『猫』

枕川 冬手

『猫』

妙に月の綺麗な夜だった。


私はグラスを片手に、マンションの一室から夜空を眺めている。

乗り出したベランダには涼しい夜風が吹いていて、耳を澄ますと鈴虫の声が微かに聞こえてきた。

マンションは閑静な住宅街に立っている。目立った都会でもなければ、これといって田舎という訳でもない。深夜1時には殆どの灯りが消えるような、何処にでもある健全な街だった。


人の声は聞こえない。眠った街で、私一人が取り残されているような気がする。


カララン


静寂の中、グラスの氷が小気味良く音を立てた。

誰に追われているでも、悪事を働いたでもない。分かっていても、音を聞きつけた誰かに、そんな憶測に鳥肌が立った。

静寂を乱した事への叱責というよりかは、微かな音への視線、暗闇から向けられた興味を感じた気がした。きっと悪意ではないのだろう。だからこそ、向けられた者を震えさせる何かがあった。


硝子のグラスには強めのウォッカにライム・ジュースを混ぜたものと、角張った大きな氷が入っている。思い出せないけれど、確かちゃんとした名前があったと思う。


半分ほど飲み終わった頃には、もうそこそこ酔いが回っていた。

人よりかは少し呑める。ただ、わざわざ部屋でカクテルを作るくらい酒が好きな訳でもない。私は独り身で、夜中に酒を呑み交わす相手もいなかった。

今日はそういう気分だっただけ。誰にでもある、ただの気まぐれだった。


また一口、グラスを傾けて酒を含む。

舌を包むライムの香りと、鼻腔を通り抜けるアルコールの浮遊感が私を満たした。

しばらく口で転がしてから、飲み込む。冷たかった液体は形を持った熱となって、口から喉、喉から胃へと通り去っていった。


輪郭がぼやけ始めた視界の中に、夜空に浮かぶ月が映る。


浮かんでいるのは明るい満月ーーーそれこそ猫の目のように丸かったーーであるのに、今日の月は言い知れぬ不気味さを孕んでいた。或いは不自然、と言っても良い。明確に言うことはできないけれど、見ていると何処か引っ掛かる違和感があった。

まるで月が私だけを見ているような、ずうっと見ていると自分が薄れて消えてしまうような、足のすくむ不安を感じさせた。


 夜空に見えるのは月だけで、どこを探しても他に星らしきものは見当たらない。黒い紙からそこだけ切り抜かれたかのように、まんまるの月だけが青白く光っている。


カララン


もう一度、グラスが音を立てた。


 ***


どれくらい経っただろう。

かなりの時間を過ごした気もすれば、2、3分だと言われるとそうである気もする。

眠っていたわけではないが、まるで夢を見ていたようだった。

その間に車は何台通ったのか、街の灯りは幾度点滅したか、果てには自分が何を考えていたのかさえ覚えていない。飲み干されたグラスの中身も、いつの間にか溶けていた氷も、何時からこうなっていたのか思い出せない。

壁に掛かっている時計に目を向ける。暗闇に飲まれた部屋に目を凝らしたけれど、二つの針がどの数字を指しているのかは見えなかった。


ふらつきながら部屋へと踵を返す。

すると、


 「にゃあ」


不意に、真横から猫の声がした。


普段ならば、気のせいだと無視していただろう。

私の部屋は8階建てのマンションの5階にある。無論、私は猫を飼っていない。

因みに角部屋だから、お隣さんは一人しかいなかった。

そのお隣さんも猫を飼っていた記憶はないし、何より少し前に亡くなっていた。小耳に聞いた話だが、部屋で首を吊っていたのだとか。お陰様というと不謹慎だけれど、以降私の家賃はかなり減額された。


兎に角、猫などいるわけがないのだ。


酔っていたのも理由の一つかもしれないが、例え今、同じ状況にあっても私は振り返るだろう。

。ひどく曖昧で抽象的だけれど、理由は本当にそれだけだった。


声の方向ーーー部屋の方を向いていたから、私から見て左ーーーを向くと、白猫が一匹、外付けの換気扇の上に前脚を立てて座っていた。


白猫を視界に映して、まず最初に美しいと思った。

曇り一つない真白の毛並みは、月明かりに薄く光って見える。瞳は海を閉じ込めたような藍色で、その視線は私の双眸を捉えていた。違和感という不純物に目が向いたのは、ずっと後の事だった。


「月の綺麗な夜ね」


猫は静かに言った。

どんな声だったかは思い出せない。

彼女ーーー女性だったと勝手に思っているーーーのことを話すにあたって、記憶の中を何度も探ったのだけれど、どうしても思い出せなかった。いつ、どんなことを言ったのかは覚えているのに、その形だけがすっぽりと欠けていた。

美しい声だった、ということだけは覚えている。


声の主が猫であることには、一つの疑いも抱かなかった。

今となって思い出してみると不思議なことだ。私は既に、猫が喋ったと言う事実をすんなりと受け入れていた。当然であるかのようにさえ感じていた。

同時に、目の前の猫は高貴な存在なのだとも思っていた。これもまた不思議な話で、直感で確信していたのだ。「美しいから」「喋るから」高貴なのではなくて、彼女の存在自体が尊ぶべきものなのだと。


「ええ、本当に」


私の声は震えていたと思う。

彼女と目が合ってから、時間がゆっくりと流れている気がした。


「ふふ、畏まらなくても良いのよ。私も気まぐれで来たから」


そう言って、彼女は長いしっぽを揺らした。

私は猫の表情なんて分からない。けれど、目を細めて僅かに口角を上げた様は、柔らかな微笑みに見えた。


「珍しいわね、いつも貴女は寝ているでしょう?」


「え、はい。今日はちょっとそういう気分で」


いつも私を見ていたかのような言葉に、少し戸惑った。

私の様子を察してか、


「大丈夫、びっくりするのも当然よ。でも、。変な言い方になっちゃうけど、あなた達のことはいつも見ているわ。怖いかしら?」


と、彼女は諭すように言った。


彼女以外の猫も含めるとしたら、確かにそうかもしれない。けれど不自然だ。彼女は「私」と言ったのであって、「私達」とは言っていない。

彼女だけのことを指すのであれば、一体どういう意味なのだろうか?まるで自分が空気のような、どこにでも存在する必然であるかのような言い方だ。

酔いが覚めた後で考えてみたけれど、それらしい答えは出なかった。


「怖くは、ないです」


少し考えてから言葉を返す。

心のどこかでは彼女を怖がっていたかもしれない。

例えそうだったとして、恐怖をすっかり忘れてしまうくらい彼女は美しかった。少なくとも私は彼女に見惚れていた。


「あら。私のことを怖がる人も多いのよ?逃げ出す人までいるわ」


面白がるように彼女が言うと、また尻尾が揺れた。心なしか微笑みが深くなったように見える。

彼女を見て逃げ出す、それはどんな人なのだろう?いきなり猫が喋ったから驚いたのだろうか?単に猫が嫌いだったのだろうか?

確かに猫が喋ったら驚くだろうし、その点で言えば私がおかしいのかもしれない。


「それじゃあ、私のことをどう思う?」


緩やかな笑みを浮かべたまま、彼女が問う。

藍色の瞳に私の姿が映っているのが見える。


「綺麗だと思いました」


そう答えると、彼女は「綺麗。」と私の言葉を繰り返した。驚いたのか、少しだけ瞼を大きく開けて。三角の耳がピクリ、と楽しげに動く。


短い沈黙の後、彼女は一度目を瞑って、空に浮かぶ月へと顔を向けた。月明かりが、横顔を照らしている。

暫く月を見つめていたけれど、ふと私に向き直って、


「面白いわね。貴女には私が見えているのね。」


と小さく呟いた。

「貴女には見えている」、意図は分からなかったけれど、私は彼女のことが美しい白猫に見えたのだ。きっと、それだけでいい。


「ふふ、短いけれど楽しかったわ。また会いましょう」


ゆっくりと後ろ脚を立てると、彼女はベランダの手摺りに飛び乗った。


「次はいつ会えますか?」


「そうね、それは貴女次第。でも必ず会える日が来るわ。」


彼女は目を細めて、こう続けた。


「忘れないで、貴女は特別な人よ。私に2回も会うんだもの。」


***


「それから何かあったんですか?」


「いや、別に何も無いよ?ただ二日酔いが辛かったのと、大学の講義を2つ落としただけ」


美味しそうにキャベツとハムのサンドイッチを齧る彼女は、「ごめんね、オチとかは無いの」と、さほど申し訳なく無さそうに言った。

昼の一時過ぎ、僕たちは喫茶店で遅めの昼食をとっている。アンティークな雰囲気の店内は、狭いながらも気品があった。木と硝子のドアの脇には振り子時計があって、ゆっくりと時間を刻んでいる。


「こちら、ナポリタンです。ご注文は以上で?」


「はい、ありがとうございます」


湯気を立てるナポリタンの皿をテーブルに置くと、無精髭を生やした店主は軽く頭を下げて、厨房に戻って行った。

隅に置いてある籠から、フォークとスプーンを取り出す。


「ねぇ、猫って触られるのを嫌がるらしいね」


唐突に彼女が言った。


「猫によると思いますよ?」


僕が言うと、


「”猫による”」


ツボに嵌ったのか、ケラケラと彼女が笑った。もうそこそこ長い付き合いだけれど、未だこの人のツボが分からない。

ひとしきり笑ってしまうと、彼女はもう一度サンドイッチを齧った。その後で、


「きっと、彼女はいつも近くにいるの。私達が気付かないだけで。」


独り言のように、彼女は話を続けた。

耳を傾けながらナポリタンをフォークに巻く。

口に入れると、昔ながらのトマトの香りがした。


「貴方にはどう見えるんだろうね、彼女のこと」


見る者によって「猫」が姿を変えるような物言いだ。

ナポリタンを飲み込んで考えてみるけれど、そもそも「猫」とは何なのか分からない事には、答えようがない。

或いは何かの謎掛けで、正解があるのかもしれない。

彼女はそういった話が大好きだし、猫の話もその場で思いついた気まぐれと思えた。喋る猫なんているはずがない。本当だったとしても、酔って夢でも見たのだろう。


何か気の利いた答えを考えようと、これまでの話を思い出す。


ーーー彼女には美しく見えた白猫。

ーーーどこにでもいて、いつも僕たちを見ている。

ーーー二度遭うことは滅多になく、彼女には気まぐれで訪れた。


そして、触られることを嫌う。


(あっ、)


恐らく正しいであろう、一つの答えが頭に浮かんだ。これなら全てに辻褄がつく。

作り話なのか、ただの夢なのか。もし本当に正しいとするなら、話が出来過ぎている。或いは現実に起こった出来事なのかもしれない。


だとしたら。

触られることを嫌う、では不足があるだろう。ーーーーーー


「にゃあ」


不意に、背後から猫の声が聞こえた。


振り返ろうとして、寸前でやめた。振り返るべきではないという確信があった。

顔を上げると、変わらずサンドイッチを頬張る彼女の姿がある。声には気づいていないようだ。

ほっと胸を撫で下ろす。


「どうしたの?」


「いや、別に何でもないですよ」


本当に振り返らなくて良かった。

きっと、僕には「猫」が悍ましい化け物に見えてしまうだろうから。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

『猫』 枕川 冬手 @fuyute-shinkawa

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ