第4話 その後、そして孫弟子ラヴェル
サン‐サーンス本人は、「白鳥」の反響は知っていても、『動物の謝肉祭』全体に対する評判は知らずに亡くなった。生前は出版を禁止していたから当然なのだが。
「自分の代表作として『動物の謝肉祭』が挙がる」という結末を知ったら、どう思うだろう?
「それは違う、絶対違う!」と怒るか、それとも黙って受け入れるか、あんがい喜ぶか。
晩年のサン‐サーンスはとても保守的になっていたというから、やっぱり怒るかな?
ところで、サン‐サーンスの弟子に『レクイエム』などで知られるガブリエル・フォーレがいる。そのフォーレの弟子にモーリス・ラヴェルがいる。
ラヴェルや、よくラヴェルと並び称されるクロード・ドビュッシーが登場して、「フランスにはフランスらしいクラシック音楽がない」なんて絶対に言えなくなった。
「重厚な音楽」かどうかはわからないけど、ラヴェルは、ムソルグスキーの『展覧会の絵』のオーケストレーションに見られるようにすごく分厚いオーケストラの音楽も作るし、独奏曲やピアノと弦楽器のソナタなどのシンプルな編成でも印象的な曲を作っている。
日本の
ドビュッシーも「全音音階」などの音階を使いこなし、新しい音階感覚をつくり上げた。また、自覚的に「印象派」的な技法を使って、ドイツ的な「絶対音楽」(タイトルなどの音楽自体以外のイメージに頼らない音楽)とも「標題音楽」(何を描写したかをタイトルで明示する音楽)とも違う音楽の「感じ」をつくり上げた。
フランスの音楽は世界の音楽にも大きな影響を与えるようになったのだ。
保守的になっていたサン‐サーンスはラヴェルの音楽には肯定的ではなかったようだけど、一方のラヴェルは、そのピアノ協奏曲を書くときに「モーツァルトとサン‐サーンスの精神で」書くと言っている。
これもどこまで本気かわからない。モーツァルトはともかく、サン‐サーンスのピアノ協奏曲はやはり重厚な作風なのに対して、ラヴェルのピアノ協奏曲は軽くて明るい曲だから。
でも、もしかすると、サン‐サーンスがその重厚さの下に隠した軽さと親しみやすさを受け継ごうとしたのかも知れない。サン‐サーンスの曲作りや編曲の巧みさ(超スローな「天国と地獄」とか)や「親しみやすさ」は『動物の謝肉祭』によく表れている。交響曲第三番「オルガン付き」が、重厚な作品でありながら、「感動大作」的な親しみやすさ、ポピュラーさを持っていることは最初のほうで書いたとおりだ。
ラヴェルの曲は、前衛的なところはもちろんあるが、同時に、あんがい親しみやすい。リズムや区切りのわかりにくい、でもすぐ覚えられるメロディーをひたすら繰り返していくだけで異様な高揚感をもたらす「ボレロ」が、その前衛性と親しみやすさの組み合わせのよい例だと思う。
一方で、いま、『動物の謝肉祭』は、「とっつきにくいクラシック」への入門曲としてよく使われる。
それだけ親しみやすいからだろう。
語りが加えられることもある。原曲にわりと忠実な語り(二〇二〇年のNHK交響楽団フレッシュコンサートなど)になることもあれば、自由な着想でストーリーが作られることもある。
本来は、ほかの曲を知っていて、それのパロディーだから笑える、という、音楽家仲間の楽しみのための曲だったのだが、当てこすりの部分とかも含めて、曲の「楽しさ」が入門者にも伝わるようにできているのだろう。
そういうのを意図したかどうかは別として、ただ「重厚」なだけではない音楽をサン‐サーンスが作っていたことで、『動物の謝肉祭』はいまでも生命力を保っている。そう言えるのではないだろうか。
(終)
サン‐サーンスと『動物の謝肉祭』 清瀬 六朗 @r_kiyose
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