1巻③

 火を操るすべを持たなかった頃、闇に覆われた地を徘徊し人肉を食らう獣の脅威に人はどう対抗してきたのだろう。有史よりはるか前の時代、非力な人類にできたことなどそう多くはなかっただろう──いや、もしかしたらできることなど何ひとつなかったのかもしれない。


 闇と光を支配する者が場を支配したかに見えたのはほんの短い間のことで、形勢を逆転させたのはたった一人の女だった。石造りの部屋の上部には無数の小さな炎が浮かんで、場内をぼんやりと照らしている。


 半円型に並んだ議席の前には幾人もの衛兵が倒れていた。意識のある者のほとんどは議場の後方に集まっており、そこここから誰のものとも知れぬうめき声が上がる。


 議場の中央、倒れた衛兵たちの上には、一人の男が吊り上げられていた。首元をつかまれたように顔だけがのけぞり、縛めを解こうとするように両手を首にあたりにやってもつかめるものは何もない。抗う声さえ思うように上げられないようだ。


 揺らめく炎のうちのいくつかが意思を持った生き物のように男のそばへと寄った。炎を宿しているのは蝋燭の芯ではないようだ。あるいは、支えを有してなどいないのかもしれない。人一人を手も触れずに軽々と中空に持ち上げる力があるのであれば、重量のない炎を浮かび上がらせ、動かすことくらいはたいしたことではないのかもしれなかった。


「ただ排除するだけなら造作もないこと。苦しみ抜くように殺してあげてもいい。──今ならまだ選べないこともなくてよ」


 張りのある声の主は議場の前方に膝をつき、男に右の掌を向けていた。膝をついたその姿勢は、決して女の劣勢を表すものではない。女は、その腕に痩せた一人の男を抱いていた。


 男──ジェレミア・アシュレイは眉間に深い皺を刻み、瞼を伏せていた。疼痛をこらえるように肩を丸めており、呼気は苦しげだ。


「……残念ね、あまり時間がないみたい」


 腕の中の男を見下ろし、マリエは小さくため息をついた。


 宙に吊り上げられていた男の体が跳ね、悲鳴が上がる。男に向いていたマリエの手が下ろされるのと同時に、中空にあった無数の炎は消え、男の体は床へと落ちた。鈍い音とともに床に転がった男、ルテイエはうめき声を上げながらも体を起こそうと努め、議場の前方を指差した。


「あの魔女を追え!」


 後方に退いていた衛兵たちの間にざわめきが走る。苦しげに声を絞り出したルテイエが指し示した先に、女の姿はすでになかった。ルテイエは手近にあった机の足をつかんで立ち上がろうとしたが、すぐによろめいて膝をついてしまう。その挙動で我に返ったかのように、何人かの衛兵たちがルテイエに駆け寄った。


 議場の中央付近だけでも優に二十人を超える衛兵が倒れ、抜き身の刃や折られた槍、落とされた矢が無数に転がっている。衛兵に支えられたルテイエもまた、体の各所に裂傷を負っていた。床に叩きつけられたわけではなく、倒れた衛兵の上に落ちたのは不幸中の幸いだったかもしれない。


 ──よもや、これほどまでとは。ルテイエは胸中につぶやいた。


「……魔法なぞに怯えてこの地の主が務まるか! 逃亡先はマーヴィラ宮をおいて他にない。即刻包囲し、大領主ともども引きずり出せ!」


 空の大領主席をにらみつけ、ルテイエは言い放った。






 紅葉して落ちた楢の葉の上の水滴に、キラキラと陽光が宿っている。もう一月もしないうちに霜が降り、冬の訪れを告げるだろう。 


 マーヴィラ宮の前庭には、夜半から大勢の衛兵がたむろしていた。普段の護衛を担当する内務省の衛兵とそれ以外の衛兵との間で少々のいさかいもあったものの、そう長くは続かなかったようだ。ほどなくして魔法省所属の魔法使いたちも集まり始め、宮へ立ち入る方法を検討し始めたようだった。


 招かざる者を拒む障壁の多くは人の目には映らない。虫除けに香草の束を配するように、人が嫌悪または警戒する音や湿気、気温差などを意図的に作り出して配すれば、たいした用もないのに近づこうとする輩を退けるには十分だ。普段からマリエはそうした魔法をマーヴィラ宮の周囲に施していた。


 そのうえ、今のマーヴィラ宮の表扉は固く閉ざされ、扉前には絶えずつむじ風が舞っている。人が近づけば風が力を増して歩を阻み、風を押しのけて扉までたどり着いたところで扉が開かないのではどうしようもない。


 前庭の端、一際立派な楢のたもとに膝を抱えて座り込み、ユナはぼんやりと衛兵たちの動きを眺めていた。


 マリエの障壁はあらゆる入り口を守っていて、地下通路もまた例外ではなかった。衛兵たちは昨夜の議会に前後して地下通路へと降りていたものの、そちらからもマーヴィラ宮に立ち入ることはできなかったようだ。ユナも一度は本城の寝室から地下通路へと降りたが、彼らを突破してマーヴィラ宮へ入る気にはなれなかった。マリエがそうして見せたように風や火を起こして道を空けさせることはできただろうし、壁寄りに姿を隠して通り抜けることもできただろう。


 住み慣れた宮とマリエがユナに対してだけは入り口を開けてくれていることは分かっていた。それでも足を踏み出すことができず、地上へ戻り、衛兵たちに味方する魔法使いの姿を目にして歩く気力もなくしてしまった。


 マリエは魔法省の中でさえ、いつの間にか孤立していた。


 父とともに魔法省を作り上げ、産業の一柱となるまでに導いたのはまぎれもなくマリエの功績だ。当時のオースデンにおいて、誰もとりまとめる者のいなかった魔法使いたちは畏怖、ともすれば差別の対象であったという。そんな中、都のそこここに隠れ住んでいた魔法使いたちをまとめ上げるのはそう簡単な仕事ではなかったはずだ。


 それなのにどうして、と、ユナは何度も何度も考えた。議会のみならず魔法省の誰とも寄り添わず、こんな状況下で父を連れてマーヴィラ宮に立てこもるのは、何か理由あってのことなのだろうと思えてならない。だが、いくら考えても答えは出ない。


 乾いた音を立て、足のそばを転がっていく枯葉が目に入った。いつまでもここに座り込んでいるわけにはいかない。衛兵たちに見つかるようなことはないだろうけれど、勘の鋭い魔法使いにはいつか見つかるかもしれない。そうしたらわたし、人質ってことになるのかな。そんな想像でさえ、今はまるで現実味のない他人事のように感じられる。


 風に追われて転がっていく枯葉を追って、ユナはなんとなく腰を浮かせた。木々の合間を縫い、丘を下ったすぐそこには城下パスティユ地区が広がっている。その向こうに連なる赤い屋根はセタ街のもの。昨晩の件はどのあたりまで伝わっているのだろう。


 そう思ったのは好奇心によるものではなくて、逃避のための言い訳だったのかもしれない。夢の中で時折そうするように足先で地を蹴って、一時ユナは浮力に身を任せた。視界のずっと奥の方、草原よりも建物よりも向こうの方に何かよく知っているものがある。






 マーヴィラ宮の空気は夏であってもひやりと冷たく、秋口のこの時期には人によっては寒さを覚えることもあるだろう。


 外からは内部をうかがうことができないよう障壁をほどこした窓の内側に立ち、マリエは宮の外を眺めていた。


 宮を包囲する衛兵たちの姿はさながら蟻の群れのようだ。見つけた獲物に食いつく顎を持たないという点に関してだけは、同情してやってもいいかもしれない。


 眼に映るものしか見えず、耳に捉えられるものしか聞けない彼らのことを哀れと感じた時期もあった気はするが、今はなんとも思わない。おそらくは手中にしたいであろうものが──ユナの姿がすぐそばにあることにさえ気づかないのも、触れられる手を持たない彼らにとってはかえって幸運なのかもしれなかった。


 かすかな気配を感じて、マリエはその場を離れた。大領主ジェレミアが目を覚ましたのだろう。


 隣り合う部屋をマリエが訪れた時、ジェレミアは寝台に横になったまま中空に持ち上げた両手を眺めていた。痩せこけた手と血色の悪い顔には死の影さえちらつき、うつろな目は白昼夢を見ているかのようだ。


 それでも、足音もなく近づいたマリエの気配は、病人の意識を醒めさせるには十分なようだった。


「ツヴィングリ……か。ここはマーヴィラ宮か? 早、十数年ぶりになる……」


 ジェレミアは身を起こそうとしたものの、すぐにあきらめたようだ。深い嘆息にマリエは目を細め、声もなく笑んだ。


「地下のあれは、一足間に合わなんだな。結局、すべてを任せることになろうとは……。せめて、他の魔法使いたちくらいは抑えてやりたかった」


「協会僧に毛が生えた程度の魔法使い、何人連れてきたところで痛くもかゆくもなかったわよ」


 胸を押さえて低くうめいたジェレミアに、マリエはさらりと言ってのけた。


「……あなたの心臓はもう一月ももたないわ」


 魔法使いの予言に、そうか、とジェレミアは低くつぶやく。沈黙し、ゆっくりと瞬いた後、ジェレミアはもの言いたげな視線をマリエへと向けた。


「……ユナはいい子よ、あなたの子だもの。分かってくれるわ」


 応えたマリエの視線はジェレミアを向いてはおらず、どこか離れた場所を見つめているようだ。


「エルロイ・グラディウスはどうだね。ヴィクトレール卿の弟の」


 ああ、とマリエはため息のような声を漏らした。その視線はまだ、部屋の中には戻らない。


「つかみどころのない子──でも、かわいいものよ。笑っちゃうわ」


 唇の端で笑うと、マリエは寝台の脇に膝をついた。ジェレミアの乾いた手に手を重ね、掛け布に頬をすり寄せる。


「時々ね、ひどく不安になるのよ。時の流れを遠くに感じすぎること」


「おまえにも怖いものがあるのかね?」


「まぁ、ひどい」


 掛け布から顔を上げ、マリエはくすくすと笑った。指先を伸ばして痩せた頬に触れ、体温を確かめるように首筋へと手のひらを下ろす。その画は二人の立場を、状況を知らない者が見れば、ごく親密な者同士の戯れのようにも見えたことだろう。


「あなたは幸福ね。自分の寿命を知らないですむ」


 発言の内容にそぐわないおどけたようなマリエの声に、ジェレミアは小さく声を立てて笑った。


「寿命なら、知っているさ。つい先ほど、おまえ自身が予言したばかりではなかったかね」


「あら、そうだったかしら」


 忘れっぽくてごめんなさいねと付け加えると、マリエは再び、こらえきれなかったようにくすくすと笑い出した。






 小鳥のさえずりに気がついて目を開けると、中庭に面した窓に二羽の青い鳥がちょうど止まったところだった。


「──あ」


 頭の上から聞こえた女の声に、エルロイは半開きの眼を向ける。


「急に動くから、はみだしちゃったじゃない」


 腿を枕代わりに眠っていたエルロイの頭上で、女は爪の手入れをしていたようだった。頭上に腕を伸ばして大きなあくびをした後、起き上がって女の手をとる。


「血の色みたいだ。薄い色の方が好きだな、薄紅色とか、もっと肌の色に近い……」


「流行んないわよ、そんなの」


 呆れたように女は手を振り、エルロイの手を振り払った。


「流行とか関係ないだろ、園遊会に行くわけじゃなし」


 そりゃそうだけど、とふてくされる女の頬から後頭部へと両手を回す。栗色の髪はいつ触れてもサラサラと指どおりがよく、ほのかによい匂いがした。引き寄せて唇を重ね、細い肩紐をずらす。


 柔らかな乳房に触れかけた時、リンリンリン、と涼やかな音が鳴ってエルロイは肩を跳ねさせた。扉の脇に備え付けられた鈴が外から鳴らされた音だった。


「もう時間? どう考えても、まだ……」


 しかめ面で窓へと視線を向ける。お迎えが来たみたいね、とエルロイの髪をくしゃくしゃと弄んで女は言った。


「三回鳴ったわ。うちは勝手に時間を早める宿じゃないし、そうされるようなタチの悪い客じゃないはずよ、あんたは」


「冷たいなぁ」


 今度はエルロイがふてくされる番のようだった。


「おおかた、あんたのお付きの男でしょ。しかたがないわよ、あたし嫌われてるもの。お坊ちゃまも大変ねー」


「いや、あんまりうるさいから迎えは頼んだけどさ……。昼頃にって言ってあったんだぜ。早すぎだろ」


 嫌がらせかよ、などとぼやきながらエルロイは寝台に転がる。女は引っ張られて解けた胸元の紐を慣れた手つきで結び直した。


「……おまえ、二番街の酒場にずっといればよかったのに。そしたら……」


「そしたら何よ」


 エルロイに背を向け、寝台脇の平靴に足を引っ掛けた女の物言いはひどくそっけない。


「……前に言ったっけ。信じてもらえなくたっていいけどさ、おれ、他の宿には通ったことないんだぜ」


 女は肩越しにエルロイを振り返り、そしてため息をついた。


「だからなんだって言うのよ。火遊びの意味も分かんないあんたみたいなお子様が出入りするところじゃないのよ、ここは」


 寝台を降り、整えてあったエルロイの服を手にして引き返す。エルロイは起き上がる気などまるでなさそうで、ふてくされて窓の外を眺めていた。


 お子様と呼んではみたものの、その顔に知り合った頃のような子供っぽさはほとんど残っていない。頬に向けて伸ばしかけた手を一度は止めておきながら、女は自嘲するように笑み、そしてエルロイの頬をきゅっとつねった。いてっ、と抗議の声を上げたエルロイを見下ろし、ふんと鼻であしらう。


「忘れてるなら何度だって言ってあげる。あんたは客であたしは娼婦よ、そんなことも分からないお子様なんてお断り。自分でそう言ったくせに、知ったような顔してただけってわけ? いつまでも迎えを待たせてないで、さっさと帰りなさい」


 エルロイは渋々起き上がった。


 身支度を終えて部屋を出る客を見送りもせず、女は色を塗ったばかりの爪先に目を落とす。乾く前に触れられたせいで、少しはみだしていただけの顔料が尾を引いてしまっていた。






 夜半に城郭で起こった出来事など知るはずもなく、街の朝は常と同じように動き出していた。八百屋は早朝から店を開け、仕入れ用の台車を押した飲食店の丁稚が路地を行く。


 同居人の帰宅を告げる鈴の音で目を覚まし、少年は長椅子に転がったまま手を振った。


「なんでそんなとこで寝てんだよ、スズ。寝台使えばよかったのに」


「帰り待ってたんだよ、早耳。待ちくたびれて寝ちまった」


 スズと呼ばれた少年は体を起こして大きく伸びをした。


「稼ぎは?」


「てんでダメ、いいカモになるよそ者が減ってるからな。諦めて飲んでたら手前の飲み代の方が高くつきそうでさ、玉突き場でクダ巻いてた。頭痛ぇから寝る」


「あぁ……そんなんじゃ、何も知りそうにないな」


 部屋の奥に置かれた寝台に向かう同居人を振り返り、スズは首を振る。同居人は靴を蹴り飛ばすようにして脱ぎ、寝台に転がったところだった。


「おれが何を知ってるって?」


 話相手になってくれるつもりはあるらしい。


「いや、昨晩さ、十四番街の北角で殺しがあったって聞いたんだけどさ」


 スズは言葉を選びながら話し出した。


「いつもだったら街路向こうの──パスティユの詰所からも衛兵がすっ飛んでくるような場所だってのに誰も来なかったらしいって聞いてさ。二日前のはそれより西だったけど、調査には来たらしいじゃん。それに考えてみたら、昨晩はいつもの巡回もなかったような気がするんだよ」


「……よく気づいたな」


 枕に突っ伏した同居人の声はくぐもっていて聞き取りにくかった。


「え?」


「いや、別に。つうかおまえ、野次馬根性出して見に行ったりしてないだろうな」


「してねぇよ! 聞いた話だって言ってるじゃん」


「夜中にわざわざウチにまで来て話してくれるようなお友達なんていたっけー?」


 同居人のからかい混じりの追及にスズは口ごもり、渋い顔でそっぽを向いた。


「まァ、いいけどよ。あーそうそう、そういやな、前に噂になってたアレ、川向こうから来たスリの女」


「ん? そんなのいたっけ」


 短い沈黙が部屋に落ちる。


「……一応、言っとくわ。あれな、近づくなよ、前科も素性も洗えねえ、どうにも腑に落ちん。おまえ、ほっとくとどこにでもすっ飛んでいくし誰とでもお友達になっちまうからな」


「なんねーよ。なんだよーなんか誤解されてねぇ、おれ」


 過保護も大概にしてくれ、とスズが続ける頃には同居人は寝息を立て始めていた。眠気を押しての警告には素直に感謝しておくべきなんだろうと思いつつ、スズはため息をつく。


 すっかり目は覚めてしまったし、仕事でも探しに行くか。


 早耳こと、この界隈の情報通である同居人と暮らすようになって、早半年が過ぎようとしていた。居候でいるつもりはなく、仕事の話があれば引き受けるようにはしているが、どれもこれもごく短期間の話ばかりで続かない。この界隈で手っ取り早く稼ぎたかったら男娼宿へ戻れなどと言われては、それでよけりゃとっくにそうしてるよ、と返すのにも飽きた。


 お世辞にも頼りになるとは言いがたいが、職業斡旋所にでも顔を出してみるかと大路地に向かう。その途中で馬のいななきが耳に入って、好奇心をそそられた。すぐ近くだ。


 小走りに大路地まで出ると、時間が早いせいだろう、人だかりこそできてはいなかったが、スズ同様に野次馬と思われる人影もちらほらとあった。近くの店の軒先から大路地をうかがう者もいる。


 件のいななきは、大路地に止まった馬車馬が発したもののようだった。内部が見えない屋根のついた、なかなかに立派な馬車だ。


 なーんだ、とスズは口の中でつぶやいた。数日に一度は見る馬車で、持ち主も知っている。中央街からの帰りなのだろうが、時間帯はいつになく早い。


 逡巡を覚える間もなく、スズは何食わぬ顔で大路地へと歩み出た。






 ……どうしてわたし、こんなところにいるんだろう。


 早朝の路地に影を落とす馬車を見上げて、ユナは呆然と座り込んでいた。黒毛の馬は早々に落ち着きを取り戻してたたずみ、その向こうでは御者が困惑している。御者台の端に控えていた少年が路面に降りようと腰を浮かせたが、車内を振り返った御者に引き止められて座り直した。御者は小窓を通して車内の人物と何やら話しているようだ。


 わたし、いつの間にこんなところまで降りてきてしまったんだろうとユナは城郭がある方向を振り返った。路面についていた手を上げて掌を眺め、夢じゃないわよね、と考える。いつもの夢ならばたいてい、こうして我に返った直後に空へと引っ張り上げられるのだけど。


 人が動く気配と声に気づいて顔を上げると、御者台から降りた少年が開いた車室の扉のそばで押し問答を始めたところだった。辻馬車といった風体ではないから乗っているのは彼の主人で、降りようとするのを諫めているのだろう。


 なぜこんな場所にいるのかは分からないままだったが、状況は飲み込めてユナは周囲を見回した。背後にはパスティユ地区──議員や貴族、裕福な商家の家々が建ち並び、その向こうには城へと続くなだらかな丘がある。人気はない。


 大通りをはさんで反対側、央都の中でも随一の歓楽街であるセタ街には、遠巻きに様子をうかがう人々の姿が見えた。とっさに顔を隠そうと外套の肩口に手をやる。


「いいじゃないか、面倒なことばかり言うなよ」


 若々しい青年の声が耳に飛び込んできた。


「急に目の前に現れたって言うけどな、空から落ちてきたわけじゃあるまいし。事故を起こしかけたのはこっちだろう、怪我でもさせていたなら謝るのが筋だ」


 聞き覚えはないのに、妙に引き付けられる声だ。深くかぶった外套の中からユナは怖々と視線を上げ、その姿を視野にとらえて両眼を見開いた。彼だった。


 エルロイ・グラディウス・レイ=ヴィクトレール。思いのほか上背があり、見知った幼い頃とはまるで違った風貌に見えるのに、ユナは一目で確信していた。彼だ。


 震える両手を持ち上げ、口を覆う。涙が湧き上がり、すぐに頬を伝い始めた。


「ほら見ろ、すっかり怖がらせてしまったじゃないか」


 ユナがしゃくり上げ始めたことに気づいたらしく、エルロイは引き下がった少年に声をかけながら歩み寄ってくる。肩先で揺れる蜂蜜色の髪は、彼には少し長すぎるくらいだ。


 慌てふためく様子もなく、余裕さえ感じられる態度は育ちのよさからくるものなのか、それとも彼生来の性質からくるものなのか。一目見て上流階級のものと知れる風体にもかかわらず、近づきがたい雰囲気はない。


 思いもよらぬ再会だった。涙を流すばかりで身動きひとつとれないユナの前に腰を屈め、エルロイはひょいとその手をとる。


「なんだ、怪我はなさそうだな。ああ──でも、きれいな手が台無しだ。もっと大事にしなくては」


 ユナの手についた砂を軽く払い、エルロイは慰めるようにその肩を軽く抱いた。八年の歳月を埋めるにはあまりにも軽い口調に思われた。けれど、そうであるからこそ救われる。生まれ持った魔法の才を無邪気に褒めてくれた、あの軽やかさは彼の中にまだ息づいている。


 せっかく再会できたのに、こんな状況だなんてあんまりだ。ユナは両手で涙をぬぐった。城の中でなくても着飾ってなどいなくても、せめてもうちょっとましな状況ならよかったのに。


 顔を上げ、彼の名を、子供の頃から呼んでいた愛称を口にしようとする。しかしユナが口を開くよりも早くエルロイは立ち上がり、くるりと身をひるがえしてしまった。


 扉脇で待っていた少年に一言二言声をかけると、何事もなかったかのようにエルロイは馬車に乗り込んだ。扉を閉めた後、少年は渋面を浮かべて御者席へと戻る。


 ……嘘。


 力なく石畳の上に手を下ろして、ユナはゆっくりと馬車を見上げた。


 嘘。わたしよ、エーリ。分からなかったの?


 声にならない問いなど届くはずもなく、たくみに方向を調整された馬車はゆっくりと動き出す。


 馬車が通り過ぎていくのをユナは呆然と見つめていた。いくらも行かぬうちに馬車は南手のセタ街へと方向を変える。


 いつの間にやら、涙はすっかりその姿をひそめてしまった。外套からこぼれた髪を冷たい風がすくい、頬をなでる感触で我に返るまで、どれほどの時間が過ぎたかは分からない。


 ユナは周囲をゆっくりと見渡してみた。南側の街路から顔をのぞかせていた人々はとうに日常の中に引き返しているようで、誰一人こちらを気にする者など見当たらない。


 唐突に、路面の硬さを足に感じた。いつまでもこんなところに座り込んでいるわけにはいかない。


 よろけながら立ち上がると、ユナは胸元に落ちた髪を外套の中に押し込んだ。改めて、夢でしか知らない街を見やる。


 セタ街は一番から十六番まで南北に伸びる街路からなり、周囲をぐるりと堀に囲まれた六番街から十二番街が色町、その両脇には酒場や賭博場、劇場、宿屋などがある。不況下にありながらも人の往来は多く、央都の中でもっとも活気を保っている場所と言ってあながち間違いではないだろう。


 背後のパスティユ地区を一度だけ振り返ると、ユナは恐る恐る南に向かって足を踏み出した。

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