1巻②

 窓から差し込む斜光が今しも立ち去ろうとする頃、湿った軋み音を立てる台車が議場へと到着した。台車を押してきた二人の男は誰一人振り返らぬ議場に向かって敬礼し、歩を再開する。


 足取りにはいくらかの焦りがにじむようだった。ともに目深に外套を下ろし、一人は携帯用の灯りを手にしていた。


 議場は重苦しい沈黙に包まれている。総勢五十四名の議員の大半が出席しているようだった。正面二席の片方には大領主ジェレミア・アシュレイが、他方にはこの日の議長を務める議員エリアル・バルバロイが座している。二人を半周型に囲うように設置された十二の議席は各省の長のものだった。半周型の席はさらに二列続き、二列目が十八席、三列目が二十四席となっている。四列目以降は直線の配置となり、各省の構成員や街区長、役職を持たぬ小領主などが座っていた。


 議場の後方から滑車の鈍い音を立てて入った二人は四列目の右角で止まった。誰かの咳払いに続いて、右端の席から「遅いぞ」と実に不機嫌そうな声がかかる。


 は、と短く応答しただけで二人は作業にかかった。一人は携帯用の灯りを細い円錐型の器具へと持ち替え、一人は一抱えほどもある木箱から半透明の皮膜に包まれた球を取り出す。半円型の議員席と後方の聴衆席の間に立つ照明器の中ほどに男が球を置き、固定すると、もう一人は上部の輪を通した円錐の先端で球を刺した。逆向きに配した円錐の上に硝子製の覆いをかぶせ、続けて、携帯していた灯りから芯に炎を移す。


 真昼の太陽を思わせるほどに明るい灯が議場にもたらされた。各席に配された蝋燭の灯りなど存在しないも同然と感じられる眩しさだ。


 二人の男は灯りの下にとどまることなく、次なる灯りを点すため四列目の前を横切り始めた。鈍い滑車の音が合図だったかのように、咳払いをし、口を開いた者がある。


「司法省にお尋ねしたい。治安省による犯罪者の検挙数に対して裁判数が増えていないようであるが、何か理由があるのかね」


 質問の形をとってはいたものの、非難するような声だった。


「しかるべき手順に則って審理を開始しております。割合ではなく件数でお考えいただきたい」


「それだけが理由ではないはずだが? 裁くべき者の身柄は間違いなく引き渡されているのかね」


 一列目の左手に座していた司法省の長は押し黙り、議場の後方が低くざわめく。


「先だっての連続猟奇殺害など、実に多くが関心を持っているであろう。最初は央都の南端イリア街、次にノルド街。発生箇所は徐々に北上し、セタ街まで到達した。犠牲者は十名に上る」


「被疑者は捕らえたのだろう? 問題は単独犯、それも特殊嗜好の持ち主によるものであるかどうかだ」


「女子供が夜も更けてから出歩くものではないな! いかに瓦斯球が足元を照らしてくれるとは言え」


 発言はいずれも最前列に座す議員からのものだった。


「瓦斯球か。これらのおかげで我々は夜を徹して議を続けることも可能なわけですな」


 腕を組み、一際威厳のある声を発したのは央都を総括する総務省の長で、名をルテイエ・ポロムラクスという。


「もっとも、ただ人である我らはいずれも眠りを欲する身。いつまでも終わりのない議論を続けるわけにはいきますまいよ」


 ルテイエの発言に、議場の後方から賛同の声が上がった。


「誰ぞが止めるせいで資源省による燃料の利用開発は棚上げにされたままだとか。南のユノでは大規模な水道管の敷設に併せて燃料供給管の開発をも進めていると聞く」


「そのとおり。我々資源省からは技術者を派遣し、情報交換を行っております。選ばれた特別な者にしか扱えぬ技術など欲してはおりませんのでな」


 声は勢いづき、議場のそこここでは低い笑い声、そして拍手が起こる。賛同が広がるかと思われた時、ドン、と音が響いて議場は再び静まり返った。机を叩いたのは眼鏡をかけた白髪の男、ゲイル・トルティリウスだった。ゲイルは議席を見回し、口を開く。


「不敬ですぞ。魔法技術の開発は大領主家としての判断の上で十五年以上に渡って続けられてきたもの。その輸出が三大財源の一つであることも忘れてはなりますまい」


「ふん。いまやただの金食い虫ではないか」


 嘲笑するようにルテイエが言った。


「開発には湯水のごとく金を使い、扱う者を選ぶ。潤うのは一部の特別な者だけではないのかね。それとも教育省が目指す教育とは、そうした選ばれし者たちのみを対象としておるのかね」


「そのようなことは申しておりませぬ」


「おお、選ばれし者か。その魔法省の最高責任者の姿は、どうやら今夜のところも見当たらないようだが?」


 苦々しいゲイルの声にかぶせるように発言したのは、ルテイエの隣に座す治安省の長だ。


「我々が捕らえた犯罪者どもの押送先にはよく顔を出しておられるようだが、議会にもそれほどの熱意で臨んでほしいものですな? あるいは大領主殿ならば行き先をご存知ではないかと浅慮いたすところ」


 声につられたように、多くの視線が大領主ジェレミア・アシュレイへと動いた。隣の議長席で肩を跳ねさせたエリアルは議員の中では若手で、議場の緊迫に打つ手も浮かばないといった風情だ。


「……あれはよいのだ。忙しい身の上なのだから」


 椅子に深く身を預けたまま、ジェレミアは重くしわがれた声で応えた。


 腹の上で組まれた指の痩せたさまを、節々の骨が浮かび上がるさまを瓦斯球は照らしている。瞼は重そうに半眼に伏せられ、覇気のない表情であった。


「果たして欠席の理由になるようなものでございましょうかね。私の記憶が確かならば、この一年以上もの間、議場でお姿を見かけたことはございませぬ」


「あれはよいのだ。場におらずして見るものを見、聞くものを聞く。真の魔法使いとはそういうもの」


「我々はなんの応えを得ることもできませぬ!」


 机を叩き、大声を発した者があった。ルテイエを挟んで治安省の長の反対、右手に座す経済省の長だった。興奮気味に腰を浮かせ、二の句に移ろうとした男の前にルテイエの右腕が差し出される。


 隣席からの鋭い眼光に男は声を呑み、席に座り直した。ルテイエは重々しい声で男の跡を継ぐ。


「省の長が都の状況にも構わずおのれの研究を優先させ、誰もそれを引き止めることができない。そればかりか、大領主であるあなたがすべてを容認してしまう。あるいは、重罪を犯した犯罪者の身柄をかすめとることでさえ」


 後方からのざわめきの中に、やはりそうかという声や、なんということだという声が混じった。噂ならば以前からあった。しかし各省の長は同程度の権限しか与えられていないはず。いや、そういえば現に身柄確保の報が流れただけで、誰それの裁判はいつ始まるとも知れぬまま。魔法技術の輸出には修練が必要と言い、期待したほどの外貨をもたらすには至っておらぬとか──。


「かの魔法使い殿がこの地で研究に携わってより早十五年、特別待遇もゆとりのある時ならば見逃されて参りましょう。あなたご自身、定例議会へは実に久しぶりのご出席。いつまで勝手を許すおつもりなのかと聞くのも飽きた。……もはやこれまでですな」


 ルテイエが深く嘆息したのと同時に、議場にあった灯りという灯りがすべて消えた。机上に揺れていた蝋燭の灯りさえも例外ではない。驚き、動揺してそこかしこで机を叩く音、席を立つ音、荒々しい足音が続いた。太陽はとうに姿を隠しており、突然の暗闇は混乱をもたらした。場を離れようとしてぶつかり、あるいは誰かが足を踏んだと大声を上げる者がいる。


 突如として議場の中央付近に光の球が浮かび上がった。瓦斯球を高く掲げて立っていたのは、ルテイエだった。


「継承権第二位を有する身として、ご退任を要求いたす。速やかなご決断を!」


 暗闇が議場を支配したわずかばかりの間に正面席に入り込んだ複数の衛兵が大領主席を取り囲み、大領主その人に白刃を突きつけていた。議長席にいたはずのエリアルは、机の下に潜って身を縮めている。


 白刃はまた、一部の議員の前にもきらめいていた。いまや議場の衛兵たちは皆、ルテイエの指示下にあるようだ。ゲイルは席に座ったまま周囲を見回した。拘束しようとする者こそないが、いくつもの刃がこちらを向いている状況とあって身は強ばり、鼓動は早くなる。


 刃を向けられているのは、いずれも穏健派としてくくられルテイエに対立してきた者、あるいは中立の立場を貫いてきた者たちだった。二列目、ゲイルから見て右後方で両手を上げた最年少の議員もまた、中立寄りの立ち位置にいた一人だ。


 やがてゲイルは肩を落とすと、両手を上げて立ち上がった。いつかは起こると予想できていた事態だった。前大領主の甥にあたるルテイエは、直系であるユネスティーア・アシュレイの未来の夫に次ぐ継承権を有している。ルテイエが正規の方法によって順位を飛び越えるためには、現大領主の承認が必要とされていた。


 立場上できる限りの配慮として、ユネスティーア──ユナの護衛には気を使っておいたつもりだ。衛兵の多くを有する治安省がルテイエについている以上、頼りは大領主家直属の内務省、そしてハーバトレイユ・マリエ・ツヴィングリを筆頭とする魔法省だけだった。しかし状況から察するに、魔法省に所属する魔法使いの中にもルテイエに味方する者があるようだ。議場の四箇所に設置された瓦斯球、そして机上の蝋燭が同時に消えた理由は、それでなくては説明がつかない。


 陰鬱なあの地下を、宮を拠点とする魔女をあてにするのはお門違いだろうか。時にユナの母のように振る舞うことさえあった彼女が事態を把握していることを、そしてユナを守ってくれることを今は願うばかりだった。






 無数の砂利が肌を刺す痛みに気づいて瞼を開いた時、あたりはとうにとっぷりと暮れていた。体はひどくだるくて、見えない手に全身を押さえつけられているかのよう。


 どうやら気を失っていたようだった。唇も舌も乾いて、声を出すこともままならない。


 そのまま転がっていたい衝動と戦いながら身を起こす。砂利による鋭い痛みでさえ、朦朧とした意識を覚ますには力不足のようだった。体は鉛のように重い。大地についた肘に力をこめ、体を引きずる。目と鼻の先にある水溜りには月明かりが浮かんでいた。


 腕の怪我が原因で挿画の仕事ができなくなって解雇された、あれはいったいいつのことだったろう。怪我の療養に努めながらも職を探したが思うような結果は得られなかった。飢えるくらいならばいっそ、囚人どもが従事するような糞便処理の仕事にでも志願すればよかったか。


 やっとの思いで水溜りのすぐそばまで顔を近づけ、泥を巻き起こさぬように上澄みに舌を滑らせた。甘い。引きつるようにわずかに笑み、再び唇を水に近づけようとした時、大地が轟いていることに気がついた。何が起こっているのかと頭を上げかけたすぐ脇を、いくつもの足が通り過ぎていく。跳ねた泥水の冷たさに驚き、その場にひっくり返りかけたところで、突然、体が軽く浮き上がるような感覚を覚えた。


 中空に体が浮いているようだ。視界はゆらゆらと定まらない。力の入らない体をすーっと後方から引っ張り上げられるような感覚──ふと気がつくと、眼下に家々の屋根があった。


 風に体を運ばれているようだ。暗がりをのぞけば、人気はないものと思えた路地のそこここにうずくまる人影がある。ある者は力なく座り込み、ある者はボロ布をかぶって丸まっている。どこからか咳き上げる音が聞こえてきた。ゆらりと視線を動かした先には、家壁の際に転がった小さな影がある。


 年端もいかぬ少女がそこに転がっていた。そばに立った人影が足先で少女を小突いている。少女は手を伸ばし、何かを懇願しているようだった。


「母親の薬を買う金だ? 知ったことか。恵んでほしけりゃここで一働きしてもらおうか」


 からかう声もまた若く、少年のもののようだ。「やめておけよ」そばにいた別の男が言った。


「こいつ、一月くらい前から見かけるようになったスリだぜ。川向こうのやつが最近見かけねぇって言ってた。──ほら、証拠の傷」


 男は少女の髪を引っ張り上げ、仲間の少年にこめかみのあたりを見せたようだ。


「だいたいこんな痩せぎすより、その金でキレーな女を買った方がいいや。おい、行くぞ」


 痛いと喚く気力も残っていなかったのか、無言の少女をその場に投げ出し、少年たちはその場を立ち去った。


 転がった少女の口元が腫れて見えるのは、殴られでもした痕だろうか。うつろな瞳はいったい何を映しているのだろう。あるいは夜半に一人で出歩いたことを後悔してでもいるのだろうか。


「……ちぇ。騙せなかったか……」


 少女はひどく痛むらしい片腕をかばいながら立ち上がり、砂を払った。体力が尽きてしまっていたわけではないらしい。そして少女は、少年たちが姿を消したのと同じ街の暗がりに向かって歩き出す──。


 数呼吸の後、どこからかくぐもった叫び声が聞こえてきた。はっ、とおのれが鋭く息を吸う音で目が覚める。


 違う。これは地響きだ。視界では吊り下げられた薄絹の天幕が揺れていた。


 ユナはしばし呆然と揺れる薄絹を見つめて、ああ、ここは寝室だったと思い至る。夢を見ていたようだった。地響きのように聞こえた音は、今はない。吹き込んだ風の音を夢うつつで勘違いしたのだろうか。


 夕飯前に少し眠るだけのつもりだったのに、ずいぶんと長く寝てしまったようだった。日も高いうちならば、どこの誰とも知れぬ者に引き寄せられて夢を見ることもないだろうと思ったのに。マーヴィラ宮地下の繭で眠ればそうした夢を防ぐことはできたけれど、宮の管理者であるマリエは数日前から出かけたままだ。


 央都の情景を夢に見るようになったのはいつの頃からだったろう。当初こそ衛兵に巡回を頼み、夢が現実の一部であったことを知っては涙を流したものだったが、いつしかそれもなくなった。


 ため息をついて寝台を下りる。寝室に侍女の姿は見当たらなかった。違和感に周囲を見回すと、情景がゆらりと揺らいだ。……めまいというわけではなさそうだ。


 二、三歩を進めてユナは両手を前にかざした。何もない空間を左右になぞる。ほんの一時、動きを止めた後に手を左右に開くと、目の前の情景が一変した。入室を許可した覚えなどあるはずもない数人の衛兵、それに魔法省の記章を身につけた男が二人。衛兵たちの手は腰の剣柄に伸び、魔法省の男は腰を抜かしているように見えた。


「……どういうこと」


「ご無礼を働きたくはございません、ユネスティーア様」


 剣の柄に手をかけて応えた男は、衛兵たちの中ではもっとも年かさと見える。


「どうかお静かに願います。本日の定例議会にて、ポロムラクス卿がお父上に異議を唱えられました。どうぞ御身をお預けいただきた……く?」


 男は突如うわずった声を発すると、胸を押さえてその場に膝をついた。支えをなくした人形のように男が倒れ伏すさまに衛兵たちはおののき後ずさったものの、すぐにおのれを取り戻す。


「分隊長!」


 呼びかけた男の声に、通路を駆けてくる高い足音が重なった。倒れた男の向こうにいた衛兵が剣を抜く。しかし次の瞬間には鋭い悲鳴が上がって、剣は床へと跳ね飛んでいた。主の手を離れた剣を追うように落ち、弾け飛んだ何かがユナの足元まで転がってくる。指だった。


「ユナ!」


 通路から姿を現したのはマリエだった。その姿を見たとたん体の力が抜けて、ユナは床にへたりこんでしまう。


 衛兵たちから守るようにユナの前に立ちはだかったマリエの頬には血がにじんでいた。


「間に合ってよかったわ、ユナ。ずいぶんと手間をかけてくれたこと──」


 発言の後半はユナではなく、相対する男たちに向いていたようだ。ひぃっ、と声を上げて逃げようとしたのは衛兵ではなく、魔法省の男たちだった。持ち上げられたマリエの手が向いたとたん、立ち上がりかけていた男たちは膝からその場に崩れ落ちる。


 その左手から衛兵が剣を振り上げるのと、床を踏みしめたマリエの手が中空をよぎるのはほとんど同時だった。細くたおやかな腕の動きは風を呼び起こし、ひるがえったマリエの指先から放たれた斬撃が男たちの腕を襲う。切り裂かれた籠手の破片が宙を舞い、その合間に血が吹き上がった。後列から床を蹴り、間合いを詰めようとした若い衛兵は見えない壁にぶつかり、跳ね飛ばされたように見えた。のけぞり空を飛んで仲間たちのもとへと突っ込み、避けそびれた衛兵とともに床に倒れ込む。


「いつまでも加減なぞしていられないわ。次には手が滑りそう」


 場を一歩も動くことなく衛兵たちに相対しておきながら、ため息混じりのマリエの声にはたっぷりとした余裕が感じられた。早々に戦力を失い、残る二名は完全に浮き足立っている。


「行って身の程知らずの反逆者に報告なさい。オースデンはわたしが守る」


 腕を上げ、マリエは寝室の出口を指し示した。二人の衛兵は気圧されて後ずさる。


 やがて衛兵たちは、あわてて身をひるがえした。駆け去っていく男たちの目に、美貌の魔法使いはどう映っていたことだろう。


 マリエは腕を上げたまま、足音がすっかり遠ざかるまでぴくりとも動かなかった。やがで腕を下ろし、ゆっくりとユナを向き直った顔は嘘のように穏やかだ。


「……よく頑張ったわね、ユナ。無事でよかった」


 目の前に膝をつき、両肩に手を置かれると、今さらながらに震えがやってきた。マリエの両腕が背中に回る。温かな体に身を預けたとたん、涙があふれた。


 怖い。突然のことで、何が起こっているのかよく分からなかった。ポロムラクス──ルテイエ・ポロムラクスが議会で異議を唱えたと衛兵は言った。ユナの父、ジェレミア・アシュレイの従兄に当たるルテイエが父とたびたび衝突していたことなら知っている。衛兵たちを、さらにはマリエを筆頭とする魔法省の者まで動かしたということは、つまり。


「お父様は……?」


 その胸に抱かれたまま見上げて怖々尋ねると、マリエはふっとほほえんだ。ユナが何を聞きたいかは分かっていただろうに、マリエが話し始めたのは別のことだ。


「結界を破られた形跡があったから、しばらく調査に出ていたの。迂闊だったわ──同じ魔法使いとは言え、連中の味方をする者もいるというのに。ましてあなたのすぐそばにまで障壁を用意するなんて」


「結界……マーヴィラ宮の?」


 答えをもらえない不安に声が震える。マリエは緩く首を振った。


「あたり一帯よ。大勢が集まったり、不穏な動きを見せることがあればすぐ分かるように。半年がかりで陣をほどいた連中の努力は褒め称えてあげなきゃね」


 その口ぶりの中に一瞬、激しい怒気が混じる。大気がミシッと音を立てたようだった。けれど次にユナを見つめたマリエの表情は柔らかだ。見慣れたいつものマリエの顔。


「さあ、ユナ。あなたはお逃げなさい、お父様はわたしに任せて。一人でも大丈夫ね? 見つからないように用心するのよ」


「でも──でも、マリエ。わたし、一人でどこへ行ったら」


「大丈夫」


 マリエは再びユナを抱きしめた。


「分かっているはずよユナ、あなたは大丈夫。風を起こして注意を引くことも、視界を歪めて隠れることもできるでしょう。ことを成すのに何人も束にならなくちゃいけない連中とは違う。二つの眼でしかものを見れない連中をあざむくくらいは簡単なこと。望みさえすれば、あなたにできないことなど何もないのよ。蛇の刺青の男が言ったことを覚えている?」


 問いは唐突だった。答えに窮したユナを見つめたまま、マリエはふっと笑う。


「もう分かっているはずよ、ユナ。あとで会いましょう」


 マリエの手が体から離れた。とたんに自由になった体を、視界を持て余すような感覚に襲われる。


 目の前にいるはずのマリエの姿が蜃気楼のように揺らいだ。つい先ほどまでそこにあったはずの温かな体もほほえみも、まるで水面に映った影のように泳ぎ、かき消えてしまう。


「マリエ!」


 マリエがいたはずの場所に伸ばした手は、空をかいただけだった。ユナは呆然と虚空を見つめる。


 最初からここにいなかったのか、それともユナを置いて去ったのか。いずれにしても、一人にされてしまったことに違いはない。


 壁寄りに倒れている衛兵たちの姿は、いまやユナの目には入っていなかった。


 どこへ行けばいいかは分かっているはずとマリエは言った。確かにそのとおり、行くべき先はマーヴィラ宮だ。それは分かっている。


 今はマリエが管理者となっているマーヴィラ宮は、もともとユナの母親のために建立された宮だ。代々の大領主の住まいである本城の東側、小ぢんまりとした造りの、ところどころに配された青色が映える瀟洒な城だった。本城の地下からつながる通路もあり、地下道はそのまま敷地の外まで延びている。


 マリエは、父を連れてきてくれるだろうか。


 父はそう体が丈夫な方ではない。最近では月に一度の定例議会にも顔を出さず、一日のほとんどを寝室で過ごしていると聞いていた。各省庁の長ならば目通りは適うとは言え、公の席ではなくてはまとまるものもまとまらぬと言っていた者もあるようだから、おそらくは、無理を押して出席をしたのだろう。


 ルテイエはその機を狙ったというよりは、その機を作ったのだろうと思った。


 マリエは──父を連れてきてくれるだろう。そして、守ってくれるだろう。


 悪寒が体を駆け上がった。突如として目の前に突きつけられた現実に、心も体もすっかり強ばってしまう。


 ゲイル・トルティリウスはルテイエが行動を起こすことを警戒し、あるいは予言してもいた。幾度となく夢に見る央都の窮状を、それらが議会にもたらす閉塞感を、議員たちから父へと向かう不信をユナ自身、理解はしていたつもりだった。だからと言ってユナには何ひとつできることなどないということも。


 いや、そう思っているのはユナ自身だけかもしれない。ゲイルはユナの婚礼と、その夫への譲位を望んでいた。政の経験などない青年が地位を継いだところで何が変わるとも思えないのに、かび臭く、汚らわしいと言った場所へみずから足を運んでまで彼とユナを祭り上げようとしていた。


 エルロイ・グラディウス・レイ=ヴィクトレールがこの央都に館を構え、ともすれば郷里よりも長い期間を過ごしているということならば、噂に聞いて知っている。


 噂話というのは無責任なものだ。そして無責任であるからこそ伝わってくる話もある。彼がこの都に居を構えたのは、いずれこの地を治める身としての責務によるものだったかもしれない。けれど、その目的はいまや享楽にすりかわったのではあるまいかと言う者もあった。そういった話が真実であるのか、ユナに不信を植え付けるために作られたものであるのかは分からない。


 グルティカは享楽の都だ。あの色とりどりに輝く瓦斯球の灯りに吸い寄せられるように歓楽街を訪れた人々が何を求めているのかくらいは、ユナにだって分かる。そして彼もまた、そうした者たちの一人であるというのなら……。


 それでなくとも、エルロイはいい迷惑だと思っていることだろう。妾腹の身である以上、彼にはどんな生き方だってできるはずだ。城郭の目と鼻の先に館を構えながら顔を出しもしないのだから、きっと最初から治政にも権力にも興味などないのだろう。


 それはユナとて同じことだった。唯一の嫡子として生まれていながら、政に対して強い興味があったわけでも期待があったわけでもない。あるのはただただ、無力感ばかりだった。


 最後に彼に会ったのは八年近く前、園遊会の時だ。母が亡くなる前年の冬、宴の喧騒を離れて草むらで遊んだ日のことは今でも鮮明に覚えている。


 当時、央都の各所に設置が進められていた瓦斯灯は、マリエ率いる魔法省が数年の歳月をかけて実用化させたものだった。地中からくみ上げた燃料の安全かつ安定した供給を資源省に先駆けて実現したもので、ユナにとっても誇らしい成果だった。熱や気体を扱うことに長けた魔法使いの手により、気体のまま、あるいは液化させた燃料を皮膜でくるんで持ち運び、火種を移して使用する。魔法使いは瓦斯球の製造に携わるだけでよく、暖をとったり調理に活用するのに特殊な能力は必要なかった。


 ──魔法って、すごいな。ユナはすごいなぁ。


 技術を学びにきた他領地の者に見せるため、色をつけた気体を弄ぶユナを見て、彼は無邪気に褒めてくれたものだ。


 あの頃はまだ、周囲になんの軋みも感じないでいられた。父と議会の関係は良好で、魔法省だけを優遇しているなどと言われるようなこともなかった。


 魔法省の創立はユナが生まれて間もない頃のことで、生まれながらに魔法の才に恵まれたユナの存在が父を魔法研究へと駆り立てる契機になったというのはユナも知っていることだ。長となったマリエは当時、大陸各地に支部を有する魔法協会の所属で、領地を悩ませていた長雨の原因を調査するために派遣された調査隊の一員だったと聞いている。父の強い要請により央都にとどまることになったマリエは、ユナにとっては生まれながらの師も同然だった。


 そのマリエが他省庁の長たちと折り合わず対立し、父がかばう、そんな構図に気がついたのはいつのことだったろう。少なくともたびたび園遊会が開催されていた頃は──母が存命であった頃は、軋轢など感じたことはなかった。母は誰に相対するにも控えめな女性ではあったが、振り返ればいつもユナを見守ってくれていた。幼い頃、誰もが褒める魔法の才について母だけは何も言ってくれないことを物足りなく思っていたけれど、あるいはそうした態度こそがアシュレイ領家を守ってもいたのだろうか。


 マリエと他省庁の長たちの、あるいは父と議会の軋みに気づき始めた頃、その不安を口にしたこともあった。それに対するマリエの返事はいつも同じ、あなたには何も心配する必要などないのよ、というものだった。そういえばつい最近も、マリエからそんな言葉を聞いた気がする。あの猟奇殺害犯が捕らえられた直後のことだ。


 ──あなたには何も心配する必要などないのよ、ユナ。瓦斯球がもたらした治安の安定は、今、少し崩れ始めている。だけどそれは長い歴史において、何度だって繰り返される程度のもの。そしてわたしたちは、それに終止符を打つ方法だって持っているのよ。


 マリエの声音が脳裏によみがえった。望みさえすれば、あなたにできないことなど何もない。刺青の男が言ったことを覚えている……?


 右胸の心臓に永遠の命あれ。


 死の間際、刺青の男は確かにそう言った。男は央都の各所で若い女を捕らえては、その右胸を抉りとっていたという。おぞましい事件の背景ににはあの男なりの信仰があって、それを最期に言い残したのだろう。


 正体の知れない不安が目の前に暗幕を下ろしたかのようだった。それでなくとも強ばった体を冷気が包み込む。いつの間にか、ユナは冷たい通路に座り込んでいた。周辺に人の気配はない。


 物音さえないおかげで自身の鼓動をやけに大きく感じた。早鐘を打つような右胸に右手を添える。ユナの心臓は生まれつき胸の右側にあった。


 内臓逆位というのだそうだ。すべての内臓が一般的な配置とは左右対称に配され、心臓は右寄りに、脾臓は右に、肝臓は左側にある。まれな症状で健康への悪影響が報告される例はあるようだが、ユナの場合は特になんの問題もないそうだ。


 ただ、魔法使いたちの間でまことしやかに伝わる噂として聞いたことはあった──右胸の心臓には永遠の命を宿すことができる、と。マリエが口にしなかったなら思い出すことさえなかっただろう。かつてマリエはその噂をはっきりと否定したのだ。あんなものはただの与太。珍しいものにありもしない期待をかけたがるのは人の常というものよ、と。


 それなのに、どうしてマリエはそのことを──今。


 ルテイエに与する衛兵が引き返してくる前に逃げなくてはと思うのに、体に力が入らなかった。行くべき場所は決まっている。領妃のために建てられ、マリエによって管理されてきた宮。いつだって穏やかな眠りを約束してくれる場所。マーヴィラ宮へ行かなくては。


 神聖の宮へ。

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