いとへんとさんずい

キングスマン

いとへん と さんずい

 無人駅を発車してちょうど一分いっぷん、少女は横長の座席から立ち上がり電車の扉に寄りかかる。

 窓から見える景色は、投げ捨てられていくみたいに通り過ぎていく。

 短いトンネルを抜けると、おもむろに少女は周囲の様子をうかがう。

 この車両には自分以外、誰もいない。前の車両も後ろの車両も同じ。

 次の駅から一気に人が雪崩れ込んでくるけれど、それまでのおよそ三十分間、ここは自分だけのもの。

 夏休みを来週に控えた七月の中旬。歴史的とうたわれる猛暑の最中であっても、空調のしっかり効いた車内は少女にとっては少し寒いくらい。

 そろそろころあいだと感じ、学生鞄を開いて一枚の紙を取り出す。

 A4サイズ。国語テストの答案用紙。91点。

 問題と解答と採点結果があるだけなのに、まるで恋人からのふみでもつづられているかのように、ほほあからめて少女はそれをいとおしく見つめている。

 その答案用紙は少女のものではなかった。氏名欄にあるのは別の少女の名前。

 少女は密かにその少女に想いを寄せている、というわけでもなかった。

「何か面白いことでも書いてあるの?」

 ふいに、背後から声。

 驚いて振り返ると、同じ高校の制服を着た少女が背後霊のように真後ろにいた。

 確認はおこたらなかったはず。車内に人影はなかった。本当に怪奇現象に巻き込まれたのか。

 少女の心臓は破裂しそうなほど激しく脈打つ。

 恐怖と焦り。

 後ろに立つ少女を幽霊と信じているからではない。

「ところでそれ、私のだよね?」

 自分の手にしている答案用紙が、彼女のものだからだ。


「どうしてあなたが持ってるの?」

 少女は少女にたずねる。

 その問いに対する都合のいい解答を少女は持ちあわせてはいない。

 あなたこそ、どうしてここにいるの? とでも言ってやりたいけれど、そういう状況ではない。

「……それは、その……あの、私、間違って、持って帰っちゃって……」

 咄嗟とっさに出た言い訳にしては上出来に思えた。

「へえ、そうなんだ」

 相手が納得しているかどうか、判断できない。

 彼女とは同じクラスだが、会話を交わしたことはほとんどなかった。

 そこにいるだけで見惚みとれてしまう美しいたたずまい、恵まれた容姿。

 長い髪を夏の日射しが照らし、まるで舞台演出のように黒く輝かせている。

 彼女の大きな瞳は、探るように少女を見つめていた。

 右手に答案用紙を持ち、胸の前で両手を交差させるかたちで学生鞄を抱えている。

 えい、と声を出して、少女は少女の鞄を引き抜き、そのままわざと車両の床に落とした。

 かぶせが開き、中から三十枚の答案用紙がこぼれる。

「間違って、みんなのテストも持って帰っちゃったの?」


 少女はてつく。

 できることなら、ここから逃げ出したい。

 冷や汗なのか脂汗あぶらあせなのか、はたまた雨漏りでもしているのか、ひたいにべっとりとした感触。

 クラス全員の答案用紙を盗んだことを正当化できる理由なんてない。

 数日前、テストを紛失してしまったことを、先生は真摯に謝罪してきた。

 今日、早く学校にいって、そっと職員室の机に戻しておけば、先生のうっかりで片付くと打算していた。

 もう、それもできそうにない。

 狼狽ろうばいする少女を見て、少女はくすりと笑う。

「そんなに落ち込まないで、別にあなたを断罪したいわけじゃないから」

「へ?」

「その代わり……」少女は一歩前へ。「もっとあなたを教えてほしいの」

 マラソンの後の体操着みたいに、少女はべったりと少女の背後に密着する。

 それだけでは終わらなかった。

 左手はスカートから伸びている少女の左ももに触れ、右手は白いブラウスの上から少女の右胸をつかむ。

 突然のことに少女は短く悲鳴を上げる。体中が、ぶるりと震えた。

「やめて」

「どうして?」

 会話になっていなかった。

 少女は理解した。

 みんなのテストを盗んだ証拠と負い目がある。

 それを悪用して、こういうことをしてくるのだ。

 相手は小動物でもあやすように、少女の体をもてあそぶ。

「……ん」小さく、声がもれた。

「気持ち、よかった?」耳元でささやいてくる。

「そんなわけ、ないでしょ」振り返って、相手をにらむ。

 彼女は笑っていた。

 ふとももにあった手が、わずかに上昇する。

 少女はびくりと反応した。

 こんなことが許されていいはずない。

 例え何があったとしても、今の自分は被害者であり、相手はまぎれもない加害者だ。

 少女はそう確信した。

 嫌な思い出がフラッシュバックする。

 あれは中学生のころ。

 通学中の満員電車の中でのこと。

 夜ふかしのせいでうとうとしていると、何者かに背後から口をふさがれた。

 どこかの学校の男子。

 騒がなかったら、乱暴にしないから。

 騒がなかったのに、乱暴にしてきた。

 おそらく数分間の出来事だったけれど、数時間に感じられた。

 息を荒くして、さわって、抱きしめて、体をりつけてきた。

 直接、肌には触れられなかった。それでも帰宅してから、泣きながら何度も何度も浴室で体を洗った。

 しばらく電車に乗れなかった。

 あのときほど嫌悪感がないのは、相手が同性だからなのか、答案用紙の件があるからなのか、その両方か。

 加害者の少女は被害者の少女の首筋にくちびるをつけてきた。あのとき男子の痴漢にもされなかったことだ。

「やめて、怒るよ?」

「怒れば?」被害者の少女の警告を加害者の少女は受け流す。「それよりもっと楽しもうよ」

 粘土細工の形を整えるように、加害者の少女は被害者の少女の体に手をわす。

「楽しいわけないでしょ」

「ほんとに? これを見ても?」

 加害者の少女は被害者の少女の右手から答案用紙を奪い、目の前につきつける。

 それを見て、被害者の少女は高鳴る。

「あ、すごいドキドキしてる」

 加害者の少女は被害者の少女のふとももを撫でていた左手を、被害者の少女の左胸に移し、聴診器のようにあてていた。

「へ、変なこと言わないで──こんなの、興味ないから」

 被害者の少女は答案用紙から目をそむける。

「素直になろうよ。ここには私とあなたの二人だけだよ?」

「…………」

「それに、今回が初犯じゃないでしょ?」

 加害者の少女の言葉に、被害者の少女の心臓は跳ねる。

「……いつから、知ってるの?」

 被害者の少女からの問いに、加害者の少女は、先月くらいからかな、と語りだす。

「リサイクルのための分別をするとかで、クラスのゴミ箱の中身を仕分けしてたでしょ? 私は感心だなと思ってあなたを手伝おうとした。だけどあなたは一目につかない場所でノートやメモの切れ端だけ自分の鞄に入れると、あとは雑に焼却炉に投げ込んだ」

「…………」

「他にも、あなたは普段からよく誰かのノートや授業後の黒板をスマホでってるし、まあ決定的だったのは職員室で隙を見てみんなの答案用紙を鞄に忍ばせてたことだけどね」

「…………」

 加害者の少女は鼓膜こまく唾液だえきらすようにつぶやく。「ねえ、白状しちゃいなさいよ。好きなんでしょ?」

 被害者の少女はカラカラの声をしぼり出す。「……なにが?」

 加害者の少女は言う。「文字。それも、誰かの書いたもの」


 一番目は写真や映像。二番目は文章。三番目はイラスト。四番目は声。

 ネットで検索して表示されたそれを見て、被害者の少女は安堵あんどした。

 自分は二番目なんだと。異常ではないのだと。

 しかし、嘘をつくなと、己の本心が攻めてくる。

 写真、文章、イラスト、声。

 それは性欲を発散する際に用いられているものの順位である。

 被害者の少女は、自分は文章で性欲が刺激されていると信じていた。信じていたかった。

 実際はそうではなかった。

 文豪のつづった煽情的せんじょうてきな文字列も、それが機械的なフォントで印字されたものでは、一つも心はなびかなかった。

 ところが名も知れぬ誰かの書いた手書きの文字だと、それが買い物のメモだったとしても、色を覚えた。

 この感覚は一時的なもので、いつか自分は正常・・になるのだと祈っていた。

 だが、手書き文字への執着は増す一方だった。


「リトゥンフィリア」加害者の少女は呪文のように発する。

「え?」

手書き文字性愛リトゥンフィリア。あなたみたいに、手書きの文字じゃないとよろこべない人たちのこと」

「そんな言葉、あるの?」

 加害者の少女はうなずく。

「動物じゃないとダメ・・動物性愛ズーフィリアとか、電車に乗ってるだけでたかぶっちゃう鉄道性愛サイダロドロモフィリア。他にも、死体性愛ネクロフィリア自死性愛タナトフィリアなんていうのもあるのよ。誰かや自分の死じゃないと己を満たせないなんて、あなたに想像できる?」

 人の数だけ性癖はある、という言葉は聞いたことがあるけれど、そこまで細分化されているとは思わなかった。

 何より、自分のこの感覚を指す言葉がすでにあったことには驚きと同時に救いを感じた。これは自分だけのものではなかったのだ。

 ずっと一人、闇の中に閉じ込められたような不安と孤独の日々。

 そこに光が射した。嬉しかった。


「一つ聞いていい? どうしてあなたは私の答案用紙を嬉しそうに眺めていたの?」

 加害者の少女からの言葉。

 もうこの子には全て話していいと思えた。

「あなたの書く文字が一番、好きだから……」

 加害者の少女は、悪しからず思っている相手から好意を向けられているように微笑んだ。

「教えてくれてありがとう。じゃあお礼に好きな文字を教えて。書いてあげる」

 片想いの相手からキスをしてあげるとでも告げられたみたいに、被害者の少女は動揺して、それから、はにかむ。

 少し考えて「だったら……『光』……がいいな」と伝える。

 わかった、と言うと加害者の少女は電車の窓に温かい息を吐いて、薄く白いキャンパスをつくり、そこに透明な『光』を書く。

 見惚れる間もなく、数秒でその文字は消え去った。

 落胆する被害者の少女を見て、加害者の少女は、口を開けて、と言った。

 疑問符を浮かべながらも、言われたとおりにすると、つづいて加害者の少女は、舌を出して、と言う。

 言われた通り、舌を伸ばす。

 そこに、加害者の少女の舌先がふれる。

 被害者の少女の舌の上で、加害者の少女の舌が動く。

 とめ、はね、はらい。

 自分の舌に『光』が書かれていくのがわかる。

 彼女が、彼女の文字が、自分の中に刻まれて、とけこんでいく。

 そして宝物にふたをするように、少女と少女は互いのくちびるを重ねた。

「……ありがとう」

 全てが終わり、相手の顔が離れると、被害者の少女の口から無意識に感謝の言葉がこぼれていた。

 優しく微笑んで、加害者の少女は言葉を返す。

「やっぱりあなたって、変態さんだね」


「……え?」

 被害者の少女の表情が固まる。

「だってそうでしょ? 部屋にいるとき文字を見ながら一人でしてる・・・んでしょ? ありえない」

 あわれむような声、さげすむような目。

「いいこと教えてあげる」加害者の少女は言う。「あなたのその秘密をばらした紙を教室のある場所に置いてあるの。どんなに遅くても今日の放課後までには絶対、誰かに見つかるよ」

 痛みはないけど、刺された気がした。声は出ないけど、悲鳴を上げている。

「なんでそんなことするの? どこに隠したの? 言って!」

 電車の騒音をかきけすような絶叫。

 被害者の少女の悲痛な訴えに、かえって気をよくした加害者の少女は近くのシートに置いていた鞄からペンとメモを取り出し、さらさらと何か書いて、そのメモを小さく折って、高く掲げた。

「ここに書いてあるよ」

「見せて!」

 被害者の少女は腕を伸ばして、バッタみたいに何度も跳ぶけれど、届かない。

「ここならどう?」

 そう言うと、加害者の少女はメモを、ぱくっと口に入れた。

「出して!」

 被害者の少女は相手の鼻をつまんだり、指で無理やり口を開こうとしたけれど、手応えはない。

 無我夢中でせまった結果、相手を倒し、そのまま馬乗りになる。

「お願いだから口を開けてよ!」

 両手を使って加害者の少女の口をこじ開けようとするも、鍵でもかかっているみたいに、びくともしない。

 被害者の少女は、最後の手段に出た。

 仰向けに倒れている加害者の少女の細い首に両手をそえて、める。

 相手はすぐにを上げると思った。

 だが、そうはならなかった。

 仰向けの体制で首を絞められている加害者の少女は満面の笑みを浮かべ、被害者の少女は苦悶の表情を浮かべている。どちらが苦しめられているのかわからない。

 それでも限界はあったのか、加害者の少女は口を開き、その瞬間、被害者の少女は指を入れ、メモを取り出した。

 広げたそれは、白紙だった。

「……どういうこと?」被害者の少女の疑問。

「……どういうこと?」近くから、誰かの声。

 その方向を見る。

 電車の扉が開き、大勢の目が、少女を見つめていた。

 いつの間にか、次の駅に着いていた。

 被害者の少女は、あわてて加害者の少女を起こそうとするが、そこで我が目を疑う。

 恍惚こうこつの表情の加害者の少女。その瞳に、光はない。

 死んでいる。

「なんで……なんで、どうして……」

 そこで、数分前の会話がよぎる。


 自死性愛タナトフィリア

 自分の死じゃないと己を満たせないなんて、あなたに想像できる?


 「……そんな……そんな……」

 少女は、ようやく全てを理解した。

 そして絶望して、両手で頭を抱える。

 そうでもしていなければ、そこからばらばらと砕けてしまいそうで。

 短い時間の中で、あまりに多くのことが起こりすぎた。

 問題が途方もなく複雑すぎる。

 しかし、それを単純に理解する者たちもいた。

 電車の前でたたずむ乗客たちだ。

 倒れている少女、その首には絞められた跡。

 その少女に馬乗りになっている、もう一人の少女。

 つまり今、自分たちの目の前にいるのは。

 被害者の少女と、加害者の少女。



 fin




登場人物紹介


まわた

15歳の少女。被害者ときどき加害者。

ほのか

15歳の少女。加害者ときどき被害者。

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