第42話 side梢

 あともう少し、もう少しで彼女にキスをしてしまうところだった。


 彼女の甘い香り、低く優しい声、柔らかい肌の感触、暖かい体温が伝わってくる。目の前には彼女の顔があり、理性の箍を外せばすぐにでも彼女の唇に触れられた。彼女のその艶のある唇に口付けをして、私の溢れんばかりの気持ちを伝えられた。


 しかし、私は彼女にどう思われているのかをよく分かっていない。彼女は今まで手を繋いでも、肩を寄せても、決して嫌がる事は無かった。だからと言って、彼女が私の事を恋愛対象として見ているとは限らない。ただ仲の良い友達だと思っている可能性の方がよっぽど高い。


 彼女に話を逸らされ、少し冷静になってきた所で、改めてよく考えてみる。


 そもそも、私自身、どうして彼女にこんなにも惹かれているのか。彼氏と別れて寂しかっただけなのかと訊かれれば、そんな事は無いと言える。確かに、彼氏と別れてから、私の心に空いた穴を埋めてくれたのは彼女だ。その時連絡を取り合っていたのが偶然彼女くらいしか居なかったというのはあるが、事実として、その辛い時期に私の傍に居てくれたのが彼女だ。


 別に彼女に依存しているわけではない。彼女に救われたという恩は感じているが、彼女が居なければ生きていけないなんて事は無いし、彼女が居ないと不安だなんて感じた事も無い。


 きっと私は彼女が居なかったとしても、これまで通り依頼を受けてイラストを描いて、たまに友達と食事に行ったり、家族と旅行に行ったりして、それなりに楽しく生きていけるだろうと思う。


 しかし、彼女が居れば、私の日常はもっと楽しく、幸せな物になる筈だ。そしてそれは彼女でなくてはならない。将来、一緒にご飯を食べたり、一緒に買い物に行ったり、旅行に行ったり、家でのんびり過ごしたり、そんな風にずっと寄り添って生きていくのは彼女が良い。


 私はこれから先もずっと彼女と一緒に居たい。


「小豆ちゃん」


 意を決して、彼女の手を握る。


「何?」


 彼女が少し身体を固くして、私を見る。それはまるで、これから私が言おうとしている事を察しているかのような反応で、言葉が喉の奥で詰まる。


 言ってしまえ、と半ば自棄になりながら、詰まった言葉を押し出す。


「一緒にさ、暮らすのも良いよねって話してたでしょ?」

「してたね」

「あれ、ちょっと本気で考えてみてもらってもいい?」


 緊張のあまり、頭の中で色々な言葉が行き交い、思考がごちゃ混ぜになって、自分が正しい日本語を喋れているのかすらも分からない。


 私が言いたかったのはこれだったのか、それすらも分からなくなっていたが、それでも言ってしまった事は仕方が無いので、とにかく彼女の返事を待つ。


「一緒に……ね」


 彼女の口から発された言葉が、肯定の言葉で無かった事に胸が締め付けられる。


「嫌?」


 思わず縋るような言う。


 すると彼女は固かった表情を和らげ、優しい微笑みを作り、首を横に振った。


「ううん。ええよ。梢ちゃんと一緒に暮らすの楽しそうやし」

「ほんとに?」

「うん。また色々決めなアカンし、うちの親がどう言うかは分からんけど、私は梢ちゃんと一緒に暮らしたい……かな」


 それを聞いた瞬間、肩の力が抜けると同時に、涙が溢れてくるのを感じた。


「ちょっ……なんで泣いてんの」


 彼女が私の頬に伝う涙を拭ってくれる。


「ごめん、安心したら我慢できなくなって」


 涙は次から次へと溢れてくるのに、安心感と嬉しさ、それから恥ずかしさが重なって笑いが込み上げてくる。


 抱き締められ、頭を撫でられると、少しずつ気持ちが落ち着いてくる。そうすると、冷静になった私の頭は、彼女の感触や、彼女の香りを感じ取り始め、今度は顔が熱くなる。


「ごめん、ありがとう」


 段々と罪悪感が湧き出してきて、もっと抱き締められていたいという気持ちを抑えながら、彼女の肩を押して引き剥がす。


「落ち着いた?」

「うん」


 頷くと、彼女がまた頭を撫でてくれる。少し擽ったく感じるくらいに優しく、心地良い。


 暫く撫でられたままになっているうちに、すっかり落ち着きを取り戻した私は、彼女に鏡を借りて化粧を直す。


「あんまり見ないでもらえると助かるんだけど……」

「一緒に暮らすんやろ? ちょっとくらいええやん」

「それはそうだけど……」


 視界の隅でにこにこしながら見つめてくる彼女を必死に意識の外に追いやって、簡単に化粧を整える。


 化粧直しを済ませ、居た堪れなさを誤魔化すように、「どう?」と開き直って彼女の方に顔を向けると、「うん、ばっちり」とグッドサインを貰えた。


 さあどうしようかと話題に悩んでいると、彼女がまたベッドに脚を伸ばして寛ぐ体勢に入り、ぽんぽん、とベッドを手で叩いて隣に空いたスペースに私を誘う。


 当然、私にそれを断る理由は何も無いので、彼女の隣に座って、同じように脚を伸ばす。遠慮して少し身体を離して座ったのだが、彼女の方から身体を寄せてきて、少し窮屈なくらいに肩がくっついた。


「こうするの、嫌やったりする?」


 彼女が顔を覗き込むようにして訊ねてくる。


「ううん。大丈夫」

「そう? 知ってると思うけどさ、私、こうやって触ったりするの好きやから、もし嫌やったら遠慮無く言うてな?」

「うん。一緒に住もうって言ったの私なんだから、これくらい全然大丈夫だって」

「でもハグは恥ずかしいんやろ?」

「ハグは……まぁ。でも嫌な訳じゃないから……」


 もっとしてほしい、と続けようとして、咄嗟に口を閉じる。


「じゃあハグはたまにするくらいで許してあげようかな」

「うん。程々でお願いします」

「了解しました」


 ふふ、と彼女が短く笑う。不意に彼女の手が私の手に重ねられ、優しく握られる。それに応えるように握り返すと、彼女は満足そうに微笑んでいた。


 こうしていると、恋人のように感じる。以前付き合っていた彼氏と、こんなに甘い時間を過ごした記憶は無いが、これが私の想像する恋人との時間のように思えた。


 彼女と恋人になる。その目標のためにはまず一つ問題がある。それは彼女が同性である私を恋人として意識してくれるかどうかだ。


 彼女は以前、友達と恋人の違いは何なのか、と訊いてきた事がある。彼女がその時持っていた答えは、結婚して家庭を築くかどうか、という物だった。


 彼女は特にお気に入りの友達と恋人に対する『好き』という感情に差は無いと言っていた。彼氏にできる事は好きな友達にだってできる。そこにはキスとその先の事も含まれていた。


 そんな彼女が例の彼と付き合った理由は、同じ部活に所属していて、あまり相手の事はよく知らないものの、少なくとも嫌いではなく、断る理由が無かったから。そして彼女は恋人らしい事を実践していくうちに彼の事を好きになっていったらしく、最終的には重いとまで言われるようになっていた。


 整理してみると、彼女は恋人にする相手の性別を気にしていないのではないか、という考えに至った。


 彼女があれほど彼に好意を抱いていたのは、恋人に恋人らしい事をしていた結果であり、スタートは恋愛感情ではなかった。その恋人らしい事をしていた理由として、好きになってくれたから、という恩返しのような物でもあったようだが、そう考えると、私にも充分にチャンスがあるように思えた。


 確証は無い上に、訊いてしまうと私の気持ちに気付かれてしまう可能性があるので、そう易々とは訊けない。しかし、これまでの話と彼女の行動から察するに、完全に脈が無いとは思えなかった。


「どうしたん?」


 彼女の声が耳に響いて、思考の海から意識を現実に引き戻す。


「ちょっと考え事してた」

「そうなん? 大丈夫?」

「大丈夫、大丈夫。そんな大した事じゃないから」


 手を振って笑うと、彼女は一先ず納得してくれたようだった。

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ネットで出会った彼女と二人 深月みずき @mary_key

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