魔法使いは謳われない(期間限定公開)
こどー@鏡の森
1巻①
真綿のように柔らかなしとねに包まれて見る夢は、それ以上の幸福はないだろうと思うほどにいつも満ち足りていた。目覚めの時が近づき、夢だと気づく頃にはわずかな余韻を残すばかりで、情景のひとかけらさえ記憶には残ってくれないのだけれども。
あたりを包む穏やかな白がゆっくりと色を取り戻してゆく。青く澄んだ空も風に揺れる木々の葉も遠ざかり、静かに瞬く星々が浮かぶ夜空から石を積んだ堅牢な屋敷の奥深くへ、歌うような鳥のさえずりは蝋燭の火を揺らす細い風の音へ、あるいは滴る水音へ。ただひとつ変わらないのは、体を包むしっとりと温かな繭の感触──その中でうっすらと瞼を開いたその時、光を帯びたような天幕の向こうに硬い靴音が響き渡った。幸福な眠りを打ち破る鶏の声のように。
来ないでと言ったつもりが、動いたのは唇だけで声にはならなかった。代わりに大気を揺らしたのは、凛と張った、それでいてしとやかな女の声だ。
「それ以上先へは足を進めないでくださる?」
マリエ・ハーバトレイユ・ツヴィングリの声だった。安堵して身じろぎ、吐息をこぼす。
「まったく感心いたしませんな、ツヴィングリ殿。このような時間まで姫を拘束なさるなど」
いくらか離れた場所から、苛立ちもあらわな初老の男の声が届いた。
「心労のあまり、侍女が顔を真っ青にしておりましたよ。今、何時だとお思いか」
責めるような男の口調に胸を締め付けられるようだ、声の向く先はおのれではないと分かっていても。もう一度眠りに落ちてしまえば聞かずにすむだろうかと瞼を固く閉じても、思うとおりにはいかなさそうだ。
「さぁ……。滅の三つを回った頃かしら」
「まともな店ならば酒場ですら閉まる時間ですぞ! 眠りを必要としない魔法使い殿にはお分かりいただけないものか」
悪びれない女の返事に、男は精一杯の厭味を返したつもりかもしれなかった。
「色町に足しげく通う男にも分からない話でしょうねぇ」
女には、まともに会話に応じる気はなさそうだ。
「取り立てに悩むセタ六番街のとある店主が逃亡を企てていてよ、リュンカ・ワズ。こんなところまでお供をしている暇はないのではなくて」
どこか楽しそうな口調で女が話しかけた相手の名は、初老の男のものではない。
「情報提供に感謝を。しかし、噂の出所を教えてはいただけないのでしょうな」
応じた男の声は、他方の男に比べてずいぶんと淡々としていた。
来訪者は二人のようだった。どちらもよく知っている男だ。十五年以上に渡って本議会に名を連ねるゲイル・トルティリウス、すっかり色の抜け落ちた白髪に気難しそうな風貌で、近頃はいつも眼鏡をかけている。もう一人は二年ほど前に二十九の若さで議会に加わったリュンカ・ワズだ。すらりと背の高い美男子で、緩く癖のある金髪を無造作に伸ばしている。
その風貌を脳裏に呼び覚ました時、ふと、もうひとつ横切っていった面影があった。はっとして開いた視界に移るのは白、白、白。ふわふわと軽い羽毛を思わせる繊維でできた、卵型の繭の中だった。外では話し声が続いている。
しばらく前に起きていたはずなのに、今、目覚めたばかりのような束の間のとまどいが心身を襲った。そのまま時が止まってしまうかのような錯覚を覚えた直後、体は動きを取り戻す。身を起こして正面の繭に手指を差し入れ、そっと割り開くと、まるで意思あるもののように繭はみずから隙間を開けた。
「待って」
今度は声が出た。
繭からやや離れた正面、マリエが定めた境界の向こうには男が二人、ゲイルとリュンカだ。広い部屋の中央は十数基の燭台の炎に照らされているが、その容貌をはっきりと肉眼にとらえられるほどの光量はない。それ自体が熱を有するかのような繭の縁に手をかけ、外に出ようとしたところで、体がぐらりと傾いた。
「ユナ!」
いつになく鋭い声を発し、女が右手から駆け寄ってくる。床に手をつく寸前で抱きとめてくれた女の体は、細くとも温かで心強い。
マリエの胸元から顔を上げると、二人の男が駆け寄ってきたところだった。
「大丈夫……心配しないで。ね、エーリに会った?」
すぐそばに膝をついた若い男に問う。
「いえ……? こちらにおいでなのですか」
困惑気味な男の返答に、ユナは返す言葉を見つけられずに視線を落とした。
「……知らないわ。ただ……」
ただ、なんだというのだろう。言いかけておきながら口ごもり、視線をさまよわせてしまう。
「……なんでもないの。ごめんなさい」
マリエの腕が動いて、ユナはその首筋へと顔をうずめた。無言ではあるものの、ユナを守るように抱きしめるマリエの態度は二人の男に立ち去れと言わんばかりだ。
身を屈めていた初老の男がため息をついたのを合図に、若い男は立ち上がった。立ち去ろうとする二人の気配を感じながら瞼を伏せたとたんに、背筋を悪寒が駆け抜ける。ユナを抱きしめていたマリエの腕がふっと緩んだ。
ユナを抱きとめた体勢はそのままに、マリエは右腕を前方へと掲げた。燭台の炎が届かぬ暗がりへと向いた掌に、ぽうっと柔らかな光が点る。
照らされた床の上には黒みを帯びた管がびっしりと這っていた。木の根のように絡み合い伸びる管はほの白く光る球状の繭を半円状に囲んでおり、時折、脈を打っているように見える。管が伸びた先の壁側には、無数の人影がうずくまり、あるいは座り込んでいた。
マリエの掌に生まれた淡い光は、背の低い石柱に力なくもたれかかった男の姿をとらえ、浮かび上がらせる。床を張う管の端を腹部に抱え込むようにした男の頬には蛇の刺青が掘り込まれ、右目の上を縦に走る傷跡はまるで稲光のようだ。
ひとたび見れば、忘れることはないであろう容貌だった。
どこからか低いうめき声が上がる。人々の渦の中、ただ一人こちらを向いていた刺青の男は四人をそれぞれゆっくりと眺めやると、低く呪詛のような言葉を漏らして陰鬱に笑った。初老の男はおののき後ずさったが、マリエはわずかに目を細めた以外にはぴくりとも動かない。
男は腕をゆっくりと引き、管をなでた。管は男自身の腹から伸びているようだ。締まりのないその口から、再び低い声音が響く。
「──右胸の心臓に永遠の命あれ」
先の声音とは異なり、はっきりと聞き取ることのできる声だった。おのれの腕ほどもある太さの管をつかむと、男は再びにやりと笑う。そして男は、いささかのためらいもなく腹から赤黒い管を引き抜いた。
淡い光の中に血飛沫が吹き上がった。男の上体は糸の切れた人形のように跳ね、揺れ、くずおれる。男を照らしていた柔らかな光が消え、あたりは暗闇と静寂に包まれた。
しばし、時間が止まってしまったかのような錯覚を覚える。誰一人、身動きする者はいないようだ。息遣いはもちろんのこと、鼓動さえも周囲に響いているのではないかと思うほどの静寂があたりを満たす──いや。いつしか、壁際のそこここからいくつものうめき声が上がり始めていた。
「まったく……。だから入ってこないでと言ったのに」
ため息まじりの女の声に、ユナははっと我に返った。マリエの衣服をつかんでいた手指に力が入る。初老の男もまた、この女の声を聞いておのれを取り戻したようだった。
「姫! このような場所においでになってはなりません。寝所までお供いたします、さあ」
皺だらけの手が差し伸べられる。その掌をしばらく見つめ、ユナはゆっくりと視線を上げた。この状況をゲイルがどのように理解しているのかは知らない。ただ、わななく口元は確かに恐怖をあらわしていた。
ゲイルはこんなにも老けた男だっただろうかとユナは思った。深く皺が刻まれた額、張りを失ってたるんだ皮膚。その眼鏡の奥の目はくぼんで影を落とし、白く染めたような眉は頼りなく下がっている。硝子の向こうの錆色の瞳は、何ゆえに濡れて見えるのだろう。
「平気、よ……」
唇からこぼれたユナの声は、震えていた。震えているのは声ばかりではない。瞬くことを忘れたように大きく開かれたままの瞼も、女の衣服をきつくつかんだ両手もまたわなないている。
「平気よ。今夜もここで休むわ、ね、マリエ」
「姫!」
叫ぶような声を無視して体の向きを変え、ユナは大きな瞳でじっと女の顔を見上げた。思案顔のマリエはちらりとユナに視線を落とし、声もなく笑む。
「姫、なりませぬ。このような──このような汚らわしい場所で。それでなくともかび臭くてたまらぬものを」
「かび臭い……?」
震える小さな声に、ゲイルははっと息を呑んだ。女の胸元に体を預け、ユナは引きつった笑みを浮かべていた。女はユナをかばうように腕を上げ、クスクスと笑う。
「ずいぶんな言いようですこと、鼻の先にかびの固まりでもぶら下げているのではないの。残念だけど、説得にお使いいただけるような時間はないのよ」
男たちに声をかけながらも女は目線をユナから暗がりへと移し、男たちのことは見ようともしない。
「異物を片付けて──陣の修正もしなくてはならないわね。素人は邪魔だわ、帰ってくださる」
負けじと口を開こうとしたゲイルの前に若い男の腕が差し出された。勝算なしと見てか、黙したまま退散をうながしているようだ。
諦めたようにうなだれて首を振り、ゲイルは男の手を払って踵を返す。二つの背に鋭く視線を走らせた後、女は表情を改めて胸元に縮こまるユナの髪をなでた。
「おやすみなさい、ユナ。さあ、夢殿に戻って」
すん、と音を立てて鼻をすすり、ユナは身じろぐ。
「……ごめんなさい、マリエ。わたし……」
再び女を見上げたユナは、しゅんと落ち込んだような顔をしていた。
「手伝うわ。……手伝わなきゃ」
「いいのよ、ユナ」
小さな体を抱きしめる腕を緩めて、マリエはその両肩へ、そして指先へと手を移す。
「あなたはおやすみなさい。こんなに美しい手を汚してはだめ」
先ほど男たちに向けた口調の冷たさなどまるで感じさせない穏やかな笑みと柔らかに説く声は、幼い頃からずっとユナの身近にあったものだった。優しく包まれた手指からおずおずと視線を上げ、ユナはしばしマリエと見つめ合う。
物心つく前から、いつもそばにいてくれたマリエ。ただ優しかっただけではない、わがままはきちんと叱責してくれたマリエ。
やがて声もなく小さくうなずくと、ユナはぼんやりと光を放つ繭へと再び体を差し入れた。
この繭にくるまれて眠ることを覚えたのは、もう十年以上も前の話だ。寝所は別に設けられていたけれど、ユナにとってはこちらの方がはるかに落ち着く。
繭の周辺、汚らわしくかび臭いと言われたこの部屋に何が満ちているのかは知っていた。いつも温かく柔らかで羽毛のように身を包む繭を支えるのは、管の先に繋がれた人々。陣を乱す者がない限り、死んだように眠り続ける生きた苗床だ。
繭の中にゆったりと横たわると、ユナは両腕をそっと持ち上げた。白い肌の向こうに青い血筋が透けて見える。この肌がどんなに美しく見えたところで、中を流れているものは、皮膚に包まれうごめいているものは彼らと同じだ。
冷たい石の壁に配された灯りは、地上へ戻るまでの友としてはあまりにも頼りなく思われた。手持ちの燭台が照らしてくれるのはせいぜい数歩の距離で、暗闇は永遠に晴れぬのではないかとさえ思えてしまう。
重い足音の他にある音と言えば、蝋燭の炎が時折小さくはぜる音だけだった。沈黙に耐えかねてゲイルが口を開いたのは、通路を半分も行かぬうちのことだ。
「そなたは動じないな、リュンカ・ワズ。わしなど、一刻も早くあの場を立ち去りたいばかりであったというのに」
ゲイルが顔の高さまで持ち上げた燭台にちらりと視線を向け、リュンカは肩をすくめた。
「慣れておりますゆえ。生体を切り裂く機会なぞはそうそうございませんが、原型をとどめぬ轢死体の検分や解剖実験を行うこともございますのでね」
揶揄というわけではなかろうが、淡々と返された話の中身はあまり気持ちのよいものではない。
具体的な想像はしないように努めて、ゲイルは一つ咳払いをした。
「気味の悪いことを言っていたな……。心臓がどうのと」
刺青の男が残した声音を思い出し、しかめっ面をさらに渋くしてゲイルは頭を振った。
「顔に見覚えがございますよ。先だって、街々の女たちが右の乳房をえぐりとられる事件がございましたでしょう、あの被疑者であったかと」
「ああ……あの胸糞の悪くなるような事件のか」
先ほどの光景が光景なら、男の素性も素性だった。
「あれは死罪間違いなしと言われていたと思ったが。裁判になったか? 記憶にない」
「私も存じませんね」
捕らえられてすぐにこの地下に連れてこられたのであれば、司法省に資料が残っているかどうかも怪しい。結果は分かりきっているように思えて、わざわざ問い合わせる気にもなれなかった。
「……姫はどうされたというのだろうなあ、あのように聞き分けのない方ではなかったのに。そなたとて父とともに少年の頃より城に出入りした身であろう、赤子の頃より姫をよく知っておるはず」
話題の中身はさして重要ではなく、ゲイルはただただ話し相手を請うているようだった。
「さぁ……。かの魔法使い殿の気丈さが移ったのでございましょうかね」
「魔法使いか、ふん。あれは魔物だ。女の姿をしているだけの──」
部屋からずいぶんと離れたとは言え地下は魔物の領域、この会話はあの魔女の耳には聞こえているかもしれぬ。
恐れゆえ、脈絡もなくそのようなことを思った。次の瞬間には、いずれにせよ好かれておるなどとは思っておらぬだろうとも考える。それならば、口をつぐんでおく必要はない。
「あのような女に姫を懐かせてしまうなど、わしらが間違っておったのかな。病床の母君に無理を言うこともできなんだとは言え……」
若くして亡くすには惜しい、美しい妃であったことよなぁ、とゲイルは力なくため息をついた。
隣り合う大領地から嫁いだ妃には長く子ができず、待望の子宝に恵まれたのは成婚から十年が過ぎてからのことであった。おりしもいつにない長雨で凶作に見舞われた年とあって、懐妊の報に央都中が大騒ぎになったものだ。底を尽きかけていた備蓄すら振る舞ってしまえという大領主の命に、議員総出で反対したものだった。
めでたい噂を聞きつけてやってきた商人や旅人でじきに央都はにぎわい、ほどなくして各小領地の農産物生産量も持ち直した。今を思えばあの頃の議会は実に平和で、生まれた姫に仕える見目好い男を大勢集めてはどうかとか、そんなことを大真面目に言い出す議員さえいたほどだ。
ひるがえって、今はどうだ。平年並みの食糧生産ができこそすれ、いつしか広がった貧富の差が飢え、病む者を生み出し、路地には寝屋のない者があふれ、昼夜を問わず盗人が跋扈する。最近では、届け出のない違法賭博や人身売買を目的とした誘拐の噂を耳にすることさえ増えてきた。
「……窮状が大領主の心に届かぬままであれば、急進派を抑えておくにも限度がある。姫さえご決断くだされば、すぐにも婚礼の話を進められるのだがな……。時に、エルロイ様はどうしておられる?」
いつしか二人は地下通路の終わりへとたどり着いていた。薄暗い階段の上部にある扉は開け放たれたままで、その向こうから届く灯りは妙に明るく感じられる。
「さて、存じませぬ。こちらの屋敷にいらしているという話は聞いておりますが……」
「やはりな、そうであろうと思ったよ。姫も誰かにそのような噂を聞かされたのかな」
嘆息すると、ゲイルは燭台を高く掲げて階段を上り始めた。侍女は昼も夜も分からぬ地下へは下りてきたがらず、やきもきして二人の帰りを待っていることだろう。
よい知らせを持ち帰ることができるなら足どりもさぞ軽くなったろうなどと考えながら上る階段は、やけに長く思えてしかたがなかった。
天窓の向こうに、抜けるように青い空が広がっている。他郷から見上げようと何ひとつ変わることのない空を見上げるのは好きだ。雨風や昼夜の違いはあれど、晴れた空が青く美しいことに変わりはない。
ちょっと待て──今は何時だ? 朝ならば頭の上へと差し込んでいるはずの陽光が、やけに高いところから注いでいるようだ。にわかに焦りを覚えて飛び起きる。隣に寝ていたはずの女の姿はとうになく、そばの小机の上に書き置きが残されていた。──迎えが着たので帰ります。
思い出した。天窓を開け放したまま眠ってしまったせいで今朝はいつになく早く目が覚めて、女とじゃれているうちに再び寝入ってしまったのだった。起こしに来る者がなかったのは幸いだなどとのんびり構えていたら、後悔するはめになるだろうか。
ひとまずは身なりを整えて、いや、その前に天窓を閉めて──すべきことの順序を考えようとした時、木製の扉が激しく叩かれた。飛び上がるほどに驚いて寝台の上に立ち上がり、天窓を閉めるための棒を探して右往左往する。ドンドンドンドンドン、としつこく扉を叩く音は時折途絶えはするものの、引き下がる気配はなさそうだ。
脚立に立ってようやく天窓を閉め、降りようとしたところで段を見誤ってつまづき、そのまま寝台の上に倒れ込んでしまった。どこも打ちつけはしなかったが、反射的に声が漏れる。
さっさと起き上がって不躾な来訪者を出迎えねば、だが、どんな顔で? 頭を抱えてため息をついた時、扉の向こうの音が変わっていることに気がついた。がちゃがちゃと金属質な音に、さーっと血の気が引くような錯覚を覚える。
押し開かれた扉の向こうから、怒りを押し殺した青年が姿を現した。やばい。嫌な汗が額ににじんだ。
「や……あ、スザロ。おはよう」
言い訳を探す余力もなく、声を絞り出すのが精一杯だった。
「ひどくお疲れになっていたようでございますね」
一語一語をやけにゆっくりと発音した青年は、名をスザロ・ロルリウスという。
「お客人はとうにお帰りですよ。まったく、あのような素性の知れぬ者を屋敷に引き入れて──」
すっかり脱力してうなだれる間に、説教が始まった。
「素性は宿が保証してるじゃないか……」
一応は反論してみたが、鋭くにらまれて思わず視線をそらしてしまう。
「どこの生まれ育ちとも知れませんものを」
「生まれはカッシジと言っていた、か、な……」
「そのようなことは聞いておりません!」
スザロは寝台脇の小机に手を叩きつけた。黙って叱られておくのが得策かと口をつぐんで視線を泳がせるうちに、叩きつけられたのは手ではなく封書であったことに気がつく。
「火急の手紙とのことでしたので、お休みのところを失礼いたしました。早朝には届いておりましたものを、このような時間のお届けになったことをお詫びいたします」
厭味であることは明白だった。眠りこけていて気がつかなかっただけで、おそらくは午前中から何度も部屋を訪れていたのだろう。
肩をすぼめて進み出、受け取った手紙の署名を確かめて封を開いた。流れるような筆致の知らせを一読すると、天窓を見上げてため息をつく。スザロはと言うと、あたりに脱ぎ散らかされた服を手早くまとめ、着替えを準備し始めていた。
燭台に新しい蝋燭を置いて火を点す。読み終えたばかりの手紙をかざすと、薄手の便箋は実によく燃えた。封筒はいくらか厚手で、燃やしてしまうには少々時間がかかりそうだ。用意した服を手にしたスザロがもの言いたげな視線をこちらに向けていた。
「内密のご用件ですか、エルロイ様」
問われて、エルロイと呼ばれた青年は口ごもった。
「いや……うん。なぁスザロ、おまえ、アゼリアの女を見たことがあるか」
「アゼリア人ですか? 領地内にいくらかの出入りがあるとは聞きますが、特に関わったことはありませんね」
エルロイが問いに応えたわけではないことをいぶかしむような声だ。
「そうか、まぁ、出入りするアゼリア人の多くは体躯のよい男だしな。なに、この手紙の主の母御がアゼリアの出でな──アゼリア人の大半は小麦色の肌の持ち主だが、東部だったか、白い肌の民族も暮らしていてな。美人が多いことで有名なんだ」
エルロイの言わんとすることをつかみかねたように、スザロは眉間に皺を寄せていた。
「ずいぶん前に肖像画で見たきりだが、こやつの母御がまた極めつけの美女でな。叔母上に負けず劣らず美しい方だったようだ」
「……さようでしたか。お顔は存じませんが、確か二年ほど前に中央議会に入られた方ですね。お手紙はたびたび頂いておりますが、即座に燃さねばならぬほどの内容であるのなら、ぜひお話をうかがいたいところです」
「いや……まぁつまり、あれだ。おまえのような堅物が見たら卒倒しそうなことが書いてあったから燃やしただけで」
「……は?」
棘のある声が返ってきた。
「だからな、その、母御譲りの美男子で、清廉潔白な面のわりにはたいそうな好き者でな、時々こういうふざけた手紙をよこすから、──あ、なんだ、おまえも読みたかったのか? なら、次は燃やさずに取っておくから」
「あいにくと、戯れごとに興じる暇はありません!」
しばらく収まっていた怒りを再燃させたかのような声に、エルロイは身構え逃げ場を探すように左右を見回す。天窓が気に入って寝所に決めた屋根裏部屋には、逃げ出す場所などあろうはずもなかった。
「すでに昼食にさえ遅すぎる頃合いですよ、このような狭苦しい場所におられては時間も分からぬようですね! さっさと着替えてお越しなさい」
早口に言い捨てると身をひるがえし、返事を待ちもせずにスザロは部屋を出てしまった。扉の閉め方がひどく荒々しかったのはわざとだろう。
反射的に両手で耳を塞いだ後、エルロイは寝台に大の字になった。参った。
エルロイ・グラディウス・レイ=ヴィクトレール、この地オースデンに嫁いだシュゼヴィア・アシュレイ妃の甥、隣り合う大領地ユノを治める大領主ヴィクトレールの弟。おのれの血縁に思いを巡らせるだけで気が重い。婚約者はユネスティーア・アシュレイ、二つ年下で、じきに十六になるという話だったか。艶やかで少し癖のある金髪に白磁の肌、翡翠色の大きな瞳の実に愛らしい娘で──と言っても、最後に会ったのはかれこれ七、八年前のことだ。
あれは彼女の誕生日を祝う園遊会だったか。それ以前、何かと理由をつけては催されていた宴会には何度か参加したはずだが、あまり覚えていない。シュゼヴィア妃が亡くなった頃を境に会が催されることもなくなり、自然と足は遠のいた。
婚約が決められたのは彼女が生まれて間もない頃の話だ。エルロイの兄、ヴィクトレール卿には一男二女があり、長男はエルロイの一つ年上。エルロイ自身は妾腹の子で、ユノ大領主の地位は年上の甥が継ぐと最初から決まっていたようなものだった。
エルロイの母は高級娼婦の出と聞くが気どらない性格で、権力闘争にはまるで興味がなさそうだったように思う。その影響かエルロイもまた地位に対するこだわりはなく、こだわりがないゆえに幼い頃から将来を定められていることにも特段の抵抗はなかった──はずだった。
いずれはこの地に住まうのだからと母に勧められて屋敷を買ったのは四年前のことだ。当然ながら、聞きつけた大領主アシュレイ卿からは「いつでも城に遊びに来るように」との許しもあった。気が乗らず参上しなかったのは堅苦しい席が好きではないからで、特に逃げ回っていたというつもりはない。
オースデンは内陸の大領地で、西側のほとんどをゼアラ山脈に接し、央都の残る三方は城壁に囲まれている。城壁の外にはいくつもの小領地が点在し、その向こうにある東の大領地はマリエダ、南の大領地がユノだ。東方や海を渡ってきた商人の往来が多いマリエダとユノを行き来するにはオースデンの東端を通ればこと足りるが、わざわざ遠回りをして央都を訪れる者は多かった。それもそのはず、オースデン央都グルティカは享楽の都として知られ、旅の者を惹きつける。
旅人の大半は旅の疲れを癒す温泉や飲食、色事や賭博を求めてグルティカに立ち寄った。産業の一柱である魔法技術の見学を理由にする者もいるにはいたが、扱いに修練を要するとあって、一部のもの好きに限られるようだ。
実際のところ、グルティカは魅惑的な都だった。活気のある市場では遠来の食料品や酒、煙草、宝飾品までもがやすやすと手に入る。昼間から開放される劇場や賭場もあり、時間はいくらでも費やすことができる。
日が傾く頃には町の各所に色とりどりの灯りが点され、いよいよ酒場や色町がにぎわい始める。エルロイ自身、二つの大領地を行き来する生活を始めてほどなく女を覚え、それまで縁のなかった世界を知った。
ごろりと体の向きを変えると、つまづいた時に蹴倒したらしい脚立が目に入った。屋敷を建てた人間の趣味だったのだろう、屋根裏部屋の大きな天窓、それも引き戸のように開くことができる造りが気に入って選んだ屋敷だというのに、周囲の反応はあまりに味気ない。狭苦しい屋根裏部屋など一家の主が寝所とすべき場所ではないとか、屋根から狙われたら身辺を守りようもない、災難のもとでしかないとか、かの従者殿からはさんざんな言われようだ。実際、天窓を開け放したまま眠りこけ、女が去ったことにも気づかなかったのだから、言われていることはもっともだと認めざるを得ない。
あいつの説教を聞きながら飯を食うよりは外で食った方がいいに決まってるよなあ、などと考えながら渋々エルロイは起き上がった。昨日は早くから部屋に引きこもってしまったし、腹はずいぶん減っている。時間を引き延ばしたところで状況が変わるわけもなし、この上、屋敷を抜け出したりしたら大騒動になるのが目に見えていた。
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