1巻④

 南へと折れた馬車はセタ十四番街を示す看板の下を過ぎ、じきに止まった。渋い顔で腕組みをしていた少年は御者に突かれて御者席を降りかけたが、少年が手をかけるよりも早く扉が開く。


 車内から降りたエルロイは両腕を伸ばし、のんきにあくびをした。


「へへっ、久しぶり」


 目の前の細い路地から、細身の少年が姿を現す。


「おお、元気そうだな」


 気安く話しかけてきた少年に応じ、エルロイは馬車の扉を振り返った。


「傷にはなってない……な。おいスズ、おまえな、いったい何を投げたんだ」


「なんでえ、いいじゃん。そのへんに落ちてた小石だよ、そんなんで傷つくような馬車じゃねーだろ」


 頭の後ろで指を組み、いけしゃあしゃあとスズは言ってのける。


「そりゃそうだけどな、いくらなんだってもうちょっとやりようってものがあるだろ」


 呆れ声でエルロイは言ったが、スズを非難するような口ぶりではなかった。


「あのな、知ってるだろ? 屋敷の連中がすげぇうるさいの」


 エルロイの声を聞いてのことだろう、御者席の少年が背後をうかがう。うるさいのは屋敷の人間ばかりではない、と言わんばかりだ。


 怖ぇ、とつぶやいてエルロイは首をすくめた。


「やりようって、さっきの可愛子ちゃんの真似でもすればよかったのかよー? そんなん目立っちまうし、それこそおれの方が怒られんだろ、後で」


「ん? 可愛子ちゃん?」


「さっきの金髪の子。けっこう可愛かったじゃん」


「さっきのって、あー……なんだ、それは惜しいことしたな。怪我でもさせたら大ごとだからな、そっちばかりに気を取られてよく見てなかった」


 今度はスズが呆れ顔をする番だった。


「なんだそりゃ。ったく、お貴族様ってのは何かと大変なんだなー」


 路地をふらついてる方が悪いに決まってんのに同情するぜ、と続けたスズに、エルロイはため息を返した。


「大変も大変さ、行き場があるだけましってところだがな」


 御者席からコツコツと何かをたたく音が聞こえてきた。怖々振り返ったところで御者席の少年と目が合い、エルロイは顔を引きつらせる。


「あーあ、まったくおまえの言うとおりだよ。だいたいな、こんな早くに迎え寄こすとかな、どんだけ怒ってんだよ。あー、帰りたくねーなー」


 背後から聞こえる音が大きくなり、エルロイは肩を跳ねさせた。息抜きと称して止まってもらったものの、あまりのんびりとはさせてもらえなさそうだ。


「……なあ、最近アリサに会った?」


 スズは声の調子を改め、そわついた様子で聞いてきた。


「ん。……会ったよ」


「元気だった?」


「まぁ……あいかわらず。あいつな、こっちに移って長いんだから、もうちょっとしとやかになってもいいような気がするんだが」


 軽口を叩きながら、つい先ほど別れた女の爪の赤を思い出す。


 エルロイの口ぶりに安堵したように、ははっ、とスズは声を立てて笑った。


「そっかぁ、そんならいいや。じゃ、おれそろそろ戻る」


「あ、おい」


 細い路地に身を翻しかけて呼び止められ、スズは怪訝そうに振り返る。


「おまえ、働き口は見つかったのか?」


「斡旋所にはちょこちょこ世話んなってるよ。情報屋のリッツのことは話したろ、あいつが何かと面倒見てくれてるし、おれのことなら心配すんなって。あの可愛子ちゃんよりゃはるかにましさ」


 スズはおどけて軽快な足踏みをしてみせた。その軽い言動にエルロイはかえって表情を曇らせる。


「お人よしの馬鹿はあいかわらずだな、グラウス」


 年齢に似つかわしくないスズの苦笑いにエルロイはうつむき、小さくため息をついた後で進み出た。不思議そうに首をかしげたスズの肩を身を屈めて抱き、すぐに腕を放す。


 馬鹿だなぁ、と、もう一度スズはつぶやいた。


「そんなに心配すんなよ、おれだってアリサだってどうにかなってるだろ。食うもん食ってりゃ死にゃしねえ、ついでに雨風しのげりゃ言うことはないな」


「ひでぇなあ」


 スズの言いように、今度はエルロイが苦く笑う番だった。観光客向けの地方言語や古生語を併記した看板が並ぶ街路を、行き交う人々の姿を眺めやる。


 エルロイの視線をなぞるように街路を一瞥すると、スズは潰れた靴先で石畳を蹴った。


「そんなもんだよ、なんとかなるのがこの街さ。だからほんとに心配すんなって」


 あくまで軽い口調で繰り返すと、スズはひらひらと手を振って街路に戻っていった。






 動き出した馬車の座席に身を預け、一時、エルロイは瞼を伏せた。


 数ヶ月ぶりに会った友人が元気そうでよかった。セタ中央街の西側、十一番街から十二番街に配された男娼宿上がりの少年を友人と呼んでは、スザロなどは険しい顔をするかもしれないが。


 二人──スズと、スズがアリサと呼んだ女に出会ったのは四年前、パスティユ地区に屋敷を買って間もなくのことだった。セタ中央街に足を踏み入れる勇気はまだなく、興味本位で外周街をふらついていた頃だ。


 日が傾き、夕闇が迫った時刻のことだった。外周街での売春は禁止されているはずなのに「泊まっていってもいいのよ」としなを作る女の声や、賭場へと呼び込む声。露店で買った串焼きの肉をほおばり、規制なんてあってないようなものだな、などと思いながらエルロイは二番街を散策していた。当時エルロイは十四歳、たびたびスザロの目を盗んで屋敷を抜け出しては、街の住人に見えるよう汚れた外套を身につけ、あたりを歩き回っていたものだ。


「泥棒ーっ」


 背後から聞こえた女の甲高い声に、エルロイは振り返った。声の主と思える女は路面に這いつくばり、引ったくりと思える男が全速力でこちらに向かっていた。


 なんだなんだと周囲の者たちが振り返る中、手を出したのはほとんど反射的なもので、後先を考えてのことではない。ただ、たまたま立ち位置がよかった。それだけのことだった。


「逃げろーっ!」


 出した手で男の服をつかんだ時、別の方向から声がかかる。馬のいななきが後に続いた。走ってきた男の勢いを借りて体をひねった時、迫り来る馬の姿も視界に入り、引き寄せた男ごととっさに前方へと倒れ込む。


 なかば男の下敷きになりながら抱え込んだ頭上を馬が飛び越えていった。


 大きな怪我をしないですんだのは幸運だったと言う他ない。馬の蹄が当たろうものなら、それだけでも大惨事だ。


 周囲にいた数人の男たちが地に伏したままうめく男を捕らえ、二人ばかりが衛兵を呼んでくると言ってその場を離れた。顔は割れていないはずだが衛兵には会いたくないな、と人だかりを抜け出そうと試みる。


「兄ちゃん」


 一息ついて立ち上がりかけた時、後ろから声をかけられた。年端もいかぬ少年だ。エルロイが周囲を見回すそぶりを見せ、口の前に指を立てたことで、少年は意図を察したようだった。


「こっち」


 服の袖を引っ張られ、細い路地の物陰へと連れ込まれる。引ったくり犯はほどなく到着した衛兵に引き渡され、奪われた布袋は女の手に返されたようだった。


「なんだ、あんた札付きかよ?」


 暗がりで声をひそめた少年に、いやあ、とエルロイは曖昧な返事をする。


「苦手なんだよ、ああいう……祭り上げられるのはごめんだし、衛兵連中は威圧的だし」


「へえ。せっかくかっこよかったのになぁ、そんなもんかよ?──あ」


 不意に声を上げると、少年は四つんばいになって暗がりを出て行く。ややあって少年に手招きされ、エルロイは周囲をうかがいながら物陰を出た。


「大丈夫だよ。もう皆飽きてる」


 少年が言うとおりだった。人だかりはもうどこにもなく、呼び込みの声があちこちから聞こえ、人々は平常と変わりない様子で路地を行き交っている。駆け去った暴走馬は姿さえも見えない。


「……なんて街だ」


「そんなもんさ、この界隈は。なんせ美人だし、あんたのかっこよさにあやかりたかったのかもな? 横取りもされず衛兵を呼んでもらえたなんて、まったく奇跡的だよ」


 自分よりは明らかに年下だろう少年の発言に、エルロイは思わずため息をついた。


「あの」


 近くにたたずんでいた女に声をかけられる。


 年の頃はエルロイよりも少し上、栗毛色の髪に勝気そうな鳶色の瞳。外れかかった陽光を反射してきらめく瞳の、なんと力強く美しいことだろう。髪も服も砂まみれといった風体ながら、凛とした立ち姿にエルロイは一時目を奪われた。


「……ありがとう。たいした金額じゃないけれど、あたしには大切なお給金だったの」


 明るいうちに故郷に送ってしまいたくて急いだのだけれど、と女は続ける。


 どうしても礼がしたいと女に言われ、その日は少年とともに女が働いていた酒場で食事をふるまってもらった。


 二人に出会ったあの日のことは、今でもありありと思い出すことができる。






 酒場を辞めて故郷へ帰ることにした、とアリサが言い出したのは、知り合ってから三年目のことだった。


 スズとともにすっかり顔なじみの客となっていたにもかかわらず、寝耳に水だった。「もう決めたの」とまで言われてしまい、とっさに何も言えなかったのを覚えている。


 故郷はどこかと聞けば「田舎よ」とだけ返され、引き止めようにも「もう決めたって言ってるじゃない」と、にべもない。看板まで粘ったものの、終いには「いい加減にして」と怒られる始末だった。


「月末まではいるから」


 そう言われて渋々酒場を出たのに、翌日、アリサの姿はなかった。店主にまで「今日は休みだよ」、「体調が悪いらしい」などとごまかされ、セタ六番街の宿へ移ったと知ったのは、半月後、口さがない客の会話からだった。


「そうなんだろうと思ってたよ、おれは」


 たまたま同席していたスズの言いようにさえ、最初は耳を疑ったものだ。別れを惜しみこそすれ、行き先を疑ってなどいなかった。


「いい機会だから言っておくよ。おれも行くことにしたんだ」


「……え」


「だって、いつまでもかっぱらいじゃ食っていけない。アリサと違って借金はないけど」


 何もかもが初耳だった。スズは近くの店で丁稚をしていると聞かされ、それを信じ込んでいた。


「それも気づいてなかったのかよ、馬鹿だなー。よそ者専門だよ、おれは。街の人間を狙ったんじゃ住み心地が悪くなる」


 そういうわけだからおごってよと言い残し、その晩を境にスズも姿を消した。


 かつて二人同時に得た友人を、この時、エルロイは同時に失ったのだった──一度は。






 馬車の速度が落ちた。


 うたた寝から覚め、エルロイは遮光布を持ち上げて外をうかがう。普段とは違う景色に違和感を覚えた。


 車室前部の小窓を叩いて御者を呼ぶが、反応がない。小窓から外をのぞくと、槍を手にした騎兵の姿が見えた。


 やがて馬車は路上に止まり、小窓が開く。


「……包囲されました」


 御者の苦々しい声に、エルロイは首を振った。


「要求は?」


「このまま屋敷へ向かうようにとのことです」


 状況から推測するに屋敷はすでに包囲ずみで、馬車を包囲したのは勘付いて逃亡することを防ぐためだろう。拘束が目的ならばこの場で馬車から引きずり出せばいい。そうしないということは、目的は軟禁か。


「従ってくれ」


「……は」


 とうとうこの時がやってきたのかと、エルロイは座席にもたれて腕を組んだ。


 屋敷の使用人には下級貴族の子弟が何人かおり、彼らから城内や議会の状況について聞く機会はたびたびあった。噂話の域を出ない話が多いせよ、火のないところに煙は立たない。大領主の体調が思わしくないこと、急進派と呼ばれる一部議員の筆頭が大領主位の継承権を持つルテイエ・ポロムラクスであり、反旗を翻す可能性があることなどは耳にしていた。


 ゆっくりと馬車が動き出す。念のために護身用の短剣をあらため、耳をすませた。屋敷はそう遠くない。


 再び止まった馬車の扉を開けたのは、御者席を降りた少年だった。緊張しきった少年の顔を見、そう心配するなと目配せする。


 騎兵たちは一様に馬を降り、左右を固めていた。手を出すそぶりはない。


 騎兵長と思われる年かさの男が進み出て敬礼し、おのれの立場を明かした。丁重な口調で屋敷に入るよううながされ、エルロイは歩を進める。


 屋敷の内外にいるのは顔に見覚えのない衛兵ばかりだが、総務省直下の正規兵であることは装備で判断できた。


 吹き抜けになった中央の間にはスザロを含む使用人たちが集められていた。さしあたり負傷者は見当たらず、安堵を覚える。


 事態は、概ね馬車を降りる前に想定したとおりだった。


 ルテイエ・ポロムラクスが大領主の地位を求めて蜂起した。大領主ジェレミアの承認を得て継承順位を繰り上げ、退位をうながすための蜂起であり、暗殺を企てたわけではないらしい。


 エルロイは公式にグルティカを訪れていたわけではないが、身柄は抑えておきたいようだ。監視を受け入れ、屋敷にとどまってさえいれば行動は制限しないと宣言されたので、屋内の使用人たちには普段どおりの仕事を再開させた。


 手近の使用人に軽食を居間に届けるよう言いつける。スザロが足早に近づいてきた。


「エルロイ様。申し訳ありませんでした」


「ん? 何が」


「状況を見誤りました。いっそ迎えをやるべきではなかった」


 この状況だ、早々の迎えが嫌がらせでないことはとうに分かっていたが、エルロイは苦笑いで応じた。周辺に兵が集まりつつあったことにスザロは夜半から気づいていて、そのまま動きが見られないので迎えの馬車を出させた直後に屋敷を包囲されたらしい。


「いや、いいさ。ついでと言ってはおかしいが、懐かしい顔を見られたからな」


 ともに居間へ移るよううながす。スザロは一歩遅れてついてきた。のんきな返事に安堵したのか、いつもの小言も復活する。


「ついでって、また、あなたは……。いつもの宿だけではなかったのですか」


「いつもの宿さ」


 とぼけた調子で応えて、エルロイは首をすくめた。スザロはあからさまにため息をついたが、それ以上言い募るのはやめたようだ。


「……ポロムラクス総長閣下は、すでにソヴォイル城を制圧なさったそうです。定例議会の場を利用なさったため、多くの議員が城内で監視下にあると」


 声の調子を落とし、スザロは言った。


「分かった。大領主殿は?」


「それについては、まだ何も」


「そうか。……ま、ご無事ではあるだろう」


 どうやらルテイエが制圧できたのはソヴォイル城のみで、マーヴィラ宮までは管理下に置けていないようだ。あの宮の管理は魔法省の長に任せられているという話だから、もし魔法省の長が大領主側についたのであれば一筋縄ではいくまいな、とエルロイはあたりをつけた。


 さて、責務を果たすべき時だ。安穏とした時間の終わりはこうも唐突に訪れるものなのだなと、エルロイは自嘲気味に笑んだ。






 誰かが引く台車の振動が路面を通して伝わってきた。


 いつの間にか、うとうとしていたようだ。人の出入りがなさそうな小路地の物陰に、ユナは膝を抱えて座っていた。


 だいたいの時刻だけでも確かめようと空を仰ぐ。太陽の位置はかなり西。この時期には珍しく雲が多いようだ。


 何度も何度も街の様子を夢に見ていたおかげで、現在地を把握できているのは幸いだった。知ったところで何もできないのなら夢になど見たくないと思っていたのに、こんなふうに役に立つなんて。


 昨晩から何も食べていないし、今さっきうとうとしていたことを除けば眠ってもいない。適度に休息をとらなくては、人目を避け続けるにも限界がある。


 外套を身に着けてはいるものの他は着の身着のままに近く、手もとにはなんの所持品もなかった。


 どうしたらいいの、と何度考えても答えは出なかった。マーヴィラ宮へ行くように言われておきながら背いたのは自分だ。ユナが街にいることをマリエはとうに知っているだろう。その場を動かずして遠くを見るのはマリエの得手だ。


 ルテイエについた魔法使いたちは、城の周囲に張られたマリエの結界を半年がかりで解いたと聞いた。同様に長い時間をかけてでも彼らはマーヴィラ宮へ立ち入り、父を取り返そうとするだろう。そうしなくてはルテイエの目的は果たせないが、マリエがそれまで何も手を打たないわけはない。


 街にはいつか捜索隊が出され、ユナは城に連れ帰されるだろう。


 城に戻ったところでユナ自身にできることなど何もない。せいぜい、ユナの身を確保した側が望むようにふるまうだけだ。穏健派とされていたゲイルは、おそらく捕らわれの身なのだろう。ゲイルはユナとの婚礼を前提としたエルロイへの譲位を期待していたようだが、肝心のエルロイはユナの顔さえ覚えてはいなかった。


 朝方のあんな早い時間からセタ街へと向かった馬車。彼が遊び呆けているという噂は本当だった。マリエほどうまくは見られなくても、その気になれば行き先を追うことはできただろう。


 だが、見たくはなかった。だから心を閉ざして、街を歩いた。歩き疲れて足が棒になるまで。


 抱えていた足を両手でさすってみる。もう一度空を仰いだ時、いつも身につけている首飾りの金鎖が肌をさすった。


 心なしか震える手で止め具を外し、金鎖を引っ張り出す。先端の飾りを外して金鎖を手首に巻きつけ、ユナは小ぶりな宝石を配した飾りの裏面にある蓋を外した。中には粒の粗い無臭の粉が収められている。


 かつて病床にあった母が、いざという時のためにと遺してくれた首飾りだった。ごく少量を煎じて飲めば様々な薬効が期待できる薬となるが、そのために持たせてくれたものではない。


 城や都の周囲に城壁を必要としたのは百年以上も昔のことで、昨今、大領地間の争いを懸念する声を聞くことはない。ユナの母であるシュゼヴィア妃の出身地ユノとオースデンの間にかつて戦があったと教わったことはあるが、現在の両大領地間の関係は良好だ。東の大領地マリエダともよい関係を築けていると聞く。


 それでも大領主家に生まれたからには、いつ何時、予期せぬ事態に巻き込まれるとも知れない。いざという時には人としての尊厳を捨てぬ道を選べるように──と、病床の母は言い残していた。


 乾いた風が交差する路地から吹き込んでくる。ユナははっと我に返って、いよいよ震えを増した手で蓋を元に戻した。


 いつの間にか土の上に落ちていた金鎖を拾い上げる。


 ……確か、この近くには古物商があったはずだ。先の予想はまったく立たないけれど、小銭を作っておけば何がしかの役には立つ。


 街路に顔をのぞかせ、人目は気にしながらも気配を消してしまうことはせず、恐る恐るユナは歩を踏み出した。行き交う人々は誰も他人のことを気にかけてなどいない。気にかける者がいるとすれば、それはたいてい盗人のたぐいだ。


 努めて足早に歩き、目的の古物商まであと少しというところでユナは右手から来た少年とぶつかりかけた。あわてて身を引くと、外套から髪の束がこぼれ落ちる。


「おっと、ごめんよ。……へえ、綺麗な金髪だ」


 声をかけられて、思わずユナは相手の少年を見た。同い年くらいの少年と目が合い、あわてて髪を外套に押し込む。


 ユナは無言のまま、古物商の中へと駆け込んだ。入り口にかけられた布を手で払い上げ、薄暗い店内をぐるりと見渡す。店番の男が不躾な視線を投げかけてきた。


 ごくりと生唾を飲み、懐に入れておいた金鎖を取り出して男に見せる。


「……これ、……買い取ってちょうだい」


 はすっぱな言葉遣いを意識したつもりだったが、声はかすれてしまった。


 ユナの掌にある金鎖を一瞥し、古物商はフン、と鼻を鳴らす。


「どこで盗んだね」


「盗んだんじゃないわ」


 ユナは反射的に言い返した。直後、反駁する必要などなかったと後悔する。自分のものだと強弁するにも、他の言いようがあったはずだ。


「何か……あった時のために、母が遺してくれたものよ。断るなら、他に行くわ」


 木机の上に金属質な音が踊った。


 失敗した、とユナは思った。いきなり古物商を訪れてしまったことを悔やんでも遅い。相場が分からなかった。


 こうなったら賭けだ。意を決して、ユナは口を開いた。


「少なすぎるわ」


 そっぽを向いたままの古物商の目だけが再びユナを見る。ユナは顎を引き、負けじと見返した。緊張で速くなる呼吸を必死に抑えようとする。


 やがてククッと低い声を立てて笑うと、古物商は机の下から皺だらけの紙幣数枚と小銭入りと思われる布袋を出した。


 まだ騙されているかもしれない。そんな考えが頭をよぎったが、咀嚼する余力はなかった。異様に重い足を引きずるように半歩ずつ古物商に近寄り、金鎖を握っていた手を緩める。掌にまで酷い汗をかいていた。


 しゃら、と繊細な音を立てて金鎖が机上に降りるのと同時に布袋を手渡される。袋はずっしりと重かった。古物商は片眼鏡を取り出して金鎖をあらため、先ほど出した数枚の紙幣を半分に折る。


 無言のまま突き出された紙幣に、ユナはおずおずと手を伸ばした。礼を言おうにも唇は乾ききっていて声が出ない。受け取った紙幣と布袋を懐に入れ、思うように力の入らない足を持ち上げて古物商に背を向ける。


 ついさっき、何気なく払い上げた入り口の布までもが酷く重く感じられた。


「せいぜい生き延びるんだな」


 背後から低く声がかけられる。心臓が大きく跳ね上がった。堰を切ったように涙があふれ、あわてて古物商を後にする。


 空腹にも関わらず胃から何かがせり上がってくるような不快感をこらえ、ユナはよろめきながら細い路地へ入って崩れるように座り込んだ。


 ここならもう大丈夫と思ったとたん、抑えが効かなくなった。壁際ににじり寄り、膝を抱えた腕も足もカタカタと震え、嗚咽が漏れる。周囲をうかがう余裕などなかった。心臓は音を立てて踊り、呼吸は荒く早くなる。動悸が収まり、全身に滝のような汗をかいていると気づくまでにどれほどの時間が経ったのか分からなかった。


 膝を抱えたまま呼吸が落ち着くのを待つ。大丈夫……もう大丈夫と、何度となくユナは胸中に繰り返した。青みを増してきた空を見上げ、何度か深呼吸をする。


 こんなところで立ち止まっていてどうするのと、おのれを奮い立たせてユナは立ち上がった。砂を払い、髪は後ろで軽くまとめて外套に収め直す。


 次は食糧を手に入れようと、周囲を警戒しながら街路に戻った。いつの間にかにぎわい出していた酒場に入る気にはなれず、他に開いている店はないだろうかと歩きながら周囲を見回す。


 その途中、こちらをじっと見つめる少年の姿に気がついた。見覚えのある顔だ。


 目が合わないように視線をそらしたが、遅かった。少年はユナと同じ方向に歩を進め、徐々に距離を詰めてくる。


 目を付けられていたのかもしれない。いくらか足を速め、左右に視線を走らせて逃げ込める路地を探す。


「なあ、あんた家出娘かい」


 話しかけられたが、無視した。


「つれないなァ。おれ、知ってるんだぜ。今朝方、パスティユの方から来ただろう」


 少年の声に思わず息を飲む。歩調が緩んだ、その隙に行く手を阻まれてしまった。相手は一人だが、走って逃げたところですぐに追いつかれるだろうし、そもそも体力で敵うわけがない。


 ユナはやむなく立ち止まり、警戒心もあらわに外套をかぶり直した。


「悪いこた言わないからさ、家に帰んな。あんたみたいな子がこんな街をうろうろしてたら、あっという間に飲み込まれるぜ」


 風を起こし、砂を巻き上げて隙を作ろう。そうすればわずかであっても時間は稼げるし、その間にどこかの路地へ逃げ込むこともできるだろう。体の後ろへ回した指先で弱い風をたぐり寄せながら、ユナは緩く首を振った。


「……放っておいて」


 あと少し。掌の中に集まって球体になりゆく風の感触を確かめる。


「あー、ふぅん? せっかく親切で言ってやってんのに、つれねぇの。ま、せいぜい気をつけるこったな──あ、オヤジぃ」


 ユナが集めた風を地面に放つよりも先に少年は身を翻し、近くの建物から出てきた壮年の男に声をかけた。


「なんだスズ、おめぇか。早耳は生きてるか?」


 どうやら二人は顔見知りらしく、立ち話を始める。


「死んだみたいに寝てるよ」


 ユナは拍子抜けして掌中の風を軽く握りつぶし、解放した。瞬間的な強風と少年に背を向け、さっきまでの道を引き返そうとする。


「ところでオヤジぃ、おれさ、家を探してんだけど。あ、おれじゃないってば、友達の」


 背後から聞こえた声に、ユナはぴくりと耳を動かした。


「友達だ? またどこのクソガキを引っかけてきやがったんだよ、おめぇは。早耳は知ってんだろうな、いやそんなわけがねえな」


「いや、知ってる知ってる、そう決め付けんなって」


「馬鹿言え、あいつが知ってりゃなんでおめぇが家なんざ探してやんなきゃいけねえんだよ。いいかスズ、おれは言ったはずだぜ、ああいうやつに拾ってもらえたことがどんだけ幸運か。だいたいだな……」


 どうやらお小言が始まったようだ。


 たった一人が相手とは言え、顔を覚えられてしまった。ここはいったん、中央街を挟んだ反対側へ移動した方がいいかもしれない。この先は何をするにもいっそうの警戒をしなくては。


 少年はいいことを教えてくれた。小銭と食糧を確保したら、次に探すべきは先々の行動を決めるまでの隠れ家だ。少し離れた位置から少年を振り返り、おのれを鼓舞するようにユナは弱々しく笑んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る