月光の下
花月 零
第1話
夜風が頬を撫でる。生ぬるいその風は夏を思わせてくれる。裸足でサク、サクと砂を踏みしめて誰もいない夜の海で私は一人、波の音を聞きながら月を見上げた。
突然だが、私の話を聞いてほしい。私はある時から急に普通の生活を送れなくなった。これもまた突然で最初は何が起きているのか自分でも分からなかった。朝、学校に行く支度をするために体を起こそうとすると、鉛のように重くてとてもじゃないけど起き上がることが出来なかった。様子を見に来た母に今の状況を話すと、熱も無いし、特別頭が痛いわけでもない。でも、体だけが異常に重いということで一日だけ学校を休んで様子を見ることにした。
するとどうだろうか。午後からは急激に体調が回復して普通に起き上がることが出来たのだ。それを見た母は
「あんた、ただずる休みしたかっただけじゃないの?」
と邪推してきたがそれはあり得ないと自分が一番よくわかっている。そして、次の日もまた次の日も、私の体は動かなかった。流石におかしいと思って母と共に病院にかかると
「起立性調節障害ですね。」
診断されたのは、起立性調節障害。簡単にまとめると自律神経が乱れて午前中は中々体が動かず、午後になるにつれて体が活発に活動できるようになる思春期によくみられる症状らしい。
自分だけ特異な体質じゃないんだと安心したのもつかの間、帰り道の車の中で母は芯を持たせた声で
「あんた絶対に学校さぼるんじゃないよ。」
と私に向かって言い放った。思わず母になんで、というと今まで見たことのない勢いで母は声を荒げて私に向かって怒鳴ってきた。
「当たり前でしょ!?障害だなんてたいそうなこと言ってるけど、要するに午前中動けないだけの話じゃない!そんなのあんたの気持ちでどうにかなるでしょ!?勘弁してよね、普通じゃない子になるなんて冗談じゃない。」
この瞬間、母は“普通”を渇望してることがいやという程理解できた。思い返せばいつでもそうだ。ほんの少しテストの点数が平均点より低かったり、習い事で他の子が簡単にこなせる基礎練習に思うようについて行けなかったりすると母は狂ったように怒り出す。
決まって、普通ならできるのに何であんたはできないの。なんで遅れるの。同じことをしてるのに何で。そんなことをずっと言われ続けた。
こういう時に父が居たら助け船を出してくれるのかもしれないけれど、生憎、父は私が幼い時に事故で亡くなった。いま思えば、縋れるのが私しかいないからこそ母は過敏になっているのかもしれない。
そんなことが起きたのが大体一ヶ月くらい前の話。今は母が望む通り“普通”の高校生として学校に行っている。ただ、担任に事情を話して何かと便宜を図ってもらっているけれど。母にこれがバレたらまた烈火のごとく怒りだすのだろう。
そんな感じで私は日常生活を送っているけれど、正直心も体も限界だった。当たり前というのであればそうなのだけれど。脳がこうしてほしいと指令を出しているのにそれを上書きして無理やり動かしているのだから。
そんなひねくれたことを考えながらまた砂を踏みしめる。日中の刺すような日差しをたっぷりと吸い込んだそれはまだ温かい。少しの心地良さを感じていると、不意に波の音に紛れてはいるがそれ以外の音が聞こえてきた。
音の方に目を向けてみると、同い年くらいの青年が私の方向に歩いてくるのが見える。私がここに来た時は誰もいなかったはずなのに。その青年も私を見つけるとゆっくりとこちらに歩いてきて、適度な距離を取って私に話しかけた。
「こんばんは。珍しいね、こんな時間に僕意外の人がここに来るなんて思ってなかったよ。」
「……あなた、誰?」
「誰だなんてご挨拶だな。君も僕のことは知ってるはずだよ。」
「知らない」
「冷たいなぁ」
正直、初めに浮かんだ感想としては「なんだこいつ」だった。私が今まで生きてきた中でこういうタイプの人間との関りは必要な時以外なかったはず。それなのになんで相手は私は自分のことを認知している前提で話しかけてこれるのだろうか。
「きみさ、悩んでることあるでしょ。僕にはなんでもお見通しだよ。」
「あったら、何?私はあなたのことを知らないし、生活圏内にもいないでしょ。わざわざ話す必要性が見つからない。」
「本当に冷たいね、君。氷よりも冷たいんじゃない?」
本当に五月蠅い。心底面倒くさい。なんでこいつは私の私生活に踏み込もうとしてくるのだろうか。プライバシーとかそういうのを考えたことがないのか。
不満が募り、夜ということを忘れて思わず声を荒げようとしたその時、彼は予想もしていなかった、いや予想できなかったことを口走った。
「僕は、君なんだから。」
「……今なんて?」
あっけにとられた瞬間、ぐらりと視界が暗転し気がつけば右も左も上も下もない殺風景な空間に放り出されていた。何が起こったのか分からずに混乱していると不意に彼の声が聞こえてきた。
「あはは、びっくりしてるね。ここは僕と君のセーフゾーン。いうなれば誰にも邪魔されなくてゆっくり過ごせる場所。」
意味が、分からなかった。誰にも邪魔されないゆっくりできる場所なんてこの世に存在しないのに。これは夢?それにしたって感覚がはっきりしすぎてる。
彼はひょうきんに笑って見せるけれど私にしてみれば全然笑い事ではない。早くここから出て、普段通りに戻らなければ。
そうして焦っていると私の心を見透かしたように彼はまた口を開く。
「出たいの?なんで?ここを出たら君はまた“普通”に縛り付けられるんだよ?ここなら誰も何も言わない。君が望む生活を送ることが出来る。どうして出たいの?」
悪魔みたいだ。漠然とそう思った。なんて甘美な言葉達なのだろうか。確かにここから出てしまえば私はまた“普通”に異常に執着する母にいつかは壊されてしまうだろう。そう考えるとここにいるのも悪くないのかもしれない。
けれど、本当にそれでいいのだろうか。言葉を選ばなければ私は現実から逃げ出すことになる。それは、私にとって本当にいいことなのだろうか。
そうやって悩んでいるとまた声が聞こえてきた。より深く、私の心に語り掛けるように。
「君はずうっとここにいればいいよ。誰も邪魔しない、面倒だなんて思わない。ゆっくりとぬるま湯につかっていればそれでいい。」
その言葉を聞いた瞬間、私の心に引っかかっていた「何か」がすとん、と落ちて私の体はゆっくりと落ちていった。右も左も上も下も分からなかったはずなのに、本当にゆっくりと落ちていくのが分かる。
とぷん、と音がした。刹那、ぬるい何かに包まれて人肌程度の暖かさに思わず眠気に襲われてしまい、私はゆっくりと意識を手放した。
……眠りについて僕はゆっくりと意識を浮上させた。この子はやっぱり疲れていた。僕が想像する以上に。年齢に似合わないほど達観して、周りを頼ってはいるけれど頼り方はへたくそだ。僕が目覚めた時にはこの子は壊れかけていた。母親から“普通”を押し付けられてどれだけ苦しかっただろう。
僕がこうして自我を持った理由は分からない。気づいたら僕はこうだったから。月が煌々と輝く夜の間だけ僕は動くことが出来る。だから分かったんだ。夜の間だけ僕がこの子の体を借りて、朝が来ても返さなかったら、この子は学校に行かなくていい。眠り続けるから母親にも会わなくていい。そうすればこの子は壊れない。ずっと平穏に過ごすことが出来る。それが最善だから。
月明りが照らす砂浜で僕はさく、さくと音を立てながらゆっくりと歩いた。時間は深夜。もう昼間のぬくもりが消え去って冷えている砂を踏みしめながら。その冷たさが僕には妙に心地よかった。そして静かに僕を照らしてくれる月に背いてしっかりとした足取りで砂浜を後にした。
これから送る日常生活は「夜間に起きれる時は起きて、日中は眠り続ける」それが当たり前になる。僕はゆっくりとこの子の家に戻って静かにベッドに入った。きっと朝になっても眠り続けるこの子をみて母親はとてつもない怒りの感情に支配されるのだろう。
そういえば、僕はずっとこの子の中にいたのに、どうして砂浜にいるなんて勘違いをしたんだろうか。
……ああ、確かこの子は“普通”の生活を送れますようにって声に出して月に願っていたっけ。けどそれと同時に「誰か助けてほしい」って心の中で叫んでた。
……まさか、ね。
新月は願いを叶える伝承があるらしいけれど、月の光が好きなこの子が光をほどんを発さない新月に願いを言うなんて、ねえ。
月光の下 花月 零 @Rei_Kaduki
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