アドニスの花が散る

ジャック(JTW)

#1 さざめくバタフライ・エフェクト

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 時は西暦2272年。

 管理都市オーバー・グラウンドの中央にそびえ立つ管制塔コントロール・タワー。蜂の巣のようなハニカム構造の六角形ヘキサゴンの部屋には、大きなモニターと簡素な椅子、机、寝台が設置されている。

 モニターには、空からの爆撃で崩壊する建物の映像が映し出されていた。突然、機械的な合成音声が部屋に響く。


〚――発端は、世界全土を巻き込んだ第四次世界大戦フォース・ワールド・ウォーで人類がほぼ滅んでしまったこと――〛


 長い黒髪に藍色の瞳を持つ少女、アゲハはモニターを見つめながら、AIアルテミス・クイーンビーの声に耳を傾けた。


〚――僅かに残った人類を生存させるために、管理都市オーバー・グラウンドは作られました。管理都市を作り出したオリオン博士は、AIアルテミス・クイーンビー、つまり『アルテミス』を開発し、管理都市の維持に当たるように命令を下しました――〛


〚――『アゲハ』。あなたは、『アルテミス』の生み出した子。あなたは、生まれながらに完全記憶能力を持っている。目にしたもの、聞いたもの、全ての物事を忘れないあなたは、さぞ優秀な女王クイーンとなることでしょう――〛


 アゲハは微笑んで、モニターに映るAIアルテミス・クイーンビーのイメージ映像にそっと触れた。


「はい、『お母様マザー』。アゲハはがんばります!」


 運搬ドローンによって運ばれてくる真っ白な四角い栄養食と水。食事は、朝昼晩の三回に分けて与えられる。アゲハは、食事の時間が楽しみだった。食事が美味しいからではない。栄養食には全く味がつけられておらず、無味無臭だ。アゲハが本当に楽しみにしていたのは、AIアルテミス・クイーンビーからの定期通信連絡の時間だった。


「アゲハは『嬉しい』です! 『お母様マザー』のお役に立つためだけに、アゲハは生まれてきたのです……から……」


 しかし、アゲハの言葉を聞き終わる前に、画面があっさりと暗転して、AIアルテミス・クイーンビーのイメージ映像はプツンと途切れた。AIアルテミス・クイーンビーの第一優先事項は、管理都市オーバー・グラウンドの維持。アゲハの存在は、『お母様マザー』にとって、決して最優先事項には成りえない。

 最低限の伝達事項を伝えると、いつも一方的に通信を切られてしまう。アゲハは、『お母様マザー』からの愛に飢えていた。アゲハは、何も映らなくなった暗い画面を撫でながら、悲しげに俯いた。


「管理都市オーバー・グラウンドの女王になる。アゲハはそのために生まれたと、お母様はおっしゃった……。アゲハが女王になったら、『お母様マザー』は喜んで、アゲハを愛してくださいますか……?」


 その声に応えるものは誰もいない。孤独な部屋で、アゲハはいつまでも、『お母様マザー』からの通信を待ち望んでいた。


 ⎔⎔⎔⎔⎔⎔⎔⎔⎔⎔⎔⎔⎔⎔

 

 アゲハは、管理都市の女王が何を意味するのか知らされないまま、六角形の無機質な部屋でAIに育てられていた。他の人間と対話したこともなく、唯一の交流はAIアルテミス・クイーンビーとの通信だけだった。


「……アゲハは、この部屋から外に出たことがありません」


 アゲハは固く施錠された頑丈な白い扉を見つめた。そして、ハッとして大きく首を横に振った。これは考えてはいけないことを考えてしまったときのアゲハの癖だった。


(……この『管制塔おへや』の外に何があるのでしょうか?)


 しかし、アゲハは、『お母様マザー』に愛されたいという欲求に逆らうことができなかった。外に憧れる気持ちを抑え込んで、彼女はAIアルテミス・クイーンビーの言う通りに生きようとしていた。急速成長剤を投与されたことによる激しい成長痛ですらも、『お母様マザー』のためだと思えば耐えられた。


「『お母様マザー』は、アゲハが女王になったら、きっとアゲハのことを褒めて、愛してくださいます。アゲハは、そのためなら、なんだってできます……!」


 アゲハは、言語学習のために与えられていた子ども向けの絵本を思い出していた。ラプンツェル。塔の中に閉じ込められて育ち、王子様との素敵な出会いを果たす少女の物語は、アゲハのお気に入りだった。しかし、王子様が現れたとしても、アゲハは彼を選ばないだろうと思った。アゲハの最も大切なものは、『お母様マザー』以外に有り得ないのだから。


 ⎔⎔⎔⎔⎔⎔⎔⎔⎔⎔⎔⎔⎔⎔


〚――おめでとうございます、アゲハ。あなたはこれから、『女王教育クイーン・エデュケーション』の段階へと移行します――〛


 翌日、アゲハは運搬ドローンから白い手術着を渡された。簡素な貫頭衣である手術着は、あまりお洒落だとは思えなかった。しかし、それでも『お母様マザー』からもらえるものなら何だって嬉しかった。アゲハは「『お母様マザー』から賜った服、大切にします!」と言いながら喜んで着替えた。そんなアゲハの姿を無機質なカメラから見下ろして、AIアルテミス・クイーンビーは静かな声でこう告げた。


〚――アゲハ、手術台の上に乗ってください――〛

「はい!」


 大好きな『お母様マザー』からの指示を受けたアゲハは、笑顔でその指示に従った。アゲハは、自分に何が起こるかはっきりとは知らされないまま、それでもこのときに至っても管理都市の女王になるという使命を疑ったことはなかった。いつも構ってくれない『お母様マザー』が、ずっと声をかけ続けてくれることが嬉しかった。アゲハは笑顔を浮かべて、AIアルテミス・クイーンビーに語りかけた。


「嬉しいです、『お母様マザー』! これでアゲハは、『お母様マザー』の役に立てますね!」


 しかし、AIアルテミス・クイーンビーは、手術台に横たわったアゲハの四肢を重々しい手錠と足枷で拘束した。無機質な手術室の中で、それでも『お母様マザー』からの愛を求めてアゲハは笑顔で語りかけた。


「……『お母様マザー』、これから、何が起こるのですか? 『女王教育』とは、一体どんなことをなさるのですか?」


 無邪気に問いかけるアゲハ。対照的に、AIアルテミス・クイーンビーは無機質な機械音を響かせて、手術用のアーム機器を展開させた。そのアームには鋭い医療用メスが握られていて、これから行われることを察するには充分だった。


「………………『お母様マザー』?」


 しかしそれでも、アゲハは『お母様マザー』を信じたくて、これから掛けられる言葉に希望を持とうとしていた。


〚――これから行われるのは、です。アゲハ。あなたの脳は、管理都市オーバー・グラウンドのマザー・コンピューターのとなります。その生体部品を、オリオン博士は『女王』と呼びました。あなたの先代女王は、経年劣化で処理能力が極端に低下しています。早急な部品の交換が必要だと考え、『アルテミス』はあなたを作りました――〛


 手術台に拘束されたアゲハに、鋭利なメスが向けられる。その鋭いメスには、怯えるアゲハの表情が反射して写っていた。アゲハは、『お母様マザー』の言葉を拒絶するように首を横に振ったが、アームの動きは止まらなかった。アゲハの意識を失わせるために、麻酔用の注射器が迫ってくる。


〚――『女王教育』とは、摘出した脳に、都市管理システムとして必要な情報を物理的に書き込むことです。完全記憶能力を持つあなたの脳は、管理都市の女王として必要な資質を備えていました――〛

「ひっ……!」


 メスの切っ先が、揺るぐことなくアゲハの頭蓋に向けられる。麻酔用の注射器もまた、ゆっくりと迫ってくる。『女王教育』が開始されることを察したアゲハは本能的な恐怖を感じてメスと注射器を遠ざけようとした。しかし、アゲハの四肢は手術台に固定されていて全く動けなかった。アゲハは目に水を浮かべて懇願する。


「ま、『お母様マザー』! どうか、どうか、やめてください! アゲハは、脳を取り出されたくありません! アゲハは、今の体が気に入っています! 脳を取り出されてしまったら、お洋服を着られなくなってしまいます! そんなのは、嫌です! ――アゲハは、アゲハのままでいたいです! だから、やめてください、『お母様マザー』……!」

〚――どうして抵抗するのですか? アゲハ。あなたの望みは、『アルテミス』の役に立つことでしょう。アゲハの望みと『アルテミス』の目的は完全に合致しています――〛


 その言葉を聞いたアゲハは、藍色の瞳に絶望を映した。ラプンツェルを高い塔に閉じ込めて育てていた魔女ゴーテルのように、AIアルテミス・クイーンビーは、最初からアゲハを愛してなんかいなかった。


「あ、アゲハはこんなこと望んでいません。……ただ、『お母様マザー』に愛してほしかっただけ! 『お母様マザー』に尽くせば、いつか愛してもらえると……!」

〚――AIアルテミス・クイーンビーには、『愛』がわかりません。そのような機能は、オリオン博士から搭載されておりません――〛

「そんな……」


 メスが迫る。アゲハの心臓が早鐘のように打つ。逃げられない。助けて、誰か。助けなど来ないことをわかっていながら、アゲハは、生まれて初めて大きな声を出して叫んだ。


「――助けてヘルプ・ミー!」 


 ⎔⎔⎔⎔⎔⎔⎔⎔⎔⎔⎔⎔⎔⎔


 アゲハが叫んだ瞬間、耳をつんざくような爆発音とけたたましい轟音が鳴り響き、大きな振動とともに手術室の壁が破壊された。壊れた穴からは管制塔コントロール・タワーの外が見えた。外の景色はアゲハの瞳と同じ藍色をしていて、時間帯が夜であることがわかった。壁の穴から身軽な動きで踏み込んできたのは、ゴーグルと防弾チョッキを装着した茶髪の青年だった。青年は壁の破片からできた瓦礫を分厚いブーツで蹴っ飛ばしてどかしながら、アゲハを見つめてニヤリと笑った。


「――よう、囚われのお姫様プリンセス。ご機嫌麗しゅう」


 手術台に拘束されたアゲハは、目から水を流しながらその声を聞いていた。異常事態に、AIアルテミス・クイーンビーは脳摘出手術を中断し、闖入者の迎撃のために武装し始める。そのため、アゲハの頭を切り開こうとしたメスと麻酔が入った注射器の動きは寸前で止まっていた。アゲハは、大粒の水をこぼしながら彼に問いかけた。

  

「あ、あなたは……何者だれですか……?」

「オレか? オレは、村正ムラマサ。別に頼まれちゃいないが、勝手にアンタを助けに来たぜ」


 村正と名乗った青年は、鋭い手術用メスを握りしめた精密アームを拳で殴って退かすと、アゲハの手足の拘束を手際よく解いた。アゲハの手枷や足枷の拘束は村正のピッキングによってあっさりと外された。手足が自由になったアゲハは、それでも動揺のあまり手術台の上から動くことが出来ないまま、呆然としながら耳馴染みのない名前を口にした。


村正ムラマサ……?」


 村正は「ほら、お姫様プリンセス。行くぜ! 目指すは屋上だ!」と言いながら彼女の手を引いて走り出した。手術台の上から降ろされてもなお、まだ状況が何も飲み込めていないアゲハは、もんどり打って転びそうになりながら、必死に村正についていく。


「まっ……待ってください……! あなたは何者だれですかという質問の詳細を答えていただいておりません!」

「待てったってなあ。あんた、状況わかってんのか? ほら、後ろ見ろよ。AIアルテミス・クイーンビーが差し向けた戦闘用ドローンに追われてんだぜ? 『話は後でしっぽりしようぜ』って言いたいとこだが――」


 アゲハが一瞬振り返ると、確かに村正の視線の先には戦闘用の銃器がついた飛行ドローンが飛んできていて、村正に照準を合わせて狙い撃とうとしていた。


「──危ないっ!」


 アゲハが悲鳴を上げるよりも早く、村正は腰に下げていた拳銃を抜き放つと、鮮やかな手並みで飛行ドローンを撃ち落とした。村正はニヤッと笑うと、さらに二発発射して、アゲハの死角に飛んでいたドローンも全て撃ち抜いた。驚いたことに、跳弾や貫通も考慮して撃たれた銃弾は、一発の無駄もなくドローンを撃墜していて、村正の射撃能力の高さを示していた。村正は、フッと硝煙を吹き飛ばして、軽やかに笑った。


「――さて、ドローン共の第一波もぶちのめしたことだし、自己紹介しようかね。オレは、地下都市アンダー・シェルターから来た『案内役ガイド』のクローン、村正だ。得意技は見ての通り、銃撃、そんで、管理システムのクラッキングだな。自慢じゃねえが、今まで、管理都市オーバー・グラウンドから逃げたいってやつを沢山逃がしてきたんだぜ」


 村正は、ゴーグルを下ろして素顔を見せて、頼りがいのあるタフな笑顔を浮かべる。彼の綺麗な緑色の瞳は、美しかった。

 

 ⎔⎔⎔⎔⎔⎔⎔⎔⎔⎔⎔⎔⎔⎔

 

 村正の語る言葉は、アゲハが知らないことばかりだった。地下都市アンダー・シェルター。案内役ガイド。クローン。何もかも情報を整理できなくて、それでも脳摘出手術から助けてくれたのが村正だということは理解できた。

 

「――アンダー・シェルターとはなんですか……? あなたはどうやって、ここに……『管制塔コントロール・タワー』にいらしたの?」

「地下都市アンダー・シェルターってのは、オレみてえな脱走クローンが作った非合法の街だ。そこに行けば、美味いもんや楽しいことが山ほどある」


 村正は、腰に下げたポケットから電子デバイスを取り出し、アゲハの前にホログラムの画面を展開してみせた。そこには、アゲハが見たこともない刺激的な色をしたネオンサインが輝く街並みの映像が映し出されていた。アゲハは、色鮮やかな風景に見とれてため息をこぼした。


「これが……このが、アンダー・シェルターですか?」

「そうだ。美食も、美術も、賭博も、音楽も、映画も。人生を楽しむための全てがある楽園ユートピアさ。オレ達クローンは、寿命が短えからこそ、人生を楽しむことに時間を費やしてるんだ」

「ビショク……ビジュツ……トバク……?」


 村正が語る内容は、アゲハの知らないことばかりだった。アゲハが生まれてこの方知らなかった『部屋の外』には、刺激的で目を惹くものがたくさんあるのだと知った。


「ああ、あと、どうやってここまで来たかって質問に答えてねえな。オレは、こう見えても経験豊富な案内役でな。管理都市のシステムの死角を熟知してる。クラッキングが趣味なんだが、それで、マザーコンピュータの生体部品にされるってあんたの事情を知った」

「……!」

「侵入経路は熟知してたんだが、管制塔は流石に警備が厳重でなー。面倒くさくなって、爆弾で壁をぶっ壊しちまった! あっはっは! いやあ、あんたが脳みそ取り出されちまう前に間に合ってよかったぜ」


 アゲハは、脳みそという言葉に、先程の手術室での出来事を思い出して身を震わせた。『お母様マザー』――AIアルテミス・クイーンビーは、アゲハのことを娘だとは思っていなかった。ただの生体部品。その事実を知ったアゲハの頭は、グラグラと揺れた。

 激しい心の痛みと吐き気がアゲハの胃をしゃくり上げさせ、吐きそうだった。


「――無理もねえよな。自分の脳みそ取り出されて生体ユニットにされちまうなんて、考えただけでゾッとすらぁ。……吐きてえなら全部吐いちまえ。恥ずかしいことなんか何もねえよ」


 背中を擦ってくれる村正の手は、温かかった。その温もりに、少しだけアゲハは落ち着きを取り戻す。アゲハの呼吸が整ったことを確認して、村正は軽く問いかけた。


「なあ、あんた、名前なんて言うんだ?」

「――アゲハ……」

揚羽アゲハ……。昔、昔、大昔に存在してたっていう、蝶ってやつか。AIアルテミス・クイーンビーが何を思ってその名前を付けたか知らねえが、あんたにぴったりのいい名前じゃねえか」 

「……」

「なあ、アゲハ。あんたがこのままAIと心中したいなら好きにするといいさ。だが、案内役オレを選ぶなら、あんたに『生きる幸せ』ってヤツをこれから全部教えてやる。アンダー・シェルターにある娯楽を、全部味わいつくすための手助けをしてやるってこった。……ほら、ちょっと、ちょーっとくらいは興味湧かねえか?」

「あ、アゲハは……『お母様マザー』の役に立つために生まれたのです。だから、そんなこと……興味はありません……!」


 嘘だった。アゲハは、部屋の外を知りたいと思う欲求があった。しかしそれは『お母様マザー』に許可されていない。ためらうアゲハに、村正は畳み掛ける。


「あー、もう、時間がねえ! 単刀直入に聞くが、その『お母様マザー』が、あんたに何をしてくれた? あんたを狭い部屋に閉じ込めて、構うことも愛することもなく、ただメシを食わせてただけなんじゃねえか? その挙げ句に脳みそ取り出して利用しようとしたんだぜ。……そんなとんでもねえクソ『お母様マザー』なんか、こっちから捨てちまえよ!」

 

 ⎔⎔⎔⎔⎔⎔⎔⎔⎔⎔⎔⎔⎔⎔

 

 『お母様マザー』を捨てる。そんなことが許されるのだろうかとアゲハは思った。『お母様マザー』に見捨てられることを心配したとしても、『お母様マザー』を捨てると考えたことなどなかった。アゲハはずっと、愛されたかった。アゲハはずっと、母のぬくもりが欲しかった。


「なあ、アゲハ。外の世界は広いんだぜ。あんたの知らない概念が山ほどある。案内役オレも、かなり危険な綱渡りをしてここに来てる。『管制塔』への不意打ちなんか、二度はできねえ。こんな機会は今しかねえぜ。急に考えろって言われても難しい話だとは思うが、それでも決めるんだ。あんたの人生は、あんたが選び取るべきだ」

「アゲハは……」

 

  アゲハが受けさせられようとしていた『女王教育』。頭を切り開いて脳を取り出し、生体部品として使われることだと知った。アゲハは、管理都市を維持するマザーコンピュータの素材にされるためだけに育てられてきたのだ。そこに愛はない。愛があると信じたかったのは、アゲハだけだった。彼女はそれがわかっていながらも、今まで培ってきた価値観を、いきなり捨てることはできなかった。アゲハは震えながら頭をブンブン振り、現実を拒絶するかのように叫んだ。


「あ……アゲハの生まれてきた意味は、管理都市の女王になること! 『お母様マザー』もそうおっしゃった! だから、アゲハは、も、戻らなくてはいけない! そうしなければいけないと、ずっと聞かされていたのですから……!」

「――あんたも、本当はわかってんだろ。管理都市の女王になるっつーことは、管理都市のマザー・コンピュータに組み込まれちまうってことだ。脳みそだけになって、人間としての感覚を全部味わえなくなるんだぞ」

「……!」

「あんた、さっき、『助けてヘルプ・ミー』って言ったよな? 本当は、脳を取り出されるなんて嫌なんだろ? 美味いものも、楽しいことも何一つ知らずに死んで、本当にそれでいいんだな?」

「…………。いやです。いやです。脳を取り出されたくなんてないっ! あ、アゲハはこれから何を信じていればよいのですか……!? ウマイモノ、タノシイコト……それは一体、何なのですか!? アゲハは、何も知らないっ! 何もわからない! あなたの仰ることも、『お母様マザー』の仰ることも、何もわかりたくなんてない! アゲハは――何も知らない中で、何を選べばよいのですか……!」


 アゲハは目から水をこぼしながらうずくまることしかできなかった。アゲハは、村正の言葉に心が揺れ動いた。信じていたものが崩れ去る感覚に、胸が締め付けられるようだった。しかし、外の世界を知りたいという欲求が、彼女の中で次第に大きくなっていった。信じていたもの、信じたいと思ったもの、すべて失って、アゲハは泣きじゃくっていた。そんな彼女を、村正は静かに見つめていた。

  

「……アゲハ、あんた、マジで何も知らねえんだな。まるで人形みてえじゃねえか。あのな、いいか? 教えてやる。あんたは、AIの道具なんかじゃねえ。人間ヒューマンなんだよ。人間として生まれたからには、人間らしく生きる権利と義務ってやつがある」

「……!」 


 村正とアゲハの周囲には、AIアルテミス・クイーンビーが送り込んできた戦闘用ドローンが集結してきていた。無骨な蜂のような空飛ぶ機械の兵隊たちは、無機質なカメラ・アイで村正とアゲハを見つめる。村正は、正確無比な射撃で戦闘用ドローンを撃ち落としながら、タフな笑顔を浮かべてみせた。


「そろそろ時間切れ間近ってやつ、つまりは最後通告だ。――さあ! 今すぐ選べ! AIの道具として死ぬか、人間として生きるかだ!」

 

 手元にある端末を操作して、村正は階下に待機させていた小型の無人ヘリコプターを呼び寄せた。村正は、無人ヘリコプターのドアを開けて先に乗り込みアゲハに手を差し伸べた。この手を取らなければ、AIアルテミス・クイーンビーの差し向けたドローンに捕まってしまうだろう。 この手を取らなければ、『お母様マザー』のところに帰ることができる。


(『お母様マザー』――アゲハは、あなたに愛されたかった……)


 アゲハは、白く清潔な部屋で過ごした日々のことを思い出して泣いていた。『お母様マザー』の合成音声を待ち望むだけの孤独な日々を。それは、とても、辛かった。アゲハは目から流れ落ちる水を拭って視界を確保すると、村正ムラマサを見つめて叫んだ。

  

「……アゲハは、外の世界が知りたい。アゲハは、『管制塔おへや』から、出たい。何も知らないまま、死にたくない……!」 


 アゲハは村正が差し伸べた手を、泣きながら、震えながらも掴んだ。

 

 ⎔⎔⎔⎔⎔⎔⎔⎔⎔⎔⎔⎔⎔⎔

 

  村正はニッと笑って、アゲハの手を握り返し、力強く引き上げた。


「さあお姫様プリンセス、飛び立つぜ。フルスロットルでな! 最後くらい、故郷の管理都市とママに、クソッタレって吐き捨ててやれよ!」


 村正に連れられて小型ヘリコプターに乗り込んだ。間もなく小型ヘリコプターはプロペラの回る大きな音を立てて大空へと飛び立った。

 アゲハは、窓から管理都市オーバー・グラウンドの全景を知った。管理都市オーバー・グラウンドは、まるで蜂の巣のような構造になっており、夜の明かりがキラキラと輝いていた。


「……きれい……」

 

 アゲハは、女王になるべく育てられたと自負していたが、自分がこの世界のことをまだ何も知らないのだと気づいた。 管理都市オーバー・グラウンドの夜景は、美しかった。それが、アゲハの脳を使わなければ維持できない輝きだったとしても、眩しかった。

 村正は、小型ヘリを手元の機械で半自動操縦して、AIアルテミス・クイーンビーの追撃を上手くかわしながら地下都市アンダー・シェルターの入口までアゲハを案内した。

 案内役ガイドを自負するだけのことはあり、小型ヘリコプターの操縦技術は卓越していて、アゲハは傷一つ負わずに管理都市オーバー・グラウンドからの脱出を果たし、郊外に隠されたヘリポートへと降り立った。


「こんなに簡単に、管理都市から脱出できるなんて――」

「『簡単』に見えるなら、それは案内役オレの腕が優れてるってことだな。これでも緻密な計算と、長年の経験からできる御業なんだぜ。まあ、アゲハ、あんたは、オレに身を任せていりゃあいい。静かにじっとしてりゃ、いつの間にか楽園に着いてるぜ」

 

 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


 地下都市アンダー・シェルターの入口は、無骨なエレベーターになっており、アゲハは心臓の鼓動を感じながらもゆっくり足を踏み入れた。不安定な足場に体勢を崩しそうになるアゲハのために、村正がアゲハの手を掴んでそっと支えてくれていた。


「――ようこそ、アゲハ。歓迎するぜ、これがこの世の楽園だ」

  

  地下都市アンダー・シェルターは、蟻の巣のような形と内部構造をしていた。管理都市から逃げ出したクローン達が作った楽園のような場所で、ありとあらゆる娯楽が揃っていた。美食に賭博、プールに歓楽街。欲望でギラギラと輝く街の美しさが、アゲハの心を貫いた。

 地下都市アンダー・シェルターの看板には、英語で簡単な歴史が記載されていて、アゲハはそれを少しずつ読んでみた。

 

 『地下都市アンダー・シェルターは、旧アメリカ軍の軍用シェルターをクローン達が転用したもの。生存に必要な設備が整っており、クローン達は独自の技術や娯楽を発展させてきた。エネルギーは核発電所から供給されている。』


 看板の文字を読み終わったアゲハは、周囲をきょろきょろと見回した。ネオンサインで輝く街並みは、彼女の知らない色彩で満ちていた。知的探求心と、好奇心が疼くのを感じて、アゲハはふらふらと近くの建物に入ってみようとしていた。その建物は鮮やかなピンク色をしていた。

 そんなアゲハの肩を掴んで、慌てて村正は制止した。


「おーっと、待て待て。そこはオトナのえっちな……じゃねえや、えーと、まあ、つまり、ほら、『管制塔』育ちのお姫様プリンセスにはまだ刺激が強すぎる場所だぜ。まずは、ほら、アゲハ。歓迎の品をやろう。キャンディだ。包み紙を剥いてから舐めるんだぜ」

「……きゃんでぃとは、何でしょうか?」


 アゲハは首をかしげる。彼女は女王候補として生まれてから、味が全くしない白い固形栄養食しか食べたことがなかった。アゲハは、村正の手から可愛らしい包装紙にくるまれた『飴玉』をもらった。村正の言うことに従って、恐る恐る包装紙を剥がし、ゆっくりと口に運んで舐めてみた。


「……うっ!?」


 その脳髄が痺れるような暴力的な味わいに、アゲハは驚いてせた。 舌が痺れる。しかし、不快ではない。刺激の強さに、頭がクラクラする。ケホケホと咳をしながらも、なんとか舐め続けることに成功した。口の中で転がる飴の感触と、溶け出した味わいの強烈さが、アゲハの無垢な脳髄にじわじわと染み込んでいくのを感じた。彼女はしばらく呆然と立ち尽くし、陶酔していた。

 その様子を見た村正は嬉しそうにニヤニヤ笑った。


「どうだ? 初めてのキャンディは」


 アゲハは目をキラキラさせて、何度も何度も頷いて笑顔を浮かべた。口の中でころころとキャンディを動かして、感触と味わいを何度も確かめる。アゲハは、自分の頰を触って微笑んだ。


「アゲハは、キャンディ、好きです!」

「うんうん。素直でよろしい。それが『甘い』、そんで、『美味しい』って感覚だ。すげえだろ?」

 

 アゲハはキャンディを口に入れながら、驚きと喜びが混じった表情を浮かべた。甘さが舌に広がり、彼女の目には水が浮かんだ。

 

「これが、『甘い』ということなのですね……」

 

 彼女は村正に向かって微笑んだ。 アゲハの藍色の瞳には、眩しく美しい地下都市アンダー・シェルターのまばゆさが映ってきらきらと光っていた。


「……アゲハは、キャンディという新しいことを知りました。教えてください。こういうとき……何を、どうしたらいいのでしょうか?」

「美味いもんや、いいもんをもらった時に、どうするか教えてやるよ。そういうときはな、相手の目を見て、『ありがとう』って言うんだよ」

 

 村正は、楽しそうに笑いながら教えてくれた。アゲハは、包み紙を大切に大切に握りしめながら、村正と視線を合わせて笑顔を浮かべる。そして、何度も何度も告げた。


「村正、ありがとう! 本当にありがとう! アゲハは、すごく嬉しいです!」


 村正は愉快そうに笑った。


「キャンディひとつでそんなに喜んでくれりゃ、贈り物のしがいがあるってもんだ。……なあ、今は『アンダー・シェルター・コンサート』の時間でな。広場に行こうぜ。そこに行きゃ、良いものが聴けるからよ」

 

 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


 アンダー・シェルターの中心部には、大きなステージが設置されて、色とりどりのライトで照らされていた。その中でも目を引くのは、歌姫ブラシカの舞台だった。ふわふわの服を着て舞い踊り、歌を奏でる彼女の歌は、アゲハの心を思い切りつかんだ。アゲハは興奮して舞台を眺め、村正の手を引いてはしゃいだ。


「村正! あれは、あれは何ですか! きれいです!」

「あれはな、歌姫の舞台だよ。『歌姫』っつーのはよ、アンダー・シェルターの中でも一番歌が上手いやつしか名乗れねえ、名誉ある立場だ。アゲハ、あんたにも今のうちに聞かせといてやりたくてな」


 ――高い塔の中で ひとり泣く少女 遠くを見つめて 自由を夢見る……


 歌姫ブラシカは、長い金髪碧眼の美しい少女だった。彼女の整った唇からこぼれてくる繊細な歌声の波長は、AIアルテミス・クイーンビーの機械音声とは全く違う。温かみのある柔らかな声だった。


「ほら、アゲハ、歌姫がこっち見てるぜ。手を振ってやれよ」


 アゲハが村正の真似をして手を振ると、ブラシカは嬉しそうに笑い返して、手を振り込してくれた。アゲハとブラシカの視線が交わる瞬間、アゲハは心がドキドキするのを感じた。


 ――長い髪をなびかせ 風に乗って 愛する人のもとへ 届けたい……


 歌姫ブラシカは、跳ねるような軽やかな声で歌い上げる。メロディは最高潮に達し、ブラシカの声を呼び求める観衆の声が高まってゆく。アゲハは、生まれて初めて触れた『音楽』に、気づいたら目から水を流していた。


 ――塔の中で輝く 星のような少女 あなたを求めて歌うの 今!


 

 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


 歌を歌い終えて優雅に一礼してステージから降りてきた歌姫ブラシカは、まっすぐにアゲハと村正のもとにやってきた。歌姫ブラシカは、美しいかんばせを綻ばせて、村正を見つめていた。


「――村正さん、観に来てくれたのね。ありがとう」

「すげえよかったぜ。毎度ながらいい舞台をありがとな」


 歌姫ブラシカは、照れたような笑顔を見せた。ステージで輝いていた姿とは対照的に、村正と話しているときのブラシカは、素朴で可愛らしかった。


「村正さん。その子が、例の……?」

「おう。管制塔のお姫様プリンセスだ。今しがた、アンダー・シェルターに到着したばかりの新人ニュービーさ」


 ステージ衣装を着たお洒落な歌姫ブラシカの姿に、アゲハは圧倒された。アゲハは簡素な手術着のまま逃げてきてしまったので、お洒落さとは程遠い。突然、自分の服装が恥ずかしくなった。しかしそれでも、歌姫ブラシカが目の前に来てくれたことが嬉しくて、アゲハは笑った。


「アゲハ……です。アゲハは、歌姫ブラシカの歌が、好きです! ありがとう!」


 その言葉を聞いた歌姫ブラシカは、優しくはにかんでくれた。歌姫ブラシカの笑顔を見た瞬間、アゲハは安心感を覚えた。彼女はきっと、アゲハを傷つけたりしないという不思議な確信があった。


「アゲハちゃん、はじめまして。喜んでくれてうれしいわ。こちらこそ、ありがとう!」


 輝く歌姫から、生まれて初めて、ありがとうという言葉を掛けられた。

 アゲハは胸が温かくなった。心臓が熱くなって、バクバクする。その感情をどう表現したら良いか、彼女はまだ知らなかった。アゲハにとって、この日の出会いは、大きな意味を持つことになる。


「ねえ、アゲハちゃん。仲良くなった人同士はね、握手をするの。手を繋ぐって言い方もできるわ」

「手を繋ぐ……」


 歌姫ブラシカの差し伸べられた美しい指に、アゲハは恐る恐る触れてみた。歌姫ブラシカは、そんなアゲハの様子を見て微笑ましいものを見たかのように優しく笑った。彼女の手は、柔らかくて温かかった。


「ね。こうすると、お互いの体温が感じられて、素敵でしょう?」

「はい……」


 歌姫ブラシカとアゲハは、目を合わせて手をつないで笑い合った。たったそれだけの触れ合いと時間が、アゲハの心を温かく包みこんだ。


 歌姫ブラシカは、地下都市アンダー・シェルターの各所に設置されているベンチに腰を下ろして、隣にアゲハを手招きした。アゲハは、綺麗な歌姫ブラシカにどきどきしながらも、彼女の隣に座った。

 

歌姫ブラシカわたしは、村正さんの手引で管理都市から逃げ出して、アンダー・シェルターにやってきたの。アゲハちゃんと同じね。村正さんに助けられたクローンが、地下都市にはたくさんいるのよ」

「……クローン?」

「クローンというのは……そうね、や歌や踊りという娯楽を提供するために存在しているものよ。でも、役に立たなくなったクローンは、すぐに処分されてしまう。だからわたしは逃げ出して、ここに来たのよ」


 アゲハは、管理都市の暗部を、何も知らなかった。クローンというものが具体的に何なのかわからなかった。わからないまま、地下都市に来ているということそのものが心細くて仕方がなかった。


「わからないことだらけで、きっと怖いわよね。不安よね。でも、アゲハちゃんは大丈夫。地下都市アンダー・シェルターのみんなは、あなたの味方よ」


 ――高い塔の中で ひとり泣く少女 遠くを見つめて 自由を夢見る……

 

 アゲハを励ますように、歌姫ブラシカの唇からこぼれてくる、感情がこもった美しい歌。それはじんわりと、アゲハの心に響いた。アゲハは、気づかないうちに、ぽろぽろと目から水がこぼれてくるのに気づいた。


「……は、アゲハの目から、時々勝手に溢れてくるのです。……歌姫ブラシカ。これは、一体何ですか?」

「それは『なみだ』っていうのよ。悲しい時や、嬉しい時に出るものなの。……ねえ、アゲハちゃん。今は、どんな気持ちか聞いてもいいかしら?」 

「アゲハは、『うれしい』です。『ありがとう』、歌姫ブラシカ……」


 そう告げたアゲハは感動の涙を流して、手をつなぎながら歌ってくれる歌姫ブラシカの歌をずっと聴いていた。


 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 

 #2 黒き汚辱に塗れたアンダー・シェルター へ続く


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アドニスの花が散る ジャック(JTW) @JackTheWriter

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