10-2

 直也は、目を瞑り前髪を風に任せている正面のキリウを見詰めた。目の下にはうっすらと淡いくまができていた。


 直也はその左手を見た。

 そこはまだ固定され、包帯で巻かれている。


「兄ちゃん、仲裁試合、でるの止めてくれるって言ったよね?」

 唐突に直也は言った。

 

「ん?」

 キリウは目を薄く開けると、眠そうな目で直也を見た。


「仲裁には出ない、約束するって言ったよね」


 一瞬口元を引き締め真剣な顔をしたが、すぐにいつものぼくとつそうな顔に戻り、キリウは言った。

「言ったぞ。仲裁には出ないよ」


「じゃあなんで昨日訓練してたの? 御犬先生、君嶋先生、遊馬先生と一緒に」


 キリウの表情が一瞬にして変わった。目を見張り、口元を強張らせた。


「一体何を言いたいんだ? 俺はそんな事してないよ」

 低い声でキリウが言った。


「春雪」

 直也はここで言葉を切り、キリウの表情をうかがった。


 キリウは困った様に眉を寄せた。


「春雪って兄ちゃんなんでしょ?」


 キリウはどこにそんなに空気が入っていたのかと思う様な長い長い溜息を吐き、観念した様に表情を緩め、肩を落とした。

「……何で分かった?」


「左手。春雪はいつも小手なんてしないのに、昨日の夜は左手だけしてた。それに隠してたみたいだけど、左手使ってなかったから」

 直也は畳み掛ける様に言った。

「それに春雪、俺に峰を向けろって言った時フルガ語で話しかけたから。

 春雪はいつもエスラペント語で話してるって月刊センメツには書いてあったのに、春雪、俺にだけフルガ語で話したから。

 だからなんで春雪は俺がエスラペント語苦手なの知ってるんだろうと思った。

 それに声が。兄ちゃんの声だったし。エスラペント語話してる時はよく分からなかったけど」


「……はぁーばれちまったか……」

 言葉とは裏腹に、どこかすっきりした様にキリウは言った。


「なんで兄ちゃんが仲裁出てるって、強いって知られたらまずいの? 御犬先生だって素顔で出てるじゃん!」


「……俺はもう仲裁師でいたくないんだよ。本当はすぐにでも辞めたい。教師もだ。

……岡本さんみたいに人に本当に喜ばれる仕事をしたい。それが俺の夢、いや目標だ」

 キリウは再度気持ちを確認したかの様に目をきらめかせ、言った。

「そのためには、俺は目立つ訳にはいかないんだよ。仲裁から離れ、できるだけ静かに暮らしていきたんだ」


 直也はそれを聞いて、せっかく強いのにもったいないと思った。

 けれど、他の事がやりたいのなら、辞めるのもしかたがないとも思った。


 それよりも、キリウがまた自身を粗末にしようとしている事に腹を立てていた。


「……仲裁の訓練、何でいたの? 約束したよね? ばれなきゃいいと思った?」


「試合前には手動きそうだし、いざとなったら遊馬に直してもらおうと思っていた。仲裁にはでないと約束したはずだ」


 ほっとしてか、直也の目から涙が少しこぼれ落ちた。

「俺、兄ちゃんを本当の兄ちゃんみたく思ってる……もっと自分を大切にしてよね!」


「分かったよ、泣くな。俺もお前を本当の弟みたく思っているよ。院の子達もだ」

 キリウも目を潤ませ、直也の涙をちり紙で拭きながら言った。


「もう一度約束する。手が治らない限り仲裁試合には出ない」

 キリウは真っ直ぐ直也の目を見詰めた。

「その代り……前に約束した事、覚えているか? 

 違う道も探せと言った事を。そうすると、お前も約束しろ」


 直也もキリウを真っ直ぐ見詰めた。

 キリウの黒い瞳に自分の影が映る。


 自分の影に無言で確認する様に、直也は戦滅師になる道について考えた。


 それは――初めて自分で選んだ、新しい世界。


 仲養学校の世界。キリウのいる世界、春雪のいる世界。カイルのいる世界。ミツのいる世界。笹梅の、草野の、笠間の、君嶋の、遊馬の、御犬のいる世界。


 そしてそんな世界の輪にちょっとずつ重なり合う、自分の、水海直也の世界。


 直也は今まで仲養で築いて来た、経験して来た様々な出来事に断片的に想いを巡らせた。


 単術試験でキリウが怪我をしてまで自分の入学を止め様とした事。

 入学して笹梅、草野と友達になった事。

 キリウに留学生会館のパーティに連れられ、カイルと出会った事。

 会いたいと思っていた文通友達、ミツと遂に会えた事、そして前以上にミツを好きになった事。

 明るいキリウの、胸の詰まる様な悲しい過去を聞いた時の事。

 ミツの両親の調停の事。


 そして、昨日のウラージオイヌの書を見付け、賊に襲われた時の事。


 直也は青草院の他に、いや院という自分で選んだ訳ではなく否応なくいる世界ではなく、自分の意思で初めて築いた世界、居場所を、とても好きになっている事に気が付いた。


 産まれて初めて自分が世界に受け入れられた様に、そこにいてもいいと認められた様に感じ、楽に呼吸できた。


「俺、仲養学校が好きだ」


 そして直也はミツの両親の調停を思い浮かべた。

 出た結果にミツは泣いたが、そう決まってからミツは建設的に未来を見て歩く事ができる様になった。


「……それに戦滅師が戦う事で、余分な争いを防いだり、大勢の人が死んじゃう戦争がなくなるんなら、それはすごい事だと思う」


 直也はキリウの瞳に映る自分に宣言するかの様に言った。

「俺、そんな戦滅師になりたいんだ!」


 自分の影がキリウの目蓋に消えた。

 キリウは目を閉じ、歌う様に呟いた。


「お前を見ていると、ずっと前に忘れた気持ちを、思い出すよ……」


 キリウはゆっくり目蓋を上げた。目は、艶やかに濡れていた。


「見るもの全てが新鮮で、色んな事に一々驚いていた頃。

 朝が来る度に生まれ変わった様な気がして、夜が来るたびにこのまま世界が終わるんじゃないかと心配したっけ。

 おやつの大福一個がとっても大切で、おやつに半分食べて夜半分を食べ様ととっておいたら他の奴に食べられてすごく悲しかったとか」


 キリウは悲しそうに微笑んだ。


「俺はただ、やがて見る仲養学校での現実に、直也に失望して欲しくないだけなんだ……。そして、身動きが取れなくなる前に違う道を選んで欲しいだけ……」


 直也はキリウの呟きに引き込まれる様に耳を傾けていた。


 窓から吹き込む風が、二人の顔をさっと撫でる。

 外の景色には徐々に民家が目立つ様になり、街が、青草院が近い事を示していた。


「それでも、後悔しないと思うなら、仲養学校にいるといい」

 きっぱりと、重い話しを風に飛ばすかの様にキリウは言った。

「直也の人生だ、俺にはどうする権利もない」


 直也はキリウの言葉をもう一度考えた。

 そしてキリウの淋しそうな表情についても。


「俺、仲養学校好きだし、戦滅師にもなりたいと思う……」

 直也は伏目がちにちらちらキリウを見ながら言った。

「……けど、他の道、仕事とか生き方とか、全然知らないから、もしかしたらもっと好きなのに会えるかも……。だから、そういうの、仲養学校にいながらでも探してみる。色んな事とか経験して」


 直也は、一度大見栄を切った言葉をすぐに覆す様で恥ずかしいとも思ったが、自分の事を心から思って言ってくれるキリウの言葉を無下にできなかった。


「そうか! 直也は優しいな」

 キリウは途端に顔中笑顔になって言った。

「じゃ、まずは岡本屋でバイトなんてどうだ? まだ作る方は無理だとしても、ウェイターってのも岡本屋じゃ変だけど、まあそんな職募集してたぞ。ミッちゃんとももっと自然に会える様になるし」


 現金にも急に明るく生き生きとしだしたキリウに、直也は、

(兄ちゃんもまだ十分子どもっぽいじゃん)

と思った。


「えー、そしたら毎回兄ちゃんの新作の実験台にされちゃうじゃん!」

 直也も負けじと明るく言った。


「何だよ、実験台って。栄誉ある試食者第一号だろ」

 キリウが鼻にしわを寄せ笑うと、直也の頭を軽く小突いた。


「あ、ナオ、外見てみろよ」


 言われて外を見ると、青草院が遠くに、もう見えて来ていた。

 電車で帰って来る時、少し遠いが院を車内から見る事ができるのだ。


「兄ちゃん、帰って来たね」

 直也は仲養学校に入学してからの色々な事を思い出しながら言った。


「あぁ、帰ってきたな」

 キリウも院を見詰めながら、感慨深げに言った。


 細切れの田畑に囲まれた院は、直也の記憶の中そのままの姿だった。

 そして、院の建物二階の窓は全て開け放たれていた。


 そこには院長先生をはじめ、寮母の悦子先生や院の子ども達が鈴なりになっていた。

 電車の先頭が院の横を通りかかるちょっと前、子ども達と寮母の悦子先生はいっせいに手を振り出した。


「おかえりー! おかえりー!」

 ざわざわと風に紛れてそんな合唱が聞こえる。


「たっだいまー!」

 まだ院は遠いのに、直也は乗り出す勢いで窓にへばり付き、思いっきり手を振った。


「直也、あいっつら……他の乗客に恥かしいじゃないか!」

 キリウは苦笑いしてそう言ったが、その目はとても嬉しそうだった。


「兄ちゃん!」

 急かすように直也が言うと、キリウも笑って手を振った。


 電車がさらに院に近付き、キリウと直也に気付いたのか、子ども達は千切れんばかりの勢いで手を振り出した。


「キリウ兄ちゃーん! ナーオヤー! おかえりー!」


「ただいまー!」「ただいま!」

 直也とキリウもそう叫びながらさらに強く手を振った。


 懐かしい満面の笑顔に迎えられ、直也は、

(戻って来た‼)

そう思った。


 キリウを見ると、懐かしんでいる様な、ほっとした様な笑顔を浮かべていた。


「おかえりーおかえりー」「ただいまーただいまー」


そんな合唱が七月の風に乗り、青々とした稲の葉をきらきらと揺らしていった。


                                (了)

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センメツ こばやし あき @KOBAYASHI_Aki_4183

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