定め
三上芳紀(みかみよしき)
決闘
久須原洋史は、ちょうど、ひと月前のあの日のことを思い出していた。あの日とは、初めて、人が殴り合うのを見た日のことだった。夏休み明けの九月の初めのことだった。喧嘩というより、一対一の決闘というべきものだった。場所は、彼が通っているD高校の裏庭だった。昼休みの出来事だった。一人は久須原の同級生の北沼養一だった。背が高く整った顔立ちをしていた。彼はスポーツ万能で成績も優秀だった。非の打ち所がない彼は、三年生からも一目を置かれ、D高校のリーダー的な存在だった。北沼と喧嘩をしたのは、上崎賢勝という下級生だった。上崎も成績優秀な生徒だった。彼は入学した当初から、北沼に強いライバル心を抱いてきた。度々、北沼を挑発してきた。そして、あの日、遂に二人は喧嘩になった。
この日も、久須原は、学校から帰ってきて、何度も自分のスマートフォンから北沼にメールを送った。電話もした。だが、返事はなかった。彼は今日も学校を休んだ。
『喧嘩に負けたのが恥ずかしいんだ。でも、このまま学校を休んでいてはいけない』
久須原は、そう思いながら、あの日の“決闘”を思い出していた。
上崎賢勝には、人一倍強い自負心があった。自分は誰よりも頭がいい。身体能力も高い。全ての面において、誰よりも優れている。そして、それを決めている基準はあくまでも彼の主観だった。自己中心的であり、そこに自惚れと青春があった。その上崎の自己中心的な基準に従っても、全ての点で自分を上回っていると思わざるを得なかった人物が、たった一人いた。それが、北沼養一だった。
上崎には、北沼のような爽やかな笑顔はない。端正な顔立ちも、背の高さも、脚の長さもない。上崎は、がっしりとした筋肉質な体をしていたが、背は高くなかった。彼の重心の低い体は颯爽とはしていなかった。顔も岩のようにゴツゴツとしていた。力強くはあったが、美的ではなかった。
それでも、勉強も運動もよくできた上崎は、ずっと周囲から一目を置かれてきた。その彼が、高校に入って北沼養一の存在を知った時、自らが拠って立つ自負心、そして、自尊心が大きく揺らいだ。上崎は、血の気の多い若者でもあった。自らの存在意義を守るための手段として、暴力に訴えることを思いついた。
「あいつを打ちのめして、俺のほうが上だと思い知らせてやる」
短絡的だが、明快な発想だった。
久須原洋史は、マンションのリビングで、冷蔵庫から出してきたオレンジジュースをグラスに注いで飲んだ。クッキーも食べた。ソファーにクッキーの食べかすがこぼれた。久須原は、オレンジジュースをもう一度飲んだ。そして、あの日のことをまた考えた。
夏休みが明けて一週間が過ぎた日のことだった。
昼休みに、北沼も久須原も校舎の裏庭に出ていた。校舎の表は広いグラウンドになっている。休み時間には、生徒は、裏庭のベンチに座って話をする。久須原は北沼の座っているベンチから少し離れたところに座っていた。北沼は他の友だちと話をしていた。彼は夏休みに海に行った時の日焼けがまだ残っていた。精悍な感じがした。何人かの女子生徒が彼を見て話をしていた。彼は女子生徒に人気があった。夏休みが終わり、また学校生活が始まったことを実感させる平和な昼休みだった。
その時、裏庭に上崎賢勝が入ってきた。夏は暑いので、生徒は、皆、制服のネクタイを緩めて、半袖シャツの襟元のボタンも外している。だが、上崎はいつもシャツのボタンを一番上までとめて、ネクタイもきちんと締めている。それが、彼の意志の強さを表しているように思われた。そして、見るものに常に一定の緊張感を与えた。上崎は校舎の裏の出入り口から姿を現し、そのまま北沼のほうに向かった。その場にいた生徒全員に緊張が走った。
上崎はベンチに座る北沼の前に立った。
「高校二年の夏休みに、呑気に海水浴に行ってる奴が、歯医者になれるのか? 親父さんも、とんだ跡取り息子に恵まれたもんだな」
上崎が言った通り、北沼の家は彼の祖父の代からの歯科医だった。
そして、これも上崎が言った通り、彼は父の跡を継ぐべく歯科医になる。
北沼が立ち上がって怒鳴った。
「うるさい! 海に行ったぐらいで、俺は歯学部受験で失敗しない! 上崎。俺のやることに、いちいちケチをつけるな!」
北沼は、家業のことと、歯学部受験のことを上崎に言われると、ひどく怒った。上崎は、その理由は分からなかった。しかし、そのことを言えば、北沼が怒ることに気づいてから、意識的に言うようにしていた。実際に効果的な挑発になった。久須原は、北沼が何故、怒るかの理由を知っていた。以前、彼から直接聞いた。
北沼養一は、『北沼歯科医院』の一人息子だった。必ず、跡を取らなければならないことが、生まれた時から定められていた。そのため、彼は子どもの頃から、一生懸命に勉強した。D高校に入ってからも、必死で勉強している。でも、彼は、本当は歯科医になりたくなかった。定めに従っていただけだった。ただ、自分が本当にしたいことも分からなかった。もし、それが分かっていたら、父と母に、自分は本当はこれがしたい。だから、歯科医は継げないと言えた。でも、分からないから、このまま歯科医になるしかない状況にあった。そして、その状況は刻々と歯科大へ、そして、歯科医へと近づきつつあった。人前では笑顔を絶やさない北沼だったが、内心、どうしようもない焦りを感じていた。
久須原は、そのことを知っていた。でも、知っている彼でさえ、この時の北沼の怒り方には、危険なものを感じた。北沼は立ち上がった。彼は上崎より随分と背が高かった。北沼の怒りの原因は、二学期に入ったことで、更に、歯科医の現実が迫ったことへの焦りだった。夏休みの終わりに気分転換に海水浴に行ったが、何の意味もなさなかった。そんな焦りや苛立ちが、上崎の挑発により、爆発したのだった。しかし、久須原にも、上崎にも、彼の事情は分からなかった。久須原は危険を感じ、上崎は、ようやく本気で北沼を怒らせることができたと思った。そして、今日しかチャンスはないと上崎は覚悟を決めた。
北沼養一はベンチから前に離れ立ち止まった。上崎賢勝はその分だけ後ろへ下がった。二人は対峙した。校舎の裏庭に急に人が集まった。
「決闘だ」
久須原洋史は呟いた。
しかし、決闘には、本来、当事者に共通の大義名分が必要だ。「殺された父の恨みを晴らすとか、家の名誉を回復する」など。北沼と上崎を見ながら、そういう大義名分は二人には無いと久須原は思った。でも、この劇的な状況は喧嘩というより決闘というに相応しいと思った。
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