エピローグ いま、もういちど1


「――諏訪すわさん」


 誰かに呼びかけられてはっとなる。


「あの、大丈夫ですか」


 テーブルの対面には、男性――和也かずやくんが心配そうにこちらを覗き込んでいた。


 あれ、何で今、こんな高級そうなお店に和也くんと一緒にいるんだっけ。


 ああ、そうだ。

 そうだった。


 今日は和也くんに誘われて、それで……。


 こんな時に忘れて、あまつさえ考え事をしてしまうなんて、和也くんにすごく悪いことをしている。気を取り直して彼の方に向き直る。


「すみません。こういう高級なレストランに来たことなくて、緊張してるのかな」


「実は僕もなんです。今日が初めてです」


「え、そうなんですか? てっきり行き慣れてて誘ってくれたのかと……。こういうの聞いたら失礼かと思うんですけど、お金とか大丈夫ですか?」


「いっ、え、いやあ、いやあの。こういうお店には来たことないと言えばないんですが、僕こういうの慣れてるし大丈夫ですよ! ははは……。諏訪さんは気兼ねなくどーんと食べちゃってください!」


 と、まるで安い居酒屋で奢るときのようなノリで和也くんは言っているが、全く大丈夫そうには見えない。

 額から大量の汗が吹き出ているし、視線があちらこちらに動いて定まってない。

 これはあとで、彼のプライドが傷つかないように何かしらの形でこっそり援助したほうがいいかもしれない。


「あっ。そういえば諏訪さんのからだ」


「失礼致します。ご注文の食前酒をお持ち致しました」


 まさに絶妙のタイミングで店員が注文したシャンパンを運んできた。和也くんは決まりが悪そうに顔を真っ赤にして私からさっと目線を外した。

 それから、店員がシャンパンをグラスに注ぐ姿を睨め付けるように見ていたのだが、そんな和也くんに気づいているのかいないのか、店員は涼しい顔をして厨房へと戻っていった。


「で、私の体がなんですか?」


 こほんと大きく咳払いをして和也くんは私の目を見据えた。


「いや、その。もうお体の方は大丈夫ですか。一年前、すぐお仕事に復帰されていたと聞いていたもので」


「それならご心配に及びませんよ。今はこの通りピンピンしていますし、あれから特に体調は崩していませんから」


「そ、そうですか。それはよかった」


 あれから一年、か。


 なぜか赤面している和也くんからそっと目線を外して、一面を大きなガラスで作られた窓から外の景色を見た。このレストランがビルの一番上の階に位置しているからか、ここから都会の夜景が一望できる。

 暗闇の中でキラキラと輝いている建物の明かりは、といつかに見た一番星の思い出を、私の心の中に蘇らせた。






 一年前の五月、私は自宅のアパートで倒れ意識を失った。


 当時の記憶は今となっては曖昧なのだが、ただ頭が割れるように痛かったのだけは覚えている。


 ここからは、倒れた後になって周りに教えてもらったことだ。


 私が倒れた日の夜、職場の上司から私が無断欠勤していることを聞いた後輩のマイちゃんが、わざわざ私を心配してアパートを訪ねたらしい。


 マイちゃん曰く「センパイが無断欠勤なんて信じられませんでしたから」とのこと。

 実際、施錠されていなかったドア(鍵はいつもかけてるはずだったんだけど)を開けて入ってみると私が倒れていて、大慌てで救急車を呼んだという。


 それから、マイちゃんは私の着替えを持ってきてくれたり、私のアパートから奇跡的に見つけ出した実家の連絡先を辿って母さんに連絡を取ってくれたりといろいろと動いてくれたようだった。


 マイちゃんは母さんを呼んだことについて「マイ、余計な事しましたか?」と後になって聞かれた事がある。でも全然そうは思わない。


 だって、こうして私が生きているのも、母さんと今でも会って話せるようになるきっかけを作ってくれたのも、全部マイちゃんのおかげなのだから。


 救急車によって病院に緊急搬送されてから、私はおよそ三日間眠り続けていた。

 眠り続けていたというのは比喩ではなく、本当に眠っている状態だったらしい。


 担当の医者の話によれば、倒れたときに頭が痛くなったと言うわりには脳に異常もなく、他に外傷も全く見られなかったという。ただ、それでも危険だったことには変わりなく「このまま目を覚まさなければ生存は危うかった」とのことだ。



 そうして三日目経った夜、私は病院のベッドの上で目を覚ました。


 この時のことは今でもよく覚えている。

 なにせ白い壁が見えたと思った途端、マイちゃんやおじいちゃん、母さんに義父の一楼さん、さらに弟のハルカまでが次々に目に飛び込んできて「え、なに、どういうこと」とただただ狼狽えることしかできなかったのである。


 一同に会す事はなさそうなメンバーが偶然集まったのかというのを後に聞いたのだが、マイちゃんは母さんを呼んだあとずっと私に付きっきりで、母さんは一度家に戻って悠と一楼さんに事情を説明し、それから家にいるじいちゃんを連れて病院に来たという。

 そのタイミングで私が起きて……というわけらしかった。


 ただ、そんなことを当時の私が知る事はできず……考える暇もないくらいすぐに看護師さんがすっ飛んできて、いろいろ検査されて、意識が回復してから質問攻めにあってと、体験したことのないような怒濤の展開が一気に押し寄せた。


 そんな展開もようやく収束を見せ、一週間後には一般病棟に移ることになった。


 それで「やっと一息つけるかな」と思っていたら、今度はお見舞いに来たマイちゃんやおじいちゃんに怒鳴られて泣きつかれ、その平穏はあっという間になくなってしまった。おじいちゃんには「なんでもっと早く連絡しなかったのか」と、マイちゃんには「無茶しすぎです! センパイのばかぁっ!」と言われ続けた。


 これがほぼ毎日続いたときはさすがにうんざりしかけたけど、二人が私を思って怒鳴って泣いてくれている事を思うと、とても追い払うことなんてできなかった。

 母さんにいたっては来るたびに小言を垂れるくせに、帰るときには大泣きして帰っていった。


「美智子はずっと君のことを後悔していたんだよ」


 母さんが病室にいない時にこっそり一楼さんが教えてくれたことだが、最近になって勘当してしまったことを考えるようになっていたという。ただ、母さんなりのプライドがあったのか、一楼さんが「一度会いに行こう」と進言しても頑なに会いに行こうとはしなかったらしい。


「君からしたら美智子は親失格だろうし、あの頃君から逃げていた僕も同じだろう。今更親面するなど甚だしいことだ。だけど、今度こそやり直させてほしい。君とちゃんと向き合うチャンスを、僕たちにくれないだろうか」


 その一楼さんの問いに、私はまだ返事をしていない。


 私と母さんの間にある空白の十年間はどうやっても戻らないし、その十年間を簡単に忘れることもできない。

 だけど、あの子が私にそうしてくれたように、私もまた子供として向き合うべきなのかもしれないと、今なら思える。



 母さんたち以外にもいろんな人たちが私の元へお見舞いに来てくれた。


 会社の同僚や、高校の時の同級生たち。


 自分は孤独だったと勝手に思い込んで不貞腐れていただけで、自分はこんなたくさんの人たちに囲まれて生きてきた。

 それを実感する度に胸に熱いものがこみ上げてきてたくさん泣いてしまった。


 その度にお見舞いに来てくれた人たちを困らせてしまったけれど、今では良い思い出だ。



 ドタバタの入院生活から四ヶ月後、つまりは去年の九月。


 幸いにも勤めていた施設の社長が私の籍を残しておいてくれたおかげで、退院してすぐ職場に復帰することができた。

 その仕事始めの時にちょうど出会ったのが今目の前にいる彼――和也くんだ。


 私の働いている介護施設<なごやかホーム>は、主に高齢者のデイケアや、入所者の介護サービスを行っている。なごやかホームでの私の仕事は主に入所者の介護で、復帰後すぐ担当した入所者さん――雅代さんのお孫さんが、和也くんだった。


 和也くんと初めて会ったのは、私が復帰して数日経った頃。


 和也くんは雅代さんのお見舞いに来ていて、その日はほぼ会話を交わす事はなかったけど、和也くんが頻繁に会いに来るようになってからは自然に和也くんと話すことが多くなっていった。


「いい子でしょう。仕事が終わったらね、すぐ来てくれるのよ」


 和也くんが帰ると、雅代さんは目尻を下げながら決まってこの言葉を口にした。


 実際、私から見ても和也くんは好青年だった。

 私よりもおそらく五歳は若いだろうに、とても礼儀正しく、週二回の雅代さんのお見舞いを決して欠かす事はなかった。


 そして私は、お見舞いの時に垣間見える彼の慈愛に、少しずつ、そして密かに惹かれてしまったのだ。

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