Heavenly Blue

縦縞ヨリ

Heavenly Blue

 東京の夏は混沌としている。

 すし詰めの山手線を降りると、途端、むわっとまとわりつくような熱気が、肌にべったりと張り付いた。

 御徒町は隣の駅とは違い、観光とは殆ど無縁の問屋街だ。

 俺と同じ様なサラリーマンが、エスカレーターを目指してゾロゾロと歩く。俺もそれに混じって、一瞬で滲み始めた汗を拭った。

 殆ど名ばかりのクールビズ。ワイシャツの下に仕込んだインナーシャツは、速乾性じゃないと、とても着ていられない。

 今日もコンクリートが熱を溜め込んで、暖炉の様に大都市を燃やしている。

 何で駅ってこんなに生臭いんだろう。

 人の匂い、ファストフードの排気の匂い、昨晩吐いたであろう酔っぱらいの残り香、最早本人に感知できなくなっているであろう香水。

 それらが熱気に揮発し溶けて混ざり合い、都会特有の不味い空気になっている。

 でも俺は、この生臭い街が性に合っていた。 

 体に染み付いた動作で改札を通り抜け、朝っぱらから照りつける日差しの下、会社までの道程を歩く。

 溶けそうなビルの壁で、アブラゼミが一匹、狂ったように鳴いている。

 

 大学進学と共に茨城から上京して、卒業後は御徒町の宝飾品卸に入社した。

 ジュエリーの需要は殆どがブライダル。皮肉な事に、俺には生涯縁のない物である。

 営業先に向かう道すがら、ふと見ると、フェンスに青色の朝顔が絡みついていた。

 丸い花が五、六個。蕾は幾つもあるから明日も咲くだろう。今咲いている花は昼過ぎには萎れ、朽ちてしまう。

 一瞬の美しさを謳歌する花。それを見ると、苦味が喉を焼く心地がした。

 故郷の幼なじみは、濃い青の朝顔が好きだった。


 小学高一年生の夏休み、俺が朝顔の観察日記を書いていると、向かいの家の晴彦ハルヒコが、薬味を擦る様な小さなすり鉢を持って、庭に入ってきた。

「アキちゃん、朝顔もらってもいい?」

「咲いてるやつ?」

「うん」

 丁度日記も書いたし、今朝咲いた花はどうせ萎れてしまう。緑の植木鉢を見ると、支柱に絡みついた蔓には、まだ幾つもの蕾が付いていた。

「咲いてるやつはいいよ」

 晴彦はパッと笑顔になった。

「ありがと!」

 言うや否や、プチプチと花を摘んで、すり鉢に押し込んでいる。

「それ何すんの?」

「絵、描くの」

 すり鉢の中では、既に潰されて原型の無い朝顔が、青い汁を滴らせている。これを使って家で絵を描くつもりらしい。

「俺も晴彦ん家行っていい?」

「いいよ!」


 縁側には、一輪だけ残った朝顔の鉢が寄せてあった。投げ出された観察日記を捲ってみても、殆ど何も書かれていない。

 晴彦は絵の具セットの筆だけを出して、すり鉢でぐちゃぐちゃにした朝顔の汁に浸す。

「何で一個だけ残ってんの?」

「見ながら描くから」

 画用紙に筆を置く。朝顔の輪郭を丸く辿って、晴彦は不満気な顔をした。

「色が違う」

 濃い青の花をすり潰した筈なのに、画用紙に置かれた色は少し茶色がかった薄青という、なんとも微妙な色だ。

「何で同じ色にならないんだろう」

 晴彦はぶつぶつ言いながら、変な色の朝顔を描いた。どうせだったら観察日記に描けば良いのに、画用紙に描いていた。

 アブラゼミが目覚めた様に一斉に鳴き出して、頬をさらりと夏風が掠めていく。

 家の近所は、山林とだだっ広い畑しかない様な田舎だ。日差しが強いと言っても、生い茂る木々に冷やされた風は涼しかった。

 自然豊かな故郷の、清涼な夏。

 いつしかそこに、俺の居場所は無くなった。


彰人アキトさんこれ検品お願いします」

「はいよ」

 俺は白手袋を引っ張り出して、ビニールに入った仕様書と商品をトレイに出した。ルーペを目に近付けて、シンプルなマリッジリングの刻印を辿っていく。

“ A to H 16.8.2024”

 ……そりゃイニシャルが被ることもあるか。

「……おい、ちょっとここ見て」

 俺に商品を渡した新人は、受け取ったルーペで指輪を覗き込む。

「刻印は問題無いけど、ここ……薄ーく傷があるの見える?押し込めば綺麗になるから、職人さんに戻してキサゲかけてもらってくれ。納期まだ余裕あるから」

「……これだけでですか!?ルーペ無かったら分かんないですよ!?」

「俺らにとっちゃ毎日見るもんでもお客さんからしたら一生に一回のもんだぞ、取りに行った時にもっとまともな検品しろ。とっとと行ってこい」

「……はーい」

 すごすごと退散した新人に、内心溜息を吐いた。

 晴彦もいつか、誰かと指輪を買ったりするんだろうな。

 もしも俺の会社のものだったら、手元に届いた指輪が完璧な物であって欲しい。

 俺には何も出来ないから、せめて何か小さな所でも、晴彦の幸せに寄り添えたら良いのに。

 そんな重たい事を考えていると言ったら、晴彦は笑うだろうか。それとも困った顔をするのだろうか。もう六年も会っていないので、表情すら想像できない。


 晴彦は、気がつけば何時でも絵を描いていた。

 大体は花で、水彩絵の具とスケッチブックを持って、俺が横を通り過ぎるだけの季節の花々を、取り憑かれた様に描いていた。

 俺は筆で濡らした白い紙に輪郭が浮き上がり、やがて形を成して花が咲く様子を横で見るのが好きだった。

 麦わら帽子の下、Tシャツから覗く腕が真っ黒に焼けて、汗が滲んでいる。

 俺は目を逸らして、黄色いバケツの濁った水に視線を落とした。

「なあ、水換えてきてやろうか」

「…………」

「なあ、晴彦!」

「えっ?何?」

 気が付いていなかったらしい。晴彦はビクッとして顔を上げる。

「水換えてくっから」

「あ、ありがとう」

 俺は汚れた水をその辺の側溝に流し、擁壁に刺さったパイプから湧水をドボドボと注いだ。

 酷く喉が渇いていたので、ついでに屈んで直飲みする。山に洗われた水は甘い。晴彦の腕はきっと汗でしょっぱいだろう。

「ん」

「ありがと……」

 俺はバケツを置いて、また晴彦の横に陣取った。スケッチブックには、山道に自生した青い朝顔が描かれている。

 鮮やかな大輪の花は、自身の命が今しか無いと知っている様に、酷く艶めかしく晴彦を誘っていた。

「アキちゃんはさあ……」

「ん?」

「……何で俺と遊んでくれんだ?」

 晴彦は虐められてこそいないが、中学では浮いている。

 いつも絵を描いていて、勉強はあんまり出来ない。からかわれても穏やかに笑うので弄りがいもなく、案外背が高いが猫背で、気味が悪いと言う奴もいる。

「何でって?」

「他の友達もいるじゃん」

 自分で言っていて照れくさかったのか、逃げるようにスケッチブックに向かう晴彦の、麦わら帽子から除く襟足が少し長くて、汗で首に張り付いていた。

 俺はそれに、齧り付きたい様な衝動に駆られた。

「……別に、フツーに居心地良いから」

 

 熱せられたアスファルトが陽炎かげろうを吐いている。

 浅草橋の駅を降りると、果物屋に一抱え程の西瓜が並んでいた。チラリと値段を見て、思わず二度見する。なんで西瓜一玉四千円もするんだ。

 一体どんなもんなんだと見てみたら、「茨城産」と書いてある。

 確かに贈答用とあって大きくて綺麗だが、俺からしたら普通の縞玉だ。思えば地元にいる頃は、西瓜なんて買ったことが無かった。

 大体母親の馴染みの友達が持ってきてくれて、丸ごと井戸水で冷やしていたものだ。


 縁側に座り、冷えた西瓜を晴彦がざくりと齧る。

 障子の向こうから、おばさん達のしゃがれ声が聞こえている。

 

 ――やっちゃんとこのお嫁さん子宮の病気で手術したってまだ若いのに孫が結婚しない出戻り皆でてっちまうこれだから若い人は筑波に大学があるのにあそこの家の子はまだ家に居るのか見合いゆうちゃんに初潮が来た仏具屋の子は変わってっから――

 

 晴彦は仏具屋の息子だ。俺たちがここに居るのを分かって言っているんだろうか。

 知りたくもない情報が勝手に耳に入ってくる。

 今だけじゃない。この辺の人達はいつだって、異端者を炙り出しては、猫が獲物を弄ぶ様に蹂躙するのだ。

 俺は、晴彦にしか聞こえない声で言った。

「高校出たらさ、東京の大学行くんだ」

 振り返った晴彦は目を見開いていた。口から離した西瓜の汁が、微かに出た喉仏を伝っていくのが見えて泣きそうになった。

 俺は異端者なのだ。

「なんで?」

 だって、俺は彼女も出来ないし、結婚もしないし、孫も作れないし、何よりお前の事が好きだから。

 言える訳が無い。

 だって、俺の故郷は綺麗すぎるから。この清涼で閉鎖的な故郷に、同性愛者である俺の居場所は何処にも無いのだ。

 見つかれば糾弾され、周囲の嘲りと侮蔑に晒され、気狂いと恐れられ、そしてきっといつか壊されてしまう。

 考え過ぎかも知れないが、背後から聞こえる母達の悪気無い陰口が、俺の被害妄想を肯定していた。

「……俺は、このクソ狭い田舎が大っ嫌いだ。知らねえおっさんが家のじいちゃんと自分家の子の生理の話してたりするんだぜ?……気持ち悪いんだよ、俺はもっとサバサバしたとこに住みたい。……俺の事、誰も気にしない様な」

 晴彦はじっとそれを聞いていたが、やがてまた、シャクッと西瓜を齧った。咀嚼して、種を庭に吐いて、それからゆっくり言った。

「……ヤな事言う人も居るけど、俺はここが嫌いじゃねぇよ、……花が綺麗だし、絵も描けるし、俺は、……」

 風が気持ちよくて、後ろから聞こえる醜悪な会話はつまらないラジオみたいだ。どうでもいい事をなんであんなに熱心に語れるんだろう。

 晴彦の目が潤んでいた。

 俺にとって、大切なのは晴彦だけなのに、永遠に手を伸ばす事は叶わない。

「……俺はアキちゃんと居たら何処だって楽しかったから、ここが嫌だなんて思った事、一回も無いよ……」


 晴彦は高校を出てすぐ、父親の仏具屋兼石屋を手伝うと言っていた。

 だから俺が上京しても、盆と正月くらいは会うだろうと思っていたのだ。

 ただ、会いたくても会えばきっと苦しくなるし、地元も嫌いだったから、中々帰る気にはならなかった。

 結局、東京に出てから三年目の盆に故郷に戻ると、晴彦は居なくなっていた。

「ハルちゃん、東京の予備校さ行ったっぺよ。お父さんとことかでバイトしてお金貯めて」

「何で……」

「そんなん知らんよ、よっちゃんに聞いて来たら」

 一緒に居た頃、晴彦は携帯電話を持っていなかった。向かいの家は晴彦の実家だ。おばさんに聞けば連絡先くらい教えてくれるかも知れない。

 でも、聞いた所でどうするつもりだ。

 晴彦に会いに行くのか?わざわざ自分で傷付く為に。

「せっかくひたちなかに大学があんだから、そっちに行った方がいがっぺ。絵なんか勉強しても食ってけね、ハルちゃん昔っから変わった子だったから、よっちゃんも困って……」

 連絡先を聞きに行くべきだろうか。

 俺はスマホを開いて、苦く笑った。

 ゲイ専用のマッチングアプリに、通知が幾つも来ている。東京はびっくりするくらい遊ぶ相手に困らない。

 俺はもう、晴彦と一緒に居た俺では無いのだ。汚れた遊びを覚え、空気の不味い街で、人並みに苦労しつつ、自由に楽しく暮らしている。

 母親は俺がこんな事をしていると知ったらどんな顔をするだろう。卒倒するくらいなら良いが、勘当されてもおかしくない。

 晴彦は何処で何をしているのか。何にしたって、俺の気持ちがあの胸に届く事は無いのだ。

 ヤケになって叩き付けた所で、砕け散って互いを傷つけるだけの厄介な思いだ。

 蕾のまま枯れた朝顔みたいなもので良い。艶やかな花を咲かせることも無く、誰の目にも留まらず、実を結ばずに朽ちていくだけ。

 それで良いじゃないか。そう言い聞かせてずっと生きてきた。

「あんた、そろそろ良い人居ねぇの?いい歳なのに彼女の一人も連れて来ねぇで」

「……いねぇよ」

「あーあ、早く孫の顔が見てぇなあ」

「……気が早ぇよ、まだ学生だぞ」

 軒先に吊るされた風鈴が、チリンチリンと涼し気な音を立てている。俺のアパートで吊るしたら、不動産屋から苦情が来そうだ。

「彰人、今度帰ってくるときは彼女連れてきなよ」

「……何言ってんだ、んな簡単に親に紹介しねっぺ」

 早く東京に帰りたい。故郷の空気は綺麗すぎて、胸が苦しい。


 上京して大学に入って、勉強して、バイトして、飲み会に行って、勇気を出してマッチングアプリに登録して、男とそういう関係になって、たまにクラブでも遊んで。気の合う友達も沢山できて、楽しくて。

 でも日に焼けた晴彦の横で、一筆一筆、立体感を増していく絵と、汗の滲む肌を見ていたあの頃の気持ちには、何も敵わなかった。


 今年ももう八月だ。盆くらい帰って来いと母親がうるさい。

 どうせまた、「彼女は」「孫の顔が」「世間体が」「適齢期が」とそればっかりなのだ。去年の年末なんか、居間に見合い写真が積んであった。

 いっそカミングアウトしてしまおうかとも思うが、母親のうざったさと共に、優しさだって沢山感じて生きてきた。こんな事で母親を傷つけるのは申し訳ないと思う。

 結局の所、俺が異常なだけなのだ。


 晴彦は元気かなあ。


 東京の予備校だか学校だか知らないが、今頃俺と同じように、不味い空気を吸っているのかも知れない。

 どうか元気で居てくれ。

 重たい営業鞄を持ち直す。俺は指輪ばっかり売っているのに、自分の物も、晴彦にあげられるものも、一つも入っていない。きっと俺は生涯指輪なんか買わない。

 車窓から照りつける日差しが眩しい。

 電車の外は街全体が溶けだして、ぐちゃぐちゃに掻き回されるみたいな暑さ。

 でも俺はここが好きだ。

 山手線の中は、あらゆる人種の観光客と、くたびれたサラリーマンと、今から同伴であろう派手なスーツのホスト、子供、大人、奇抜なファッションの若者、性別の分からない様な人、それはもうサラダボウルみたいに入り乱れているのに、誰も周囲の人に冷たい目線を送ったりしない。

「次は上野、上野――」

 故郷は清廉だが、異端には容赦の無い残忍さも孕んでいた。

 東京は街全体がぐちゃぐちゃで、無関心で、それ故に俺なんかにも優しい。

 鶯谷を過ぎて、上野駅に止まる。

「あ……」


 ホームに、晴彦が居た。


 すっかり白っぽくなった肌に、黒いリュックを背負って、白いシャツに紺のハーフパンツにサンダル。伸ばしっぱなしらしい髪を後ろで一つに結んでいる。

 すっかり垢抜けて、かつての面影は無い。しかし相変わらず背筋が曲がっていて、間違いなく晴彦だった。

 開いていたドアが閉まる。

 俺は食い入るように晴彦を見ていた。

 俺と一緒の電車で来て、上野で降りたのだろうか。重そうなリュックを背負い直し、背中を丸めて、ふとこちらを見た。

 一瞬だけの再会だった。

 声も出せずに見つめる俺に、あいつは少し困った顔をして、ペコッと頭を下げた。上げた顔は、思い出と寸分違わぬ穏やかな笑顔だ。ふわりと振られた指先は、青い色に染まっていた。

 心臓が鷲掴みにされた様な気がした。

 電車が動き出し、御徒町に向かって走り出す。晴彦があっという間に遠ざかって、見えなくなる。

 これで良かったんだ。晴彦と俺の人生は、もう二度と交わる事なんて無い。

 そう思おうとしたのに。


 俺は御徒町で飛び降りた。

 体温よりも余程高い熱風が襲ってくる。

 灼熱の太陽に焼かれたコンクリートが熱を溜め込んで、駅のホームは何時だって何故か生臭い。まだ仕事の途中だ。手には重たい営業鞄。何やってんだろう。

「ハハハ……!」

 一人で笑ってたって誰も振り向いたりしない。

 頭のおかしくなるような、混沌とした灼熱の東京。

 丁度来ていた内回りの山手線に飛び乗る。

「 次は上野、上野。お出口は左側です。新幹線、宇都宮線、高崎線、常磐線、上野東京ライン、地下鉄銀座線、地下鉄日比谷線はお乗り換えです。The next station is Ueno,――」

 上野まで一分か二分だ。

 あいつに追いつけるだろうか。追い付いた所で何を言うつもりだ。

 もう、何だっていい。

 ホームに飛び降り、熱気を掻き分け駅を走った。

 上野駅はそこそこ広い上、出口だって幾つかある。もしかしたら乗り換えだったのかも知れない。分からない。

 しかし、青く染った指先。まだ絵を描いているなら美術館方面かも知れない、ならば公園口。

 見つからなければ仕方ない。

 でも、熱風吹き荒ぶ混沌は、あの清らかな故郷では生きられなかった俺の気持ちだって、ぐちゃぐちゃに溶かして飲み込んでくれる。だからただ、走れば良い。

 

 いつだって晴彦の事ばっかり考えていた。もう無理だ。だって会いたくて堪らない。

 何も晴彦の代わりになんてならなかった。

 このまま枯れてしまっても良いと思っていた。

 でも、あの大輪の朝顔の様に、今だけで良い。精一杯生きたい。直ぐに朽ちたってかまわないから。


 駅構内を全力で走り、肺が悲鳴を上げ汗が目に入るのも気にせず、観光客を散々追い越して、灼熱の太陽の下に飛び出した。


 真っ白な日差しが瞼を焼いた向こうに、黒いリュックの、緩やかに曲がった背中が見えた。


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