Black rose
――あれから一週間が経った。
普通に会社で働いて、寝て、起きて……あたしの生活は、以前までの日常に戻りつつあった。
たとえ胸の内が伽藍堂でも、とりあえず生きることはできた。死ぬことはなかった。食欲がなくなって、眠りが浅くなって、不意に涙が溢れてきて、毎日が同じような色をしていて、何を見ても心は動かなくて――世界に灰色のカーテンが降りて、心臓を失ってしまったような気分だった。
土曜日。眠れないのに布団にくるまっていたあたしは、そろそろ切り替えて、前に歩き出すべきなのかなぁ、とか、他人事のように考えていた。ふらりと立ち上がりカーテンを開けてみる。柔らかな陽光に、外に出てみるのもいいかもなって思って、事故現場に赴くことにした。
初めて花屋で花を買った。何が良いのかわからなくて白っぽいユリの花束を買った。じっと花を見る。よくわからないけど、きっときれいなはずだ。
地元への電車に乗る。何度か乗り継げばすぐ着いてしまった。行こうと思えばすぐ行ける距離で、その近さに苦しくなった。駅から歩いて楓奈から聞いた場所に向かう。ゆっくりと通り過ぎる景色がどうしようもなく懐かしくてまた涙が出てきそうだった。
目的の場所に着く。民家が多い細い道で、近くには空き地がある。人通りの少ない、のどかなところだった。
痛々しいブレーキ痕が残っている。数日前までは渦巻いていた憎悪の念さえ、怒る気力もないと言うように萎んでしまった。それ以外に、ここで事故があったことを伝えるものは何も無かった。
邪魔にならないように花を供えて、その場にしゃがみこんでぼんやりとしていた。
風が吹いて、木がざわりと揺れる。
心地よい春の日だった。
――今日ここで死ぬのも、いいかもしれない。
ふっと晴れやかな笑みがこぼれた。
どうやって死のうかと考えてみる。ここをあまりに汚すのはよくないし。最後の感覚が痛みなのも嫌だ。結局どの方法をとっても、失敗したときや周りにかかる迷惑のことを考えたら面倒くさそうで、まだ生きるほうが楽なのかな、なんて思った。
……もう何も考えたくないなぁ。
このまま眠ってしまって、二度と目覚めなかったらいいのに。
目を閉じてみると、背後から硬い足音が聞こえた。邪魔かなと思って立ち上がろうとする。
「あ……あの。紫苑さん、ですか」
振り返ると、細い腕で花束を抱えた人が立っていた。
長い前髪からのぞく表情は、少し狼狽えたように崩れている。あたしがここにいるとは思わなかったとでも言うように瞳が揺れた。
――楓奈。
「久しぶり」
「……どうも」
楓奈は小さく会釈して、あたしの横にしゃがみこんで花を置いた。面白いくらい似通った花束がふたつ並ぶ。
「あの、事故のこと……連絡くれて、ありがとう」
「……いえ」
立ち去るタイミングを逃してしまった。無言で花を見つめるだけなのもかなり気まずい。すると楓奈が、ぽつりと小さい声で話し出した。
「……紫苑さんは……日鞠さんの、親友、だったんですよね」
「そう、だね」
あたしは、日鞠の親友だった。
結婚式ではあんなに堂々と宣言したのに――今では弱々しい笑みがこぼれてしまう。
「――未だに、悪い夢を見てるんじゃないかって思うときがあります。朝起きるたびに、今日もひとりかって気づいて辛くなって。葬式で会った親御さんも、ひどく落ち込んでいるみたいでした」
そっか……この人は、葬式に出られたんだ。
日鞠の家族だったから。
――なんか、それってすごいことだ。
「事故現場なんて今まで行けなかったんですけど……花くらい持ってこようかなと思って――それと」
一瞬、言い淀むように言葉を止める。
「――私、今日死のうと思って、ここに来ました」
思わず顔を上げて、端正な横顔を凝視する。
――同じ目をしていた。
あたしと同じ、昏く濁った目を。
わかるよと言いそうになった。
あたしもそう思ってた、って。
でも、あたしは日鞠の親友、で、楓奈はパートナーで……悲しみに優劣なんてつけるべきじゃないとわかっていても、軽々しく言ってはいけない気がして咄嗟に呑み込んだ。
「あんたが死んだら、日鞠はきっと悲しむよ」
代わりに出てきたのは、自分でも驚くほど薄っぺらい言葉だった。
……なんで、こんなこと言ってるんだろう。
「……なんですか、それ」
楓奈は苛ついたようにこちらを睨んだ。
「本心だよ」
心からの。
「あんたが日鞠に思うのと同じ」
「っ、でも、もう日鞠さんは……」
口にすることを躊躇うように語尾が途切れた。
別にあたしたちは他人どうしだけど、ここで楓奈が命を断つべきじゃないことぐらいわかる。彼女より一年だけ長く生きてるんだから。
「……あたし、日鞠の高校時代の写真たくさん持ってるけど。どう、見たくない?」
そうやって下手な餌をぶら下げる。案の定楓奈は訝しげに眉を寄せた。
「はぁ? ……卒アルなら見たことありますけど」
「それの何倍も、何百枚も」
日鞠は照れくさがってあまり映りたがらなかったけど。こっそり撮った写真も何枚かある。あたしは元々写真なんか一切撮らなかった。だけどある時に、今この瞬間が二度と戻らないことに気づいた。衝撃だった。この楽しい時間もいつか忘れてしまうかもしれないと、ひたすらに怖がっていて――思い出の残滓をどうにか形に残そうと必死だった。
――今思えば、それは正解だったんだと思う。
「……いったん冷静になりなよ。あたしも来週、また来るから」
立ち上がると足が痺れていたことに気づく。見下ろした背中は消えてしまいそうで、次の言葉を一瞬ためらった。
「――待ってるから」
そう言って振り返らずに歩き出す。……冷静になるべきなのはあたしのほうだ。好きでも嫌いでもない、ただ遠い『親友のパートナー』という存在。そんな相手に、何かっこつけてんだろ。「あは」可笑しくてちょっと顔がほころぶ。久しぶりに笑った気がした。
「あ」
楓奈が不機嫌そうな顔で近づいてくるのが見えた。こっそりと胸をなでおろす。このまま来なかったらさらに寝覚めが悪くなるところだった。
複雑そうな表情で会釈をして、そっと花束を置き手を合わせる。紫に薄いピンク――おそらくライラックだったか。あたしが持ってきた桔梗の花束と似た色合いだった。
そのまま、会話もなく静かに時間が過ぎる。
「あの……写真」
ひとつ息をついてぶっきらぼうに呟いた。ちゃんと覚えていたみたいだ。
「はい。このアルバムなら見ていいよ」
「どうも」
スマホを手渡すと楓奈はカメラロールを繰り始めた。あたしも横から覗き込む。しばらくすると楓奈が言いにくそうにこちらを見やった。
「あの……盗撮じゃないですか、これ」
「……違うけど」
犯罪者でも見るような顔をされた。
「日鞠も、別にいいよって言ってくれてたし」
「……本当ですかね」
……実際には、かなり渋々ではあったものの了承してくれた形にはなるけど。
楓奈は時折、うわーとか青春だなとか小声で呟いていた。その無機質な顔から出ている声とは思えなくて面白かった。
「これは何の写真ですか」
「あー、プール掃除したときかな」
「これは」
「たぶん夕陽に向かって走ったとき」
「……マジですか」
「マジだよ」
どの写真も何かのCMみたいで眩しかった。絵に描いたような青春みたいでちょっと気恥ずかしい。日鞠の「今しかできないんだから、何でもやらなきゃ損じゃん?」みたいな考え方はある意味潔くて、あたしが尊敬していたところでもある。
「……懐かしいなー」
――出会ってから、十年。
懐かしいって思えるところまで、来ちゃったんだな。
涙が静かに頬をつたう。こっそりハンカチで目を拭った。楓奈は一瞬こっちを見たが、気づかないふりをしてくれたようだった。
あたしと楓奈は毎週、花を供えに行って、ぽつぽつとお互いに知らない日鞠の話をした。欠けていた期間の思い出を埋め合わせるように。
『日鞠さんに短いほうが似合うって言われて、ずっとこの髪型にしてるんです』
『私が新入社員だったとき、大きなミスをしてしまって、でも日鞠さんはどうしたらいいか一緒に考えて、落ち込んでいる私を元気づけてくれて』
『私からランチに誘って、公園でサンドイッチやおにぎりを食べたんですよ。スーツのままブランコで立ち漕ぎしてました』
あたしの知らない日鞠はずっと、変わらずに日鞠だった。ずっと子供っぽい純粋さを持っていて、それでいて大人の落ち着きや気高さもあって。これから先の日鞠をずっと見ていたかった、とどちらからともなくこぼした。
一度、楓奈に誘われて、日鞠とふたりで暮らしていた家に訪れた。
楓奈はまだそこに住んでいるからか……日鞠の写真の横に骨壺と花瓶が置いてある以外は、今でもそこに日鞠がいるみたいな、ふたりの生活の息吹を感じた。
高二のクリスマスに、日鞠にプレゼントしたスノードームが今でも飾られていた。あたしは日鞠から変なストラップをもらった。無くすのが嫌で、ずっと部屋に飾ってある。大切にしてくれてたんだって思って、また楓奈がいる前で泣いた。
最初、日鞠のことを話す楓奈は、悲しみと幸せさが同居したみたいな顔をしていた。次第にその苦しみの割合が減って――そしてあたしも同じように、よく笑うようになっていった。
きっとこのまま、日鞠のことも懐かしい思い出になっていくんだ。
亡き人のパートナーと親友。大切な人を喪い、同じ傷を抱えた者どうしが悲しみを共有して、支え合って前を向く、そんな美しい物語。
日鞠の死を乗り越えたあたしたちは、これから新たな人生を歩んで、もしかしたら別のパートナーや親友と出会って……。
――あたしはそんなの、絶対に耐えられなかった。
これからも日鞠のことだけを考えて生きるつもりだった。
あたしは今まで、こんなに苦しんで泣いたというのに――日鞠の死を受け入れることさえできていなかったから。
ただ遠い旅に出ている友の話をするように。
いつかの帰りを待ち続けるように。
心の奥底では、もしかしたら日鞠がまだどこかで生きているんじゃないかって、すがるように信じていた。
――結局、あたしと楓奈は、何も分かり合えていなかったんだ。
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