火星の天体観測
ものういうつろ
第1話
光は一秒でおよそ三十万キロメートル進む。とてつもない距離を隔てた太陽から、七百六十秒の速さで僕らのところまでやってくるほどだ。仮にたった数メートルの距離であれば、光が向くと同時に僕が照らし出されてしまうだろう。もちろん、光が届くまでの時間はゼロではないんだろうけれど、僕にとってはゼロと一緒みたいなものだ。
だから、廊下の奥へと向けられたフラッシュライトの光が扉の窓から見えたとき、教卓のなかに引っ込んだ。
「来たの?」
まっくらな教卓の下で、笑いをこらえたような
僕と妃華莉は、向かい合わせになって教卓のなかに隠れている。二人で並んで座るスペースなんてないから、妃華莉を下に望遠鏡の入ったバッグを挟んで、僕が覆い被さるような形だ。
僕も笑いそうになったけれど、廊下から足音が聞こえてきたので、なんとか堪えた。声を出さずに息だけで、しーっと妃華莉に黙るように促した。
にゃーというソリスの声が聞こえる。
「めんどくせぇな」
きっと誰もいないと思っているのだろう。父さんのぼやく声が、扉越しに聞こえた。盛大なため息をついているに違いない。
それもそうだろうと思った。
世の中は二十三世紀だというのに、この学校には警備ドローンなんて配置されていない。空間センサーと警報機能、そして警備員が直接派遣される前時代の方式だ。嫌になるのもわかる気がした。中学生に共感されても嬉しくないだろうけれど。
それからさらに父さんはぶつくさと呟いたあと、「まてまてまて」と言いながら走り出したようだった。
バタバタという足音と、ころころいう鈴の音が遠ざかっていった。
「行ったっぽいね」
妃華莉は堪えていた笑いを控えめにくすくすと漏らして、僕もそれにつられて笑いながら、狭い教卓から抜け出した。
「すっごいスリル」
暗いことに変わりないが、幾分光量が上がった教室のなかで、妃華莉の笑顔が見えた。
「ちゃっちゃと行こう」
僕は妃華莉の手を引いていこうか、少し考えた。きっと妃華莉は断らないけれど、やっぱりやめておこう。
二人で教室を出て、廊下を進んだ先にある階段へ向かった。
僕は勝負する前からこの恋を諦める。そのために僕らは屋上を目指している。
夏のはじめ頃まで、恋愛感情を持つようになるなんて、僕には思いも寄らなかった。妃華莉が転校してきたときでさえ、そんな想像すらしなかった。あれからまだ半年も経っていないのかと思うと不思議な気分だ。
「
あまりにも簡素な自己紹介で、名前以上の情報がない。妃華莉のアーモンド形の目が、厳しさを持っているのが、冷たくて、他人を突き放すような印象を受けた。
見かねた先生が補足のように付け足す。
「爲石の家は五ヶ月後には帰郷するそうだ。短い付き合いかもしれないが、みんな仲良くするように」
妃華莉に対するクラスの反応はバラバラだった。
妃華莉が美人だという認識は、みんな共通して持っていたけれど、そこからの感想が違う。女子たちは、美人な妃華莉と仲良くしようとする奴や、気に入らないと睨む奴、派手な人間には近寄りたがらない奴、近づきたいけれど転校生に声をかけて目立つのを嫌う奴といった様子だった。
妃華莉は、そんな女子たちのなかで、なかなかに上手くやっていた。仲良しを作っている様子はなかったけれど、敵がいるような話も聞かなかった。反感を買ったのは最初だけで、誰とも近すぎず、遠すぎない関係を築いているようだった。
彼女はきっと他人に興味なんかないのだろう。
男子の方はといえば、女子ほど態度のヴァリエーションがない。我関せずの奴と、お近づきになりたい奴の二種類だ。
「めちゃめちゃ美人じゃん、最高だね」
隣の席の
「彼女いるんじゃなかったの?」
僕の疑問を受け流すみたいに肩をすくめる。こいつはいつも大げさにリアクションをする。
「それとこれとは別だよ。彼女がいたって美人とは仲良くしたいし、あわよくばって思うだろ」
「そうなのかな」
「お前は彼女すらいないじゃん」
まぁ、たしかにそうだ。反論せずに頷いて置いた。もともと反駁する気もないけれど。
僕にとって恋愛は、もっと大人がするイメージだった。高校生とか、大学生のすることで、少なくとも僕たち、中学二年生にとっては縁遠いものじゃないだろうか。もちろん、小学生のときから誰それが付き合ったとか、誰それに片想いなんて話が聞こえてくることはあったけれど、それもマンガとか小説、アニメで観たことをみんながやりたがっているだけだろう。
父さんと喧嘩をしたのは、妃華莉が転校してきて、一ヶ月が経った頃だった。
にゃーという声で目が覚めた。
ソリスが僕の胸の上に乗って、ぺろぺろと顔を舐めている。
この猫は母さんが飼い始めたのだけれど、今では僕が世話係をしている。一見、僕を起こしているように思えるけれど、これは餌を所望しているサインだ。
まだ重いまぶたをなんとか開いてリビングへ行くと、夜勤明けはいつも寝ているはずの父さんが、珍しく朝食を作って待っていた。朝食といってもTVディナーだけれど。
二年前に母さんと離婚してから、父さんがこうして朝食を作ったのはどれくらいぶりだろうか。計算はとても簡単だった。母さんが出て行ってから二週間くらい。そこを境に父さんは冷凍のワンプレートを買い込んで冷凍庫に入れること以外の料理はしなくなった。警備員をやっている父さんは夜勤も多いし、家を空けていることも多いから仕方ない。
「おう、遅かったな」
いつもは遅いどころじゃないのに、早く起きた今日に限って、父さんは得意げに言う。
「うん。おはよう」
きっとなにか話があるのだろうと思いながら、ソリスに餌をやって、父さんが解凍したパンケーキのワンプレートを食べた。
父さんが本題を切り出してきたのは、お互いに食事を終えて、お腹が落ち着いてきたころだった。
「父さん、前から付き合っている人がいてな。再婚しようと思うんだ」
「そう。勝手にすれば」
僕の返答が気に入らないのか、父さんは顔をしかめた。
「なんだその態度は。不満か」
「そういうわけじゃないよ」
本当にそういうわけじゃない。そうじゃないのだけれど、父さんは僕が不満なのだと勝手に思っているのだろう。
「あのな。父さんの再婚はお前にだっていいことだ。新しいお母さんがいれば、食事だって作ってくれるし、お前のことだってもっとよく見てやれるんだ」
「僕は、新しい母さんができるならそれでいいと思ってるよ」
「じゃあ、なんだ。前の母さんがいいのか」
不満なわけじゃない。
別に前の母さんが恋しいわけじゃない。父さんも母さんもお互いに限界がきていたことはわかっていたし、母さんが新しい恋人を作って出て行ったのも、仕方のないことだってわかっている。だから、前の母さんのことは関係ない。
新しい母親ができることはとてもいいことだと思う。TVディナーばかりの食事は、量もヴァリエーションも物足りない。学校からの連絡も、父さんじゃ受け取れないことが多い。
新しい母親ができるのなら、それはとてもいいことなんだ。
でも――と考えて止まってしまう。でもの続きは出てこない。自分が言いたいことはなんなのか、考えていることはなんなのか、掴もうとしても掴みきれない。
「おまえがなにを言いたいのかわからない」
考えている途中で、父さんの言葉が横入りしてくる。考えが中断されてしまって、僕だってなにを言いたいのかわからない。
「部活、行ってくる」
自分のことを考えるのは諦めた。
僕の寝起きにはご機嫌だった父さんは、仏頂面で返事もしてくれなかった。
部活に行くというのは嘘だ。そもそも僕は部活に所属していない。きっと父さんはそんなことを知らないだろう。とにかく家から離れたかった。
外へ出ると、夏の日射しがじりじりと僕の頭を焼いた。手で触れてみると、髪が熱かった。
こんな暑さじゃ、やっていられない。かといって、屋内にいられるところで、僕の行き場があるかというと難しい。近所の誰かに見られたら父さんに知られるかもしれないし、学校で禁止されている場所で補導でもされたら困る。
そうなると、自然と足は町はずれへと向いていた。
多分、あそこなら大丈夫だ。
僕の住んでいる町は、大昔にできたクレーターを利用して作られている。町の中心はそのままクレーターの中心で、外側にいくほどに人口が少なくなる。僕が向かっていったのは幹線道路の通っていないところで、クレーターの縁へと登っていった先だった。
やっぱり、ここは涼しい。
緑化プラントに着くと、体感温度が全然違う。巨大に育った種々の植物が、葉を大きく茂らして、僕の頭上にまで伸び上がっていた。舗装された通路には、木漏れ日のモザイクパターンが施されていた。
ときおり、植物の切れ間から見える、温室効果ガス工場のもくもくと煙を吐き出す煙突が、ちょっと暑苦しく思えるけれど。
休日の昼間なら幹線道路沿いのプラントには人も多いけれど、ここはまるで人がいない。たまに作業ドローンが通り過ぎるくらいだ。通路で長方形の植え込みが単調に区切られているばかりだから、人がいないこと以外に魅力がないのも頷ける。
ここは僕だけの場所だ。そう思って伸びをしかけたとき、ずずっと鼻をすする音が聞こえた気がした。
はっとしてそちらを見る。僕の身長よりも高いイタドリの茂みの方から聞こえた。
ゆっくりと、足音をたてないように茂みを迂回すると、開けた場所に出た。
なんと驚くことに、こんな人が寄りつかないプラントに
けれど汚らしさはなかった。くすんだ様子は、大きな植物に囲まれて、緑を透かした木漏れ日のなかで、爽やかな寂しさを醸し出していた。
嫌いじゃない。むしろ好きだと思った。
その四阿に置かれたベンチに、爲石妃華莉がいた。離れていたし、うつむいていて顔は見えなかったけれど、妃華莉だとわかった。
ふいに、彼女の頭が持ち上がる。
なんだか気まずくなって立ち去ろうという考えがよぎるけれど、もう遅いと諦めた。
顔をあげた妃華莉は、僕を見て固まる。まさかこんなところに人が来るとは思わなかったのだろう。僕だって君がいるなんて思いもしなかった。
このまま逃げたところで、それはそれでなんだか気まずい。
僕はゆっくりと四阿に向かっていった。
四阿のなかはさらに涼しく、当然影になっているから薄暗かった。妃華莉の対面のベンチに腰掛ける。
「なんでここにいるの」
この妃華莉の質問は、きっと疑問じゃないのだろう。僕を責めるような口調だった。つい今し方まで泣いていたような声だったのは、気にしないようにした。
「お互い様だよ」
「それはッ――たしかに」
反論しようとしかけて、急に納得する妃華莉に、吹き出しそうになった。近寄りがたい印象があったけれど、案外そうでもないのかもしれない。
その日の僕と妃華莉の会話は、ほとんどそれだけだった。お互いに話の持ち合わせなんてなかった。そもそもほとんど話したことなんてないのだから、どんな話をすべきかもわからない。なによりも、話したい気分でもなかった。僕らはただ黙って、互いに別々のものを眺めていただけだった。
しかし、不思議と気まずさはなかった。それがこの四阿の雰囲気のおかげなのか、それとも僕らの相性がよかったのか、とにかくなにか話さなきゃという焦りも感じなかった。父さんと口論になったことすら忘れそうなくらい、心地よかった。
その日、話したことといえば、あとは去り際のことだ。ポケットからPDAを取り出したら、もうお昼をとっくに過ぎていたのに気付いて、そろそろ帰ろうと腰を上げた。
「帰るの?」
「うん」
「また、来る?」
「僕もこう見えて泣き虫なんだ」
妃華莉がくすりと笑った。
「全然意外そうな見た目じゃないよ」
形のいい目に形のいい唇が、ぱっと花開いたような笑顔をつくった。はじめて見た彼女の笑顔は、夏の昼下がりによく似合う、生気の溢れた笑顔だった。
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