溶けゆく光

雪屋 梛木(ゆきやなぎ)

  🌊  

 とても寝苦しい夜が明けると、さらに暑苦しい朝がやってくる。

 太陽はまだ出たばかりだというのに、ジメジメとした空気がとても不愉快だった。きっと夕方には酷い雨が降るだろう。カイロアは冷たい紅茶を一杯喉に流し込み、洗面台の前に立っていつもよりたっぷりと時間をかけて丁寧に髭を剃ると外出用バッグを手に取った。海に行くのだ。

 焼けるような熱さのアスファルトにサンダルからはみ出た小指を灼かれながらのんびりと歩く。自宅からしばらくいったところにある小規模の海水浴場はたくさんの人でごった返していた。ブイで区切られた区間にいたっては、海面より浮き輪面積の方が多いくらいだ。

 カイロアは金を払い、簡素なロッカールームに入って水着に着替えた。誰もいないロッカールームは使いたい放題で、サンダルも置いていこうかと一瞬悩んだが、小指の痛さを鑑みて結局そのまま履いていくことにした。砂浜がわりの岩場を縫うように歩き、時折海水に足を浸しながら、海水浴場の端にある目印の旗をめざした。崖に囲まれたこの島において唯一海と陸との境界線を身をもって感じられるこの海水浴場は、カイロアにとって特別な場所だった。

 ひときわ大きな岩場の上で女性の監視員が気だるげに海を眺めている。

 やあ、とカイロアは声をかけた。「今日もいい眺めだね」

 監視員のスグリは少しだけ横にずれ「おはようございます、カイロアさん」と返した。目線は海の浮き輪集団に固定されたままだ。監視員用に設置されたビーチパラソルの日かげは大人二人が入るには少々心もとない。カイロアは肌が触れ合わないギリギリの距離に腰を下ろした。はみ出た右腕がジリジリとやけていく。

 島育ちのカイロアは内地の人と比べればいくぶん暑さには強いという自負があった。とはいえ、この猛暑には正直辟易していた。昨今の強烈な日差しがもたらした弊害を数え上げればキリがなく、世界のあちこちで今この瞬間にも誰かが水を求めて息絶えているだろう。そう思えば、衣食住をまだかろうじて維持できている自分は幸せなほうだ。

 カイロアはバッグから保冷タンブラーを取り出しスグリに差し出した。スグリはホッとしたような顔で「いつもありがとうございます」と受け取った。

 「お互い様だ」とカイロアはこたえそうになったが、少しばかり逡巡して、結局黙ってひたいにかかった髪を指でとかすだけとなった。自分が禁止区域に立ち入るのを見逃してもらうための袖の下であるという共通認識をわざわざ口に出すのは野暮というものだろう。スグリが急いでタンブラーの蓋を開け、中に詰め込まれている氷をひとつ摘んで口に含むと「ああ、生き返るようです」と嬉しそうに笑った。

 カイロアはサンダルを脱ぎ立ち上がった。

「危ないのでわたしもついていきましょうか?」

 スグリの申し出に対し、カイロアは残念ながら、そう、至極残念だが、と首を振った。

「君にはここで監視という仕事がある。それに君がここにいるからこそ私は安心してこの先に行けるんだ」

 カイロアは何か言いたげな彼女の返事を待たず、岩の上から海へ飛び込んだ。なるべく音を立てないようにしたつもりだが、それが無駄な努力であるというのはこの場にいる誰よりも知っていた。

 体温と変わらないような海水温である。それでも肉を焼くような岩の上よりはいくぶんマシだった。島の裏側に泳いでまわり、海上にいくつか飛び出ている小さな突起のひとつに捕まった。

 墓標だ。もう誰も見舞うことはなく、見舞う必要もない墓だった。

 正直に言えば、スグリをここに連れてきたとて特別困ることはない。むしろ海の中は彼女のテリトリーなのだからいくぶん心強いだろう。

 それでもいかにも都合が悪いというような顔をして断ったのは、自分がこの島の代表であると大きな顔をしておきながらそのじつはただの墓守であると知られるのが心苦しかったのかもしれない。

 ここにある墓は全てかつてこの島に住んでいた人間のものだった。そしていずれは自分もここに眠る。

 カイロアは海面に突き出た墓標の数を数えると、仰向けにからだを浮かせた。またひとつ減っていた。

 空は変わらず青かった。太陽が少し傾いたおかげですこしだけ島の影に入ることができる。いつもは潮の流れが速い海岸付近も今日は不思議なほど波が穏やかだ。

 やがてたっぷりの時間をかけて再びスグリの待つ岩まで戻ってきたとき、彼女は少しも変わらない姿で待っていた。

 カイロアは再び岩の上に腰を下ろした。海の雫はすぐに乾き、代わりと云わんばかりに大粒の汗が染み出してくる。

 波に弄ばれる浮き輪を眺めていたスグリが、ふいに「この暑さはいつまで続くと思いますか?」と訊いた。

「さぁ、どうだろうね」とカイロアはハンカチで汗を拭きつつこたえた。「まだまだ続くかもしれないし、ともすれば明日には急激な寒波が押し寄せてきて海面が凍っているかもしれない。近頃の異常気象を鑑みれば予報なんてあってないようなものだろう。確かなのは、雨が降り、潮が満ちるたびにこの島は小さくなっていくという事実だけだ。お偉いさんが躍起になって試している施策だって、効果が出る前に人が住める陸地は今の半分以下になっているだろうよ」

 太陽の光が海に反射し、キラキラと輝いている。水平線はこの地球が丸いことを教えてくれる。そして、見渡す限りこの周辺に他の島はないということも。座っている岩に汗が落ちて大きなシミができた。

 ややあって、わたしは海が憎いのです、とスグリが呟いた。「わたしが初めてこの島を訪れたとき、こんなに綺麗な海があるのか、と心から思いました。とても感動したのです。都会の汚れた海にしか触れたことがなかったわたしに本当の碧色を教えてくれたのは、間違いなくこの海でした」スグリは険しい表情で唇を噛んだ。「それが今はどうです。砂浜は波に飲まれ、ゴツゴツとした岩だらけの入江に変えられてしまった。いや、本当に悪いのは氷河や氷床を溶かしてしまった人間だなんてことは分かっているのですよ。しかし潮が満ちる度に島を削り、友人の家を攫っていくのがどうしても許せないのです」

 それでも、とカイロアは言った。「それでも、海なしでは私もあなたも生きられない。それに、こうやって私と海を眺めているのだから、あなたも人や海を憎みきれないのでしょう。美しかった海が少しずつ真綿で首を絞めるかのように私たちの住処をうばっていくとしても、過去の美しさを知っている私たちは知る前には戻れない」

 シミはもう跡形もなく消えていた。

 生ぬるい風が汗でベタつく肌を撫でていく。少しも涼しさを感じられない、暑さにあえぐ自分たちをあざ笑うかのような、不快な風だった。

 スグリが遠くを見るような眼差しで海の向こうを眺めながら「わたしはもうすぐイギリスに帰ろうと思います」と言った。「我が祖国も随分と小さくなってしまったようですが、親戚によれば、まだわたしひとりくらいはかろうじて住めるくらいの余裕はありそうです。もともとイギリスは暖かい海なので、わたしも暑さには耐えられる方だと思っていました。でも」スグリは俯き、魚のような尾に生えている自身の地味な鱗をそっと指で突いた。「ここはもうわたしが住める場所ではなくなってしまった」

 カイロアは海辺ではしゃぐ人々に視線を移した。

 浮き輪につかまりぷかぷか楽しそうに浮いている彼らの下半身はカラフルに輝く鱗に覆われている。さながら熱帯魚のようだ。この暑さでも動じない強さが、彼らにはある。

 カイロアは、ふと、世界のどこかに人魚の墓はあるのだろうか、と疑問に思った。

 スグリに訊けばこたえてくれるかもしれないが、どことなく訊くのは憚られた。ただの人間である自分が、恒久の時を生きる彼女らのセンシティブな場所に踏み込んではいけない気がしたからだ。

 カイロアはスグリの横に置いてある紐のついた小さなバケツを手に取った。バケツを海に投げ、紐を手繰って汲み上げた海水にタオルを浸す。自身の体温よりもやや高く、お湯のような水をたっぷりと吸ったタオルを軽く絞ってスグリを包むようにかけてやった。

「イギリスよりも、いっそのこと北極あたりに移住するのはどうだろう」

 カイロアが訊くと、スグリは静かに首を横に振った。

「北極にはもう住める氷がありません。南極は各国の旗がひしめきあっていてとても危ない。詰まるところ、わたしのような半端者は回遊魚のように移動し続けなければならないのでしょう。ところであなたはどうするのですか? カイロアさん。あなたは海の中に住むことはできないのですから、そろそろ移住先を決めておかないと積み木の家に住むことになりかねませんよ」

「積み木の家だって?」カイロアは笑った。「なんとも素敵じゃないか」

 カイロアはかつて、少年のころ熱心に読み込んだ絵本を思い浮かべた。

 何軒かの家がポツポツと、穏やかな海の中に突き出ている絵が印象的だった。そのうちの一軒に老人が住んでいて、海面が上昇するごとに屋根の上に壁と屋根を新しく作り、どんどん上へ上へと家を積み重ねていく。その家がまるで積み木のようで、どこか心温まる絵柄も相まって誰もが知る名作となっていた。

 本当にそんな暮らしができたらいいだろうに。

 愛する人と二人で暮らした思い出を積み重ねるように、家も積み重ねることができたなら、どんなに良いだろう。

「嬉しそうな顔をしていますね」スグリも白い歯を見せた。「良い移住先が決まっているんですか?」

「いや、私はこのままずっとこの島に住むつもりだ」とカイロアはこたえた。

「そんなご冗談を、カイロアさん!」スグリが驚きの声を上げた。「あなたが天へ召される前に、この島はなくなっていますよ」

「知っているさ」とカイロアは目を細めた。「知ってはいるが、人間の島守としてわたしは最後までここに住む義務がある。たとえ最後のひとりとなろうとも、私はこの島で生きるしかない」

「どうしてもですか?」スグリは上目遣いでカイロアの表情を窺うように見た。「わたしがイギリス行きのチケットを二枚持っているとしても?」

 カイロアは押し黙った。身じろぎもせず、ただ海面を撫でるように飛ぶ渡り鳥を眺めていた。

 足元を小さなヤドカリがのんびりと歩いている。カイロアは無性に冷たい紅茶が飲みたくなった。コップの半分に氷、残り半分に溶けきらないほどの砂糖と濃く煮出した紅茶を注いだ最高の一杯を。


 気まずい空気を破ったのは唐突なスコールだった。視界がくもり、湿気が水滴となり、不快指数がさらに上がる。雨粒がビーチパラソルに当たり、激しい雨音が響いた。その音があまりにも煩わしくて、スグリが何か話しているのを終ぞ聞き取ることはできなかった。


 やがて次の夏を迎える前にスグリはこの島を去った。海水浴場は海の底に沈み、波が脆い崖をさらに削っていく。その頃にはカイロアも家を手放し、島で一番高い建物である灯台に住まざるをえなかった。

 目が痛いほどの青空のもと、カイロアは灯台の最上階でライトのガラスをみがき、油を継ぎ足し、ランプの芯を切りそろえた。そしてかつて灯台守がやっていたようにスイッチを入れた。

 遠い海の向こう、はるかイギリスの海底にまでこの光が届くことを願って。

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溶けゆく光 雪屋 梛木(ゆきやなぎ) @mikepochi

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