定め2

父の話を聞いた翌日から、北沼は机に向かって勉強を始めた。彼は夏休みに、予備校で歯学部受験生向けの夏期講習を受けた。難しいが充実した内容だった。この夏期講習をきちんと受講すれば、自分は歯科大合格に向けて大きく前進すると思った。だが、彼は夏期講習を真面目に受講しなかった。歯科大合格の可能性が、高くなるのが怖かったからだ。でも、父の話を聞いて、夏期講習のテキストを改めてやろうと思った。「定め」に対する覚悟をしたからだ。彼は逃げることをやめた証に、夏期講習のテキストに取り組んだ。無事やり終えた暁には、彼の歯科大合格が、より現実的なものになるからだった。夏期講習は一カ月あった。テキストは、かなりのボリュームがあった。全てを終わらせるまでに、二週間かかった。北沼はやり終えて、気持ちに区切りがついた。これで、もう一度学校に行けると思った。


一カ月振りの登校の朝、北沼はブレザーを着て外に出た。十月に入っていた。少し肌寒かった。彼は、月日の流れを感じた。彼はD高校まで歩いて通学している。偶然、家と学校が近かった。他の生徒の大部分が電車を使っている。D高校は進学校として実績があるため、遠方から通っている生徒も多い。学校の近くまで来ると、電車通学の生徒たちと会った。

「北沼。久しぶり。もう大丈夫か?」

正門の前で同級生の男子生徒が北沼に声をかけた。

彼は男子生徒を見た。

男子生徒の瞳は、北沼を見て、一瞬、輝いた。しかし、すぐに瞳の輝きは消えた。そして、その生徒は正門から中に入った。

他にも正門の前で、何人かの同級生に会った。皆、同じだった。北沼を見て、彼らの瞳は、一瞬、輝いた。しかし、瞳の輝きはすぐに消え、彼らは、北沼に興味を無くしたように、そのまま校庭に向かった。


同級生は、最初、北沼が戻って来たことに期待した。自分たちの要求を具現化してくれる人物が帰って来たのだと。しかし、彼らは北沼を見て気づいた。彼は、ひと月前までの彼ではない。彼は大人になった。彼らから見れば、外見は同い年の若者だが、精神は、つまらない大人になってしまったということだった。だから、彼らの瞳の輝きは一瞬で消えた。


北沼養一は、今朝、学校に来るまで、このことだけが気になっていた。おそらくこうなると思っていた。でも、確信はなかった。そして、今、自分の予想していた通りの結果になって、ほっとした。


同級生が見抜いた通り、北沼養一は、大人になった。別な言い方をすれば、定めに従い歯科医になると決めた瞬間、北沼養一の青春は終わったのだ。歯科医になる人生以外の可能性を全て諦めたということは、彼にとってはそういうことだった。もちろん、北沼養一の青春の全てが終わったというわけではない。ただ、彼の青春の輝きは、これまでに比べると色褪せてしまった。

そして、大人になった北沼養一には、もう周囲の要求を受け止めるだけの鋭敏な感受性が無くなった。彼を見た同級生は、瞬間的に、そのことも見抜いた。


北沼は、これで良かったのだと正門から中に入っていく同級生を見て思った。そして、彼も正門を抜けると校舎に向かった。教室に入ると、クラスメイトの反応も同様だった。一瞬の瞳の輝き、そして、消失。あまりにも皆が同じなので、北沼は不思議な感じがした。入り口付近で立ったままの彼に、クラスメイトの中で久須原洋史だけが近づいて来た。

北沼は休んでいる間、久須原がよく連絡をくれたことに礼を言った。そして、色々と考えることがあって返事ができなかったと説明し詫びた。

久須原は頷いた。それから、北沼の顔を見て言った。

「北沼。吹っ切れた感じがするよ。ひと月休んだ甲斐があったな」

そして、彼は笑った。

北沼は、久須原だけが、違う反応をしたところに、彼との友情を感じた。


北沼は久しぶりに授業を受けた。午前中の授業が終わって昼休みになった。彼は、久須原や仲の良い友だちと一緒に校舎の裏庭に行った。ベンチに座って、とりとめのない話をした。穏やかな時間だった。久須原たちと話をしていると、ひと月休んでいたことが嘘のように思われた。


その穏やかな時間を壊すように、突然、裏庭に現れた人物がいた。

上崎賢勝だった。

上崎は、北沼に近づいてきた。

北沼が座っているのは、あの日と同じベンチだった。一瞬、殴り合った時の記憶が蘇った。彼は身構えた。

だが、上崎の言葉を聞いて、北沼は驚いた。

「北沼さん。あの日のことを許してください。あの日から、ひと月経ちましたが、僕はずっと後悔し続けています」

北沼は、上崎の言葉にあ然とした。それから、ブレザーの下に着ているシャツとネクタイに目がいった。襟元のボタンが外され、ネクタイも緩められていた。夏でも、シャツのボタンは上までとめ、ネクタイもきちんと締めているのが上崎だ。常に一定の緊張感を相手に強いる、それが上崎だった。

北沼は、上崎は自分を変えたのだと思った。

その時、上崎が右手を出してこう言った。

「北沼さん。僕を許してください。そして、和解の握手をしてください。これからは、笑顔で北沼さんと向き合いたいんです。そのために握手をしてください」

北沼は思わず立ち上がり、彼と握手をした。

上崎は北沼とガッチリと握手をすると、周りにいる生徒を笑顔で見た。

「上崎。このひと月、お前が苦しんでいたことは、みんな、知っているよ。良かったな。北沼と握手ができて」

男子生徒が言った。

「上崎君は、あの日から、自分を変えようと頑張ってきた。今日の北沼さんとの和解が、上崎君が、もっと良い人間になるための大きな一歩になると私は思う」

女子生徒が言った。

その言葉を聞くと、強く握っていた右手を離して、上崎が裏庭にいた生徒たちに向かって言った。

「みんなが、支えてくれたから、この一カ月、頑張れたんです。ありがとう!」

裏庭にいた皆が、拍手をして応援の言葉を投げかけた。


北沼は、そこでようやく気づいた。上崎が、今、どういう状況にあるかを。上崎賢勝は、あの日、北沼養一と喧嘩をして勝った。そのことにより、北沼に代わって、上崎はD高校の事実上のリーダーになった。北沼は、それで全てが完結したと思っていた。だが、続きがあった。D高校の生徒は、「ポスト北沼養一」になり得た上崎に、北沼養一と同じ役割を果たすことを要求したのだった。つまり、周囲の要求に応えるために全力を尽くす「第二の北沼養一」になれと上崎に要求した。上崎は、一見、無骨で、北沼のようには颯爽としていない。だが、実際には、頭の切れる敏捷な男だった。彼は周囲が自分に何を求めているかを感じ取り、機敏にその要求に応えたのだ。


その時だった。

校舎の一階の廊下の窓から、男子生徒が叫んだ。

「上崎。一緒に来てくれ!今度の体育祭の学年別対抗リレーのことで、一年生の走者が、今、二年生のところに抗議に行こうとしてる。今年のリレーの二年生の走者が全員陸上部の短距離選手なんだ。一年生の走者が、それでは勝負にならないって怒ってる。みんなで、止めてるんだけど聞かない。お前からも冷静になるように説得して欲しい。お前の言うことなら、あいつらも、きっと聞くはずだ。二年生には、体育祭の実行委員会の俺からきちんと話すから」

北沼に背を向けて立っていた上崎は、振り返って言った。

「北沼さん。急用ができました。これで失礼します」

そして、頭を下げると、彼は校舎に向かった。

その姿を裏庭にいる生徒が見送った。上崎は颯爽と走り去った。


北沼は再びベンチに座っていた。

『心配しなくても良かった。俺は、とっくにお役御免だった。でも、事実上のリーダーなんて、本当は、実体なんてない。別に仕事もない。生徒会長とは違う。だから、体育祭のことで奔走する必要もない。俺と同じようにしろなどという要求に応える必要もなかった。上崎。みんなに支持されたかったのか? でも、みんなに注目されて、喜んでいられるのは、最初だけだぞ』

彼がそんなことを考えていると、隣に座る久須原が言った。

「上崎は北沼に勝って北沼と同じことをしている気がするんだ。そうだとしたら、何故だろう? 僕には分からない」

北沼は、もう一度、考えた。

『上崎に負けて良かった。素直にそう思っていた。でも、本当にこれで良かったのだろうか? 俺は歯科医になる覚悟もできた。周囲との人間関係にも決着がつけられた。全部、上崎のお陰だと言っていい。でも、上崎は、俺に代わって、俺がやっていたリーダー役を引き受けた。みんなに支持されたかったとはいえ、あまりにも割が合わない気がする』

しばらくして、北沼は呟いた。

「上崎の、定めなのかもしれない」

「定め?」と久須原が不思議な顔をして北沼を見た。

「あいつは、どうしても、俺と喧嘩をしなければならなかった。そこには抗いようのない何かがあった。それが、あいつの定めなのかもしれない……」


北沼は教室に戻るため、裏庭から校舎に向かって歩いていた。昼休みの終了間際、他の生徒も校舎に向かっていた。彼は誰もいなくなった裏庭を振り返った。颯爽と走り去った上崎の姿が思い浮かんだ。北沼は、わずかに後ろめたさを感じた。彼は、『こうなる定めだったんだ』と自分に言い聞かせた。だが、その後ろめたさは、長く彼の心に、小さな黒い染みのように残った。



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定め 三上芳紀(みかみよしき) @packman12

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