心にダイヤモンド

香久山 ゆみ

心にダイヤモンド

 想い合った恋人がいた。私たちは、愛し合っていた。

 けれど、自分たちの想いだけではどうにもならない時代だった。貧しかったから。

 資産家の男に求められ、嫁ぐことになった。拒否するなんてできなかった。

「愛してる。離ればなれになっても、ずっと。君のことを見守っているよ」

 恋人はそう言って、私たちは別れた。

 求められての結婚だったから、愛はなくとも、裕福で幸せな生活を送れると思っていた。しかし、違った。資産家の男は、結婚して間もなく、私につらく当たるようになった。まるでゴミのようだと私の持ち物を捨て、ろくな教育を受けられなかった私を罵った。

 毎日続くつらい仕打ち。けれど、逃げる術がなかった。私には何もないから。ここを逃げ出したところで、野垂れ死ぬのが関の山だ。

 ある日、郵便受けの中に、こぶしほどの大きさの石が入っていた。「どうせ誰かのいたずらだ。捨てておけ」と夫は言った。けれど、ちがう。私には分かる。彼だ。

 このずしりとした重み。これはダイヤモンドの原石だ。ああ、恋人だった彼が、私のためにくれたのだ。ずっと見守ると言ってくれた。

 彼の石を手に、私は家から逃げ出した。

 このダイヤモンドを換金すれば、当座の生活は何とかなるだろう。けれど、それ以上に、私のことを見守ってくれる人がいるということが、温かく心強かった。もちろん、なるべくなら、彼の贈り物を手放すつもりはない。着の身着のままで町に出て、自分の居場所を探した。

 しかし、探せど探せど、職は見つからない。

 途方なく歩く私の足元に、ひらりと、風が一枚の紙切れを運んだ。それを拾い上げる。求人のチラシ。洋裁の仕事、給金はよくはないが、住み込みで働けるという。

 私は天を仰いだ。彼だ。ぎゅっとチラシを胸に抱いた。

 仕事にありつけた私は、一生懸命に働いた。昼も夜もなく、目が回るような忙しさだったが、働くほどに技術が身に付くのが嬉しかったし、なにより真面目な私は必要とされていた。充実した毎日。

 数年して、やっとまとまった蓄えができた時、私には夢があった。独立して、自分の店を持とうと思った。

 しかし、そんな折、強盗に遭った。

 深夜、物音に目を覚ますと、部屋の中に黒ずくめの男がいた。強盗。恐ろしくて声も出ない。

 強盗は屋根裏から、鞄に入った私の全財産を見つけ出し、ずらかろうとするところだった。窓に足を掛けた拍子に、置いてあった石がコトンと転がった。

「あ」

 思わず声を上げた私に、強盗が振り返った。

「その石だけは、」

とっさに声を振り絞ると、強盗は転がった石を拾って訊ねた。

「これがなんだってんだ?」

「それは、大切な人から貰ったものなんです。ダイヤモンドの原石……」

 言うと、強盗の目が、闇夜にぎらりと光った。「ならば、こんな端金なんかより、こちらをいただこう」、そう言って、私の財産の入った鞄を投げよこし、ダイヤモンド一つ持って暗闇に逃げていった。私は、また彼に助けられた。

 その後も、私が自分の店のために物件を探していると、見知らぬマダムに口利きしていただいたり。困難に出くわすたびに、彼に助けられた。


「……そうして、今に至るのよ」

 喋りすぎた唇を紅茶で潤し、顔を上げる。使用人の娘が大きな耳ときらきらした目をこちらに向けている。嫁いだ時の私と同じくらいの、まだ若い少女。無垢の目で、躊躇いがちに尋ねる。

「でも、奥様は本当に信じていらっしゃるのですか? その、……彼、のことを」

 私はふっと笑って首を振る。

「まさか。彼は、私が資産家に嫁いですぐに、別の女と結婚したのよ。それに、信じるくらい純粋だったなら、私はきっと夫のもとから逃げなかった」

「なぜです?」

「だって、今にして思えば、夫はいい人だったもの。無知な私をしつけてくれた。教育を受けさせてくれた。そして、家から逃げた私を連れ戻さなかった」

「なのに、奥様は逃げ出したのですか?」

 彼女が首を傾げる。私はそっと少女の髪に触れる。骨ばった指で。ああ、ずいぶん年を取ってしまった。

「若かったのよ。愛とはただ甘いものだと疑わず、頑なだった。それに、」

「それに?」

「ふふ、信じたかったのよ、自分自身の可能性を。だから、恋人がくれた原石に託けて、飛び出した。……だから、あなたも信念のもとに出て行ってもいいのよ。教師になりたいそうじゃないの」

「そんな」

 ぱっと顔を赤らめた少女に微笑み掛ける。

「けれど、その時には言ってちょうだいね。支援は惜しまないつもりよ。夫も子もない私にとって、あなたは娘みたいな存在だもの」

 少女は涙ぐんだ眼差しを向け、薔薇の蕾のような唇をふとつぐみ、そうしてゆっくりと開いた。

「……旦那様も同じお気持ちだったのでしょうか」

「え?」

「奥様の、元の旦那様です。奥様にお仕事や、独立する店の物件を見つけてくださったり、……旦那様ではなかったのでしょうか」

「まさか」

「知人の話では、旦那様は愛する奥方を失って以来、ずっとお独りでいらっしゃるそうですよ。……出過ぎた真似をして申し訳ございません」

 俯いた少女の頬はさっと青ざめている。どれだけの勇気を振り絞って。本当に利口で優しい子だこと。そう言ってやりたかったが、胸が詰まって言葉にならなかった。

 私の震える手に気づいた少女が、また顔を上げる。大きく輝く目を向けて。

「ダイヤモンドの原石は、磨かれて磨かれて、そうしてやっと美しく輝くのですよ」

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