エピローグ いま、もういちど2

 グラスに口をつけ、濃い赤ワインを仰ぐ。

 喉が一瞬ぴりっとしたかと思うと、たちまち口の中にほどよい酸味と渋みが広がっていく。


 おいしい……!


 ワインは食わず嫌いしていたけど、こんなに美味しいなんて思わなかった。


「このワイン、すごく美味しいです」


 ありのままの感想を告げると、和也くんは「よかった」と喜色満面の笑みを浮かべた。


「本当に美味しかったんですね。諏訪さん、今まで見たことないくらいうっとりした顔してましたよ」


 彼の指摘に「え?!」と思わず声が出てしまう。そんなに分かりやすい表情してたのだろうか……。そう考えるだけで顔が熱くなってきた。


「やだ、恥ずかしい。あんまり見ないでください」


「すっ、すみません。いつも諏訪さんの真面目な顔しか見ていなかったので」


「そんなに私って真面目な顔しかしてなかったですか?」


「お仕事の最中でしょうから……まあ、そうですね」


 ついこの前、悠に「真面目顔怖い。怒ってるみたい」って注意されたばかりだったはず。ということは、私って施設の人たちにいつも怒ってると思われてたのだろうか。


 なるべく笑顔を心がけていたつもりだったのだけど、もう少し気をつけないとな。


 と、和也くんが唐突に笑って「諏訪さんは良い人です」と言った。


「それって面白がって言ってるんですか?」


「気分を悪くしたらすみません。でも、本当にそう思ったんです」


 持っていたグラスをそっとテーブルに置き、和也くんは私をじっと見据えた。

 その姿は緊張しているのが分かるくらいおどおどしているはずなのに、瞳に映る彼の鋭い光だけは堂々と輝きを放っていた。


「このワイン、実は祖母の思い出のワインなんです」


「雅代さんの、ですか?」


「はい。それを今日、どうしても諏訪さんにプレゼントしたかったんです。祖母と、そして僕からのお礼として」


「そんな、お礼だなんて。私は何も……」


和也くんは小さく首を横に振った。


「諏訪さんは仕事以上のことをしてくれました。だからきっと、婆ちゃんは笑って上に逝けたんだと思うんです」



 雅代さんの容態が急変したのは今年の四月のことだった。


 長い冬が終わりを告げ、すっかり春の訪れを感じられる陽気になっていた。

 温かな春の日差しを受けながら、雅代さんは、静かに息を引き取った。


 亡くなる前日まで、雅代さんはいつもと変わらない様子だった。私を含む職員やお見舞いに来ていた和也くんとしっかり会話をしていたし、特別体調を崩している様子はなかった。


 でも、今でも時々考えてしまうのだ。


 あの時にはもう、雅代さんの体に異変が起こってたんじゃないか。

 もっと早く気づく事ができれば、と。



「いえ、私は本当に何もできなかったんです。雅代さんをただ、見守ることしか……」


「そんなことないです!」


 とみに和也くんが声を荒らげる。が、周りの客たちから非難の視線を一身に受けているのが分かると、そっと座り直して大きく咳払いをする。


「すみません。でも、婆ちゃんも自分が亡くなる事を分かってたんじゃないかと思うんです。みんながお迎えに来てるとか、黒い服の人がいるとか。部屋の中、僕以外に誰もいないはずだったんですけど」


「はあ」


「それに……僕に……とか言うし……」


「あの、今なんて?」


「ああいや、その。とにかく諏訪さんは自分を責めないでください。前に言ってたじゃないですか。僕が落ち込んでた時に『あんまりくよくよしてると雅代さんに分かっちゃいますよ』とか励ましてくれたの。結構諏訪さんに励まされてたんですよ、僕」


「そう、でしたっけ?」


「そうです。それに、僕だけじゃなくて婆ちゃんもきっと、諏訪さんの一言一言に励まされて、たくさん救われたと思います」


 自分の言った言葉なんてもう覚えていないけど、その一つ一つが和也くんを励ましていたんだ。おそらく、雅代さんも。

 ああ、確かにそうだったのかもしれない。

 なぜなら、私も今の和也くんのひと言に救われた気がするのだ。


「ありがとう」


誰にも聞こえないほどの小さな声で、大きな感謝の気持ちをそっと呟いた。




 会話が盛り上がったあとの沈黙は少し気まずい。


 そういえば、私と和也くんの間って雅代さんのことしかない。施設ではあんなに動く口も、今は固く結ばれてしまっている。


 ちらりと和也くんを見ると、ワインのアルコールが回っているせいか頬がほんのり赤くなっているのが分かる。

 どうしよう、酔っているのか頭がぽーっとして上手く話題が思いつかない。


「あ、あのっ」


「失礼致します。サーロインローストビーフをお持ち致しました」


 和也くんが何かを私に差し出した、まさにその時だった。

 またもや絶妙なタイミングで、先程と同じ店員がローストビーフを運んできた。さすがに和也くんも二回目となると睨みつけるようなことはせず、その代わりに「はは……」と苦笑いを浮かべ、その何かを持った手を静かに引っ込めた。

 それには私もつられて苦笑してしまう。


「あの店員さん。わざとなのかしら?」


「かもしれないですね。そ、それよりコレなんですけど」


 改めて私の前にすっと差し出された物……それはネイビーの小箱のようだった。「開けてください」と和也くんに促され、その蓋をそっと開ける。

 するとそこには……天使を象ったシルバーのネックレスが納められていた。


「あの、今日来て頂いたのは、祖母が本当にお世話になったことへのお礼がほとんどです。でも、それだけじゃありません。祖母の、僕への遺言を果たすためでもあります」


 たしかに、今日和也くんは「諸々落ち着いてきたので、この間のお礼をしたい」と私をここへ招待してくれた。


 でも、まさか。

 これでは、まるで――。


 混乱する私の心を置き去りにして、和也くんは真剣な眼差しのまま話を続ける。

 その声は緊張しているのか声が震えているように思えた。


「祖母は、諏訪さんが大好きだったんです。あんなに自分を大事に思ってくれる他人は初めてだったと、いつも言っていました。でも、それは祖母だけじゃなくて僕もそう思ってたんです。記憶が曖昧になってみんな敬遠するような状態になった祖母を、諏訪さんは変わらずに接してくれた。それだけじゃなくて、孫の僕にも気遣ってくれた。そんな諏訪さんに、僕は惹かれていたんです」


 そうして一呼吸おいて、和也くんはその言葉を口にした。


「諏訪さん。どうか僕とお付き合いしてくれませんか」


 ああ、やっぱり。これは夢なのだろうか。


 頭が真っ白になって、急に胸が大きく脈打つ。

 彼のことを本当に好きかどうか、今はよく分からない。


 でも、彼に惹かれている自分がここにいる。

 彼の手を取れば自分の人生が大きく変わるような、そんな予感さえする。


 でも、たった一つの疑問が私を支配する。


――幸せになって、いいのだろうか。


 その疑問の答えは、未だに出せていない。


――もう、いいんだよ。


 ふと、頭の中にそんな言葉が響く。


 そっか、いま、分かった。

 あの日、あの子は私に選択のチャンスをくれたのかもしれない。


 このまま人生を終えるのか。

 それとも、もう一度人生をやり直すのか。


 そうしてあの子は、私に「生きて」と、もう一度生きるチャンスをくれた。


 それなら私は、あの子の分まで生きてみせよう。

 あの子の分まで精一杯幸せになってみせよう。


 もう一度会えたとき、堂々と胸を張って<お母さん>として迎えに行けるように。


「和也くん」


 おそるおそる真っ赤になった顔を上げた和也くんに、私は柔らかく微笑んだ。


「私を誰よりも幸せにしてくださいね」


 そのあと、和也くんがテーブルの料理をすべてひっくり返したのは、また別の話だ。

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幽霊家族~Ghost Family Life~ トヨタ理 @toyo_osm12

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