Red rose
しとしとと、春の雨が降っていた。
日鞠がいなくなってから一年。一周忌の日に、遺骨がお墓に入れられた。
なんか、死んだ人みたいだなって思った。
みたい、じゃない。日鞠は、死んだんだ。もう二度と、会うことはない。
久しぶりにその事実と向き合って、『これで一区切り』と囁かれたような気がした。
一緒に来た楓奈は黙りこくったままで、なんだか感慨深げにお墓を見つめている。
「紫苑さん。私――」
なんとなく嫌な予感がした。
楓奈の目が、光を取り戻していたから。
「――私、次にここに来るのは、あと一年後にしようと思うんです」
あの日の昏い輝きは消え失せて、静かな決意を瞳の奥にたたえていたから。
あたしの瞳は、まだ濁ったままなのに。
「なんで……」
びっくりするほど弱々しい声が喉から漏れた。
「私は、前を向いて生きていきたい」
ざあっと雨の音が大きくなる。どれだけ雨風が強くても、楓奈は迷わず歩き出してしまいそうで。それが正しい生き方だって、いつまでも立ち止まっているべきじゃないって、あたしもわかっている。わかってるけど。
……ああ、やっぱり、あたしと楓奈は違う人間なのだ。
「なんでよ」
喉の奥から絞り出した声は、怒りに震えていた。
――そんな勝手に、悲しみを乗り越えたみたいな、思い出にするみたいな、忘れたような気にならないでよ!
あたしが馬鹿みたいじゃん!
あんたが一番、悲しむべきなんじゃないの!
「前なんか、向かないでよ! なんでそんな、一人でさ、もう大丈夫みたいな顔してんの。あたしはずっと苦しくて悲しくてたまらない! あんただって、苦しいんでしょ、悲しいんでしょ。前なんか向けるわけないよ。過去をずっと引きずって、日鞠のことだけ考えて、他のことは目に入らなくて、何も手につかなくて、そうやって、一緒に……っ。ねえ、あたしたちはそうやって生きていくしかないの……!」
むきだしの感情がぼろぼろと零れる。地獄へ道連れにするように、必死に暗闇に楓奈を引きずりこもうとした。
楓奈の目は冷たかった。手を伸ばしても届かないくらいに遠ざかってゆく。
ねえ、あたしたちって、似ているんじゃなかったの。
あんたならわかってくれるって、思ってたのに。
「……そんなもの、ただの自己満足ですよ。そんなこと日鞠さんは望んでないって……教えてくれたのは、あなたじゃないですか」
失望したように楓奈の顔がくしゃりと歪んだ。
わかってるよ。そんなの。
急にまともなこと言わないでよ。
あの日死のうとしてたやつがさ。
……あー、そっか。
あの日は、あたしがまともなことを言ったんだ。
「あたし、あんたと初めて会った日、死のうとしてたんだよ」
驚きで目が見開かれる。え、と呆けたように小さな声が漏れた。
「馬鹿だよね。自殺するほどの気力なんて無かったのに。まだ理性だって残ってて、死ぬより生きるほうが楽だなって気づいてたのに。あたしが死んだところで、何も意味はないって……
傘から手を離す。からからと傘が道に転がって、雨水が容赦なく体に降り注ぐ。冷たいとは思わなかった。「あは」ふと笑い声がした。一拍遅れて、あたしの声だったと気づく。
「紫苑さ」
「でも! ……そんなことは何も関係なかった。この世界はもう、たいして価値なんかないから。それだけで十分だと思わない? ……やっぱりあたしには、日鞠のいない世界を生きるのは無理だったんだよ。……あんたもきっと」
――あんたもきっと、同じだよね?
頭が真っ白になって、次の瞬間には、あたしは楓奈に馬乗りになって、その細い首に手をかけていた。
「――楓奈」
至近距離で楓奈と目が合う。
口元が醜く歪むのを感じる。
怪物でも見るように、怯えた目で見つめられた。
「――ねえ、あたしと一緒に死んでくれない?」
楓奈は苦しげに顔をしかめた。
あたしの手は震えて、力なんてほとんど入っていないのに。
……早くこの手を振り払って、あたしを正気に戻してよ。
お願いだから。
今度はあんたが、あたしを救って。
「私、だって」
楓奈の瞳に透明な膜が張って、決壊したように一気に溢れ出す。
――涙だった。
「――忘れられるわけ、ないんですよ!」
雨粒とともに、涙が頬に線を描く。
こいつも泣くんだって、思って――あたしは自分の勘違いに気づいた。
楓奈はあたしの知らないところで、いったいどれだけの涙を流してきたのだろう。
きっと、あたしには計り知れないほどの悲しみを抱えていた。平気なふりをしていただけだった。
だって、あんたは――。
「だって、私は、日鞠さんのことが好きだから……!」
その真っ直ぐさが矢となって、あたしの心に突き刺さる。
あたしたちは同じだと思ってた。
でも、あんたは違ったんだ。
ちゃんと日鞠に好きだって、一緒に生きようって言えたんだよね。
あたしは――大学生になって、社会人になって、会う頻度が減って、日鞠があんたと結婚しても……まあ、仕方ないよねって、半ば諦めていた。
……日鞠がいなくなるなんて、二度と会えなくなるなんて、考えもしなかった!
愚かなことに、ほどよい距離で、そこそこに付き合っていけばいいかなって思ってた!
素直に会いたいって言えばよかった。必死に繋ぎとめようとすればよかった。ちょっと遠くても、こうやって電車を乗り継いで、会いに行けばよかった。
好きだ、って……そんな風に言えればよかったのに。
「生きる理由をくれたあなたが、なんでそんなことを言うんですか……!」
ごめん。ごめんね。
失望されて当然。見限ってくれて良い。だけどあたしはもう――。
「……私が生きてくださいって言っても、だめですか」
「……」
なんてやつだ。
自分の首を締めた女に、生きてほしいと言えるなんて。
それと同時に、楓奈はそういう人間なんだと、奇妙に納得する自分もいた。
……なにしろ、日鞠が選んだ人なんだから。
「あは……なに、あたしのこと好きなの」
「命の恩人なので」
「……あんたじゃ日鞠の代わりにはなれない」
「知ってますよ、そんなの」
一瞬、雨の音だけが聞こえた。楓奈は首にかけられた手をそっと退けて、あたしの手を取って立ち上がる。道端に転がる傘を拾って、あたしに差し出した。
「あなたが死んでしまっても、日鞠さんはきっと悲しむと思います」
力の入らない手で傘を受け取りながら――日鞠はきっと、楓奈と一緒にいられて幸せだったんだなと、悔しいほどに実感した。
「……ありがと」
こんな最低なやつでごめん。
日鞠の隣に、楓奈がいてくれてよかった。
優しくて、思いやりがあって、お人好しで――本当にお似合いで、素敵な二人。
――あたしの負けだなぁ。
乾いた笑いが零れる。……あたしは親友のお墓の前で、酷いことをしてしまった。胸を張って親友だとは言えなかった。あたしが死んでも日鞠が悲しむはずだって、心からは信じられなくて――かっこ悪いってわかってるのに、愚図愚図して言い訳を並べた。
「……でも、あたしはもう、日鞠の親友じゃなかったんだよ。きっと日鞠だって……」
「――紫苑さん。もうひとつ、言っておくことがあります」
疲れ切った脳では何も考られなくて、あたしは適当に、なに、とか言ったんだと思う。
ひどく思いつめた表情の楓奈の口が、ためらうようにわずかに動く。
そんな重大なことなのだろうか、と身構えようとしたときには、すでに手遅れだった。
震えた声はあまりに小さくて、雨の音にかき消されそうだったのに。
あたしの耳には、その言葉がはっきりと届いて――一瞬、理解が追いつかなかった。
どういう意味、冗談でしょと、言いそうになった。
でも、楓奈の表情と声色で、本気で言っているんだとわかった。
遅れて、無防備な心臓を鷲掴みにされるような衝撃がやってくる。
「――日鞠さんは、あなたのことが、ずっと、好きだったんです」
親友として。友達として。そんな枕詞は不似合いな状況だった。
まさか、そんなはずない。だって、あたしたちはずっと、親友、で――。
視線があちこちをさまよって正面に戻り、楓奈の真剣な表情に気圧される。
「……本当に、そうなの」
「……はい。日鞠さんから、直接聞きました」
――『紫苑のこと、ずっと好きだったんだよね』って。
その言葉が持つ意味は、ただひとつだけだった。
……そんなの。そんなことって、ないよ。おかしい。酷いよ。
あたしに電話で結婚を報告したあの日、日鞠はどんな気持ちだったの。
どうしてあたしに、友人代表スピーチなんか頼んだの。
どうしてあたしに好きって言わなかったの。
……わかんないよ、何も。
本人に聞くことなんてできない。
――だって日鞠は、死んでしまったから。
「う、あ、うああああああ!」
どうして! なんで、なんでよ。日鞠。どうして死んでしまったの。
もう二度と会えない。話すこともできない。その笑顔を見ることもできない。
人が死ぬって、そういうこと。みんな、いつか突然訪れるかもしれないその日のために、大切な人に思いを伝えながら生きていたんだ。
あたしは本当に馬鹿だった。
学校が別々になって、住む場所も離れて、他の人と結婚して、挙句に二度と会えなくなってしまって。
全て失わないと、この気持ちに気づけなかった。
水滴が滴る墓石をまっすぐ見つめる。
今のあたしには、其処に日鞠の残影を求めるしかできない。
「日鞠」
あなたが死んだ日にあたしも死んで、このまま世界が終わったらいいのにって思った。
ひどく胸が痛んで、今だって悲しくて苦しくてたまらない。
こんなに悲しいのは、日鞠の幸せを心から願っていたから。……あたしの傍から離れてもいいから、ただ幸せになってくれたらいいって、本気でそう思ってたの。
でもそれと同じくらい――あなたの隣を、ずっと歩いていたいって思っていた。
矛盾した感情だと思う。
だけど、ただこう言えばよかったんだ。
あなたが楓奈に、楓奈があなたに言ったみたいに。
「あたし、日鞠のことが好き」
やっと言えた。十年もかかって。もう君には届かない。遅い。遅すぎるよ。
それでも言えてよかったと思う。決して、意味のないことではなかったんだ。
楓奈があたしの横まで来て、袋に入れていた花束を取り出した。
真っ赤な薔薇の花束だった。
プロポーズをするみたいに片膝をついて墓石に向かって差し出す。
「私も日鞠さんのことが、大好きです。出会ったときから今まで、ずっと」
まるで対抗するようなその行動に呆気にとられた。しばらくすると、おずおずと照れくさそうに手を引っ込めた。顔を見合わせて笑う。
「ねえ、楓奈――人を愛するって、どういうことだと思う?」
楓奈は少し考え込んで、静かに話し出した。
「そうですね……傍にいてほしくて、一緒にいると楽しくて……その優しさに胸がいっぱいになって、誰かに否定されても好きな気持ちは変わらなくて、自分にはその相手しかいないって思えて、好きだからこそすれ違って空回って必死になって、何度でも戻ってきたいっていう居場所で、一緒にいれば月が綺麗に見えて、美しい花を贈りたくなって……相手には世界で一番幸せになってほしいと願うような、矛盾していて言葉にできない色んな感情がつまった――そんな、綺麗な花束なんじゃないですか」
……そっか。
それなら、あたしは最初から――日鞠のことが大好きだったんだ。
あたしも袋から花束を取り出す。楓奈が目を見張った。
黄色、青、ピンク、オレンジ、白、黒、赤……色とりどりの薔薇の花束。
薔薇には『愛』や『美』といった花言葉の他に、色にも意味があるらしい。花言葉なんて馬鹿らしいと思っていたけど、この一年で随分と詳しくなってしまった。
黄色は『友情』『嫉妬』。青色は『一目惚れ』『不可能』。ピンクは『上品』『幸福』。オレンジは『絆』『幸多かれ』。白は『純粋』『純潔』。黒は『永遠』『決して滅びることのない愛』。
そして深紅の薔薇は『あなたを愛しています』。
日鞠への気持ちは、環境や関係が少しずつ変わるなかで、様々に色を変えていった。
そんな、一色では語り切れない感情を表したつもりだったんだけど――墓場には不似合いなほど鮮やかで――これ以上ないくらい綺麗に見えた。
「……綺麗ですね」
「そうだね」
雨の暖かさも、涙の味も、花の美しさも――ぜんぶ君が教えてくれた。
好きだよ、日鞠。
大好き。
世界は今日も変わらず回っている。
地球上のすべての人が喜んで、怒って、泣いて、笑って……今この瞬間も、誰かの人生の幕が閉じて、また新しい命が生まれている。
そんな目まぐるしい世界にあたしたちは生きている。
あたしにとっては親友で、楓奈にとっては愛する人で、誰かにとっては赤の他人で。
世界中の誰もが日鞠のことを忘れても、あたしたちが忘れてやらない。
日鞠を過去の人にしないために。君を愛したことを忘れないために。
あたしたちは思い出を語る。この気持ちを言葉にする。
日鞠のいない世界を、今日も懸命に生きる。
日鞠。
あたしの大好きなひと。
君の幸せを、ずっと願っている。
君に幸あれ ひつゆ @hitsuyu
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