第2話

 緑化プラントで妃華莉ひかりと会った日から、三ヶ月過ぎたころだった。

 いつものようにソリスに起こされ、餌をやっていると、ニュースが聞こえてきた。夜勤から帰ってきた父さんが観ているのだろう。いわく、火星が地球に接近するらしい。ふうん、なんて思って登校した日だった。

 僕と殉至は互いの机をくっつけて弁当を食べていた。殉至の弁当はお母さんの手作りでうまそうだ。僕の方はスクールランチで、おいしいけれど、なんだか物足りない。

「ジュンちゃーん!」

 女子の声が聞こえて、そちらを見ると、殉至じゅんじに手を振る女子がひとり、教室の扉のところに立っていた。

 殉至は、お、と声に出して、手を振り返す。

 ああ、新しい子か。

 殉至が前に彼女だと言っていた子とは別の子だ。

 どこかに行くついでだったのか、女子は教室に入らず、そのまま立ち去っていった。「俺の彼女。可愛いだろ」

 殉至がこちらに向き直って自慢してきた。

「前の子とは別れたの?」

「別れてなきゃ付き合えないだろ。それとも二股しろってことか?」

 いや、そういうわけじゃないけど。

「でも、殉至ってすぐ付き合ったり別れたりするよね」

 殉至はすぐに恋人を変える。一番早かったのは一年生のときで、たった三日で別れた。それと比べれば前の子は、一年の終わり頃から今まで付き合っていたのだから、ずいぶん長く続いたのだろう。

「そりゃあ、いいなって思ったんだから付き合って、よくないなって思ったんだから別れて、それを繰り返せばこうなるからな」

「そういうもんなの?」

「知らねぇよ。俺にはそういうもんってだけ。でもさ、そういうもんじゃね。彼女って二人も作れないし、嫌だなって思ったら別れるしかないじゃん」

 僕の周囲で恋愛をしているのは、殉至以外には両親だけだ。父さんも母さんもお互いを嫌だなって思っていたのは、小学生だった僕ですらわかった。そのうちに母さんは新しい恋人を作っていた。恋人は二人も作れない。だから母さんは父さんと恋人を両立させずに、離婚して出て行った。

 たしかに、そういうものなのかもしれない。

「あ、そういやさ」

「なに?」

「爲石、あの子大丈夫なの?」

 急に殉至がなにを言っているのかわからなかった。

「あれ、おまえ知らない?」

「知らないってなにが」

「爲石、裏で他の女子に悪く言われてるぞ。あいつ男人気あるからな」

 妃華莉はクラスメイトから距離をとっていたけれど、器用にうまくやっていると思っていた。それも限界にきたのかもしれない。

「というか、なんで僕に言うの」

「おまえあいつと仲いいんじゃないの」

「なんで」

 あれから三ヶ月、僕らは緑化プラントで会っていた。特に示し合わせているわけじゃないから、妃華莉が来ない日もあれば、僕が行かない日もある。それでも週に二日か三日はお互い緑化プラントのあの開けた場所で放課後を過ごしていた。

 お互い好きなことをしながら、ときどき思いついたことを話すだけなのだが、学校での妃華莉とは印象がまるで違う。話してみると妃華莉は話題が豊富で、これまで何度も転校をしてきたからか、色んな土地のことをよく知っていた。最近は僕らのあいだでなんとなくできあがった連想ゲームで遊ぶことも多い。適当に思いついたにしては、僕はこのゲームをいつも楽しみにしている。

 できれば、妃華莉とずっとあんな風に過ごしていたい。

 けれど、お互い学校では知らないふりをしていた。

 そのはずなのに、殉至はいったいなにを見たのだろう。

「なんとなく? なんかお前ら雰囲気似てるし」

 説明になっていない。

 殉至はまるで気にした様子もなく、こう続けた。

「まぁ、爲石、来月帰郷するらしいし、気にする必要もないか」

 そういえば、彼女の転校初日、自己紹介で先生が補足していたのを思い出した。


 緑化プラントに着くと、先に妃華莉が来ていた。汗を拭いながら、四阿のベンチに腰掛ける。プラント内は涼しいといっても、そこに至るまでは夏の暑さを全身で受け続けなければいけない。

 妃華莉はタブレット端末を睨みながら、指先で操作している。連立方程式が見えた。宿題を片付けているところらしい。

 僕も端末を取り出して、宿題を始めた。

 方程式の問題を五つほど解いて、応用問題に取りかかったときだった。

「学校」

 妃華莉が呟いた。見ると、妃華莉は顎をしゃくってこちらを促してきた。

 僕は目を閉じて、自分の心のなかを探って、「父さん」と答えた。

「淫売」と妃華莉が答える。

 これは連想ゲームだ。お互いにふと思い浮かんだ言葉を言い合うゲームだ。

 ふたたび僕の番が回ってきた。

「帰郷」

 お互いに目が合った。妃華莉はまっすぐこちらを見つめ返してきたけれど、その直前、ほんの少し目を泳がせたのがわかった。

 僕らはこうして何度もお互いに言葉を出して、それぞれに出した言葉から、思いついた話題について話す。先に話したいことができた方が話すというルールだ。

 僕にはもう話したいことがあった。けれどもぐっと堪えた。ルール違反だけど、きっと今は僕の話をしてはいけないような気がした。

 そして、妃華莉は「緑化プラント」と答えた。

 さて、どんな言葉にしよう。ベンチから立ち上がって広場の周囲を歩いてみた。茂みのなかに紫色の花を見つけて、四阿に戻った。

「アザミ」

 偶然に見つけた花が、妃華莉のなにかに引っかかったらしい。目を見開いて、それから諦めたように自分の手元のタブレットに目を落とした。

「安心」

 妃華莉の言葉を受け取って、僕は次の言葉を探そうとした。

「安心、したい」

 けれど、妃華莉は言葉を続けた。

 話題が見つかったようだ。

「どういうこと?」

「アザミの花言葉。ずっと昔から花にはそれぞれ象徴する言葉があるの」

 妃華莉はこれまで何度も転校してきたらしい。彼女の話す転校先の土地の話は、面白かった。けれど、何度も転校しているということは、一つの場所に留まることがないということだ。

「正直ね、もう疲れちゃった」

 そう言って、妃華莉はタブレットを脇にどけると、ベンチの上で膝を抱えた。

「だってもう来月には帰郷するんだもん。今までで一番短かったよ、今の学校。また一からやり直さなきゃいけない」

 たしかにたった五ヶ月だ。半年にも満たない。環境になじみ始めたと思ったら、すぐに別の土地へ行き、振り出しに戻ってしまう。

 それを何度も繰り返していれば、心が落ち着くことなんかないはずだ。

「でも仕方ないじゃん。お父さんの仕事だもん」

 一通り吐き出したのか、妃華莉は膝の間に顔を埋めた。

 僕らは中学生だ。自分ひとりで生きていくことなんかできなくて、親に生かしてもらわなきゃいけない。だから、親の都合は僕らの都合でもある。

 どれだけ仕方のないことでも、僕らは親に振り回されてしまう。唐突に、理不尽に、これからも続くと思っていたものが、急になくなってしまう。

「ねぇ、妃華莉」

 返事はない。けれど妃華莉が聞いてくれていることはわかっている。

「火星が地球に接近するんだって。観に行こう」

 妃華莉のために思いついたといえれば、きっとかっこいいのだろうけど、これは僕のための思いつきだ。


 あれから僕は一ヶ月かけて、計画を練っていった。酔っ払った父さんの愚痴を聞くようにして、少しずつセンサーの知識や、侵入者の残す痕跡について学んでいった。

 ようやく決行できたのは、妃華莉の帰郷まであと三日という日だった。

 屋上の扉は、あらかじめ鍵を開けておいた。職員室から鍵を素知らぬ顔で持って行ったら、誰にも見咎められなかった。

 重いドアを開くと、夜空が最初に見えた。

 星がまばらに散っていた。

 外に出たことで気が抜けたのか、妃華莉がくすくすと笑い出した。

 慌てる必要はないだろう。父さんはソリスを追いかけていった。まず屋上に来ることはないと思う。大声を出さない限り、ここは安全なはずだ。

 バッグから望遠鏡を取り出して組み立てているあいだも、興奮が収まらないのか、妃華莉はそわそわしていた。

 PDAを取り出す。午前二時。方角の確認をして、望遠鏡を覗きながら調整する。

 最後にピントをいじって、ぼやけた像をはっきりさせた。

 青と白のマーブルになった惑星が半分に欠けて見えた。

 望遠鏡から顔をあげて、妃華莉に告げる。

、見えたよ」

 地球ってどんなところだろう。

 妃華莉が望遠鏡を覗いているのを眺めながら、ふと思った。

 僕らは火星から地球に行くことをと呼んでいる。小さい頃から聞かされている話だけど、もともと僕らは地球に住んでいたらしい。だから、僕らが地球に行くのは、故郷に帰ると呼ぶそうだ。

 けれども、僕は生まれも育ちも火星だ。

 緑化プラントにある植物は、元々地球から持ってきたものらしい。けれども地球と火星じゃ重力が違うから、地球の植物は僕らの知っているものよりも小さいと聞く。

 温室効果ガス工場がないと火星は人が住めなくなるほど寒くなるけれど、地球はむしろ温室効果ガスを出し過ぎて困っているらしい。

 なにより驚くのは、地球の夏は三ヶ月ほどしかないそうだ。火星は五ヶ月夏が続く。他の季節だって、火星に比べて短いらしい。

 火星を地球の環境に似せている、なんていう話を聞くけれど、本当にそうなのだろうか。

 あんなに小さく見える地球は、光の速さで四分、接近していない時期は十三分も掛かるらしい。

 そんなに遠い場所が火星と似ているとは、なんだか信じられない。

 僕の周囲の大人は、みんな地球なんて見たことないし、これから見る予定もないのに、地球と火星は似ていると言う。

 真実を確かめられるのは、妃華莉の家のようにエリートの人たちだけだ。

「地球に着くのに、六ヶ月も掛かるんだって。ここにいる時間よりも長いよ」

 満足のしたのか、望遠鏡を覗いていた妃華莉は顔をあげてそう言った。

「遠いね」

 はぁ、と妃華莉はため息をついて、地べたに尻餅をつくと、そのまま後ろにごろんと寝そべった。僕も一緒に隣で寝転ぶ。

 半年掛けて帰郷する必要があるから、宇宙船内にも学校があるらしい。そこで授業を受けるそうだ。

 妃華莉は少なくとも、これから宇宙船の学校、地球の学校の二回、新しい環境に慣れなければいけない。

 連想ゲームで、妃華莉が自分の気持ちを吐露したあの日、僕が父さんに言いたかったことがはっきりした。

 僕はただ、父さんに相談してもらいたかったのだ。新しい恋人ができたなら、僕に紹介してもらいたかった。変わるのがいやなのではない。心の準備が整っていないのがいやなのだ。

「僕は君が好きだ」

「今、それ言うの?」

 妃華莉は非難するように言う。

「私、帰郷しなきゃいけないんだよ」

 なにが変わって、なにが変わらないのか、それすらわからないまま、僕らは新しい環境に放り込まれて、ぐちゃぐちゃなまま慣れていかなきゃいけない。

「それはわかってる。だから恋人になろうってわけじゃないんだ」

 妃華莉の話を聞いて、僕はようやく自分に必要なものがわかった。

 僕も、妃華莉も、ただ落ち着きたいだけなのだ。安定して、安心できて、変わらないなにかが欲しい。

 僕ができることで、妃華莉にとっての問題解決になるかはわからないけれど、少なくとも僕の解決になること。

 あまりにも陳腐で、使い古されていて、信憑性がなくて、その場の勢いにしか思えないことが解決法だった。

「僕らはずっと友達だ」

 恋人は、そのうちに恋人でなくなってしまうけれど、友達はずっと友達でいられる。

 妃華莉に地球で恋人ができても、僕らは友達でいられるし、地球の友達ができても友達のままだ。

 彼女が友達だと思ってくれている限り、そこが揺らぐことはない。安定して、安心できて、絶対ではないけれど変わらない。

 これが僕の解決だ。

「なにそれ」

 彼女にとって、これが解決になっているのかはわからない。けれど、僕は友達になれたらしい。

「ねぇ、帰りのことって考えてる?」

「あ」

「やっぱり。間抜けな友達だね」

 けらけらと彼女は笑い転げた。

「いっそのこと、一緒に父さんに怒られるってどう?」

「いいかも。たまにはうちの親も振り回しちゃお!」

 妃華莉が地球に旅立てば、もう会うことなんてないだろう。妃華莉は地球で暮らしていくだろうし、僕は火星から出て行けるほど頭のデキはよくない。

 望遠鏡を向けている方を見た。肉眼で見る地球は、単なる点にしか見えない。

 きっと僕にとって妃華莉は、あんな風に小さい存在になっていくのだろう。それでもときどき思い出しては、十三光分の距離から、四光分の距離まで近付いて、またもや小さい存在になっていく。

 それでも僕らはずっと友達なんだと思う。

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火星の天体観測 ものういうつろ @Utsuro_Monoui

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