決闘2

久須原洋史のいる場所から見ると、北沼養一は左側に、上崎賢勝は右側に立っていた。不思議なことに誰も二人を止めなかった。北沼が、ネクタイを外して投げ捨てた。上崎も、ネクタイを外して投げ捨てた。決闘の始まりだった。上崎は、一番上までとめているシャツの襟元のボタンを右手で外した。北沼は、その間、猶予を与えた。彼は紳士的だった。だが、それに反して、上崎は汚い手を使った。ボタンを外した上崎は、素早くその手を拳に変えて、北沼の左の頬を殴った。最初から不意打ちを狙っていたのだ。北沼は思わずふらついた。久須原は、人が人を殴るところを、この時、初めて見た。野蛮だと思った。同時に、何故か、胸が高鳴った。


「上崎。汚いぞ!」

見ている生徒から声がした。

上崎はその声を無視して、再び、北沼を殴ろうとした。だが、その前に、北沼の右の拳が上崎の左の頬に当たった。

わっと歓声が上がった。歓声の意味は、卑怯な上崎に反撃したことへの称賛ではなかった。大多数の生徒が北沼を応援していることを意味していた。その意味を上崎はすぐに解した。そして、北沼に対するコンプレックスに、更に、火がついた。


上崎は、確かに汚い手を使った。だが、そのことは、彼が、北沼との決闘に何としても勝つという強い執念の現れでもあった。その意味において、上崎賢勝には、決闘の大義名分があった。それは、「打倒北沼養一」だった。対して、北沼養一には、大義名分は無かった。迂闊にも上崎の挑発に乗っただけだった。それでも、北沼は、最初のダーティーな一発を食らって、すぐに反撃した。そこで、皆が歓声を上げた。彼は歓声を上げた生徒に笑顔を見せた。ファンサービスの意味だった。彼は自分の立場を自覚していた。気が緩んで笑ったわけではなかった。しかし、この時の上崎は必死だった。北沼が応援する生徒に笑顔を見せたのは、ほんの一瞬だった。だが、その一瞬を上崎は見逃さなかった。上崎は隙のできた北沼の左の頬に右の拳で強烈な一撃を加えた。コーンという乾いた音がした。上崎の拳の骨が、皮膚を通して北沼の頬骨に命中した音だった。打楽器が鳴り響いたような音がした。そして、北沼が、どさりと倒れた。北沼は気を失っていた。生徒は、北沼の姿を見て、戸惑った。北沼は負けてはならない存在だった。あってはならないことが起こった。皆、見てはならないものを見てしまったように、慌てて、その場から立ち去った。


上崎賢勝は、投げ捨てたネクタイを拾うと颯爽と帰っていった。

久須原と他数人の生徒が残った。北沼は目を覚ました。左の頬が少し赤くなっていた。

「左の頬が、そのうち腫れてくるかもしれない。口の中も切れている。このまま帰るよ」

彼は立ち上がると、そう言った。そして、教室に荷物を取りに行かず、そのまま帰った。

「みっともなくって、教室に行けないよな」

彼を見送る中の一人が言った。

北沼は裏門から出て行った。姿はすぐに見えなくなった。その時、五限目のチャイムが鳴った。久須原たちは、慌てて教室に戻った。校舎の裏庭には、北沼が投げ捨てたネクタイがあった。彼は拾い忘れて帰ってしまった。赤いストライプのネクタイだった。


久須原洋史は、その日の夜、ベッドに横になっても、目が冴えて眠れなかった。北沼が倒れた時の光景が目を閉じるたびに浮かんできた。コーンという骨の音が、彼の耳の奥でずっと鳴り響いていた。


翌日から、北沼養一は学校に来なくなった。彼と仲の良い同級生は心配した。久須原もその一人だった。しかし、他の生徒は、北沼のことには一切触れないか、悪口を言うかに分かれた。心配するものはいなかった。ただ、両者に共通することとして、北沼への失望感があった。久須原は、その気持ちは分かった。でも、それが、北沼をタブー視することや、悪口を言うことに繋がるのは違うと思った。

「期待しすぎなんだ」

久須原は、休み時間に教室にいるクラスメイトを見ながら呟いた。


北沼養一のショックは大きかった。彼は半月寝込んだ。当初は、喧嘩に負けたことが恥ずかしかった。もう二度と学校に行けないとさえ思った。そして、ずっとベッドに横たわっていた。ほとんど食事も取らなかった。自尊心を叩き潰されたと彼は布団の中で嗚咽した。しかし、日が過ぎるにつれて、自分の中に別の気持ちが生まれた。それは、これまでとは正反対の気持ちだった。『上崎に負けて良かった』というものだった。北沼は半月という時日をかけて、自分の本心に辿り着いた。


北沼は、喧嘩の最中に、ファンサービスをしなければならないほど、窮屈な生き方をしている。そして、彼はその生き方に随分前から限界を感じていた。北沼は、上崎に負けて楽になった。もう誰からも期待されることはない。自分は自由になったと思った。


『俺から望んだことじゃない。子どもの頃から、そうだった。学級委員長、部活のキャプテン、その他、長と名のつくものは全てやらされた。誰かが推薦して全員が賛成した。羨ましがる奴もいたけど、義務感でやっていただけだ。そして、ある時期から、俺に人としてパーフェクトな存在を期待する奴らが出てきた。だから、俺は喧嘩の最中に、ファンサービスまでしなければならなくなった。その結果、上崎に打ちのめされたんだから間の抜けた話だ。でも、これで終わった。俺は自由になった』


『だが、もっと重要なことがある。それは、歯科医になることだ。俺は、生まれた家が歯科医院というだけで、歯科医にならなければならない。これこそが、俺が望んだことじゃない』


半月を経て、彼は、自分が悩んでいることがはっきりした。周囲の要求に応えること。そして、歯科医になりたくないことだった。彼は、双方の中に、他者から要求を強いられる苦痛という共通点を見出した。でも、そのことを、今、両親に話すことは躊躇われた。父も母も、彼が学校を休んでいることを心配している。何も訊かず、そっとしておいてくれることから、かえって、両親が気に病んでいることが伝わってくる。北沼は、自分の部屋にある時計を見た。午前十時を過ぎていた。


午前中、歯科医院は忙しい。父は患者の歯の治療をしている。母は事務の仕事をしている。医院の後ろにある自宅には彼以外誰もいない。北沼は、寝巻き姿のまま自分の部屋を出た。シャワーを浴びて、髭を剃り、髪を整えた。着替えを済ますと、気分も少し良くなった。彼は、そのまま散歩に出かけようとした。外の空気を吸いたかった。しかし、何も言わず外出すると両親が心配すると思った。歯科医院に行って、そのことを、直接、両親に伝えようと思った。自宅と医院は渡り廊下で繋がっている。北沼が廊下を渡って医院の裏のドアを開けると、そのまま事務所の中に通じた。机についてパソコンに向かっていた母が、急に現れた彼を見て驚いた。他の事務員も、北沼の様子を見ていた。皆、彼が寝込んでいることを知っていた。

「散歩に行って来るよ。体調は悪くないから、心配しないで」

北沼は母以外の事務員にも聞こえるように言った。

「あまり遠くまで行かないようにしなさい。それと、お父さんが、養一に話したいことがあるそうよ。あなたが起きてきたら、伝えるように言われてたの。診察が終わってから。いいわね?」

母がそう言った。

北沼は、「分かった」と言って事務所を出た。そして、自宅の裏の出入り口から外に出た。半月寝込んでいる間に、九月も半ばを過ぎていた。秋の空気になっていた。彼は気持ちよく散歩をした。散歩をしながら、父の話とは何だろうと思った。




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