凍てつく屍山血河に寄せて

西園寺兼続

凍てつく屍山血河に寄せて

 これが美談でないことを、先に記しておく。




 ※




 スカンジナビア連合国には、冬招きの巫女なる役職がある。季節の巡りを正常に保つ役割を担っていると言われているけど、具体的に何をしているのかは誰もよく知らなかった。字面から、寒さを操るんだろうなぁ、みたいなぼんやりした認識はあったけど。毎年「適合者」を探すために首都から検査官が歴訪するから、何かしら実態がある仕事なのは事実だろう。

 僕の暮らす村にも昨日、検査官が来た。それで、村一番のお転婆娘であるウルスラが「適合者」の認定を貰った。

「ウルスラ、巫術ふじゅつってどうやって使うの? 実演してみせてよ」

「やだ。使えるって知ったの昨日だし、上手くできない。それにアクセルは理屈っぽく説明させたがるから」

 ウルスラはむすっとした顔で膝を立て、きらきら輝く大河を眺めていた。

 短い夏、村の子供は皆、国境沿いの大河の岸辺で遊ぶ。隣国ノヴゴロドとの間を行き来する汽船に手を振ったり、親や祖父の小舟でますを獲ったり。村から「適合者」が出たニュースは子供たちも騒いだけど、肝心の巫女と実生活との関わりがまるで見えないせいですぐに落ち着いた。

 しばらく首都で働いて、たくさんのお給金を抱えて帰って来る。皆、巫女についてはその程度の認識だった。


 まぁ、彼女の言う……巫術なるものを理屈で解明してみたい、という僕のアツい想いは半分本当で半分嘘といったところだ。

「ねぇ、お願いだからさ。首都にお勤めに行っちゃう前に、思い出作りだと思って」

「アクセル。そういうの、女の子に嫌われるよ」

「ごめん」

 想定より湿度の高い眼で睨まれ、僕はたじろいた。

「……でも、後でふたりだけなら、」

「え? 何?」

 膝に顔を埋めたウルスラの小声に、ちょっと顔を寄せようとした。

 その時、のっぽな影が僕らに被さった。背の高い、快活な少年が晴れやかに白い歯を見せていた。半裸でびしょ濡れ、長い手を振ると僕の顔に飛沫がかかった。

「何だらけてんだよ! アクセルもウルスラも、泳ごうぜ!」

「ヴァシリ、水をかけるな。というか気にならないの? ウルスラが巫女候補で、冬招きの巫術が使えるってお墨付きを貰ったのに」

 ヴァシリはきょとんとしてから、すぐにアホそうな笑顔に戻った。

「冬招きって、アレだろ? めっちゃ寒くするんだろ? そんなの、北国じゃ要らねーじゃん!」

「いや、要らないとかじゃなくて」

「夏はめっちゃ短いんだから、泳がなきゃ損だろ」

 ヴァシリが仲間の子をたくさん率いてきたせいで、僕は成す術もなく岸辺へと連行された。

 ヴァシリはノヴゴロド人の入植者を親に持つ。入植者っていうのは……国で土地を持てなかった人のことだ。そういう奴らは国境沿いではありふれていて、この村でもよくいさかいのタネになったりしたらしい。でもこいつは特別に気の良い奴で、誰彼構わず輪に引き入れてしまう。隣国の血を引く子供たちとスカンジナビアの子供たちが仲良くやれているのは、こいつが色々な軋轢を忘れさせてくれるからだ。


 この地では、僕らの平穏に不都合な「特別」は存在しないことになっていた。

 詳細不明の巫女としてウルスラが選ばれたのも、ノヴゴロドの先祖を持つ住人がいるのと同じくらい、些事なんだ。

 皆、もっと輝かしいものに夢中になっていた。子供たちの中心で、燦然と光を浴びるヴァシリみたいな奴に。

 ウルスラも、ヴァシリに急かされて靴を脱いで連れ立った。仕方ないなぁ、というように、でも軽い足取りで。

「そうね。今は夏を満喫しなきゃ!」

 ぱっと明るさを取り戻したウルスラに、僕も嬉しくなった。

 それで僕の知的探求心は足蹴にされ、賢さゼロの水かけ合戦に午後を丸ごと費やした。

 ヴァシリは僕の一番の友人だ。それにびしょ濡れになったウルスラの……いい姿を拝めた。


 だから、わずかにグズる心の中の暗雲を、僕は存在しないことにした。彼の眩しさに、目がくらんでしまった。それでいいんだ。


 空が薄紫色を帯び、村から親たちが迎えに来る時間だった。いい加減遊び疲れた僕らも解散しようかと思って、岸に上がったところ。

 大河に荒波が立った。

 小型の河川砲艦が、それなりの速度で河岸へと接近してきたのだ。マストにはノヴゴロド海軍の旗が立っている。

「おいおい……なんのつもりだあいつら」

 ヴァシリの声色に棘が混じる。あれよと言う間に艦は上陸用の舟艇を下ろし始めた。1、2、3隻……いやちょっと、尋常じゃないな。

 僕らは無意識に、ウルスラを庇うように進み出ていた。

 スカンジナビア連合とノヴゴロドの関係は良好、だったはず。でなきゃ、ここまで軍艦が来られるものか。きっと何かのトラブルだろう。

 僕らは平和ボケしていたのかもしれない。

 銃声が上がって、まだ水辺で遊んでいた男の子が頭を吹き飛ばされた。

「……嘘」

 ウルスラが呟く。僕は彼女の崩れ落ちそうな肩を支えた。

 舟艇から、ノヴゴロド軍の兵士が大声を上げる。

「動くな! これより一帯はノヴゴロド海軍の保護下に入る!」

 砲艦が主砲を撃って、背後の土手に着弾した。迎えの親が何人か、千切れ飛んだ。

「我々は本気だ! 全員、手を頭の上に!」

 保護? 保護ってなんだっけ? 僕ら何か悪いことしました?

「ダメ」

 またウルスラが唇を動かす。

「ダメ! やめてっ!」

「ウルスラ、静かに」

 ウルスラの口を押えようとする。ノヴゴロド兵の銃が、夕陽を浴びて不気味にぎらつく。銃口は僕らを向いていた。

「おい撃たれるぞお前ら!」

 揉み合う僕らをヴァシリが地面に押さえつける。ヤバい状況なのに、妙に僕は浮ついていた。


 もしかして、これって戦争?

 来年の夏も僕は理屈屋の生意気少年で、ヴァシリはアホのわんぱく少年で。ウルスラは村を去ってしまうけど、何年かしたら大金稼いで村に戻って来るのだ。別にそれでいいと思ってた。そんなんで、よかったのに。

 銃声。ぱたた、と血が顔にかかる。ウルスラの髪にも。

 ヴァシリがうめいた。彼の耳がちぎれ飛んで、ぬかるみに落っこちていた。僕は猛烈な怒りに襲われ、叫ぶ!」

「やめろ、こいつはノヴゴロド人だぞ!」

 血統書なんかないけど、少しでも敵が撃つのをためらってくれたら。でも銃口はまだこちらを狙っている。

 殺される。確信した。

「ダメ……だめ。そんなのやだよ」

 ウルスラが、呟く。


 寒気がした。

 正確には、寒気が、僕とヴァシリが覆いかぶさっているウルスラの身体から発せられていた。

 ウルスラが、息を吐いた。白い息だった。

 低く、呪わしい。ああ、それは巫術の読経だったんだろうな。

「凍れ」

 瞬間、大河の水面がバキバキと弾けた。夕陽を乱れ裂いて屹立する、無数の氷柱の槍。上陸用の舟艇が紙屑みたいにひしゃげ、ノヴゴロド兵は一人残らず貫かれて絶命し、宙に持ち上げられた砲艦が轟音を上げて軋む。

 雪が舞っていた。残虐なオブジェが短い夏の残照に煌めいて、誰も彼も、凍り付いたように動けなかった。


 その日、ノヴゴロドからスカンジナビア連合への宣戦布告があった。国境への最初の攻撃は、冬招きの巫女が「果敢にも」撃退した、と報道された。開戦の理由については昔の国境線だの民族分布だのが挙げられたけど、僕らにはどうでもいいことだった。


 ヴァシリは、村を去った。

 襲撃の直後、彼がノヴゴロド出身で、撃たれたのに死ななかったという事実が最悪の形で伝播した。早い話、入植者たちがノヴゴロド軍を手引きしたことになった。それでその日の晩に彼の家は焼かれ、彼の両親は村の広場で惨殺された。

 暴力はすぐに浸透した。リンチを避けるため、何も持たずに暗闇へ逃げるノヴゴロド系住民の列に、ヴァシリの姿もあった。最後に何か話すべきだったかもしれないが、僕はウルスラから離れられなかった。

「アクセルはどこにも行かないよね?」

 ずっと冷気が引かないウルスラを、僕は一晩中抱きしめていた。彼女の両親も、「ノヴゴロド人」狩りに出たきりだった。国軍が事態を収拾するまで、何十人も死んだ。

 もう僕と彼女、どちらの身体が震えているのか分からなかった。これほどに凍えた夏はもうないだろうと、思っていた。


 ※


 塹壕の中で、ウルスラの声が響く。

「アクセルはどこにも行かないよね?」

 目覚めるといつも、寒さがあった。背中も、腰も尻も、首筋も手先も、すべてが冷え切っている。大河の真ん中に掘った塹壕は全部の壁が氷でできていて、朝日が昇りきると凄く明るい。


 ノヴゴロドの侵攻を受けてから、5年目の夏が来た。

 僕らがなかったことにしてきた「特別」は、今も変わらず僕らを苛んでいる。

「ウルスラ……僕はずっと、ここにいるよ」

 ウルスラは僕の右腕を抱きしめるようにして、微睡まどろんでいた。ぶかぶかの軍服を何重にも着込んでいるけど、痩せた身体をしているのは分かっていた。

「アクセル准尉、役得っすねー」

 対面に座っている、若い徴用兵が羨ましそうにこちらを見ている。

「そうだな。幸せ過ぎて、隊の皆には申し訳なく思うよ」

 空いた手を振ってやると、徴用兵はうげっとジェスチャーをして目を逸らした。

 僕は左手の指を3本、切り落としていた。凍傷だった。

 普通はこれほど人と密着していたら温かいと思うだろう。でも今、僕の身体で最もかじかんでいるのは、彼女と触れている掌だ。

 ウルスラは、まだぼんやりと虚空を見つめていた。


 冬招きの巫術は軍事利用可能、というのがスカンジナビア軍の結論だった。というか、そういう結論ありきで長年「候補者」を集めていたらしい。隣国ノヴゴロドとの関係は水面下でずっと緊張を続けており、海軍力で劣るうちの国は大河を封鎖する手段を模索していた。

 そして、このオカルトな力に頼ってギリギリ実現可能な戦術が、大河を凍らせるというものだった。主力の敵艦隊を締め出し、極寒の極限環境下で戦力差をうやむやにする。

 誰も冬将軍には勝てない。ノヴゴロドが音を上げるまで、耐える。それまでこの大河を永遠に冬とする。季節を操る神の御業みわざを手に、僕らは最悪の持久戦へと身を投じていた。

 僕が軍に入隊したのは、ウルスラを守るためだけではなかった。ヴァシリはあの日から、僕を憎んでいるだろうか。僕を殺しに来るだろうか。

 夏になるたび、生きたい気持ちと死にたい気持ちが、ぐちゃぐちゃになる。


 清々しい晴れだな。

 ……別に、ダラダラしてたわけじゃない。物資が足りないから攻撃できないんだ。前線に寒気の元凶ウルスラさえ置いておけば敵が足踏みしてくれるのは、5年間の戦況で分かっていた。寒気に身体を蝕まれるせいで乱発はできないけど、好き放題に足場を崩したり氷柱の槍を出したりできる彼女の特権は警戒されていた。

 このまま丸一日、待機で終わればいい。同じ壕にいる小隊の仲間たちも、そう思っているだろう。本来なら、夏の一番暑い日だ。もうひと眠りしようか。

「待たせたな野郎共と淑女一名!」

 眠れそうにない。

 凄まじい罵声を発したのは、今しがた前線司令部から帰って来た小隊長のパッパだった。誰も彼も親父殿パッパと呼ぶから、本名は皆忘れがちだ。何を隠そうウルスラを巫女としてスカウトした検査官だったのだが、軍の召集であっさり前線に送られる程度の仕事だったようだ。余りにも堂に入った戦いっぷりは、とても首都のお役人だったとは思えない。

 「特別」も、一皮剥けばうんざりする日常でしかない。

「ようやく申請してた弾薬が来た! 今日は撃ち切るまで帰って来るなとのお達しだ!」

「まじっすか……」

 徴用兵くんが肩を落とした。

 僕を含め、小隊の士気は低い。物資がないのはつまり、弾薬のほかにもありとあらゆるものが足りてないってことだ。冬招きのせいで環境が変わり、薪が充分に取れなくなった。大河の封鎖によって食糧の流れも滞っているから、塹壕の壁を掘って氷漬けの鱒を探すヤツまで出てくる始末。というかごく自然に朝飯抜き。

 パッパが小隊員を順に並ばせ、弾薬を配っていく。各隊員に5発差しのクリップを3個ずつ。パッパが言うには、こんなのはピクニックだそうだ。もちろん「ノヴゴロドの雑魚共なんかこの残弾で充分だ」という意味ではなく、「上層部はふざけてんのか?」の方である。

 僕だけ、何やら神妙な顔で士官用の拳銃を渡された。隠し持てる武器なんて、この戦場には必要ないはずなのに。

「巫女を守るためだ、取っとけ」

 マガジンの半分しか弾は入っていなかったけど、僕は素直にパッパに頭を下げた。

 拳銃を懐に入れると、パッパは気恥ずかしくなったのかおどけた顔をして、出撃の音頭を取った。

「あっそれ突撃ィ!」

 ずっこけそうになった。

 クソみたいな号令で、僕らは塹壕を駆け上がる。陣地後方の砲兵たちも弾薬が底をついたので、準備砲撃は無かった。


 僕の傍らには、ウルスラがぴったり着いている。彼女の冬招きの巫術こそ、小隊の攻守の要だ。彼女がいなければ、今まさに敵の機関銃でまとめて仲良死なかよししてる。

「凍れ」

 轟音がして、足元の大河からせり出した氷壁が銃弾をすべて受け止めた。掃射が終わったら、もっと前の位置に氷壁を出して部隊が前進。側面まで回り込めたら狙撃で敵兵を排除していく。ノヴゴロド軍が雪洞みたいな強固な陣地を用意していたら、ウルスラにもう一つ頼んで足場ごと破壊してもらう。持ち込んだ弾を使い切るまで前線を攪乱するだけの簡単なお仕事だ。自軍に有利な地形を好き放題に作り出せるからこそ出来る戦術である。

「ウルスラ、大丈夫か」

 ただし、この戦術はウルスラの消耗を考慮していない。上は、彼女が冬将軍の化身だと思っている。それは違う。

「アクセル、手、握って」

 氷壁にもたれかかり、荒い呼吸をするウルスラ。夏の強烈な陽射しに、凍てついた吐息が白く輝く。

 人間が、こんなに冷たい息を吐くものかよ。どうしたって、夏は彼女に届いてくれないんだ? ふざけんなよ。

 感覚の鈍くなった手で、壊れるくらいにウルスラの手を握り返す。僕の指なんか何本腐り落ちても構わない。

「ごめん……私、もう大丈夫」

「ああ。気にするなよ」


 僕はずっと、ウルスラの。

 僕の中で、嵐雲がわだかまっていく。雷と大雨を伴い荒れ狂う感情は、どうあがいても彼女を暖めるようなものではなかった。


 敵陣の奥から砲声がした。僕らがもたれている氷壁の上半分が粉砕された。雪煙に咳き込む。ウルスラがかじかむ手で、僕の指を一つ一つ剥がしていく。引き攣ったお互いの皮膚から血がこぼれた。

「行って」

「ああ」

 僕は姿勢を低くして砲兵陣地へ近づいた。ウルスラが雪煙を操って、うまく隠蔽してくれている。小隊が敵正面を釣っているうちにノヴゴロド軍の塹壕に駆け下りる。

 着地して早々、目の前に隙を晒した敵兵がいたので胴を撃った。どこを撃っても8割方死ぬ。

「……ピョートル」

 見覚えのある顔に、すぐに名前が出た。

 その人は、開戦の日の夜に村から逃げたノヴゴロド系住民だった。

 砲弾が頭上を飛び越える。

「さっさと大砲を黙らせろォ!」

 背中からパッパの怒号が浴びせられる。でも僕は、動けなくなった。

 頭上から、頭を撃たれた敵兵の死体が転げ落ちてきた。

「アデル」

 半分になったその顔も、やはり覚えがある。ヴァシリとよく一緒に遊んでいた子だ。

「ニコライ」

 塹壕の片隅で震えてる少年兵も。

「カール、ミハイル、ハンス、ヨハン……」

 飢えて凍えて泣いて怒って怯えて、そして死んでいく彼らの名前が、次から次へと出てくる。別に偶然ということはない。間に合わせの部隊なら、同郷出身者で固められることもある。彼らの装備が大したことないのを見るに、きっとそういう事情だ。

 故郷を追われた村人たちはノヴゴロドに渡り、故郷を取り返しに来ていたのだ。

 だから確信できた。

「ヴァシリ!」

 僕は心から、叫んだ。

「ヴァシリ! 僕だよ、アクセルだ! ウルスラもいるよ!」

 砲撃が、止んだ。

 塹壕奥の砲兵陣地から這い出た若い下士官が、「撃ち方止め」のハンドサインをしていた。

「アクセル」

 ヴァシリは疲れ切った顔をしていた。唇を固く結んで、乾いた垢まみれの頬を擦った。

 お互いを強く抱きしめて、寒さを凌ぐにはまるで足りない体温を確かめ合う。

「ごめん。僕のせいで」

 あの夏のことを謝った。

「何の話だよ。俺、ずっとお前とウルスラの無事を祈ってたんだ」

「ああ……そっか……」

 僕の凡庸な言葉がすべてを変えた、なんてのは浅ましい驕りだった。罪がなければ、赦しもない。だから救われない僕の気持ちは、純然たる自業自得だったらしい。

 お互いの胸元に硬い感触があった。

 この再会は何も特別なことじゃない。結果は、見えていた。


 小隊長であるパッパに休戦を求めたところ、あっさり承諾された。

「んー……弾も尽きたし、遺体の回収もしときたいしな。半ドンで夏休みだ」

 パッパはちらりとウルスラの様子を窺い、深いため息を吐いた。彼は即席の信号旗を担いでふらりと去っていった。これはボイコットではなく紳士協定だと、認めてくれたのだ。


 僕はウルスラと小隊の仲間に呼びかけ、武器を置いて集まった。ヴァシリも生き残った部隊員を引き連れて陣地を上がった。

 ウルスラは足元の見知った死体を見て、それからヴァシリたちを見て、はらはらと涙を流した。

「ごめん、皆。ごめん」

 夏の陽差しを受けて輝いた涙は、彼女の肌の上から零れる前に凍り付いた。

 5年前に村を追われた村人たちはウルスラを取り囲み、再会の喜びに抱き合おうとした。でも彼女の肌はもう、人が触れるには冷たすぎた。

 ヴァシリだけが構わず彼女を抱きしめた。

「ヴァシリ、私に触ったら危ないよ」

「構うもんか……」

 彼は頑張って寒気に耐えていたけど、この戦争で肺を悪くしていたらしく酷く咳き込んだ。それでウルスラの方から彼を突き放さないといけなかった。

 仄暗い優越感が、ぞわりと沸き立つ。もう、ヴァシリは特別じゃないんだと分かった。


 ヴァシリの提案で、雪合戦をやることにした。冬招きの巫女は冬を帰すことができない。たとえ戦争が終わっても、大河が元の姿を取り戻すには長い月日がかかる。

 でも、誰もそんなことは気にしなかった。


 ウルスラが一番硬い雪玉を作った。ヴァシリが一番大きな雪玉を作ろうとして、皆に集中砲火を浴びた。全員兵隊だったから、大人げなく本格的な塹壕を掘った。僕が小隊員を指揮しようとすると、ヴァシリがそれを邪魔するように大声で歌を歌い始めた。終いには、両軍が雪まみれになってそれぞれの軍歌を大合唱した。

 僕もウルスラもヴァシリも、かつての村の人たちも、他の場所からやって来た両軍の兵士たちも。一年で一番長い陽が落ちるまで、特別な思い出を満喫した。


 パッパが号令を出すと、皆そそくさと自陣の方へ戻り始めた。別れを惜しんで煙草を交換する兵もいた。徴用兵くんは村出身のノヴゴロド兵に姉か妹は居ないかとしきりに訊いて回っていた。

 最後に、僕とウルスラとヴァシリが残された。

 ヴァシリはあの日の残照みたいに、晴れやかな笑顔をした。

 無言で、笑いあった。


 なぁ。

 もうこのまま、戦争やめちまおうぜ。


 そうだね。平和が一番だ。


 僕かウルスラのどちらかが彼の手を引けば、すべてをあの日の続きから再開できる。そんな気がする。

 でも、僕の左手はもう、ウルスラの冷たい手を取っていた。もうどちらが繋ぎ留めているのか分からない。かじかんで、あまりに微かな温もりを求めて、固く握り合っていて。


 嵐が太陽を覆い隠せば、目を焼かれずに済むだろう。


 ウルスラが、小さく手を振った。

「またね、ヴァシリ」

 その指先に、霜が降りていた。

 ヴァシリは頷いて手を上げたけど、彼女に振り返すでもなく懐を探った。

 僕も同じように、上着の胸ポケットに右手を突っ込んだ。硬い感触を掴んで、引き抜く。


 僕とヴァシリは、拳銃を向け合った。


 僕はずっと、ここにいる。この大河を苛む冬将軍のように、縫い留められているんだ。殺してくれるか。手向けてくれよ。


 どうか、夏が終わってくれるように。




 ※




 何も特別なことはない。

 来年の夏も、きっと大河は凍り続けている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

凍てつく屍山血河に寄せて 西園寺兼続 @saionji_kanetsugu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ