うのなら、ではどこにおられると言うのだ。何をそれほどに怯えている? いったい何から助けよと……」


「──何を言いたいのやら分からぬ」


 背後からため息交じりの声が届いて、ゲイルは肩越しに振り返った。傷が痛むのか、顔をしかめながらルテイエが体を起こしていた。


「だが、よかろう。あの魔女が若造にご執心とあれば招いてやっても、な」


 再び口を開いた時には、ルテイエは怪我の存在などまるきり感じさせない。


 底知れぬ胆力を感じさせる声音で言い放ち、ルテイエは唇の端を歪めて低く笑った。

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