定め

母に言われたことを守らず、北沼は散歩に出てから、夕方まで帰らなかった。家に早く戻っても、父の仕事が終わるのは遅い。診察時間が七時まで。それから、その日の最後の患者を診て、全部終わるのは八時になる。北沼は早く帰っても、父の話を聞くまで、丸一日近く待っていることになる。だから、夕方まで帰らなかった。少し歩いたところにある図書館に行った。半月寝込んでいたので、体力が落ちている。体力作りのために歩くことにした。それから、本を読んで帰宅するつもりだった。しかし、歩いてみると思ったより疲れた。図書館で、本を読んでいたら、知らない間に、机に突っ伏して寝ていた。昼前から昼過ぎまで長い時間寝ていた。まだ本調子ではないことを自覚した。空いていたこともあってか、図書館の職員には何も言われなかった。図書館を出て遅い昼食を済ませると、街をぶらぶらした。古着屋を回ったりして時間を過ごした。そして、六時過ぎに帰った。


裏の出入り口から家に入ると、いつもは暗い家の中に灯りがついていた。居間に行くと、青く染められた革張りのソファーに父の昌次が一人で座っていた。北沼はテーブルを挟んで向かいにあるソファーに座った。

「父さん。歯科医院はもう終わったの?」

「今日は患者が少ないから、もう閉めた。それより、お前に話したいことがあって待っていたんだ。少し調子が良くなったって母さんから聞いたよ」

「母さんは?」

「用事で出かけた」

北沼のために母と相談して、あらかじめ準備をして待っていたのがすぐに分かった。父は嘘をつくのが苦手だった。

父は言った。

「養一。下級生と喧嘩をしたそうだな。次の日に担任の先生が心配して家に様子を見に来た。その時、私のほうから、しばらく学校を休ませて、家で面倒を見ますと言った。担任の先生も了解してくれた。だから、学校のことは心配しなくていい」

「ありがとう」

北沼は言った。

彼が学校を休み始めてから、両親はこれまで学校のことに触れなかった。父の言葉に接して、その気遣いに改めて感謝した。

北沼は父に言った。

「実は、僕は寝込んでいる間に気づいたことがあるんだ。父さんの話の前に、そのことを話してもいいかな?」

父は、「是非、聞かせてくれ」と言った。


北沼は話した。

「周囲の期待に応え続ける日々」「歯科医院を継ぐ期待に応えるための人生」。二つのことは、次元の違うことのように思われるかもしれない。でも、自分にとっては、同じなのだ。何故なら、他者の期待に応えるためだけに生きている。そう自分には思えてしまうからだ。そうではなくて、自分の考えに基づいた主体性のある人生を生きたいのだ。北沼は、切実に自らの思いを父に話した。この時、彼は、「要求」ではなく「期待」という言葉を使った。彼なりの父への配慮だった。


北沼は、父にこれほど自分の思いを語ったことは初めてだった。父は北沼がそれだけ深刻な思いでいることを知った。父は言った。

「養一が、子どもの頃から、優等生であるように周りから求められていることは気づいていた。ただ、実際のお前から極端に離れた人物像を求められているとは思わなかった。だから、そのままにしていた。でも、そんなに負担になっていたとは気づかなかった。すまなかった」

そこで、父は少しの間黙った。それから、再び話し始めた。

それは、父が大学で研究をしていた時分の話だった。北沼が生まれる前のことだった。父は普段から大学にいた時の話をしない。そのため、北沼が初めて聞くことばかりだった。


北沼昌次は、『北沼歯科医院』開業者北沼重和の一人息子に生まれた。昌次は歯科医になり、歯科医院を継ぐことが生まれた時から定められていた。北沼養一と同じだった。また、その定めに従うことに抵抗を感じていた。この点も養一と同じだった。昌次は、私大の歯学部に進んだ。昌次は歯科医師国家試験を合格し、歯科医の免許を取得してから、歯科医院の跡を継ぐことに抵抗を始めた。大学に研究者として残った。臨床で歯科治療に従事すると、父から、それなら、早く歯科医院に帰って来て、医院の患者を治療しろと言われることが分かっていた。だから、研究者として大学に残った。その通り、度々、父から早く帰るよう催促があった。しかし、研究が忙しいと昌次は逃げた。そんな風にして歳月が流れ、昌次が大学で研究を続けていたある日、大きな出来事があった。昌次が所属していた口腔病理学の研究室で教授選が行われることになったのだ。教授が病気により定年退官前に大学を辞めることになり、教授選が前倒しで実施されることになった。北沼昌次が師事していたA助教授は、教授からの信頼も厚く、次期教授が確実視されていた。昌次は、そのA助教授から頼りにされている存在だった。彼は、ただ『北沼歯科医院』の跡を継ぐことから逃げたいだけで大学に残った。特別に自分が研究者に向いているとも思っていなかった。だが、教授選が行われることになり、考えが変わった。生涯、研究者の道を歩もうと思うようになった。そう思わせるだけの状況の変化があった。歯学部の人間は、昌次のことを、将来の助教授、気の早いものは、将来の教授として見るようになった。ちやほやするもの、おべっかを使うものが現れた。昌次は、阿諛追従と知りつつも、乗せられた。父重和から逃げるためだけに大学で研究に従事していた。それが、この場所こそ、自分が生きるべき場所なのだと思うようになった。見える景色も変わった。果てしなく続く未来が見えた。


教授選が行われた。A助教授を圧倒的な得票差で引き離しB助教授が勝った。惨敗したA助教授を始め、事情を知らない歯学部の人間は、皆、驚いた。確かに、B助教授は研究の実績ではA助教授に及ばない人物だった。しかし、B助教授には、広い人脈があった。根回しも上手いし、彼の人脈の中には大学内外での有力者もいた。教授選後、そのことを知った北沼昌次は、そんなことで教授が、B助教授に決まったのかと強い疑問を感じた。だが、人脈を広げるとは、他大学や他の研究機関との連携を広げることでもあり、教授にとって大切な能力だった。対して、A助教授は、以前から、井の中の蛙という面があることは否めなかった。そして、教授選の常というべきか、敗れたA助教授は、大学を辞めることになった。また、A助教授の側の人間の中でも、側近の一人であった北沼昌次とその他の何人かは、大学を辞めなければならなくなった。A助教授は、公立の大きな歯科診療センターのセンター長に就任した。その他のものは、それぞれ一般の歯科医院に就職した。北沼昌次も、歯科医院に就職しようとした。しかし、他のものと彼は決定的に違った。他のものは、研究に加えて、大学の附属病院で、歯科医として、患者の治療を、週に何度か行っていた。だが、昌次は臨床をほとんどしていなかった。臨床の腕が上がると、『北沼歯科医院』を継がされる可能性が高くなると考え、意図的に避けてきたのだ。その結果、どこの歯科医院の採用面接を受けても、治療経験のないことを理由に落とされた。


ある日、昌次の下宿に父重和から電話があった。父は帰って来いと言った。父は事情を全て知っていた。

「治療のできない歯医者を雇う歯科医院はない。当然だ。私が教えるから、一から学びなさい」


北沼昌次は、『北沼歯科医院』で、父の下、歯科医としての修業をした。次期助教授、次期教授の夢、わずかな間だったが華やかな日々、それらが、全て消えた。そして、どこにも行くところが無くなって、生家の小さな歯科医院に帰って来た。でも、北沼昌次は、心のどこかで、いつか必ずここに帰って来ると思っていた。逃げるために大学に残ったが、それでも、必ず、帰って来ると思っていた。そして、父の下で修業をする日々の中、ふと、これが「定め」なのだと思った。彼は、A助教授が教授選に敗れた時、心のどこかでほっとした自分を思い出していた。


父の長い話が終わった。北沼養一は一つだけ尋ねた。

「遠くまで行って帰って来て、初めて身近な幸せに気づく。それって、メーテルリンクの『青い鳥』みたいな感じ?」

父は言った。

「あれは童話だ。帰って来たからって幸せだとは限らない。それでも、帰って来なければならなかったということかな」

北沼には、父の言いたいことが分かった。

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